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16 恋【知久】
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『恋は扱いづらい鳥 誰も手なづけられない』
流れているのは歌劇のカルメン。
婚約者のいるホセが、カルメンに誘惑されてしまったあげく、最後はカルメンを殺してしまうという話。
バッドエンドなのに俺にぴったりと言われる。
みんなは俺をカルメンとして見ているのか、ホセとして見ているのか、どっちなんだろう。
カルメンを弾くことが多いけど、特別得意だというわけではなかった。
けれど、自分に合っているといえば合っているし、みんなが喜ぶから弾いていた。
今日もきっと弾いてくれと言われる。
「ここにいたの、知久さん」
俺が高校生になると、親はおかしな女に陣川製薬の次男坊が捕まってはいけないと思ったらしく、俺に婚約者という枷をつけた。
それが高窪毬衣だった。
彼女は俺のひとつ上で、渋木の親戚できつめの美人だ。
俺の隣にいても、まあ、見劣りはしないんじゃないかな?
けど、性格はお世辞にもいいとは言えない。
「知久さん、探したのよ」
赤いマニキュアが塗られた指を蛇の舌のように伸ばす。
ピアノを弾いているらしいけど、爪は長く、練習しているのかどうか。
俺が菱水音大附属高校に入学すると聞いた彼女は、同じ高校に通いたくて先に入学したと聞いた。
かなりお金を積んだらしいとも。
指が頬をなぞる。
「ねえ、知久さん。ここに二人でいる?」
俺に精一杯の誘惑をしてくる。
情熱的だとは思う。
婚約は高窪の家からしつこく頼まれて、根負けした両親が『婚約させてもいいが、将来、毬衣さんと結婚したいと、知久が言ったら結婚をさせる』というのを条件とした。
俺の親は子供思いというよりは腹黒だ。
今、俺に必要なのは枷で将来、高窪物産の経営次第では婚約を陣川側から、いつでも解消できるようにしたのだから。
「カルメンを聴いていたの?」
「聴いてたというより、たまたまつけたらカルメンだった」
オーディオプレーヤーの電源を切った。
「消さないほうがよかったのに」
毬衣さんは俺の体に腕を絡ませ、ソファーに押し倒す。
高校生にしては、きつい香水の香りと濃い化粧。
長い髪が俺の顔にかかった。
恋をして心を震わせるということが、どういうことなのか、きっと俺はわかっていない。
毬衣さんは果敢にも、そんな俺を誘惑する。
笑いながら俺は彼女に顔を近づけて、耳元で囁いた。
「もっと俺を本気にさせてくれないと。そうじゃなきゃ、俺は君の手の中にとどまれない」
消したはずのカルメンが俺の頭の中で歌っている。
『あなたが捕まえたと思えば、あなたから逃れ、あなたが逃れたと思えば、あなたを捕まえる』
俺にキスしようとしたけれど、目を閉じることのない俺を見て、毬衣さんは顔を赤くした。
「どうしたのかな?」
煽る俺から、毬衣さんは身を離した。
「私のことを少しも好きじゃないのね」
涙目になり、毬衣さんは逃げるようにして部屋を出て行った。
「健全な高校生だな」
あの程度の毒で俺を誘惑しようなんて、どうかしている。
「さてと、陣川家の次男として役目を果たすとするかな」
面倒だからといって、渋木家のいくつもあるゲストルームに隠れている場合じゃない。
そろそろパーティールームに行って、顔を出さないと両親にうるさく言われるだろう。
ため息をつき、ゲストルームから出るとピアノの音が聞こえた。
澄んだ音。
曲は―――
「グノーのアヴェマリア……」
サンルームのほうから聞こえてくる。
午後の明るい日差しを受け、ピアノは輝いて見えた。
栗色の長い髪が波うつように背に広がり、その横顔は憂いと寂しさを含んだ栗色の瞳。
アヴェマリアを弾く彼女は優しげで気品があり、ビスクドールのように精巧な美しさは今まで俺が出会った人間にはなかったものだった。
彼女と初めて会った時、俺は彼女のことを可哀想だと思って近づいた。
母親に捨てられ、父に引き取られ、親戚には白い目で見られている姿は痛々しく、青白い顔で椅子に座っていた彼女は儚げで、渋木の家で暮らしていけるのだろうかと心配していた。
けど、今の彼女は違う。
同情をした自分が馬鹿だと思えるくらい彼女は―――
「マリア様みたいだ」
演奏が止み、栗色の瞳が俺を見た。
なんとなく気まずくて、いつもより下手くそな笑いを浮かべた。
「えーと、渋木の家には慣れた?」
「ええ。おかげさまで」
「四月から俺も同じ高校に通ってるけど、全然会わないね。もしかして俺のことを避けてた?」
「避けなければならないほど、会う機会はないわ。学科も学年も違うでしょう?」
「そうだね」
彼女の前だと、俺はいつもの調子で話せなかった。
さっきまで、あんなに俺が優勢だったのに。
これじゃ、まるで小学生だ。
「アヴェマリア、とてもよかったよ。小百里さんはコンクールに出場してないみたいだけど、どうして? 今年は出る?」
「出ないわよ。私がコンクールに出場することはないわ。清加さんも章江さんも嫌がるから」
それを聞いて、彼女の事情を理解した。
正妻の子である弟の唯冬を差し置いて、コンクールで賞をとるわけにはいかないというところだろう。
渋木の家を追い出されるか、ピアノを弾かせてもらえなくなるか―――彼女にとって、辛いことが起きるのは間違いない。
「いいのよ。唯冬は本当にいい演奏をするの。早くプロになって欲しいわ。きっと有名になるわよ」
自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
胸がなぜかざわついた。
なぜだろう。
さっきまでは少しも胸がざわついたりしなかった。
誰に誘惑されても俺の心は誰のものにもならない。
そう思っていた。
今の今まで。
彼女の栗色の髪に触れて、俺はキスをした。
忠誠を誓う騎士のように。
「知久さん。毬衣さんと婚約したのでしょ? それに高校生になったんだから、昔と違って冗談で済ませられなくなるわよ」
少しくらい驚いてくれたらいいのに。
彼女は微動だにしない。
「本気ならいい?」
「え?」
「小百里のことが好きになったみたいだ」
誘惑しているつもりが、誘惑されていた間抜けなカルメンは俺。
『もし、あなたが私を愛していないなら、私はあなたを愛す。もし、私に愛されたなら、気をつけなさい!』
カルメンが情熱的に歌っている。
今なら最高のカルメンを弾くことができそうだった。
この日から、俺の得意な曲はカルメン。
そして、彼女を想って弾くのはグノーのアヴェマリアに決まったのだった。
流れているのは歌劇のカルメン。
婚約者のいるホセが、カルメンに誘惑されてしまったあげく、最後はカルメンを殺してしまうという話。
バッドエンドなのに俺にぴったりと言われる。
みんなは俺をカルメンとして見ているのか、ホセとして見ているのか、どっちなんだろう。
カルメンを弾くことが多いけど、特別得意だというわけではなかった。
けれど、自分に合っているといえば合っているし、みんなが喜ぶから弾いていた。
今日もきっと弾いてくれと言われる。
「ここにいたの、知久さん」
俺が高校生になると、親はおかしな女に陣川製薬の次男坊が捕まってはいけないと思ったらしく、俺に婚約者という枷をつけた。
それが高窪毬衣だった。
彼女は俺のひとつ上で、渋木の親戚できつめの美人だ。
俺の隣にいても、まあ、見劣りはしないんじゃないかな?
けど、性格はお世辞にもいいとは言えない。
「知久さん、探したのよ」
赤いマニキュアが塗られた指を蛇の舌のように伸ばす。
ピアノを弾いているらしいけど、爪は長く、練習しているのかどうか。
俺が菱水音大附属高校に入学すると聞いた彼女は、同じ高校に通いたくて先に入学したと聞いた。
かなりお金を積んだらしいとも。
指が頬をなぞる。
「ねえ、知久さん。ここに二人でいる?」
俺に精一杯の誘惑をしてくる。
情熱的だとは思う。
婚約は高窪の家からしつこく頼まれて、根負けした両親が『婚約させてもいいが、将来、毬衣さんと結婚したいと、知久が言ったら結婚をさせる』というのを条件とした。
俺の親は子供思いというよりは腹黒だ。
今、俺に必要なのは枷で将来、高窪物産の経営次第では婚約を陣川側から、いつでも解消できるようにしたのだから。
「カルメンを聴いていたの?」
「聴いてたというより、たまたまつけたらカルメンだった」
オーディオプレーヤーの電源を切った。
「消さないほうがよかったのに」
毬衣さんは俺の体に腕を絡ませ、ソファーに押し倒す。
高校生にしては、きつい香水の香りと濃い化粧。
長い髪が俺の顔にかかった。
恋をして心を震わせるということが、どういうことなのか、きっと俺はわかっていない。
毬衣さんは果敢にも、そんな俺を誘惑する。
笑いながら俺は彼女に顔を近づけて、耳元で囁いた。
「もっと俺を本気にさせてくれないと。そうじゃなきゃ、俺は君の手の中にとどまれない」
消したはずのカルメンが俺の頭の中で歌っている。
『あなたが捕まえたと思えば、あなたから逃れ、あなたが逃れたと思えば、あなたを捕まえる』
俺にキスしようとしたけれど、目を閉じることのない俺を見て、毬衣さんは顔を赤くした。
「どうしたのかな?」
煽る俺から、毬衣さんは身を離した。
「私のことを少しも好きじゃないのね」
涙目になり、毬衣さんは逃げるようにして部屋を出て行った。
「健全な高校生だな」
あの程度の毒で俺を誘惑しようなんて、どうかしている。
「さてと、陣川家の次男として役目を果たすとするかな」
面倒だからといって、渋木家のいくつもあるゲストルームに隠れている場合じゃない。
そろそろパーティールームに行って、顔を出さないと両親にうるさく言われるだろう。
ため息をつき、ゲストルームから出るとピアノの音が聞こえた。
澄んだ音。
曲は―――
「グノーのアヴェマリア……」
サンルームのほうから聞こえてくる。
午後の明るい日差しを受け、ピアノは輝いて見えた。
栗色の長い髪が波うつように背に広がり、その横顔は憂いと寂しさを含んだ栗色の瞳。
アヴェマリアを弾く彼女は優しげで気品があり、ビスクドールのように精巧な美しさは今まで俺が出会った人間にはなかったものだった。
彼女と初めて会った時、俺は彼女のことを可哀想だと思って近づいた。
母親に捨てられ、父に引き取られ、親戚には白い目で見られている姿は痛々しく、青白い顔で椅子に座っていた彼女は儚げで、渋木の家で暮らしていけるのだろうかと心配していた。
けど、今の彼女は違う。
同情をした自分が馬鹿だと思えるくらい彼女は―――
「マリア様みたいだ」
演奏が止み、栗色の瞳が俺を見た。
なんとなく気まずくて、いつもより下手くそな笑いを浮かべた。
「えーと、渋木の家には慣れた?」
「ええ。おかげさまで」
「四月から俺も同じ高校に通ってるけど、全然会わないね。もしかして俺のことを避けてた?」
「避けなければならないほど、会う機会はないわ。学科も学年も違うでしょう?」
「そうだね」
彼女の前だと、俺はいつもの調子で話せなかった。
さっきまで、あんなに俺が優勢だったのに。
これじゃ、まるで小学生だ。
「アヴェマリア、とてもよかったよ。小百里さんはコンクールに出場してないみたいだけど、どうして? 今年は出る?」
「出ないわよ。私がコンクールに出場することはないわ。清加さんも章江さんも嫌がるから」
それを聞いて、彼女の事情を理解した。
正妻の子である弟の唯冬を差し置いて、コンクールで賞をとるわけにはいかないというところだろう。
渋木の家を追い出されるか、ピアノを弾かせてもらえなくなるか―――彼女にとって、辛いことが起きるのは間違いない。
「いいのよ。唯冬は本当にいい演奏をするの。早くプロになって欲しいわ。きっと有名になるわよ」
自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
胸がなぜかざわついた。
なぜだろう。
さっきまでは少しも胸がざわついたりしなかった。
誰に誘惑されても俺の心は誰のものにもならない。
そう思っていた。
今の今まで。
彼女の栗色の髪に触れて、俺はキスをした。
忠誠を誓う騎士のように。
「知久さん。毬衣さんと婚約したのでしょ? それに高校生になったんだから、昔と違って冗談で済ませられなくなるわよ」
少しくらい驚いてくれたらいいのに。
彼女は微動だにしない。
「本気ならいい?」
「え?」
「小百里のことが好きになったみたいだ」
誘惑しているつもりが、誘惑されていた間抜けなカルメンは俺。
『もし、あなたが私を愛していないなら、私はあなたを愛す。もし、私に愛されたなら、気をつけなさい!』
カルメンが情熱的に歌っている。
今なら最高のカルメンを弾くことができそうだった。
この日から、俺の得意な曲はカルメン。
そして、彼女を想って弾くのはグノーのアヴェマリアに決まったのだった。
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