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第四話 美人画の怪~よひらの花が咲く頃に~

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料亭内に入ったなり、驚いて足を止めた。
広い玄関には几帳きちょうが置かれ、座敷へ続く廊下すら見えないように隠してあった。
二重にも三重にも張り巡らされる目隠し。
そして、立派な沓脱石くつぬぎいしが置いてある。

「厳重だろう?」

有浄が俺に耳打ちした。

「これは結界なんだよ」

「またそんな胡散臭いことをサラッと言うな」

「胡散臭い話じゃない。玄関は古来から内と外を分けるための場所とされてきた。この石も結界のひとつだ。外からの穢れを持ち込まないよう靴を脱ぐ。上りかまち、敷居。垣根や門。すべて結界だよ」

「それを簡単にくぐる奴もいるだろう」

「そうだよ。家の主に招かれれば、結界はたちまち消える」

ぱっと両手を有浄は広げて見せた。

「やあ、これはどうも! よく来てくれました」

店の主人が奥から出てきた。
料理人でもある店主は着物に前掛けをし、和帽子をかぶっていた。
まだ店が開く前のはずだが、すでに客がいて、その客のために料理をしていたようだ。
よっぽど特別な客なのだろう。
逸嵩はやたかとその上司というのは。

「ご足労いただきありがとうございます。どうぞお入りください」

女将さんが足音をたてず長い廊下をさらさらと歩いてやってくると丁寧に挨拶をした。
すでに兎々子は友人と話をしているのか、姿が見えなかった。

「俺達も入らせてもらおうか」

有浄は靴を脱ぎ、その結界とやらをあっさりくぐり抜けた。
じっと沓脱石を見た。
あいつと話していると時々、俺の常識が常識でなくなるような気がしてならない。
有浄のほうは俺に言うだけ言って、さっさと奥の座敷に入っていった。

「どうかされましたか?」

「いえ」

おかしく思われては困る。
俺も有浄に続いて玄関からあがった。
座敷からは笑い声と芸者げいしゃの三味線の音が聞えてきた。
まだ日も暮れぬ内から金持ちが享楽的きょうらくてきに遊びほうけている。
そんな世界もあるんだな。
それを思えば、俺の昼寝などかわいいものだと断言できる。
つまり、俺の昼寝は許された……!
そういうことだ。

「もー!安海ちゃん。なにぼんやりしているの? 立ったまま寝てないよね?」

廊下で立っていただけのなのに兎々子に叱られてしまった。
兎々子にでさえ、俺はいつも寝ている人だと思われているのか?
やはり昼寝は悪なのか……
そんなことを思いながら、呼ばれた部屋へ向かった。
その部屋にはすでに有浄と兎々子、料亭の主人とその娘が待っていた。

「いやぁ。ご高名な一之森いちのもり様に来ていただけるとは思っていませんでした」

うん!?
ご高名な?
誰だ、そのご高名な人物とやらは。

「いいえ。友人の頼みですから」

お前、誰だよ。
幼馴染の俺をそんな気持ちにさせるくらい有浄は猫をかぶっていた。
営業用の笑顔なのか、爽やかで紳士的な態度。
俺も兎々子も戸惑いを隠せなかった。

「この方が一之森様の助手ですか」

じろじろと頭のてっぺんからつま先まで見られた。
むしろ、胡散臭いのは―――俺!?

「なかなか優秀な助手なんですよ」

「おい、ふざけんな」

「まあまあ。そういう設定だから」

有浄が俺に耳打ちした。
なにが設定だ。
兎々子は苦笑しながらも、同じ年頃の女の子に話しかけていた。

郁里かおりさん。これでひと安心よ」

郁里さんと呼ばれた女の子は女学生の間で流行っている『まがれいと』という髪型をし、結った髪には黄色と水色のリボンをふたつつけている。
兎々子よりおとなしい子なのか、恥ずかしそうに終始うつむいていた。
まあ、兎々子を基準にするのが間違っているかもしれないが。

「兎々子さん。ありがとう」

「いいのよ。お兄さんは大丈夫? ノイローゼになってしまわれたのでしょ?」

「ええ。毎晩、部屋の前に女性が立っていると言って、かなり参っていたの。しまいには部屋の中まで入ってきたって大騒ぎして……今は病院に……」

兎々子はそう……と悲しい顔をして相づちをうった。

「大丈夫よ! 有浄さんがなんとかしてくれるから、お兄さんが病院から戻る頃には全部解決してるわ」

「有浄が解決ねぇ……」

どんっと兎々子が俺を肘でつついた。
けっこう痛かったが、兎々子がキッとにらんでいるのがわかり、余計なことを言わないでおこうと決めた。
有浄は問題の掛け軸に描かれている絵を真剣に眺めている。
俺も一応、助手として絵を見てみることにした。
白い四枚の花弁が開く月見草つきみそう
月見草を背にして女性が一人立っている。
藤色と白の格子柄の着物、束髪に結った髪の美人な女性が少し目を伏せて、どこか遠くを眺めているのが少しだけ気になった。
モデルの女性の服装からして、そんな古い絵ではない。
特に変わったところはなにもないが、景気のいい絵ではないことは確かだ。
俺に絵心はないが、そんなふうに感じた。

「一之森様。いかがでしょうか」

「そうですね。なにか起きてみなければわかりません。いったん、この掛け軸をお預かりしてもよろしいでしょうか」

「もちろんです! こんな不気味な絵を持っているだけでも恐ろしい。店に幽霊が出ると噂になる前になんとかしなくてはと思っておりました」

確かに女の幽霊が出るなどと噂になれば、客足が遠のくだろう。
幽霊見たさにやってくる酔狂か変わり者でもない限りは。

「一之森様がお忙しいと聞いて、お願いできないと思っていたのですが、娘の友人とお知り合いだったとは。いやいや、本当に助かりました」

忙しい!?
俺は有浄を見た。
気のせいでなければ、有浄は目で俺に語ってきた。

『わかっただろう? 安海もしっかり働けよ』

『お断りだ』

そんな会話を目でかわした。

「有浄さんに任せておけば、大丈夫です! 大船に乗ったつもりでいてください」

なぜか、兎々子が得意げな顔をしていた。
俺はその船に乗りたくない。
できれば、陸地にいたい派だ。

「いやぁ、ありがたい! ちょっとした食事を用意してあります。郁里かおり、食事を運ぶよう言ってきなさい」

「はい」

郁里さんはぺこりと頭を下げ、両手で障子戸を開けると音をたてずに廊下を歩いて行った。
店の手伝いに慣れているようだった。
誰かさんと違って作法は完璧だな。

「安海ちゃん。郁里さんが可愛いからって見すぎじゃない?」

その誰かさんは斜め上なことを言ってきた。

「一般的な女学生はあんなものなのかって思っていただけだ」

「ここにいるじゃない。一般的な女学生が」

「兎々子ちゃんの冗談の方が安海よりうまいな」

聞き捨てならない有浄の言葉だったが、お膳が運ばれてきて俺も兎々子も黙った。
なぜなら、お膳の上にはごちそうと呼んで差し支えない食事がのっていたからだ。
小さな器には白くぽってりとした濃厚な胡麻豆腐と生姜がきいた浅利の佃煮。
丁寧にすりつぶされた海老に山芋を混ぜて蒸した桃色の海老のしんじょに出汁のきいたトロッとしたあん。
薄味なのに出汁の味で十分、美味しく食べられる。

「たいしたものはありませんが、心ばかりのおもてなしをさせていただきます」

女将が指をつき、挨拶をすると有浄は慣れた様子で答えた。

「心遣いありがとうございます。忙しいでしょうから、あとはお構いなく」

「けれど……」

「お客できたわけではありません。仕事ですから、食事をいただけただけでじゅうぶんです」

有浄がにこりとほほ笑むと女将は会釈し、部屋を出ていった。
その後、料理を運ぶのは郁里さんや料亭で働く仲居さんだった。
兎々子がさりげなく嫌いな野菜をそっと俺の皿に入れているのが目に入った。
こいつ……!

「郁里さんは誰かさんと違って店を手伝って偉いな」

こうやって嫌いなものを人の皿にいれないだろうしなと心の中でつぶやいた。

「私だってたまにお店を手伝ってるわよ!」

「兎々子さんのお家は洋食ですし、私は無理を言って女学校に通わせてもらっていますから、これくらいは当然です」

誰かさんに百回は繰り返し聞かせたい、その言葉。

「郁里ちゃんが可愛いからって贔屓よ……絶対……」

その誰かさんの心にはまったく響いていないようだが。
兎々子はぶつぶついいながら、昆布の佃煮に入っていた山椒の実を俺の皿に投げてきた。
これだよ……
やれやれと思いながら、兎々子の分の野菜と山椒の実を箸でつまんだ。
なにを食べても美味しく食べられる俺。
好き嫌いがなくて本当によかったとしみじみと思った。
そして豆腐の味噌田楽を口にした。
味噌がほどよく焦げ、豆腐と甘辛な味噌がよく合う。

「美味しいなぁ」

「安海。酒は?」

有浄が聞いてきたが、俺は首を横に振った。
酒を飲んでいない有浄に俺は気づいていた。
珍しいこともある。
俺も有浄も酒はけっこう飲めるほうだ。
それこそ学生時代から飲んでいた。
有浄に至っては逸嵩はやたかと飲み比べをしても平然と飲めるくらいのザルだ。
その有浄が飲んでいない。

「いや、やめておく」

「安海ちゃん。お酒を飲めるの?」

「俺をいくつだと思ってんだよ」

同じ年齢くらいに思っているんじゃないだろうな?
兎々子をじろりとにらむと俺の考えていたことが当たっていたのか、目を逸らされた。
おい……?
そうなのかよ。

「えーと、ほら、安海ちゃん。鯛よ」

焼き物は鯛の塩焼き。
白い化粧塩が綺麗に振ってある。
箸をいれると柔らかい身が出てきて、白い湯気がふわりとあがった。
新鮮な鯛の身は引き締まり、塩加減もちょうどいい。
さすが料亭『菊井』。
塩焼きといえど中途半端な料理は出さない。

「ごちそうだなー」

うっとりとしながら、料理を口にしていると有浄がにやりと笑った。

「安海が嬉しそうでなにより。ごちそうを食べたんだ。もう安海もこの件から逃げられないね」

しまった―――俺としたことが食べ物につられてしまった。
箸を止めて固まっていると次の料理が運ばれてきた。
揚げたての天ぷら。
それも野菜だけじゃない。
穴子や海老がのっている。
これは抗えない、無理だ……!
俺が悲しい顔をしていると郁里さんが心配そうに聞いてきた。

「天ぷら、お嫌いでしたか?」

「あ、いえ。天ぷらに罪はありません」

「それなら、よろしかったです」

着物の袖がかからぬよう手を添え、お膳の上に天ぷらの皿を置いてくれた。
揚げたての天ぷらを前にして、この誘惑には勝てない。

「これは仕方ないよな……」

さくっとした天ぷらの衣がまた恨めしい。
熱々の天ぷらは俺の信念を曲げたのだった。
しかし、俺は天ぷらの誘惑に負けている場合ではなかったのだ。
すでに俺は有浄の術中に嵌められていた。
目の前のごちそうに釣られ、うまく誤魔化されていたということを後々になって知る――
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