キーナの魔法

小笠原慎二

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シゲール襲来編

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暗闇で藻掻いていた。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

とにかくここから、この場から逃げなければならない。
そう考えて体を動かす。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

床に肘がついた。腕があることを思い出した。
必死に腕を動かし、手で地面を掴む。
少しずつ体が動いていく。
芋虫が這うかの如く、ズリズリと体を動かす。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

膝が床に着いた。足があることを思い出した。
腕と足を動かし、とにかく体を前に進める。
赤子のずり這いのようにして這っていく。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

腕で体を持ち上げる事が出来た。膝で体を支えることが出来た。
ハイハイの要領で体を動かす。先程よりも早く動けるようになった。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

必死に手足を動かす。とにかく逃げなければならないと思いながら。
ハイハイがもどかしくなってきた時、足裏が地面に着いた。立てることを思い出した。
腕で支えながら、少しずつ足に体重を移動させる。立つことが出来た。
そして歩くことを思い出す。
バランスを取りながら、一歩一歩、右左と順に足を前に出していく。この方が進みやすい。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

歩くことに体が慣れていく。足がどんどん早く動くようになっていく。
走ることを思い出した。
力強く地面を蹴る。歩くよりもなお早く、体は前に進んで行く。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

ここではないどこか。どこかわからないどこか。
何を目指しているのかも分からないが、とにかくここから逃げなくてはならない。

逃げなきゃ…逃げなきゃ…

気付くと、うっすらと周りの景色が見えてきているのに気付いた。
光を思い出した。
思い出した途端に目の前の景色が晴れていく。
真っ暗な闇の中を走り続けていたのが、まるで朝日が差してきたかのように世界が光を取り戻していく。

森を思い出した。
森の中を走っていた。とても懐かしく感じる森。
知っている。
そう思った。

そうだ、この森は…。

幼い頃を思い出した。
山に囲まれた村で生まれ、赤い髪、赤い瞳を持って生まれたが為に巫女候補になったことも。
そして自分の名前を思い出した。
メリンダ。それが自分の名前。
メリンダは足を止めることなく走り続ける。
幼い頃からの思い出が次々に蘇ってくる。イタズラしたこと、大婆様に叱られたこと、日常のこと。そして、村に迷い込んで来た旅人と村から出たこと。
思い出していく。自分のことを。

ここじゃない…

よく分からないがここではない。自分が行くべき所はここではない。
メリンダは走り続ける。何かに導かれるように。

行かなきゃ…

何か大事な事があった気がする。メリンダは足を動かす。
村を出て、旅人になかば置いてけぼりにされ、娼館で働くことになった。
仕事は辛いこともあったけれど、そこそこ性に合っていた。嫌な客もいた。でもいいお客もいた。村しか知らなかったメリンダは、そこで沢山のことを学んだ。

でもここじゃない…

次々と思い出していく。しかし自分が目指すものはここではない。
止まることなくメリンダは走る。
いろいろあって娼館を出ることになった。そして国を渡ってとある街に着いた。そこで困っていた街の人達を流れで助けることになった。皆の嬉しそうな顔はメリンダも嬉しかったが、メリンダはその街から離れられなくなってしまった。
思い出していく。色んな事を。
この街にも大切に思う仲間はできた。しかし、ここではない。

行かなきゃ…

走り続ける。すると目の前に人影が見えた。
メリンダは足を緩めた。その後ろ姿に惹かれる。
その人が振り向いた。男の子のような容姿の女の子だった。
その子がにこりとメリンダを見て笑う。いつの間にかその後ろに寄り添うように灰色の人影もあった。

キーナちゃん…、テルディアス…

キーナとテルディアスを思い出した。
自分が目指していたものはここだった。メリンダはいつの間にか止めていた足を、またゆっくりと動かす。
でもなんだろう、何かが足りない気がする…
一歩一歩キーナに近づく。何かが足りない、何かが…。
風が吹いた。その風につられてメリンダが視線を向ける。
黄色い髪の黄色い瞳の男が、いつものいたずらっこのような笑みを浮かべて立っていた。












サーガが口元から笛を離した。
昔聞いたどこかの吟遊詩人が弾いていた曲。名も知らぬ曲だが、綺麗な曲だと耳が覚えていた。

普通はそれだけで弾けるものではないのだがな!

せめてもの慰めになればと笛を吹いていた。このところ毎夜笛を吹いている。
曲が終わると途端に静けさが増す。どことなく夜の闇でさえ、サーガの笛の音を待っているように感じてしまう。
そんなはずはない。サーガはそう思っている。

パチリ、と火の爆ぜる音がした。そんな音でさえ大きく聞こえる。
何もしないでいると今朝のことを思い出してしまう。悪手だったのかもしれない。しかしこれ以外の方法を思いつかなかった。
スターシャのことが頭をよぎる。サーガが守ることが出来なかったひと

「もう、失いたくねーんだよ…」

絶対に死なせたくない。絶対に死なせない。今思えば、サーガも追い詰められていたのかもしれないと思う。
ぐったりとしたメリンダ。瞳に生気はなく、死を待つばかりのような姿。
サーガの姿を見ても威嚇してこなくなった。暴れることもなくなった。
焦る気持ちだけが胸を占めていく。
サーガは意を決して、粥を口に含んだ。気配を消し、メリンダに素早く近づいた。
メリンダからしたらまさに唐突の出来事だっただろう。両手で動かないように顔を挟み、口付けた。
急いで口の中の物を移す。不意を突いたからこそ飲み込んでくれるはず。こくり、と喉が動いた気がした。
次の瞬間、メリンダが暴れ始めた。そこで離せば良かったのかもしれないが、少し欲張った。
もう少し、もう少し食べてくれれば…。
頭を抑え、片手で体も押さえる。久しぶりに抱いたメリンダの体は少し冷たかった。

ガリ

「て!」

唇を噛まれた。血が出たのか、少し錆び付いた味がした。
メリンダがもの凄い力でサーガを押し返す。勢いサーガは後ろに転がった。

「うあああああああああああああ!!!」

メリンダが暴れ始めた。
サーガは急いで小屋から退散した。その後もしばらくメリンダは暴れ続けていた。











サーガは唇に触れた。すでにダンが治してしまっているのでその傷痕さえない。できれば残しておきたかった気もする。

「最初で最後ってのはなしだぜ…」

メリンダは頑なに口づけは拒否していた。なので唇を合わせたのはあれが初めてだ。まあ、あれを唇を合わせた、と言って良いのかどうかだが。
後で怒っても詰ってくれてもいい。とにかく生きて、元気になってさえくれれば。
サーガはボンヤリと、焚き火の爆ぜる音を聞いていた。

「サーガ…」
「!!」

声がした。メリンダの声だ。間違いない。サーガが聞き間違えるはずがない。
普通の人ならば聞こえなかったかもしれない程の小さな声だったが、メリンダの事で気を張っていたサーガが聞き間違えるはずがない。

「姐さん?!」

慌てて小屋に近寄る。念の為中には入らずに柵の手前から中を覗き込む。
小屋の中は暗かった。しかし、メリンダの瞳が焚き火の光を映して煌めいているのが見えた。

「姐さん…?」

サーガと目が合う。しかしその瞳は本当にサーガを映しているのか分からない。
少しすると、メリンダが瞳を閉じてしまった。煌めきが消え、小屋の中の闇が重くなる。

「姐さん…」

眠ってしまったのか、規則正しい寝息が聞こえてくるだけだった。
地面に着いた両の手を握り締める。

「呼んでくれよ…。もう一度、俺の名前を、呼んでくれ…」

下を向いたサーガの目元が光った。
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