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鼓草―たんぽぽ―
9 子爵家の養子
しおりを挟むマルガレータ=アイゼンシュタット少佐は、ホテルのスイートルームの前で待機していた。
突然、中から名前を何度も呼ばれて急いで入ろうとした。しかし、ドアには鍵が掛かっていた。ホテルの客室は自動ロックだから、当然だ。少佐はショルダーホルスターから銃を抜き、躊躇いなくドアノブに向けて数発撃った。
入ってすぐに、見通しのきく大きな窓があり、右手にはリビング、左手にはダイニングのテーブルセットがあり、もう一度右を向こうとして、違和感に気付いた。
それが何だか分かってマルガレータはゾッとする。テーブルの向こうから見えたのは、横たわる足だ。
───アーロン卿じゃない。女性だ。
少佐はそう思いながら足に近付き、テーブルの向こうに回った。
「......!?」
年配の女性だ。とすると、ゲルステンビュッテル子爵夫人か?
───アーロン卿は医者なのに、倒れた義母を放って何をしてるんだ?
夫人の安否を確認しようと、マルガレータは膝を折って屈み込むところで、アーロンの声が聞こえた。
───奥から!?
顔を上げたマルガレータは、微かに香りが漂うのを感じた。しかしそれが何の香りか確かめる前に、立ち上がってアーロン卿を探す。
リビングルームの向こうにドアがあり、開け放たれていた。そこを通り抜けるとシャワーの音がダイレクトに耳に届く。シャワールームを覗くと、アーロン卿と、年配の男性───ゲルステンビュッテル子爵が、服のまま立っていた。
───この季節に、水...?
シャワーからは、この時期必須の湯気がなく、シャワールーム自体もひんやり冷えていた。
「マルガレータ少佐です、アーロン卿」
名乗ると、アーロンは驚いたように振り返った。
「子爵を頼む。手を火傷しているから、水をかけていてくれ」
「はい。あの───」
「なんだ?」
「ダイニングで、女性が倒れていました」
ギョッとしてアーロンは咎める。
「近付いたのか!? 匂いは!?」
「あ、あの、紅茶が服にこぼれていて、その香りがしましたが...」
アーロンは力が抜けるように安心した様子で、短い髪を搔き上げた。
「甘酸っぱい香りはしなかったね?」
「ああ...。すみません、紅茶には疎くて、その、もっと勉強します...」
銘柄の事かと勘違いしたマルガレータが必死で弁解すると、アーロンは今度は泣きそうな顔で笑った。
「いいんだ。私の義父を頼むよ」
「水を、かけるんですね、手に?」
ちょっと不可解ながら、マルガレータはそう確かめた。アーロンは頷いてシャワーのジェスチャーをして見せた。そしてそこから立ち去った。
───あの方の話は、正解が分からない...。
マルガレータは内心で首を傾げていた。紅茶の香りとか、その特徴とか、今ここではどうでも良くないか? さっきの答えで良かったのだろうか?
「寒くはないかね、少佐?」
不意に階級で話しかけられ、マルガレータは動揺する。───どこかで紹介を受けた事があったか?
「いえ、問題ありません、子爵」
そう答えて気付く。
───そういえば、自分で名乗ってたんだ、さっき。
そしてため息。
───アーロンには、ペースを乱される。
「すまないね、少佐。私の手は、もう大丈夫じゃないかな」
子爵の言葉に、マルガレータは我に返る。
「火傷は、手だけでしょうか?」
「ああ。もう心配ないと思うよ。正直、冷たくて痛いくらいなんだ」
マルガレータは子爵の顔を見た。アーロン卿と違って、表情や感情の変化が少ない。しかし、長時間水をかけられていては堪らないだろう。
「いえ、しかし、ドクターのアーロン卿が仰っていますし、火傷は油断できません。もう少し、かけ続けましょう」
「あなたも濡れてしまっているだろう、少佐」
「自分は問題ありません」
シャワールームなので、二人とも足元に跳ねた水がかかって濡れていた。マルガレータはシャワーを止めた。子爵を洗面台へ連れて行く。
「手だけなら、こっちの方がいいですね」
「アーロンは、私を妻から引き離したかったんだ。───」
少しの沈黙の後、子爵は云った。「あの子には、可哀想な事をした」
「は...はぁ」
少佐は困惑する。子爵とアーロンの間に、血の繋がりはない筈。なのに、随分古くから親しくしていたような雰囲気が、二人の間にはあるようだ。あるいは、昔からの知り合いなのだろうか。
シャワーの音がしなくなった事で、部屋の外の物音が聞こえるようになった。スイートルームに、大勢の人が入って来たようだった。そして、
「ああ、いらっしゃった。ゲルステンビュッテル子爵ですね」
シャワールームを覗いたのは、救急隊らしき男性だった。外した防護マスクが耳元にぶら下がっている。彼はマルガレータに代わって子爵の火傷の具合いを診る。
「重度の症状ではなさそうですね」
救急隊員はそう云いながら、子爵を連れて行く。その間にも、問診をしたり、個人の確認をしたりしていた。少佐も、手持ち無沙汰になり、シャワールームを出た。
メインルームにも、外の廊下にも、大勢の人が溢れる程集まっていた。ホテル、警察関係、救急隊などの制服や、役人らしきスーツの人達で混雑していた。
アーロンは頭一つ背が高いので、探し当てるのは簡単だった。通り過ぎた子爵を黙って見送ると、スーツをきちんと着た年配の男性に見上げられながら、時折頷いたり首を振ったりしている。
マルガレータは声をかけるタイミングを待っていた。するとアーロンが男性から目を上げ、周りを見渡した。
───今だ。
そう思った時目が合い、マルガレータはなんとなくほっとした。知り合いが他にいなかったからかも知れない。
アーロンは少佐を手招きした。
「私の専属運転手です。シャワールームで、子爵の腕を冷やしてくれていました」
と紹介された。マルガレータは男性に向き直り、背筋を伸ばした。
「マルガレータ=アイゼンシュタット少佐です」
マルガレータの自己紹介に対し、相手は捜査官を名乗った。
「何でも訊いて下さい。彼女は事情は知らないけど。───」
アーロンは捜査官にそう云い、「訊かれた事に、正直に答えればいいよ」
とマルガレータの肩を叩いてその場を立ち去った。
アーロンを見送って向き直ると、捜査官も名残惜しそうにこちらを向いて、ため息一つ。一瞬、鏡を見たような錯覚を覚えた。
「では、この部屋に入って来た状況から伺います、少佐」
マルガレータは淀みなく答えた。
アーロンは、リビングルームの空いていた一人用ソファに座った。
その姿は例えるなら、姿勢の良い『考える人』だった。手は左右逆で、膝の上にはクッション。そのまま、パーティーの壁の花のように、動き回る人たちを眺めていた。
───ヴァルターの調べたところでは、ディルクの車はいつものスーパーで見つかった。
しかし残念ながら、ディルクは駐車場の防犯カメラの死角を縫って出て行ったらしく、ディルク本人の姿は見つからなかった。軍の情報分析室によると、ディルクの車から降りたのもディルク本人ではなかったようだ。しかし、その偽者も、顔がカメラでは判別できず確保に至っていない。
───ディルクはどうして、警察を頼ったりしないんだろう。
アーロンは自分の思いつきに半信半疑ながら、ヴァルターに電話をした。
『子爵が、逮捕されたと伺いました。先生、まさかその場に?』
伯爵は、おそらく知っていながらアーロンに尋ねた。
「ええ。特に確信はなく、むしろ両親の様子を見に来たんですが、話している最中に事が起こってしまいました」
アーロンは正直に答えた。いずれは分かる事だから。
『それでは、子爵夫人は先生が看取ったんですか?』
「青酸性の毒物です。迂闊に近付けませんでした。確認したのは警察の鑑識です」
『そうですか』
電話では、伯爵の沈黙が怒っているのか残念に思っているのか、アーロンには判らない。しかし構わず、
「ピルッカ=ヴァリヤッカは、今日も現場でしょうか?」
その若者は、子爵邸の敷地に建設予定の教会に関係する諸々を扱う、ヴァルターの秘書だ。
「ええ、現場事務所に詰めています。彼に何か?」
「ひとつ、お願いしたい事があるんですが...」
アーロンは遠慮勝ちに云ったが、伯爵は快く答えてくれた。
「構いませんよ。コール邸にはまだ近付けないようですけどね」
ピルッカも、コール邸でロミルダの遺体を発見した時一緒にいた。まだそのショックが抜けていないようだ。
「それでは伯爵、よろしくお願いします」
アーロンは電話を切った。
そこへ、マルガレータと事情聴取をしていた捜査官がやって来た。
「また、何かあったら伺う事があるかも知れませんが、今日はこれで結構です、アーロン卿」
「ああ、その件なんですが、ゲルステンビュッテル子爵の聴取は、すぐ始めるんですよね。私も話を聞けますか? 対面なしでいいんですが」
捜査官は、戸惑っている。まあ、身内とはいえ、聴取の様子など、普通は見せないものだ。
「取調内容を録画するので、それをご覧頂く、というのではいけませんか?」
「少年がまだ、見つかってないですよね。子爵は知らないと云っていましたが、何か分かるかも知れません」
無理だとは思いつつ、アーロンは食い下がった。
「子供の捜索はもちろんこちらでも行っています。何か分かれば警察が動きます。ご心配は理解できますが、こちらからの連絡をお待ち頂きたいのですが」
捜査官も果敢に対応した。彼の云う事は正しい。アーロンは軽くため息をつき、
「分かりました。わがままを云ってすみませんでした」
笑顔で云うと、マルガレータを伴ってホテルを出た。
「イブラントへ戻られますか、アーロン卿?」
ホテルのエントランスで、車庫から出てくる車を待ちながら、少佐に訊かれた。アーロンは考えるように唸った後、
「ゲルステンビュッテル子爵邸に向かってくれないか、少佐」
「かしこまりました」
マルガレータの運転する車はホテルを出た。
ヴァルターの秘書、ピルッカは、未だに火災の臭いの残る屋敷に踏み入った。
とはいえ、火災に遭ったのは裏手の書庫で、子爵邸の表は何ともない。立入禁止テープが貼られている以外は。
「僕にも秘書が欲しいなぁ」
一人で云っているので、どこからもリアクションは貰えない。
「電話一本で何でもやってくれる秘書が」
逆に誰も聞いてないので、云いたい放題。
教会建設現場の事務所に保管していた子爵邸のスペアキーで、玄関のドアを開ける。
「引退したら僕もこんな家に住みたいな」
と呟き、
「いやいや、コンシェルジュ付きの高層マンションの方が良いだろっ」
ひとりツッコミ。コートハンガーを見て上着を脱ぎかけ、寒くてやめる。数日間暖房の点く事がなかった邸内は、外の気温とあまり変わらない。
取り敢えずリビングに向かう。様子を見て一通り見回ればいいのかな?
リビングルームの手前にドアがあり、覗いてみると応接室だった。
「いい趣味だよな」
ボヤくように云いながらドアを閉めようとして───。
ピルッカは耳を澄ます。
応接室のドアをそっと閉め、足音を忍ばせながらリビングダイニングを覗く。なんの気配もない。
───僕は目がいいんだ。動くものは見逃さない。超常現象? 信じるもんか!
左右を交互に見て、次は慎重に隅々までじっくり見る。物陰に目を凝らし、フッと息を吐く。
───気のせいか。
見覚えのある部屋は、特におかしな所もなく、ましてや人間も動物も見当たらない。
───そりゃそうだよな。警察官も玄関に立ってるんだし、入って来れる訳がない。
ピルッカは自分に云い聞かせるようにそう思い、頭を振ってリビングに入った。
───神経質になるのは仕方ないよな。
「臭いのせいだ」
「なにが?」
「ぎゃあああああっっっ!!!」
ピルッカは人間とは思えない大音量で悲鳴を上げた。何度も悲鳴を上げながら、リビングテーブルの下に潜った。が、低くて潜りきれず、お尻だけテーブルから出ていた。
「大丈夫ですか、ピルッカ様? 私ですよ」
お尻の向こうから、男性の低い声が聞こえた。この声は───。
「ディルク...フランケ?」
「はい。子爵はまだホテルにいらっしゃると思いますが、どのようなご用件でしょうか?」
相変わらず落ち着いた話し方に、ピルッカは安心し、そして無性に恥ずかしくなる。盛大にため息をついて、テーブルの下から出て立ち上がった。
「今までどこにいたんだ、ディル...く?」
あと一歩進んでいたら、ピルッカの眉間は無事では済まなかっただろう。若者は突きつけられた物に焦点を合わせる為、思い切りより目になった。
キッチンナイフがギラリと光った。
「背中に何付けてるんだ、ピルッカ!?」
「えっ!?」
振り返って、しかし物音に向き直ると、キッチンナイフを持っていた筈のディルクが、床にうつ伏せで押さえ付けられていた。
「背中にはなんにも付いてなかったよ、ピルッカ」
ディルクに膝で乗り上げ、押さえ付けていたのは、摂政の婚約者、アーロン=ゲルステンビュッテルだった。
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