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Eternity
しおりを挟む大学の同期の間で、カフェで課題をするのが流行ったときがあった。
友人たちはこぞって行きつけのカフェを作り、連れ立って課題をしたりお喋りをしたりしていた。
■■は行かないの? と聞かれる、しかし私はカフェに興味はなかった。だからいつも断って、家の書斎で課題をやっていた。
亡くなった曾祖父の残した書斎で文献たちを横に置き、PCとにらめっこをする。
あれだけ文献を読めば書けるはずだと思ったが、途中で詰まって出てこない。
ため息を吐き、腕を上げて背中を逸らす。
瞬間、視界に映り込んだ壁一面の大きな本棚。
曾祖父は本を集めるのが趣味だった。古今東西、特に古書が好みらしかった。
彩度の低い布製ハードカバーたち。
立ち上がって傍に寄る。なんとなく、一冊抜いてみた。
ぱらら、とめくっていると、小さな紙きれが滑り落ちる。
「……おっと」
受け止める。古びた紙には何やら文字が書かれていた。
『喫茶店・Edelweiss』
その下には住所らしきもの。
喫茶店に興味はなくても、曾祖父の通っていた店ならば少しだけ興味も湧く気がした。
◆
あまり探すこともなく、裏通りの日陰にその店は見つかった。
木製のドアを引くと、からんからんと音が鳴る。
マスターらしき人がカップから目を上げ、
「いらっしゃい」
と言った。
「あ……どうも」
初めての店に緊張し、挨拶とも何とも言えない言葉を返してしまう。
石造りの店内は柔らかい照明で照らされており、とても静かだった。
もしかして私以外の客はいないのだろうか。そう思ったとき。
「もしもし」
顔を上げ、マスターの方を見る。彼はカップを拭いていた。
「こっちですよ、こっち」
後ろからの気配に振り返ると、壁際の席に男が一人座っていた。
紫色だ。なんとなくそう思う。突然のことだった、まるで何もない場所から突然現れたかのようだった。
「隣、どうですか?」
「ええと……」
「一杯おごらせていただきますよ」
よく見ると男は線が細く透き通った肌をしており、背丈も低め、顔もあどけない。
中学生ぐらいか?
それに気付くと、先ほど無駄に驚いてしまったことが馬鹿らしくなってきた。
「さすがに義務教育中の子供におごってもらうわけにはいかないよ」
私は断る。
「お姉さんも学生じゃないですか」
中学生はひらひらと手を振って笑う。
「同じ学生でも大学生と中学生じゃ大違いだよ。何と言っても未成年だ、罪に問われちゃう」
「歳取ったら誤差ですよ、誤差」
「いや全然違うよ……」
「ふふ。お姉さん、名前は?」
「……」
「警戒してますね? じゃあ僕から名乗ります。僕はアスター」
響きからして、この国の名前ではない。ということは、この子は海外ルーツということか。
しかし……
「まだ警戒してますね?」
「初めて入った喫茶店で初めて会った少年にモーションかけられても困るでしょ」
「全く関係ないというわけではないんですよ。例えば、『――』さんのこと」
「……それは」
私が先ほどまで居た書斎の主、亡くなった曾祖父の名だ。
「実は、僕の父が貴方の曾祖父様によくお世話になっていたんです」
「私を孫だと知って声をかけたということ?」
「髪と耳が同じでしたからね、すぐわかりました」
「ふーん……」
にこ、と少年……アスターは笑う。
「さ、お隣どうぞ」
仰向けた手の先、テーブル向かいの椅子。
「……」
私は観念してそこに座った。曾祖父ゆかりの相手なら、一度くらいは付き合ってやってもいいだろうとも思ったし。
◆
一度目の出会いはずっと彼の話を聞いて終わって、課題に手をつけることはなかった。
課題をするために来たのにこれじゃ無意味だよねとも思ったが、書斎でやっているとまた行き詰まり、気付くと再び店を訪れていた。
その繰り返し。
「お姉さん」
紫の瞳はいつもきらめいて私を迎えた。
◆
アスターはよく喋る子だった。
好きな食べ物や空の色。道端で見た花に、星の話。
紫がかったふわふわの髪。揃いの色の瞳にはいつも私が映っていて、中学生ってこんなにまっすぐ異性を見るものだっけと思うが、たぶん文化の違いか何かだろうと適当な理由をつけて納得する。
落ち着いたアルトボイスは仮にそれがどんな内容でもずっと聞いていられるような気すらした。
おそらく気のせいだろうけど。
「ね」
アスターが言う。
「お姉さんの話も聞かせてください」
「……私に面白い話はないよ。大した人生送ってきてないし」
「面白いと思いますよ」
「なんでそう言い切れるの」
「勘です」
「勘」
「子供は直感が鋭いんです」
ふんす、と胸を張るアスター。
「自分で自分のこと子供とか何とか言う中学生、ね……」
「分を弁えてるんですよ。良い子でしょ?」
「うーん……かわいくないね」
「ひどいなあ」
けらけらと笑っている。
◆
「お姉さんは何のお勉強をされてるんですか?」
「……文学」
「へえ」
「興味なさそうだね?」
「いえ? 確か貴方の曾祖父様の専門も文学。イギリス文学だったなと思いまして」
「知ってるんだね」
「もちろん」
アスターは両手を腰に当て、胸を張る。
「貴方の曾祖父様のことなら何でも知ってますからね」
「え。なんで? お父さんの恩人にそこまで興味持つもの?」
「父は貴方の曾祖父様が大好きでしたからね、それはもう何度も話を聞かされまして」
「ああ、そういうことね……」
熱心なお父上だ。
曾祖父からはそんな友達がいたなんて聞いたことはないけれど。
◆
曽祖父のこと。
私は自分の青い目が嫌いだった。
曾祖父は私が中学生のときに死んだ。私は曾祖父が大好きだったが、曾祖父の方はいつも書斎に籠って忙しそうで、あまり話す機会もなく。
もしかすると避けられていたのかな、と思う。
曾祖父を残して先に逝った曾祖母は、青い目をしていた。二人は海外で出会ったらしい。曾祖母の青は空の色だったが、どうしてなのか、私はそれより暗い青だった。
曾祖母が亡くなってから、曾祖父は私の目を見なくなった。避けられていたのかなと思った根拠はそれだ。あの日、あの時から、曾祖父は私のことが嫌いになってしまったのかもしれない。
真相はわからない。それからすぐ、曽祖父は死んでしまったから。
曾祖父の死後間もなく、両親は私を連れて引っ越した。思い出の残った家で過ごすのがつらかったのだろう。
新しい土地に落ち着いて少し年月か経ったころ、私の大学進学が決まった。
大学は実家からそこまで離れているわけではなかったが、曾祖父の家がちょうど大学から徒歩5分という好立地にあった。
無理して一人暮らししなくても、と両親は言ったが、なんとなく一人暮らしの経験もしてみたかったので私は引っ越すことにした。
そうして今に至る。
◆
「お姉さん」
「何」
「僕、海に行きたいんですよ」
相変わらず私を真っすぐに見て、少年は言う。
「へえ」
と私。
「理由は訊かないんですか?」
「訊いてほしいの?」
「ええ」
にこにこと笑うアスター。
「……君は海に行ったことがないの?」
「ありますよ」
「それじゃ、なぜ」
「なんででしょうね? ……ただ、そう思うんです。最近は特に」
「ふうん……」
まあ、行きたい場所があるってのはいいことなんじゃないの。適当にそう返す。
「ですよね。僕もそう思います」
会話が途切れる。
「……お姉さんに行きたい場所はないんですか?」
「私?」
「はい」
「私は……特にないかな」
「どうしてですか?」
「子供じゃないんだから、ないよ、そんな」
「若者でもあると思いますけどね」
「私はね……ここから動く気はないから」
「どうして?」
「ここが気に入ってるからね。ずっとここにいたいし、ずっとここで暮らしたい」
「思い出があるんですか?」
「……」
私は答えない。
「それじゃあ、僕と一緒ですね」
嬉しそうに、笑う。
仮に一緒だったらどうだというのか。
子供の考えることはわからない。
◆
「お姉さん」
「何」
「ランチメニュー、頼みませんか?」
「なぜ?」
「おいしいんですよ、ここのランチ」
「……」
「ベタですが、ミートソースパスタなんかオススメですよ」
「他には?」
「ペペロンチーノとか」
「ベタだね……」
「古き良き喫茶店ですからね」
「へえ……」
「どうです?」
「……じゃあ、ペペロンチーノにしようかな」
「うんうん、素直ですね、嬉しいです」
中学生が大学生に言う台詞じゃないな……と思ったが、言うのはやめた。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
フォークで巻いて、口に運ぶ。
……。
にんにくの香りがきいている。その後にくる、上品なオリーブオイルの香りと口当たり。鷹の爪の刺激。咀嚼する、やや硬めに調整されたパスタ。
好みだな、と思う。
「好みですか? 僕が?」
「違うよ……」
何だろこの子、本当に……。
「パスタに決まってるでしょ……」
「ふふふ。冗談ですって」
「はあ……」
「でも僕はかわいいでしょう?」
「うーん」
「お姉さんの目は雄弁ですよ」
「そうかな……」
「お姉さんって態度はツンですけど目で語りますもん」
「そういう観察やめてくれる?」
「僕好きなんですよ、そういうの」
人間観察好きなタイプか。中学生あるあるではあるけど。
でも、
「変わってるね」
そう言われたいのかなと思ったから、言ってやる。
「ええ」
一点の曇りもない笑みを浮かべるアスター。
厄介だなあ、と思った。
◆
「今日は珍しく課題ですか」
「珍しく、は余計じゃないかな」
「課題、えらいじゃないですか」
「えらくはないね。やってるだけ」
「ふふ……」
紫の瞳がこちらを見ている。
きらきらと光って、私を映している。
特に感慨があるわけでもない、これが「日常」になりかけていることについて思うこともない。
ただ、嫌いではないし、悪くもないかなあ、などとは思う。
でもこういうのは手が止まるからやめてほしい。
再び画面を見る、結構進んだな。
最終結論を書きかけて、
「お姉さん」
「ん」
「そこは――じゃないですか?」
「……?」
この少年から言われるとは想像だにしなかったことを言われて、私は戸惑う。
「――は――時代の作家です。お姉さんは――が――概念を生み出したと書いてますが、――時代、既に――概念は存在していました」
「……な」
なんで知ってる?
「と、貴方の曽祖父様がおっしゃっていました」
「曽祖父が?」
「そう、それを父が何度も僕に聞かせてくれたんです」
「へえ……随分学術家庭だね……」
「好きなんですよね、文学」
「にしては、ピンポイントかつマニアックすぎない?」
「イギリス文学、良いじゃないですか。――という作家さんだって普通にメジャーですし? 僕は好きですよ」
「うん、まあ……」
そっか。と返し、画面の文章を追う。
「君の言ってることが本当だとしたら……文献集め直しだね……」
はー、とため息を吐く。
「はい。頑張ってください」
きらきら光る目でアスターは返した。
◆
書斎。
途中まで書いていたレポートの途中で言葉が出てこなくなって、画面を見つめる。
「お姉さん」
聞こえるはずのない声がする。
ここはカフェではなく、書斎だ。
ひょっとして疲れてるのかな。三食睡眠しっかりやってるつもりなんだけど。
「お姉さん」
背後に気配。
反射的に振り返る、そこには声の主。
透き通る紫色。アスターだ。
「なんでいるの……鍵は?」
「開いてましたよ」
「えっ……」
ぼんやりしていて閉め忘れたか。不用心だな、気を付けないと。
「そんなことより、お姉さん」
「ん」
「曾祖父様のお部屋で課題されてるんですね?」
「何……からかってる?」
「いえいえ。曾祖父さん子だな~と思いまして」
「まあ、好きだったからね」
「曾祖父様のことが?」
「うん」
頷く私。
一瞬の沈黙。
少し細められた紫の目。
いつもは私が映るそこは、ここの書斎の暗さのせいか、映るもの全てが消えてしまっていた。
「……ね、お姉さん」
「ん」
「僕、何歳に見えますか?」
「何歳って……中学生でしょ」
「何歳の中学生ですか?」
あ、これはつまり「何年生に見えますか?」ということか。
「んー……」
正直、大学生にもなってしまうと中学生の年齢の見分けなんてつかなくなる。遠ければ遠いほどわからなくなるからだ。
「うーん……」
私は悩むが答えは出ない。
ここは間を取って、中2で行こう。
中2……14歳か。
「14さ、」
言い切る前に、言葉がそれを遮って届く。
「1000です」
「ええと?」
うまく聞き取れなかった、というか、何を言っているのかわからなかった。
全く予想外の返答に対応できる人間は少ない。
それは私も同じことで、目の前の少年が結局何歳なのかわからない。
「……ごめん、聞き取れなかったみたい。もう一度教えてくれる?」
「1000です。正確に数えるのはもうやめちゃいましたけど、僕は1000年生きてます」
「えーと」
冗談だろうか?
判別できず、アスターを見る。口角は綺麗に上がっている。
「それは……なんというか……冗談、だよね?」
「いえ? 本当です」
さらりと答えるアスター。20、とかならまだともかく、1000年は人の生きる時間じゃない。いくら相手がアスターで、いくら本当だと言われても、正直信じがたい。
「仮にそれが本当なら、証拠は?」
「僕は貴方の曾祖父様のことをよく知ってます。性格も、髪の色も、耳の形も」
「それは別に……アスターのお父さんから話を聞けばわかることじゃないの?」
「まあ、そうですね」
少年は困ったように笑っている。
「じゃあ、貴方の後ろにあるそのブラウンのハードカバーを取ってください」
「後ろ……」
振り返る。
ブラウンの、布製ハードカバー。
とりたてて特別には見えないが、周囲の赤色ハードカバーの中に一冊だけそれがある……ので、おそらくこの本を指しているのだろう。
痛めないよう慎重に抜き取る。
紫色の栞紐。
「そこですね、開いてください」
言われた通りにページを開くと、一枚の写真が入っていた。
映っているのは赤子の私を抱いた曾祖父と、紫色の髪の少年。
「……偶然でしょ」
「どうでしょうね?」
少年は本棚に近付き、上から一冊手に取った。
ぱらら、とページが捲られ、開くとそこには資料写真が載っている。
白黒、洋装、どこで撮られたものかはわからない。
街灯の下に見覚えのある少年が映っていた。
私は黙り込む。
少年は本を取り、開いて見せて戻してはまた別の本を取る。
そこには全て同じ人物が映っていた。
「……わかりました?」
……正直、わかりたくはない。
「不老不死は残酷です。誰を好いても、すぐ終わる。時間間隔が違うんです。僕が寝ている間に想い人は寿命を迎えて死んでいる。……ずっと起きてはいられませんからね。それならいっそ、となるべく長く眠ったんです。そうして起きたら、あの人がいたんです」
言葉が切られ、また繋がる。
「ずっと待っていた、と言われました。何を、かはわかりません。最後まで言ってくれませんでしたからね。……僕はこれまでで一番長く起きて、あの人が幸せになるのを見届けて、老いることを見届けて、見送りました」
「……それで」
それを私に話して、どうしたいのか。
「貴方の曾祖父様は貴方のことが大好きだった」
「……嘘」
曾祖父が私に愛情を示したことは一度もない。
「僕は1000年生きてるんです。貴方の曾祖父様のことは全部知ってます」
「知らないこともあるでしょ」
「知ってますよ、全部」
「曾祖父のことしか見てなかったくせに」
「いいえ」
不老不死の少年は言う。
「俺は貴方の小さい頃をよく知ってます。小さい頃だけじゃない。全部だ。今までの全てを知ってます」
「…………」
「あの人の髪はブラウンで、耳の先は尖っていて。そこまでは同じ」
でも、と言葉が切られ、そして続く。
「貴方の目は……海の色をしている」
抑えた声にはしかし、確かな温度があった。
少年の。あのきらめきはどこに行ったのだろう。
「還りたい、そう思います。けれど俺は死ぬことができない。だから海には還れない、貴方に還れない」
伸びてくる、ずっと華奢だと思っていた指が頬に触れる、その、温度。
これは熱だ。冷たい熱。
目を合わすことができない。そこに映るものが怖いから。
「長く起きすぎたんです。限界が来ていて、眠らなければいけない。それでも俺は海には還れず、次起きたときには海はない。……終わりなんです。これ以上続けることはできない。生きる世界が違うんです。俺にはそれが、」
とてもかなしい、
と。
指がす、と頬をなぞる。
アルトが消え、息だけが残る。
「そう……」
かわいい年下のはずだったんだけどな。
心の中で浮かべた声は外に漏れていたようで、
「1000歳の俺じゃかわいくないですか?」
揶揄るような、訴えるような、それでいて真剣なような、しかし私は、それがどんな表情から零されたのか見ることはできなかった。
至近距離。零れかけた息、その先を塞ぐように私を呑んだ紫の熱の、炎があまりに近すぎて。
◆
あの喫茶店に行かなくなってから、一か月。
同窓会をこちらでやるということで小学時代の友人に誘われ、まあせっかくだし近いし断ることもないかと思って出席した。
会が終わった後、近くのパンケーキ店で友人と私の二人きりの二次会をする。
懐かしい話で盛り上がった後、
「ね、昔さあ、いたんだよね」
と友人。
「誰が?」
「初恋の人」
「それはまた、甘酸っぱい話を」
「紫色の髪で、海外の子かな? って思ったんだよね。目が合ってさ、笑ったその色も紫だった」
「……」
「■■ちゃんにずっとついてたじゃん? 家遊びに行くと絶対その人いたからさ、ちょっと嬉しくなっちゃったりして。覚えてる?」
「……いや……覚えてないな」
「結局名前とか聞けないままその人いなくなっちゃったんだよねー。■■ちゃんが引っ越すのと一緒に」
「まあ……その人がずっとついてたんなら一緒にいなくなるのもおかしくは……ない……のかな?」
「歯切れ悪すぎ! ほんとに覚えてないの?」
「うん、全く。……いなかったんじゃない?」
だって私があんな紫を忘れるはずがないんだ。
その後ぐだぐだと大学やら就職やらのふんわりとした話で盛り上がり、別れる段になってから
「■■ちゃんには初恋の人っていなかったの?」
「……」
友人はいかにも期待してます、という顔で答えを待っている。
「いなかったよ」
「えー」
「恋なんてしたことがないからね」
「そっかー、残念」
「それじゃ、」
別れの挨拶をしようとした私に、
「きっとわかるよ、■■ちゃんも、その時になれば」
「ん……」
肯定することも否定することもせず、またね、と告げる。
「またね~」
友人は手を振った。
◆
それからしばらくして、日々の忙しさで勉学以外のことは全て過去に埋没し、見えなくなった。
埋葬された、と言う方が正しかったかもしれない。
ある日、帰る途中に通り雨が降った。
生憎傘を持っておらず、だんだん強くなる雨にこれは雨宿りをした方が良いと判断し、裏路地に入って、
「……」
あの喫茶店だ。
一番近いのがここだった。突っ立っていたら濡れてしまう。
ドアを引く、からんからんとベルが鳴る。
マスターが顔を上げ、こちらを見る。
「いらっしゃい」
「……こんにちは」
相変わらず、店には私しか客がいない。
「カウンター、空いてるよ」
「……ありがとうございます」
席に座るつもりもなかったし、勧められた通りカウンターに腰掛ける。テーブル席で過去が蘇るなんて願い下げだし。
「……どうぞ」
マスターがカップを置く。
いつものコーヒーだ。
礼を言って、口をつける。
そのまま無言で飲んでいた。
しばらくして雨は小降りになったが、止むにはまだ少しかかりそうだった。
まだ帰れないな。
そう思う。
「……これ、どうぞ」
マスターが何かをカウンターに置く。
ボトル。……お酒、だろうか。
「贈り物だそうですよ」
「誰からですか?」
「……さてね」
マスターがカップ拭きに戻る。
私はぼんやりと酒のラベルを眺める。
チューリップの花で囲まれた中央に、本が描かれていた。
花も本も紫色。
「……」
まあ、それはそうだろう。
ここで私に「贈り物」をする人間なんて一人しかいない。
◆
帰り着く、書斎の机の上には紫色の本があった。
ぱらら、と捲る、紙きれがひらりと落ちそうになって、
「……」
受け止める。
真新しい紙に、文字が書かれている。
『海の夢を見ます』
『俺はきっと、』
最後まで確認し、本に挟み直して、閉じる。
ぱたん、という音。
「かわいくなかったよ、きみなんか」
零す。
触れた、口元の感触、冷えた熱の記憶。
遥か遠く、外の様子はわからない。
そんな話。
だった。
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