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第2章 ミシラス湖の特異個体

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 髪を撫でる風が煩わしい。
 何より冷たく、昼間とは大違いだ。いつもなら心地よく感じる筈の夜風さえ、今の私には不快でしかなく。
 私の足は、その洞穴の前で止まった。
 洞穴からは、ヒューヒューと風の出入りする音が鳴っている。またザワザワと、木の葉の擦れる音がとこかしこから鳴り響いてきていた。
 もう直ぐ、夜がやってくる。日没前のミシラス湖は酷く静かだ。もう次期にこの場一帯は夜行性モンスターの支配下となることだろう。
 そんな夜行性モンスターは昼行性モンスターに比べると数が少ない。一説によると、昼間での生存競争に負けたモンスターが夜間活動に転向したのだと言う。
 このパターンが全てとはないとされるが、活動的なモンスターの多くいる昼間を避け、危険性が多少でも少ない夜間を活動の場としたのが夜行性のモンスターなのだと言う。
 姿が確認され難い夜間は小型のモンスターなどには非常に有利に働くし、逆に行動が鈍いモンスターに対しても同様の事が言えるのだと、いつかの文献にはそのように記されていた。
 以上を踏まえ、昼と夜のどちらが危険かと問われれば、私は迷わず夜と進言する。
 何故なら人類とは、夜間での活動には優れていない。夜の闇に晒された人類とは、甚だしく無力に等しいのだから。
 故の恐怖。いざその洞穴の前にして、私の足は震えていた。
 薄暗い森の中から、水の中から、そして洞穴の中ーー辺り一帯から監視されているように思えて仕方がなかったのである。
「何を今更怖気付いているんだか……しっかりしろ私」
 震える足を数回はたき、深呼吸。うん、大分マシになって気がする。
 私は意を決して洞穴の中に顔を突っ込んでみた。モンスターの気配はない。
 次に足を踏み入れ、腰の雑納鞄(ざつのうかばん)から透明色の鉱石を取り出した。この鉱石は光原石と呼ばれ、壁に打ち付けるとあら不思議。光原石が仄かな輝きを放ち始め、洞穴の中を照らした。
 照らし出された洞穴の中とは、外と同様には骨ばかりだった。モンスターがいないことにホッとしたのも束の間、これはこれで異常な状態だと気を改め直した。奥へと進んでみる。
 かなり深い洞穴である事に間違いはない。多分だが、奥の道とは枝別れしており、幾つもの出口が存在しているのではーーと、私の予感は的中した。
「はぁ、まじか……」
 計4つに枝別れした道。道の大きさはマチマチであれど、どれも通れないわけではない。さて、ここでどの道を進むか選択を余儀無くされたわけだが、
「よし、戻ろう」
 流石に今ここで進む勇気は私にはなかった。ええそうです、私はかなりの臆病者なんです。
 でもでも、そんな臆病者な私にしては上出来な方だろうとは思うわけです。
 確かにワイルドガルルを発見するには至らなかったが、住処と思しき場所を見つけただけでも有意義な1日だったと、そう思う事にしよう。
「探索はまた明日にするとして、本日の活動はこれにて終了」
 私は踵を返して、来た道を戻り始めた。幸い、いくつかの光原石を道に蒔いていたから帰り道には困らない。
 問題なく、私は急ぎ足で出口を目指した。そうして、出口が見えて来た。
 その時。
「………uuuu……」
 それは低い低い、唸り声。またダラダラと、頭上から何やら液体がふってくれではないか。
 私は髪に付着したその液体を指にして、やけに粘着性のある液体だと思った。また、かなり臭い。
 これは、もしかしてモンスターの唾液?
「まさか……」
 私は恐る恐る背後を振り返る。そして、暗闇に光る赤い光を二つを確認。私を見下す形で、赤い光が暗闇に灯っていた。
 赤い眼光。そして降り注ぐ唾液とは、その眼光の主から漏れ出しているとーー
「くそッ!」
 私は駆け出して、全力で出口を目指した。その次の瞬間にも、背後から獣の雄叫びが洞穴に反響。そして、地を撃つ音がドシドシと急接近してきていた。
 どうして気づかなかったのだろうか疑問で仕方がなかった。あれ程の巨体なのだから、物音の一つや二つ聞こえてもいいだろうに。
 あそこまで接近されて襲われなかったのが不思議なくらいだ。とは言っても、現状生命の危機に瀕している事に変わりはないが。
 モンスターと競争して人類が勝てる見込みなんて鼻っからない。分かってるが、今ここで足を止めてしまえば死が数秒早まってしまうだろう。
 私はその数秒にかける事にした。またその数秒が幾らか伸びればと、雑納鞄に手を突っ込むーーあった。
 私は手にした犬笛を咥え、思っ切り吹きかけた。何かの役に立ちばと持参していた犬笛が、洞穴の中に乱反響。
「GYAッ!?」
 背後を足音が止んだ。
 よし、思っていた通り。
 モンスターは五感に特化したものが多い。特に聴覚、視覚、嗅覚は狩りをする上での最重要感覚とは言われている。
 其奴がいくら通常種と異なる習性であろうと、特化した感覚までもが違っているわけないという私の考えは正しかったようだ。
 優れ過ぎた感覚とは、時に大きな弱点となる。故に其奴の優れ過ぎた聴覚とは、突然に鳴った犬笛を敏感に受けてしまったと。
 それでも、長くは通用しない。効いて数秒間。
 ただ、その数秒間で救われる命もあるのだ。
「アポロさん!」
 洞穴から出てすぐ、そこには心配そうな顔を浮かべるウボーと、その脇に佇むフルート。
 うん、何とか無事約束は果たせたようだ。
「さっさの音は何ですか!?」
「話は後!フルート!」
「GUッ!」
 私はウボーの手首を掴み、フルートの飛び乗る。フルートはすぐ様飛翔した、次の瞬間。
「CYAaaaaaaaッ!」
 洞穴の中から、先程まで私達がいた場所に其奴が飛びかかっていた。
 まさに間一髪。寿命が幾らか縮んだ気がするのは気のせいだろうか?
「アポロさん!あれは!?」
「特異個体、みたいだね」
 地上にて、未だ冷めあらない敵意を剥き出しにした其奴は、まさに化け物と形容しうる存在であった。
 闇夜に浮かぶ赤い眼光に、開かれた口から覗く巨大な牙。にしてその図体のデカさと言ったら何のその。
 特異個体ーーワイルドガルル。まさに全てが規格外の化け物だ。
「わ、わわわわ」
 ウボーは声にならない声を上げて、動揺しまくっていた。無理もない、初めあれを見たら誰だって驚き慄く。
「ウボー、貴女の気持ちは分かる。分かるけど、少し落ち着いて」
 ほら、深呼吸。
「すみません……すぅーはぁー、すぅーはぁー……」
 幾らか落ち着いたウボーが、改めて言葉を紡いだ。
「アポロさん、これからどうしますか?」
「どうするって……決まってるでしょ」
 折角見つけたんだ。今この機会を逃せば、またいつ巡り会えるか分からない。
「だったら、今この場で倒すしかない」
「倒す!?冗談ですよね!?」
「冗談じゃない」
「いやでも、どうやって……」
 ウボーは不安めいた声で。
「あんなの、私達の手に負えないと思います……」
 そうは言った。
 うん、確かにその通りかもしれない。
 でも、
「フルート、あんたはどう?」
 私はフルートの頭を撫でて、尋ねてみた。
 そう、実際に戦うのは私ではない。今この場で唯一あのワイルドガルルと戦えるのは、このフルートでしかないのだ。
 フルートは顔を私に向けると、一回コクリと頷いた。「やれる」と、そうは言いたいらしい。
「うん、分かってる。やっぱりあんたは最高だよ」
「GUッ!」
「フ、フルートちゃん!危ないですよ!」
「そんなのフルート自身が一番よく分かってる筈だよ。でもさウボー、フルートを少し甘く見てない?」
「えっと……それはどういう……」
「つまり、こういうこと……フルート!」
 私は手綱を叩いて、フルートに命令を下す。
 フルートは私の声に呼応して、雄叫びを上げた。大気を撼わすその雄叫びは、強者の風格が醸し出されている。
 そうさ、いくらあのワイルドガルルが特異個体と言えど、フルートはその存在事態が特別。
 伝説の白龍ーー人はフルートをそう呼ばれていた。



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