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第六章 雨に濡れた髪

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「いやぁ、彼女じゃなくて、彼氏だったとはね。こりゃ驚いたよ大吾くん」

「だから、俺の性癖を勝手に歪めんじゃねーよ。こいつは美容師で、ウチの新しい従業員」

 店内の脇に用意されたテーブル席に座った直後にも始まった大吾と犬神さんの頓珍漢なやり取りは、まだまだ終わりそうにない。僕は犬神さんが準備してくれたお茶とみたらし団子を交互に口を運びながら、その様子を黙って眺めていた。

「(それにしても、本当に変わった人だなぁ……)」

 大吾曰く、犬神さんは「狛犬一族の末裔」というれっきとしたあやかしなのだという。今いるこの建物とは、狛犬一族に先祖代々受け継がれてきたものらしく、それを犬神さんが5年前にも改装、和菓子屋「犬神屋敷」をオープンさせたのだと聞いた。

「賢一は昔から甘いもんが大好きでな。なにを血迷ったか、思い付きだけで和菓子屋を始めちまったんだよ。もちろんみんな止めたが、聞かなくてよ」

 先ほど、呆れた調子で大吾はそう言っていた。そのことを踏まえ犬神さんを観察──天然さんとでも言うのだろうか。犬神さんとは、とにかくほんわかおっとりとした人物であった。なんだかほっとけないような、ほっといたらそのへんの車に轢かれて死んでいまいそうな感じだ。

 僕はちらりと店内を見回した。そして視線が、カウンターの隅に置いてあった写真立ての前で止まった。

 学生服を着た男女と、その間にすっぽりと挟まるランドセルを背負った少年の姿。そんな写真に映っている彼らに、僕は既視感を覚える。

「もしかして、あの写真……」

「ああ、あれかい?」と、犬神さんは写真立てへと視線を移す。懐かしむような、そんな口ぶりで言った。

「まだ、大吾くんが小学生の時だね。で、その隣にいるのが僕と涼子だよ。あの日は確か中学の入学式でね、今から十年以上前に撮ったものさ」

「そんなもん店に飾るんじゃねーよ」

 腕組みする大吾が呆れた調子で言えば、犬神さんは「いいじゃないか。思い出だし」とやはり悪びれもない様子で言った。そんな二人を見ていれば、昔からこんな感じだったのかなって、なんだかその過去が透けて見えてくるようだ。大吾と犬神さんと涼子さんの、三人の幼馴染。大吾と犬神さんのズレた会話を涼子さんが楽しそうに眺めている、そんな光景。

「(なんか、いいなぁ……)」

 まるで本当の兄弟みたいな大吾と犬神さんのやり取りを眺めていたら、こっちまで楽しくなってくる。

 その後もあれこれとやり取りを交わす大吾と犬神さん。そんな二人の話を聞きながら、ぼんやりと外を眺めている時だった。

「でもそうか、きみが、例の龍之介くんだったのか」

 感慨深そうに見つめてくる犬神さん。どうやら、僕のことについては知っていたらしい。

「噂には聞いていたけど、美容師さんなんだってね。しかも、カリスマなんだってね。龍之介くんが来てくれたおかげで、みんなも喜んでるって聞いたよ」

 そう言って、犬神さんはしんみりとした雰囲気を醸し出す。「変わっていくもんだねえ」とも、そんなことも呟いて。

「別に、前となんも変わんねーから」

 大吾が言えば、犬神さんは薄っすらと微笑んだ。

「いや、そうもないんじゃないかな? だって大吾くんも、変わったもの」

「俺が、変わった? なにがだよ」

「そうだねぇ。表情が、すごく柔らかくなった」

 そう言った犬神さんがニコニコ笑えば、大吾は「んなわけあるか」と鼻息を鳴らし席を立つ。そのまま入り口へ向かって歩いていった。

「あれ、大吾くん。もう行っちゃうのかい?」

「ちょっとまだ用事があってな。まだ聞きたいことがあるなら龍之介に聞け。置いてくから」

 えーと、はい?

「いや待ってよ、なんでそうなるの!?」

「だから、用事だよ用事。俺にもいろいろとやることがあんだよ」

「にしたってだよ、わざわざここまで連れ出しておきながら置いていくなんて横暴過ぎでは?」

「安心しろって、すぐに済ませて戻ってくるから。じゃ賢一、あとは頼むわ」と、本当に大吾は一人さっさと店内を後にしていってしまった。

 なんて勝手な男だ。人を女装させてまで連れ回しといて、用事が済んだらポイするなんて……

「大吾はいつかきっと女を泣かせる。間違いない」

「そうかもね。でもその時は龍之介くん、きみが大吾くんの彼女になれば万事解決さ」

「結局僕が泣くはめになるじゃないですか……って、だから僕は男ですよっ!?」

「あはははは、冗談冗談。いやぁ、やっぱり龍之介くんは面白いなぁ」

 屈託のない笑顔を浮かべる犬神さん。なんだろう、本当に食えない人だ。

「ところで、龍之介くん」

 犬神さんが、僕を見つめてくる。その表情は、これまでとは打って変わっての真面目な雰囲気を醸し出していた。その上で、言ってくる。

「きみが、大吾くんを変えてくれたみたいだね」

 変えた? 一体、なんの話だろうか?

「僕は別に、なにもしてませんよ。大吾は大吾、出会った時からあのまんまですけど」

「そんなはずはないよ。大吾くんは、やはり変わったよ。多分それは龍之介くん、きっときみのおかげさ」

 どうなんだろうか、自分じゃよく分からない。そもそも僕と大吾が出会って、まだ二ヶ月くらい。それ以前の大吾がどうだったかなんて、知る由もないのだ。

「大吾は僕がいなくても、きっとあのままだったと思いますけど」

「さぁ、どうだろうね。ただ一つだけ確かなことがあるとすれば、大吾くんは龍之介くんと一緒だから僕に会いに来れた。それだけは、間違いないと思うよ」

「? それは、どういう意味ですか」

 僕が聞き返せば、犬神さんは首を傾げる。ただすぐにもなにかを悟ったのか、

「やっぱり、自分の口からは言わないんだね。大吾くん」

 これまた哀しげな笑みを浮かべて、視線をカウンターへと向けた。その目線先を追えば、そこには写真立てがある。大吾と犬神さんと涼子さん。仲睦まじく見える幼馴染たちの、そんなにも幸せそうな一コマである。

 犬神さんは、ゆっくりと口を開いた。

「ちなみに龍之介くん。なぜ、あやかしが現世に留まり続けているのか、その理由を知ってるかい?」

 僕は首を横に振った。あやかしがこの世界にいる理由なんて、考えたこともなかった。

 犬神さんは話し続けた。

「僕のご先祖さまはね、鎌倉時代の陰陽師にこの現世へ召還された狛犬一族の末裔なんだよ。最初は式神として、魔を取り払う存在として使役されていたんだとさ。だけど戦乱の世になってくると、次第にその役目も失われてきてしまった。そのうちにも、だったらしい。人の姿に化けた僕のご先祖さまは、人間との間に子供を設けてしまったんだ。それが、今でも続く異類婚姻の儀というわけだね」

「? 異類婚姻の儀、とは?」

「簡単に言えば、あやかしと人間が結婚すること。本来交わるはずもない者同士が愛し合い、子を授かる。そしてその子孫が僕たち、今を生きるあやかしの正体なんだよ」

「じゃあ、根っからのあやかしというわけじゃないと」

「少なくとも僕はね。ただ、例外もある。例えばあやかし同士が交わり、子が生まれた場合……それはもはや純粋なるあやかしでしかないんだ。これを、僕らあやかしたちの間では禁忌として語り継がれている」

 どうしてだろうか。

「別に、問題ないように思えますけど」

「そうでもないのさ。玉藻さまのような例外を除けば、純粋なるあやかしとは現世にとっての脅威と考えられるからね。なにも、この現世にいるのが良いあやかしたちばかりとは限らない」

「そんな……そういったあやかしが、実際にいるんですか?」

 恐る恐る聞けば、犬神さんは「今はいないよ」と言った。「そんなことしたって、良いことはないからね」とも。

「ただ、ずっとそうであるとは限らない。だから僕らのご先祖さまは、現世に残る以上せめてもの制約として、あやかし同士の結婚を禁じたんだ。そして、もしもその禁忌を破ることがあったのなら処世へ帰らなければならないという、そういう決まりを作って」

 処世カクリヨ──それは確か、あやかしたちが暮らしいているあの世みたいな世界だと、以前大吾はそう言っていた。

「それで、ここからが重要な話……これを僕の口から言うのもなんだけど、でも多分、言っておかなければならないことだと思うから、伝えておくよ」

 そして、犬神さんはその事実を明かす。

「この度、僕と涼子はその長くに渡り紡がれてきた異類婚姻の儀に反し、結婚することが決まった」

 その瞬間、僕らの間に流れていた空気が、しんと静まり返った。

 そんな静謐とした空気の中で、犬神さんは言った。

「大晦日の夜……年と年が移り変わる除夜だけ、処世への門とは開かれる。その時にも、僕と涼子は処世に帰らないといけないんだ。そうなってしまえば、この現世との関わりも絶たれてしまう。こうして龍之介くんや大吾くんとお喋りできるのも、あと数日で最後なんだよ」
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