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第四章 ぽんぽこ園

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 その後も何事もなく、僕はカットを進めていった。すみれさんに子供時代の大吾がどんな男の子だったかを聞きながら、穏やかな時間とは流れていく。

 そして、

「どうですか?」

 僕は鏡面台に映るさっぱりとしたすみれさんへ、仕上がりを尋ねる。

 すみれさんは頭に左右に動かしながら、長さの程度を確認して、

「ばっちりね。桐生さんは、カットがお上手なこと」

 薄っすらと、その瞳には涙が滲んでいるように見えた。

「桐枝先生と、おんなじ。ああ、そうだったわ。私はこんな姿を、していたのよ」

 どういうことだろう? 今も昔も、すみれさんはすみれさん。そうじゃないのかな。それともいつもは大吾がカットしているのだろうから、違って見えるのかな?

「桐生さん、ありがとう。本当に、ありがとうございました」

 よくは分からないけど、

「喜んでもらえたのなら、良かったです」

 これにて、本日のカットは終了した。

「お疲れさまでした、すみれさん」

 そのままカットクロスを外して、折りたたんでいく。そして、再びすみれさんへ向き直ろうとした。

 その時だった。

 チャリン──鈴の音が鳴る。

『桐生さん』

 すみれさんの声が、なぜか脳内へと反響していた。

『大吾くんを、よろしくね』

 それはとても穏やかな声として、僕の中へと澄み渡っていく、とても不思議な体験だった。

 この感覚は、一体?

「おい龍之介。お前、さっきからなに一人ぶつぶつ話してんだよ。ほら、終わったならさっさと片付けろ」

「え? あ、うん。ただちょっと待って。最後に襟足のうぶ毛だけ剃りたいから」

「はぁ? 襟足のうぶ毛? 誰のだよ」

「誰のって、そんなの一人しかいないじゃないか……って、あれ?」

 いない。先ほどまで椅子に座っていたはずのすみれさんが、そこにはいなかった。慌てて辺りを見回してみるが、やはりどこにもいない。

 おかしいなぁ……

「ねぇ大吾、すみれさんがどこに言ったか知らない?」

 大吾は小首を傾げて、険しい面持ちとなる。

「ん? すみれってお前……まさかあのすみれのこと言ってんのか?」

「あのってのはよく分からないけど、ここにいたすみれさんだよ」

 僕がそう言えば、大吾の表情はより一層険しくなっていた。

「なんで、お前がすみれのこと知ってんだよ」

「なんでと言われても、僕がカットをしたからさ」

「……いつ」

「だから、つい今さっきだよ、今さっき」

 大吾はいよいよイミフな様子で顔をしかめた。

「お前、頭大丈夫かよ」

 また、こんなことを言ってくるのだ。

「すみれなら、もうとっくの昔にこの地を離れて行ったぞ」



 よくある話だ──「ぽんぽこ園」を出て直ぐにも、大吾はそう言って話を切り出した。

「俺も詳しくは知らないが、この世界とは別に『処世カクリヨ』っつう世界があるらしい。まあ、分かりやすく言えば『あの世』みたいなもんだ。で、すみれはそこへ帰ったんじゃないかって、そういう話だ」

 ある日突然、すみれさんがこの「ぽんぽこ園」から忽然と姿を消して丸十年になるという。当時15歳の大吾は、その話を桐枝おばあちゃんに聞かされたと語る。

「そもそもあやかしに寿命ってものはないが、この世界に住むあやかしたちにとっては妖力こそが寿命みたいなものなんだとよ。でだ、すみれの妖力は当時でもう限界だったらしい。それでも無理して最後のギリギリまでこの世界に残留し続けていたんだがな、俺の目から見てもやばかった。骨と皮みたいになって、いつ死んでもおかしくない状態だったよ」

 夕日に照らされた大吾の横顔が、どこか儚げに映る。

「だから、処世に帰ったんじゃないかって、そういう話になったんだ」

「じゃあ、もしもだよ……もしも、すみれさんが処世に帰ってなかったとしたら、今頃どうなっちゃったのかな」

 その切実なる疑問には、大吾は一度黙り込んだ後にも、ぎらぎらと照りつける夕日を眺めながら、

「どうなんだろうな、狸になっちゃうんじゃねーのか」

 次に僕の顔を覗き込むよう頭を傾げて、にやりと意地悪な笑みを見せてくる。

「で、龍之介。お前はその狸に化かされてしまったとか」

 なんだよ、それ……

「もう、そんな怖いこと言わないでよ」

 でも、本当にそうかもしれない。

 僕は確かに、すみれさんの髪をカットした。その姿も見えていたし、昔の大吾の話も聞いた。夢なんかじゃない。僕はちゃんと、覚えている。だったら僕は、狸に化かされてしまったのだろうか?

 なんだか腑に落ちないまま車へと向かっている時だった。

 チャリン──背後から突然、鈴の音が鳴り響いた。

「お、ポン吉じゃねーか!」

 大吾の弾んだ声が聞こえてくる。振り返ると、一匹の狸へ大吾が駆け寄っていた。

「おーよしよし、ポン吉」

 大吾がその狸を抱きかかえ、ふんわりとしたココア色の毛並みを撫で回す。その度に聞こえる鈴の音とは、どうやら狸の耳元に吊り下げてある鈴から鳴っているらしい。

 そんな鈴のイヤリングには、既視感があった。

 まさか……

「だ、大吾! そそ、その狸!?」

「え? ああ、ポン吉か。ほら、さっき中庭にいたやつだ。いつの間にか懐かれちまってな、俺が来るといつもこうして近寄ってくるんだよ。可愛いだろ?」

 そう言って狸の撫で回す大吾とは、本当に幸せそうだった。その狸もまた気持ち良さそうに喉根を鳴らす。

 そんな時だ。ふと、視線を感じて「ぽんぽこ園」の二階を窓へ──そこには、狸と戯れあう大吾を眺めているお爺ちゃんお婆ちゃんたちが、これまた幸福そうに笑っていたのだ。

 そして僕は、悟ってしまう。

「(もしかして、すみれさんは処世に帰ったわけじゃなかった?)」

 本当はずっとここにいて、お爺ちゃんお婆ちゃんたちと一緒に大吾の成長を見守っていたのではなかろうか。人の姿を失ってもなお、自身の正体を明かすこともなく、この場所で、ずっと……そして、その事実を大吾だけが知らない。

 もちろん、確証はない。

 だけど、僕は先ほど聞いたんだ。

『大吾くんを、よろしくね』

 狸と目が合った瞬間にも、再びその声が反芻される。聞き違いだったかもしれない。僕はやはり狸に化かされているのかもしれない。だけれど、その時の僕とは無性に泣きたくて仕方がなかったのだ。

「って、おい龍之介。お前、なに泣いてんだよ」

 どうやら、本当に泣いてしまっているらしい。視界が涙で滲み、大吾の顔がよく見えない。

 でも仕方ないじゃないか、自然と涙が溢れてくるんだから。

「今になって、狸に化かされたのが怖くなってきたのか?」

 なんで、こうも人生とはすれ違ってばかりなのだろう。僕にはあやかしたちの不器用な優しさが少し、残酷に思えてしまう。

 けれど、

「おら、泣くな龍之介。ポン吉、こいつを慰めてやれ」

 僕の涙を舐めて可愛らしい鳴き声を上げる狸を見ては、妙な心を救われた気分である。

 だったらそうだ。狸に化かされたってことで、事実などそれだけで充分かもしれない。




 陽も落ちて、辺りはすっかり暗さを増していた。森の方から「ほー、ほー」と鳥が鳴いている。

 帰りの車内は、実に静かであった。

 ハンドルを握る大吾とは、黙々と運転するだけ。ただそれも、疲れた僕にとってはすごく有難いことだった。本来なら遅刻した僕が運転することになっていて、なにより疲れているのは僕より多くカットした大吾の方なのに、

「俺が運転した方が早いんだよ、お前は寝とけ」

 と、さり気なく運転を代わってくれた。多分、突然泣き出したりしたから、気を遣ってくれたんだと思う。

 この通り、大吾とはとにかく優しい男だ。不器用なだけ。感情の伝え方が、だいぶ下手なだけ。そんな性格だから、これまで誤解ばかりを受けてきたんじゃないかって、ここ最近僕は大吾のことをすごく心配してばっかりだ。

 ただ、あやかしたちは、そのことをきちんと分かっているのだろう。口には出さないだけで、ちゃんと大吾のことを見てくれている。

 でもだからこそ、僕は言わざるを得ないと思った。

「ねぇ、大吾」

 大吾の返事はない。だけどそれはいつものことだから、僕は話し続けることにした。

「なにか、つらいことがあったら、なんでも僕に相談してね」

 やはり、大吾は返事をくれない。いいんだ、それで。

「僕はさ、まだ大吾と知り合って一ヶ月くらいしか経ってないし、あやかしたちの事情も分からないことばかりだけど、でも僕にできることがあるなら、なんだってしてあげたいと思うんだ」

 いろいろと複雑な、あやかし事情。大吾はあまりそのことについて語らないが、でもきっと大吾のことだから、一人で悩みその上でいろいろ頑張ってきたんだと、僕はそう思う。

 だからこそ力になりたいと、僕は心からそう思ったんだ。

「一人で抱え込まなくてさ、いろいろ相談してよ。カットのことでも、なんでもいいからさ」

「……」

「だって僕たち、もう友達だし」

「……」

「友達、だよね?」

 あまりに返事がないから、途端に不安になってきた。もしかして居眠り運転してるのではなかろうかと、運転する大吾の横顔を見る。

「……」

 大吾はじっと前を向いたまま、なぜか口元をもごもごとさせていた。

 そして、

「友達とか言われても、できたことねーから、んなもん分かんねえよ」

 やっと口を開いたかと思えば、そんなこと言葉。

 うん、やっぱり不器用だ。それでいて、恥ずかしがり屋。そりゃあ友達もできないでしょうねって、もちろんそんなことは言わないが。

「じゃあ、僕が大吾の友達第一号だね」

 代わりに、そんなことを言ってみる。結局大吾はなにも応えてはくれなかったけどね。でもいいんだ、これで。

 これから、少しずつ距離を縮めていけばいいんだからさ。まだまだ、時間はある。

 そうして、僕らはまたいつもの日常に戻っていく──

 そんなにも賑やかで騒々しい日常が、明日も、明後日も、明々後日も、来年も続いていけばいいのになって、僕はそう思いました。
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