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第二章 かっぱの頭

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 土曜日。いつもよりもずっと頭の重たい、そんな朝がやって来た。目覚めはすこぶる悪く、昨晩はあまり寝付きがよくなかった。

「(大吾とどんな顔して会えばいいのかなぁ)」

 気分が沈む。なかなかベッドから出られない。ただそうこうしたところで時間は無慈悲に過ぎていくもので、僕は身支度を整え北鎌倉台商店街へと向かわざるを得なかった。

 そして「神結い」の扉を開けようとした折にも、店内から話し声が聞こえてきた。

「うわぁああああ! やめろぉ!」

 話し声というより、それはもはや叫び声だ。

「……おはよう、ございます」

 そんな僕の申し訳程度の挨拶とは、その瞬間にも轟いた「いやだぁああ!」という叫び声によって呆気なく掻き消されてしまった。

 見ると、そこにはジタバタと暴れる湖太郎くんが、

「離せ離せ! 俺は髪を伸ばすんだぁあ!」

 湖太郎くんを、なぜか大吾と蘭子ちゃんが無理やりセット面に座らせている。

 以上、よく分からない状況だった。

「一体、なにがあったの?」

「あ、龍之介さま」

 僕に気付いた蘭子ちゃんが、以前として暴れる湖太郎くんを宥めながら状況を説明してくれた。

「実は……」



「なるほど。つまり、髪を切りたがらない湖太郎くんを無理やり連れて来たってことなんだね」

 蘭子ちゃんの湖太郎くんを見つめるその横顔は切なげだ。本気で心配なのだろう。その気持ちが、分からないわけではない。

 でも湖太郎くんは、今現在も諦め悪く髪を伸ばしたいと主張している。なんらかの理由があって、髪を伸ばしたいのだろう。

「うわぁぁあああんッ! 俺、切りたくないのに、切りたくないのにぃぃ」

 湖太郎くんは、結局泣いてしまった。子供とはそういうもの。泣いて訴えることでしか、自分の意見を通せない。悲しくなって涙が溢れてくるから、仕方ないのだ。

 僕も昔は、髪を長くしたかったのに「勉強するとき、前髪が目に入るから」という母さんの一方的な要望で坊主頭にされた時は、悲しくて泣いてしまったな。だからその気持ちは、よく分かる。

「(でも、僕ならもしかしたら……)」

 湖太郎くんの髪を、どうにかしてあげられるかもしれない。なぜなら僕は、髪を伸ばしながらそれでも見た目良くする方法を知っている。

 でも──

「(部外者の僕が、今更そんなこと言い出したところでなんになるってんだ……)」

 それもまた事実として、これ以上の介入は彼らの営みを余計に混乱させるだけだ。あやかしにはあかやしの営みがあり、そこへ僕が足を踏み込めば余計に物事を悪化させ兼ねない。それに、きっと大吾も許さない。

 だったら僕にやれることは一つだけ。ただ、湖太郎くんの髪が短く切られていく様を静観するだけだ。その結果がどうなってしまおうと、僕には関係ないのだから。

 嫌な気分だった。早くこの場から離れたい。そんなにも、卑屈な気持ちが僕の心を苛めていた──

 その時までは。

「湖太郎、泣くな」

 そう言ったのは大吾だった。太郎くんの目線まで腰を落とし、湖太郎くんの涙を指で払い拭う。

「いいか、男の涙はそう安いもんじゃねえ。お前も男なら、それくらい分かんだろ」

「でもぉぉ……でもぉぉ……」

「安心しろ。いつもみたいに短くしねぇからよ」

「嘘だ……」

「嘘じゃねえ」

「……」

「約束する。俺が、お前を変えてやる」

 大吾は、真剣な目をして言った。

「だから、俺に任せろ」

 大吾はその大きな手のひらでガシガシと湖太郎くんの頭を撫で回した。そんな大吾に、湖太郎くんの心も揺れ動かされたのだろうか。泣くのをやめて、大人しくなる。

 大吾は、にっと白い歯を見せて笑った。

「よし、それでこそ男だ」

 湖太郎くんは、ただ大吾に髪を切られるその時を待つかのようにじっと俯き固まった。

「龍之介」

 シザーケースを腰に回した大吾が、僕へと向き直る。

「昨日はその、あれだ」

 大吾はバツの悪そうに顔をしかめ、頭を乱暴に掻きむしった。

「なにも知らないくせに勝手なことばかり言って……その、悪かったな。マジで、反省してるよ」

 どういう風の吹きまわしか──その後も、大吾は申し訳なさそうに言い続ける。

「今更謝っても、許してもらえないよな……そのくらい酷いことを言ったことも、分かってる。俺は、お前のことを誤解していたかもしれねえ。カリスマ美容師さまがお遊びで来たんだって……そんな勘違い。でも、違うよな。お前は、そんなやつじゃない。分かってたんだよ、本当は。認めたくなかっただけ、なんだ」

 大吾の握り拳が、震えている。

「だから、悪かった。俺は、お前に最低なことを言った。そのことを承知でだ。今更なに言ってんだって、思うかもしれねえが──」

 大吾が、頭を下げてくる。

「頼む、龍之介。力をかしてくれ」

 真摯な、態度で。

「悔しいが、俺には湖太郎をどうやってカットしていいか、分からねぇ。いつもみたく短く刈り上げにしたって、どうせそのうち伸びて元通りだ。それじゃ、なにも変わらねえ。違うだろ。今の湖太郎に必要なのは、そんなカットじゃない」

「大吾……」

「どうひっくり返ったって、俺はお前にはなれねぇ。分かってんだ、そんなことは……だけど、俺はどうしても、湖太郎の髪を良くしてやりたいんだ。だから、頼む龍之介。俺に、お前のカットを教えてくれ」

 大吾は、本気だった。あの大吾が、本気で僕に頭を下げている。悔しいだろうに、それでも湖太郎くんの髪を本気で良くしてやりたいという、ただその一心でここに立っているのだ。

「やっぱりダメか、龍之介」

 なんと返せばいいのか、迷ってしまう。

「龍之介さま」

 蘭子ちゃんもまた、頭を下げてくる。

「あたしからも、どうかお願いします」

 そんな二人を見れば、僕の気持ちは揺れ動いてしまう。

 ここは、あやかしの集まる美容室。僕は未だ、彼らのことを理解してやれているわけではないが──

「(髪を切るのに、あやかしも人間も、関係ない)」

 そして今、ここに五十嵐大吾という美容師がいる。本気で湖太郎くんの髪をどうにかしてやりたいと、頭を下げているそんな男がいる。

 だったら、迷うことなんてないじゃないか。

「大吾、あのね」

 僕は、大吾の前に立つ。

「確かに僕はカリスマ美容師なんて呼ばれて、東京のキラキラした世界で活躍することが一番だって思ってた時期も、あるよ」

 それもまた、僕だ。母さんを見返してやりたいと、そんな自分も確かに存在していた。カリスマ美容師という肩書きに酔っていたこともあった。どれも本当の僕。嘘じゃない。

 だけど──

「でもね、今は、僕のカットが誰かの役に立つのなら、僕はそのためにハサミを握りたいって、心からそう思ってる。なんだかんだ言ってもやっぱり、髪を切ってあげて、それで喜んでくれる人を見ているのが、好きなんだ」

「龍之介……」

「そこに、あやかしだとか、人間がどうだとか、関係ない。僕は、そう思ってるよ」

 僕は鏡に映る湖太郎くんの頭を覗き込む。すると、確かに頭頂部には皿のようなものが確認できた。きっと、今までこれを隠すようにカットしてきたのだろう。それはなにも、間違っていない。やり方の問題だ。

「ツーブロックに、してみよう」

「……え?」

「だから、耳周りの際だけを浅めに刈り上げるんだよ」

 僕は湖太郎くんの側頭部に触れながら、

「でも、あまり刈り上げを短くし過ぎるとトップとの長さと差が出過ぎちゃうから、ほんの際だけ。失敗すると、本当に湖太郎くんの髪は河童みたいになっちゃうと思う。だから……大吾、きみの腕にかかってる」

「龍之介、お前……」

「やろう、大吾」

 僕は戸惑う大吾へ、笑って見せる。

「僕ときみで、湖太郎くんをカッコよくするんだ。僕らなら、できる」

「……」

「できる、よね?」

 訊ね返せば、少し間が空く。大吾は僕の目を真っ直ぐと見つめたまま、しばらく黙っていた。
 ただ、そのうちにも。

「……何ミリくらいが、いいんだ」

 大吾の目、表情がガラリと変わる。

 だったら、もう大丈夫。

「そうだね、湖太郎くんは毛量が多いから、6ミリくらいでもいいと思う。襟足の刈り上げは本当にキワだけでいいと思うよ。あとはセニングで刈り上げ部分との繋ぎをぼかす。全体の長さは切らないでいいかな」

 まくし立てるように、僕は一方的に喋り倒す。ただ大吾は理解が早く、早速カットへ取り掛かっていた。やはり、大吾の刈り上げは上手い。バリカンを使わなくても、器用に刈り上げをなしていく。

 そんな大吾を鏡越しに見つめる湖太郎くんとは、先ほどの騒ぎ方嘘みたいに潤んだ瞳でその様子を眺めていた。そんな二人を、蘭子ちゃんが嬉しそうに見つめていた。

「(そう……こういうので、いいんだよね)」

 ここには、かつての僕が叶えられなかった幸せが、確かに存在している。

 そしてようやく、僕と大吾は友達になれたような、そんな気がした。
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