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第二章 ペットがいなくなった独身女性・佐藤久美
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しおりを挟む綾野と変な喧嘩別れをして、かれこれ一週間が過ぎようとしている。
久美にとって、この一週間は空白の日々と呼べた。仕事にも身が入らず、眠れない夜も続いている。こんな風に人は堕落していくのかと、人生に悲観さえしていた。
『久美、あんたバカなこと考えてないでしょうね?』
今の自身の状態を朱美に伝えると、案の定心配してくれる。電話越しでも、その気持ち良く伝わってきた。
「バカなことってなによ。まさか、わたしが自殺するとでも思った?」
『私にはそう聞こえたけど?』
「まさか。やだよ、怖いし。でも、楽にはなりたいな」
『あんたねぇ』
「冗談だよ」
とは言いつつも、これ以上生きていてなんら楽しいことはないのではなかろうか、という不安がないわけでもなかった。部屋にある睡眠薬を一気に飲んだら……なんて破滅的な考えを抱くこともある。よくない状態だと、分かっているが。
「もう、つらい」
『久美……』
「だから、恋愛なんてしたくなかったのに……いつもそう思うのに、なんで繰り返しちゃうのかな」
『仕方ないでしょ、好きになっちゃうんだから』
「朱美が、羨ましいよ」
かつては、早くに子供を産んで結婚した朱美のことを、可哀想だと思っていた時期もあった。それこそまだ学生だった頃は、まだまだこれから楽しいことがいっぱいあるだろうに、それを味わえないまま子育てをする朱美に同情さえした。でもどうだろうか、人生巡りめぐった今、朱美に抱くそれは羨望でしかない。
『羨ましいのはこっちの方だよ。毎日毎日、もう大変なんだから。世の中こんな状況だしさ、旦那も突然転職するかもとか言い出すし』
「えっ、そうなの?」
『うん。なんか、いろいろ会社の方もやばいんだって』
それから、朱美は積年の苦悩を吐き出すみたく語り始めた。それは子供のこと、旦那のこと、お金のこと……朱美の悩みとは、始まってすらいなかった久美の失恋なんかよりも、ずっと深刻である。少なくとも久美には、そう感じていた。
「なんか、朱美も大変なんだね……」
『全くよ。まあ、なるようにしかならないんだろうけどさ』
「なるようになる、か……」
『そうそう。大体さ、その綾野って男、ちょっと変じゃない? 話聞いてると、まるでプルのこと狙ってたみたいじゃない。もしかして、本当にプルのこと誘拐してたとか』
「いやでも……だったらそのまま、連絡してこなかったと思うんだけど」
『ああ、そっか。でも多分、絶対やばいってそいつ。むしろ早めにケリがついて良かったと、そう思った方がいいよ、絶対』
「……そうかな?」
『うん、間違いない』
そこまで念押しされたら、そんな気がしないでもない。
『ポジティブだよ、ポジティブ。久美、人生ってのは、良い方に考えないと良くはならないんだって』
最後まで明るい朱美。
電話が終わった後、久美はしばらく放心状態であった。寂しい独身女性だと思っていた、自分のこと。また人生。ただそれも見方によっては、これからどんな選択も選べるということである。しがらみの多さに苦しんでいる朱美の悩みを聞いて、自身の悩みなどちっぽけなことでしかなかったかもしれないと、久美はそんなことを思わされていた。
少しだけ、元気が出てきた。
ふと、部屋で歩き回っているプルへと目線がいく。ここ最近はゲージの中から出して、自由にさせている。心なしか、以前よりもずっと元気になったように思う。綾野との出来事があまりにも悲し過ぎて、プルと戯れあって悲しさや寂しさを紛らわしていたこともあったのだろうか。いずれにせよ、プルが自分から近付いてくる機会が増えた。
「おいで、プル」
呼ぶと、プルはとてとてと久美の方へ近寄ってくる。頭を撫でて欲しいは言いたげな素振り。実際のところ何を思っているのかは定かではないが、頭を撫でてやるとプルは目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「ふふふ、気持ちいい?」
本当のことは、分からない。
プルの気持ちも、分かってあげられない。言ってもくれない。でもだからこそ知りたいと思うから、話せないからこそ、なに不自由がないよう尽くしてあげたい──プルを飼い始めた当時のことを思い出した久美、その目尻から涙がこぼれ落ちていた。
「ごめんね、プル。あなたには、わたししかいないのに、ごめんね……」
久美はひとしきり泣いた後、プルを散歩へ連れて行くことにした。プルが散歩に行きたそうだと、不思議とプルの気持ちが分かった気分だった。
西高宮の閑静な住宅街を抜けて、薬院の方へ向けて歩き出す。明日は休みだから、ちょっと遠出してみようか。なにより、プルの機嫌が良い。そんな気がする。
薬院公園へと差しかかり、ベンチで少し休憩することした。以前、綾野と待ち合わせて公園。思い出すと泣きそうになるが、もう大丈夫。今のわたしには、プルがいるのだから。
と、幾分おだやかな夜風にあたり、心と体が回復してきた頃合いだった。
向かいの方から、大型犬を連れた女性が歩いてきていた。遠目からでも、それがゴールデンレトリバーであることが分かる、大きい。
一方の、リードを引く女性はこれが結構な小柄の女性だった。見た目は若く、まだ二〇代前半くらいだろうか。この暗がりでも、なかなかに若くて綺麗な女性だと分かる。
「こんばんわ」
相手の方から声をかけてきたので、久美も「あ、こんばんわ」と会釈を返す。女性はにこりと笑って、「隣、お邪魔してもいいですか?」と聞いてくる。もちろん、断わる理由もない。むしろ近付いてきたゴールデンレトリバーの頭を撫でたくて、全身がうずうずしているくらいだ。
「うわぁ、大きいですね」
「ええ。そちらのシバ犬ちゃんは小さいですね」
「豆シバなんですよ。まだ生後五ヶ月くらいの」
「豆シバ! 抱いてもいいですか?」
「はい、もちろん。ほら、プル。お姉さんのところに行っておいで」
久美はプルを抱きかかえ、彼女の華奢な腕へと渡す。最初こそ震えていたプルであったが、すぐにも落ち着き身を委ねる。代わりに、久美はゴールデンレトリバーの顎を撫でさせてもらっていた。体は大きいが、なかなかに穏やかで静かな犬だ。
「小さいなぁ。ジュドーとは大違い」
「この子、ジュドーって言うんですか?」
「ああ、そうなんですよ。うちの父が勝手につけた名前で、他にも三匹ほど飼ってるんですけど、カミーユとか、クアトロとか、みんな変テコな名前なんですよ」
「ふふ。いいじゃないですか、わたしは好きですよ」
「そうですか。この子は、プルちゃん?」
「はい。お尻がぷるっとしてるから、プル。わたしの方が、なんの捻りもない名前をつけちゃった感じです」
そう言って久美が苦笑いすると、彼女は「いえ、父がすごく気に入りそうな名前です」と微笑んだ。笑った顔も可愛い。まるでモデルさんのようだ。名を尋ねると、桃乃と名乗った。年齢は二一歳と、まだ若い。
きっとこんなにも美人なら、人生も楽に違いない──
「楽では、ないんですけどねえ」
「……え?」
「いや、犬の世話って結構大変じゃないですか? でもなんだろう、楽じゃないんですけど、苦でもないんだよなぁって、ふとそう思って。いいですよね、犬」
「あ、ああ……そういうこと」
心を読まれたのかと思った。
「でも、犬に依存してたら、女はダメになるって、そうも言われるよね」
「そういう見方もありますよね。婚期を逃す、でしたっけ?」
「そうそう。寂しい女、みたいな。まあ、わたしがそうなんだけど」
「そんなこと言ったら、私もそうですよ」
と、桃乃の白い歯を覗かせた。
「最近、彼氏と別れましたし」
「え! そうなの?」
「はい。犬と俺、どっちをとるんだとか言い出して、マジ謎でした」
「それは理解不能だ。あんまり、彼氏に構ってあげられなかったとか?」
「そこなんですが、聞いてくださいよ」
と、桃乃の愚痴とは始まった。
なんでも、今は医療関係の仕事をしているようで、院長先生に怒られてしまったらしい。怒られた、と言ってもミスではなく、どうもとある患者さんが診察中に突然逃げ出してしまい、なぜ止めなかったのかと院長に八つ当たりされたのだと。
「まあ、院長はいいんですよ、院長は。あの人いつもあんな感じですし、問題はその患者の方です。良い歳こいた男が『注射が痛い』だのグチグチグチグチ言ってきて、終いには逃げ出すし……ほんと、情けないったらありゃしない」
「うわぁ、そんな男の人もいるんだなぁ」
「ええ、マジでドン引きって感じです。多分、お姉さんもそいつのこと見たら引きますよ」
「引くね、絶対」
「はい、確実に。あんなダメ男に惚れる女の顔が見てみたいですよ」
「はははは、間違いない」
桃乃はニヤリと笑う。「案外近くにいたりして」と。また続けて、「まさかお前かー?」とプルの頭をガシガシ撫で回した。
仮にもその注射嫌いの男が綾野ならば間違っていないかも──久美はおかしくて笑ってしまう。
「まあ、そんな理不尽なことがあったもんだから、彼氏に会う気にもなれず落ち込んでいたんですよ。で、たまたまジュドーを連れて散歩に出かけたら、ばったりその彼氏と遭遇しちゃって、『犬の散歩する暇はあるくせに』なんて言いがかりをつけてきたんですよ」
「なんか嫌な感じだね、それ」
「はい。だからムカついたので、キレてそのまま別れちゃいました」
「うわぁ……後悔とかは、しなかったの?」
「最初は『やり過ぎたかな?』とも思いましたけど、もう考えないようにしました。だってもう、終わったことですし」
「終わったことかー」
「だって、後悔しても状況は変わらないじゃないですか? だったら前を向いて進もうって、今はそう思います」
「大人だなぁ、桃乃ちゃんは」
「大人のふりをしているだけですよ」
「ふふふ。ちなみにそれ、いつの話?」
「一昨日です」
「おととい!」
割り切るのが早いこと──あっけらかんと話す桃乃には、彼のことを引きずっている様子は微塵も見受けられない。
「わたしも、桃乃ちゃんを見習わないとなぁ」
「あれ、お姉さんも失恋ですか?」
「失恋……いや、始まってもなかったのかな」
ただ、一人で舞い上がっていただけだ。
そう思えば、悩んでいた自分がバカらしく思える。
「なんか、桃乃ちゃんと話してたら、元気出てきたかも」
「それは良かった。話かけたかいがあったというものです」
と、桃乃が照れ笑いをした。刹那。
「なんやっとうとや桃乃、はよ行くばい!」
公園の向こうに、数匹の犬を連れて歩く男性の姿が見えた。暗がりで顔まではよく見えないが、しゃがれた声が年輪の濃さを感じさせる。
「分かっとうけん!」
桃乃は肩を竦めて、嘆息。「ありがとうございました」と、プルを久美へと渡した。
どうやら、もう行かなければならないらしい。
「あれ、父なんです。ちなみに、犬のブリーダーでもあります」
「ブリーダー!」
「はい。ああ、あとたまにタクシーの運転手もやったり、他にもいろいろと……ふざけた人なんですよ、全く」
「でも、楽しそうなお父さん」
「ふふふ、どうだか。じゃあお姉さん、私もう行きますね。ほらジュドー、おいで」
桃乃の呼びかけに、ジュドーはすかさず応じてその隣に並ぶ。よく躾けられているのだろう。さすがブリーダーの娘だ。
「桃乃ちゃん」
「はい?」
「また、会える?」
桃乃は、ニコニコ笑って頷いた。
「プルちゃんが私の匂いを覚えてるだろうから、きっと会えます。ほら、犬って鼻がいいから」
「うん。また、ここに寄るから」
「はい! では!」
去っていく桃乃の背中に、久美は「また!」と手を振った。次に会ったときは、もっといろいろと話したいと思わされる。気持ちが、妙に暖かった。これも全て、プルがいたおかげかもしれない。
生きていれば、悲しいこともある。
一人で考え始めたら、その悲しみに押し潰されそうになることもある。だけれど、わたしはもう一人じゃない。心配してくれる友達もいて、新しい出会いもある。なにより、プルがいる。慰めの言葉をかけてはくれないが、どんな時も自分のそばにいてくれる、そんな家族が。
わたしは、一人で生きているわけじゃないんだ──
自宅までの帰り道、久美の足取りは行きよりもずっと軽やかだった。気分も清々しい。つきものが落ちるとは、まさにこのことかもしれない。
少なくとも、自宅に戻るまでの久美はそんな感じであった。
帰宅し、スマホのディスプレイに表示されたその名を見るまでは。
『なんでも屋』から、一件の留守電が入っていた。
久美の心臓が、バクバクと高鳴る。恐るおそる、留守電の再生アイコンをタップした。
そして、その名を耳にする。
『私、なんでも屋の代表をやっております、西京無敵という者なんですが──大変申し訳ありません。先にそう、お伝えしておきます。単刀直入に申し上げますと、今、佐藤さまと一緒におられるのは、プルではございません』
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