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第二章 ペットがいなくなった独身女性・佐藤久美
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しおりを挟む日曜日の昼中ということもあり、薬院公園にはたくさんの子供や家族たちで溢れかえっている。世の中的には未だ自粛ムードではあるが、公園の賑やかさだけは以前となにも変わっていない。むしろ、人が増えたくらいだ。
なにより、本日は天気良好。外に出るにはもってこいの一日である。
久美は、足元でぐでんと寝転がるプルへ目線を落とす。ここ最近はさらに元気がなくて心配していたけれど、本日のプルはいくらか機嫌が良さそうだ。久しぶりの外出だから、気晴らしになったのかもしれない。
そのままのんびりと過ごすことしばらく、13時の頃合いだった。
「おまたせしました、佐藤さん」
頭上から聞こえてきた爽やかな声音が、一瞬にして久美の顔を乙女にさせる。
見上げると、相変わらずの甘いマスクがそこにある。いつ見ても整った顔。そんな笑顔で見下ろされて、心拍数が上がっていくのが分かる。「隣、失礼します」と綾野が腰を下ろした瞬間は、心臓が飛び出そうになるくらいであった。
結果として、久美は自分から綾野へ連絡を入れ、会って話す機会を設けていた。口実は朱美に言われた通り、「プルの元気がない。直接会って相談に乗って欲しい」と告げた。浮ついた魂胆を見透かされそうで緊張したが、綾野は快く「OK」の返事。そして、今日という日を迎える。
久美は、強張った表情を必死に緩めようとする。ぎこちない笑顔だ。
「あっ。こ、こんにちわ」
「ええ、こんにちわ。あれ、なんか緊張してます?」
「そういうわけでは、ないんですけどね。あっ、今日はスーツではないんですね」
空気を変えたくて、久美は咄嗟に話題を逸らす。
本日の綾野は、スーツではなく紺色のカッターシャツに、チャコールのスラックスとラフな格好だった。
綾野はシャツの襟元を指で摘み、苦笑い。「外行き用の服は、あまり持っていなくて……」と、自身のファッションにあまり自信がないようだ。
「最近、ユニクロで買ったばかりなんですよ。いやはや、お恥ずかしい」
「なんで恥ずかしいんですか? いいじゃないですか、ユニクロ。シンプルで、生地もしっかりしてるし」
「でも、安物って感じがしませんか?」
「綾野さん、一体何年前の話をしてるんですか? 今のユニクロって、むしろ普通か高いくらいですよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ふふふ、綾野さんがあまりファッションに関心がないことは理解しました」
「いやぁ、バレてしまいましたか」
たはは、と乾いた笑い声を漏らす綾野。外見はしっかりしてそうなのに、内面はどこか抜けている。久美の緊張が、少しずつ綾野ワールドに溶けて和んでいく。
ふと、綾野は「おお」と驚いた声を上げて、足元へ目を向けた。久美も「あっ」と驚嘆する。
先程まで寝転がっていたプルが起き上がり、綾野を見上げて尻尾を振っていたのだ。まるで警戒心はない。以前のプルは、えらく人見知りだったというのに。
「おーよしよし、おいで」
綾野はプルを持ち上げ、胸の中へ抱く。プルも嬉しいのか、綾野の唇を舐め回す。
久美が知る限り、ここ最近で一番の元気の良さだ。ずっと心配していたのに、なんだか笑えてくる。
「プル、綾野さんに恋しちゃったのかもしれませんね」
「ははは。なんですかそれ」
「だって、わたしといるときはずっと元気ないのに、綾野さんにはこれですからね」
と、久美は忙しなく尻尾を振り続けるプルを見た。綾野に会えて本当に嬉しいのだろう。
「プルも、女って事かもしれませんね。あっ、プルは雌なので」
「えっと、それは、」
「ふふふ、ごめんなさい。冗談です」
「あれ、自分なんか遊ばれてます?」
「どうでしょう。ただ一応、わたしの方がお姉さんなので」
綾野は「そんなぁ」と、困ったように呟く。そんな彼が、可愛いく思えて仕方がなかった。
綾野さんと話していると、本当に楽しい。
この歳となって知り合う男性は、いつも大人びた人ばかりだった。お金にも時間にも余裕があって、休日になると車でドライブに連れて行ってくれて、海の見える糸島のカフェで優雅な午後を過ごして、夜はお洒落なレストランでワインボトルを空けて……そんなデートが嫌なわけではないが、心から楽しんでいるわけではなかった。その場の雰囲気や、彼ら大人男子の醸し出すムーディな色気に酔っているだけ。また将来この人と一緒になったら安泰なのだろうという、女としての幸せを加味しての時間だった。
打算的な恋愛。減点方式の恋愛──歳を重ねるごとに、自身の恋愛感も恋愛対象も狭まっていくのが分かる。選べる立場でないことは分かっているが、それでも。
昔は、こうではなかった。それこそ消防士の彼のことは、純粋な好きから始まった。特別顔が良かったわけでもなければ、気の利いたデートへ連れて行ってくれるわけでもない。お金持ちでもない。仕事で時間も合わない。
でも、好きだったのだ──
「佐藤さん?」
「えっ。あっ、ごめんなさい……綾野さんと話していたらつい、昔の彼のことを思い出しちゃって……」
「そうでしたか。なにか、気に触るようなこと言ってしまったのでしたら、謝ります」
「そうじゃなくて、あの時は幸せだったのかなぁとか、あの人と結婚してたら今の自分は幸せだったのかなぁとか、ふと思っちゃうんですよ。おかしいですよね?」
「いえいえ、おかしいだなんて。それに、自分もその気持ち、少し分かる気がします」
綾野は、懐かしむように空を見上げた。
「それこそもう何年も前の話になるんですが、職場の女の子に告白されたことがあったんですよ」
「へぇ。綾野さん、モテそうですもんね」
「そんなこともありませんよ。相手の方から告白されたのって、それが人生初でしたし」
それは意外だった。外見が良いと女の子も躊躇うのかなと、そのあたりの事はよく分からない。
「まあ、そんな感じでとりあえず付き合うことになったんですけど、正直あまりタイプでもなくて、すごく優しい子でしたけど、二ヵ月くらいで分かれてしまったんです。そのときは別に、なんとも思っていませんでしたが……こんな年齢まで独身なもんですから、時々、思ってしまうんですよ。あの子とあのまま付き合っていたら、今頃幸せになってたのかなって、そんなことを」
語る綾野は、悲しそうだった。その気持ちは、久美にも分かってしまう。
「あの時はまだ若者気分で、これからまだまだたくさん出会いがあるからって、割り切っていたんですけど……今となってようやく、あの子の優しさが愛おしく思ってしまうんですよ。情けない」
「そんなこと、ありませんよ。わたしだって、そうですから」
「そうでしたか。案外、みんなそういうものなんですかね?」
「さあ、どうなんですかね。ただ、わたしと綾野さんは同じです」
「なるほど。それはシンパシーを感じてしまうわけです」
全くだ。
「綾野さんから、またその子に連絡しようとは思わないんですか?」
「その子、もう結婚してますので」
「……ああ、そうですか」
「はい、謎の敗北感を感じています。嫉妬ですよ、嫉妬。ちなみになんですけど、」
「ええ」
「佐藤さんの、その元彼さんは今どうしていらっしゃるんですか?」
久美は薄ら微笑み、綾野の膝下で幸福そうにしているプルの頭を撫でながら、
「もちろん、結婚しています。今では立派な三児のパパです。浮気してたくせに、酷いもんです」
綾野は笑っていいのか悩んでいる様子だったが、結局は「全くですね」と笑った。久美も笑う。また、プルがタイミングよく「くぅ~ん」と鳴いたので、二人は余計な声を上げて笑った。
その夜、朱美からメッセージが入っていた。『どうだった?』と、どうも綾野と久美の進展が気になる様子。
久美はベッドへ寝転び、『やっぱ好きみたい』と送った。また『今週も会う約束したの』と追伸。数分待っても、返事はこなかった。もしかしたら、眠ってしまったのかもしれない。
プルはゲージの中でぐっすりと眠っている。疲れたのだろうか、それとも綾野に遊んでもらってストレス発散できたのだろうか、いずれにせよプルにとって最高の一日となったことに違いない。
わたしも、最高の一日だった。
この時は、まだ。
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