上 下
15 / 21
第二章 ペットがいなくなった独身女性・佐藤久美

しおりを挟む

 日曜日の昼中ということもあり、薬院公園にはたくさんの子供や家族たちで溢れかえっている。世の中的には未だ自粛ムードではあるが、公園の賑やかさだけは以前となにも変わっていない。むしろ、人が増えたくらいだ。

 なにより、本日は天気良好。外に出るにはもってこいの一日である。

 久美は、足元でぐでんと寝転がるプルへ目線を落とす。ここ最近はさらに元気がなくて心配していたけれど、本日のプルはいくらか機嫌が良さそうだ。久しぶりの外出だから、気晴らしになったのかもしれない。

 そのままのんびりと過ごすことしばらく、13時の頃合いだった。

「おまたせしました、佐藤さん」

 頭上から聞こえてきた爽やかな声音が、一瞬にして久美の顔を乙女にさせる。

 見上げると、相変わらずの甘いマスクがそこにある。いつ見ても整った顔。そんな笑顔で見下ろされて、心拍数が上がっていくのが分かる。「隣、失礼します」と綾野が腰を下ろした瞬間は、心臓が飛び出そうになるくらいであった。

 結果として、久美は自分から綾野へ連絡を入れ、会って話す機会を設けていた。口実は朱美に言われた通り、「プルの元気がない。直接会って相談に乗って欲しい」と告げた。浮ついた魂胆を見透かされそうで緊張したが、綾野は快く「OK」の返事。そして、今日という日を迎える。

 久美は、強張った表情を必死に緩めようとする。ぎこちない笑顔だ。

「あっ。こ、こんにちわ」
「ええ、こんにちわ。あれ、なんか緊張してます?」
「そういうわけでは、ないんですけどね。あっ、今日はスーツではないんですね」

 空気を変えたくて、久美は咄嗟に話題を逸らす。

 本日の綾野は、スーツではなく紺色のカッターシャツに、チャコールのスラックスとラフな格好だった。

 綾野はシャツの襟元を指で摘み、苦笑い。「外行き用の服は、あまり持っていなくて……」と、自身のファッションにあまり自信がないようだ。

「最近、ユニクロで買ったばかりなんですよ。いやはや、お恥ずかしい」
「なんで恥ずかしいんですか? いいじゃないですか、ユニクロ。シンプルで、生地もしっかりしてるし」
「でも、安物って感じがしませんか?」
「綾野さん、一体何年前の話をしてるんですか? 今のユニクロって、むしろ普通か高いくらいですよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ふふふ、綾野さんがあまりファッションに関心がないことは理解しました」
「いやぁ、バレてしまいましたか」

 たはは、と乾いた笑い声を漏らす綾野。外見はしっかりしてそうなのに、内面はどこか抜けている。久美の緊張が、少しずつ綾野ワールドに溶けて和んでいく。

 ふと、綾野は「おお」と驚いた声を上げて、足元へ目を向けた。久美も「あっ」と驚嘆する。

 先程まで寝転がっていたプルが起き上がり、綾野を見上げて尻尾を振っていたのだ。まるで警戒心はない。以前のプルは、えらく人見知りだったというのに。

「おーよしよし、おいで」

 綾野はプルを持ち上げ、胸の中へ抱く。プルも嬉しいのか、綾野の唇を舐め回す。

 久美が知る限り、ここ最近で一番の元気の良さだ。ずっと心配していたのに、なんだか笑えてくる。

「プル、綾野さんに恋しちゃったのかもしれませんね」
「ははは。なんですかそれ」
「だって、わたしといるときはずっと元気ないのに、綾野さんにはこれですからね」

 と、久美は忙しなく尻尾を振り続けるプルを見た。綾野に会えて本当に嬉しいのだろう。

「プルも、女って事かもしれませんね。あっ、プルは雌なので」
「えっと、それは、」
「ふふふ、ごめんなさい。冗談です」
「あれ、自分なんか遊ばれてます?」
「どうでしょう。ただ一応、わたしの方がお姉さんなので」

 綾野は「そんなぁ」と、困ったように呟く。そんな彼が、可愛いく思えて仕方がなかった。

 綾野さんと話していると、本当に楽しい。

 この歳となって知り合う男性は、いつも大人びた人ばかりだった。お金にも時間にも余裕があって、休日になると車でドライブに連れて行ってくれて、海の見える糸島のカフェで優雅な午後を過ごして、夜はお洒落なレストランでワインボトルを空けて……そんなデートが嫌なわけではないが、心から楽しんでいるわけではなかった。その場の雰囲気や、彼ら大人男子の醸し出すムーディな色気に酔っているだけ。また将来この人と一緒になったら安泰なのだろうという、女としての幸せを加味しての時間だった。

 打算的な恋愛。減点方式の恋愛──歳を重ねるごとに、自身の恋愛感も恋愛対象も狭まっていくのが分かる。選べる立場でないことは分かっているが、それでも。

 昔は、こうではなかった。それこそ消防士の彼のことは、純粋な好きから始まった。特別顔が良かったわけでもなければ、気の利いたデートへ連れて行ってくれるわけでもない。お金持ちでもない。仕事で時間も合わない。

 でも、好きだったのだ──

「佐藤さん?」
「えっ。あっ、ごめんなさい……綾野さんと話していたらつい、昔の彼のことを思い出しちゃって……」
「そうでしたか。なにか、気に触るようなこと言ってしまったのでしたら、謝ります」
「そうじゃなくて、あの時は幸せだったのかなぁとか、あの人と結婚してたら今の自分は幸せだったのかなぁとか、ふと思っちゃうんですよ。おかしいですよね?」
「いえいえ、おかしいだなんて。それに、自分もその気持ち、少し分かる気がします」

 綾野は、懐かしむように空を見上げた。

「それこそもう何年も前の話になるんですが、職場の女の子に告白されたことがあったんですよ」
「へぇ。綾野さん、モテそうですもんね」
「そんなこともありませんよ。相手の方から告白されたのって、それが人生初でしたし」

 それは意外だった。外見が良いと女の子も躊躇うのかなと、そのあたりの事はよく分からない。

「まあ、そんな感じでとりあえず付き合うことになったんですけど、正直あまりタイプでもなくて、すごく優しい子でしたけど、二ヵ月くらいで分かれてしまったんです。そのときは別に、なんとも思っていませんでしたが……こんな年齢まで独身なもんですから、時々、思ってしまうんですよ。あの子とあのまま付き合っていたら、今頃幸せになってたのかなって、そんなことを」

 語る綾野は、悲しそうだった。その気持ちは、久美にも分かってしまう。

「あの時はまだ若者気分で、これからまだまだたくさん出会いがあるからって、割り切っていたんですけど……今となってようやく、あの子の優しさが愛おしく思ってしまうんですよ。情けない」
「そんなこと、ありませんよ。わたしだって、そうですから」
「そうでしたか。案外、みんなそういうものなんですかね?」
「さあ、どうなんですかね。ただ、わたしと綾野さんは同じです」
「なるほど。それはシンパシーを感じてしまうわけです」

 全くだ。

「綾野さんから、またその子に連絡しようとは思わないんですか?」
「その子、もう結婚してますので」
「……ああ、そうですか」
「はい、謎の敗北感を感じています。嫉妬ですよ、嫉妬。ちなみになんですけど、」
「ええ」
「佐藤さんの、その元彼さんは今どうしていらっしゃるんですか?」

 久美は薄ら微笑み、綾野の膝下で幸福そうにしているプルの頭を撫でながら、

「もちろん、結婚しています。今では立派な三児のパパです。浮気してたくせに、酷いもんです」

 綾野は笑っていいのか悩んでいる様子だったが、結局は「全くですね」と笑った。久美も笑う。また、プルがタイミングよく「くぅ~ん」と鳴いたので、二人は余計な声を上げて笑った。



 その夜、朱美からメッセージが入っていた。『どうだった?』と、どうも綾野と久美の進展が気になる様子。

 久美はベッドへ寝転び、『やっぱ好きみたい』と送った。また『今週も会う約束したの』と追伸。数分待っても、返事はこなかった。もしかしたら、眠ってしまったのかもしれない。

 プルはゲージの中でぐっすりと眠っている。疲れたのだろうか、それとも綾野に遊んでもらってストレス発散できたのだろうか、いずれにせよプルにとって最高の一日となったことに違いない。

 わたしも、最高の一日だった。

 この時は、まだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。

藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった…… 結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。 ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。 愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。 *設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 *全16話で完結になります。 *番外編、追加しました。

立派な王太子妃~妃の幸せは誰が考えるのか~

矢野りと
恋愛
ある日王太子妃は夫である王太子の不貞の現場を目撃してしまう。愛している夫の裏切りに傷つきながらも、やり直したいと周りに助言を求めるが‥‥。 隠れて不貞を続ける夫を見続けていくうちに壊れていく妻。 周りが気づいた時は何もかも手遅れだった…。 ※設定はゆるいです。

親切なミザリー

みるみる
恋愛
第一王子アポロの婚約者ミザリーは、「親切なミザリー」としてまわりから慕われていました。 ところが、子爵家令嬢のアリスと偶然出会ってしまったアポロはアリスを好きになってしまい、ミザリーを蔑ろにするようになりました。アポロだけでなく、アポロのまわりの友人達もアリスを慕うようになりました。 ミザリーはアリスに嫉妬し、様々な嫌がらせをアリスにする様になりました。 こうしてミザリーは、いつしか親切なミザリーから悪女ミザリーへと変貌したのでした。 ‥ですが、ミザリーの突然の死後、何故か再びミザリーの評価は上がり、「親切なミザリー」として人々に慕われるようになり、ミザリーが死後海に投げ落とされたという崖の上には沢山の花が、毎日絶やされる事なく人々により捧げられ続けるのでした。 ※不定期更新です。

お久しぶりです、元旦那様

mios
恋愛
「お久しぶりです。元旦那様。」

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします

希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。 国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。 隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。 「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

会うたびに、貴方が嫌いになる

黒猫子猫(猫子猫)
恋愛
長身の王女レオーネは、侯爵家令息のアリエスに会うたびに惹かれた。だが、守り役に徹している彼が応えてくれたことはない。彼女が聖獣の力を持つために発情期を迎えた時も、身体を差し出して鎮めてくれこそしたが、その後も変わらず塩対応だ。悩むレオーネは、彼が自分とは正反対の可愛らしい令嬢と親しくしているのを目撃してしまう。優しく笑いかけ、「小さい方が良い」と褒めているのも聞いた。失恋という現実を受け入れるしかなかったレオーネは、二人の妨げになるまいと決意した。 アリエスは嫌そうに自分を遠ざけ始めたレオーネに、動揺を隠せなくなった。彼女が演技などではなく、本気でそう思っていると分かったからだ。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

処理中です...