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第六章
第2話 迷い子
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カエル・モリカの城から隠者の庵へ。
アリル王子とその相棒は、通い慣れたはずの道で迷子になっていた。
「変ですねえ」
ぼんやりとアリルが呟く。
自室のクローゼットに入ってから隠者の庵までは、ほんの数歩―――のはずが、もうかなり長いこと歩いている。
おかしいと気づいたのは、ゆうに十歩以上は歩いてからだった。振り返ると部屋に戻る道は消えていた。仕方なく『前』とおぼしき方角に進んではいるのだが。
「一体、ここはどこなんでしょう」
無意味な問いを口にする。どこからも返事は無い。
シャトンはとうに自分で歩くのをやめていた。毛皮の襟巻きになったかのような格好で、アリルの左肩に顎をのせて寛いでいる。
今いる場所がどこか、など大した問題ではない。というより分かり切っている。
ここは魔法の空間。どこでもない場所だ。
問題なのは、ここから出る方法が分からない、ということだ。
とりあえず足下に道はある。が、これが庵に続いているという保証は全くない。
しかし一か所に止まっている理由がない以上、前に進むしか手はないのだ。
「あちらを出た時は真夜中を少し過ぎたくらいでしたっけ。もう夜明けが近くなってるんじゃないでしょうか」
ぶつぶつと誰に言うともなく、アリルはしゃべり続ける。
夜も昼も無い、白い闇に閉ざされた無音の空間。せめて自分の声だけでも聞いていなければ、気が滅入ってしまう。
ここにいる間にも時間は経過してゆくのだろうか。
地上世界で夜が明けても、ここにいる限り太陽の顔は拝めそうにない。
とにかく、前へ前へ。
首と肩の上に感じる重みと温もりだけがアリルの気力を支えている。
「せめて、午後のお茶の時間の前には、どこかにたどり着いていたいですねえ」
やはり、返事は無い。
「温かいミルクと、ビスケット……」
ふかふかの毛皮を撫でる。
――すぴー、すぴー。
耳元で安らかな寝息が聞こえる。
頬に生温かい風を感じて、アリルは溜め息をついた。
「良いご身分で……」
足を止めて辺りを見回す。視界が狭い。
まさかこんなことになるとは思いもしなかったから、灯りも持っていない。
「ちょっとお借りしますよ」
せめてもの気休めに、シャトンの長いしっぽをそっと右手に握って、松明のようにかざしてみる。銀色のしっぽの先はわずかに光を帯びているようにも思えたが、まるで役には立たなかった。
石でも土でもない。この平らな道は、いったいどこまで続いているのやら。
なんで僕がこんな目に、とまた溜め息をつく。
「こうしていても仕方ありません。歩きますか」
ぼやきながら足を踏み出しかけたとき、肩の上でぴくっとシャトンが耳をそばだてる気配がした。
「どうしました?」
小さな足を踏ん張って身を乗り出す猫を、ずり落ちないように左手で支える。
「何か聞こえないかい」
自分の足音すら聞こえない、音のない世界。人間の鈍い聴覚しか持ち合わのないアリルには、もちろん何も聞こえなかった。
「何が聞こえるんですか?」
「人の泣き声みたいだ」
「嫌だな、こんなところで。泣き女とかだったりしたら、どうしたらいいんですか。アレの声を聞いてしまったら、僕たちのどっちかが死んでしまうかもしれないんですよ」
「どうしようもないね」
ひそひそと声を殺し、忍び足で歩く。
しばらくすると、アリルの耳にもその音が聞こえてきた。洞窟の割れ目を吹き抜けるすきま風のような音。
シャトンの言うとおり、ひゅうひゅうと高い音はすすり泣く声にも聞こえる。
(ただの風、ただの風)
自分にそう言い聞かせても、だんだん歩みがのろくなってゆく。
通路の真ん中に、靄の塊のようなものが見えた。もやもやとわだかまるそれは、まるで地面にうずくまり、すすり泣く女の姿にも似て――。
ぞくり、と冷たいものがアリルの背を這い上がる。
「しゃ、シャトン……」
自分のものとも思われぬ、かすれた声が出た。相棒を支える左手に力がこもる。唾を飲み込もうとしたが、口の中はからからに乾いている。
「あれは、何ですか」
「知らないよ。一応、ヒトっぽい形をしてはいるけれど」
肝の据わった猫は、さほど動揺してはいないようだ。前足に力をこめてぐいっと伸び上がろうとする。鋭い爪が厚いマントの布地を突き抜けて、アリルの右肩に食い込んだ。
「なんだか、湿っぽい匂いがするねえ」
シャトンが首をかしげる。
「湿っぽい?」
「濡れた石のような、雨上りの草の葉のような」
ふんふん、と二人して辺りの空気の匂いを嗅ぐ。
「つい最近、どこかで嗅いだような覚えが――」
その話し声に気づいたのか、ぴたりと泣き声が止んだ。
もやもやとした半透明の何かが、ゆっくりと頭をもたげたように見えた。白い顔がこちらを振り向こうとしている。
ひゅっ、とアリルの喉が鳴った。
「こんなところで何してるんだい?」
いきなり背後からポンと背中を叩かれて、アリルは思わずシャトンのしっぽをぎゅっと握りしめた。
「ギャ―――――ッ!」
「フギャアア――ッ!」
二人分の悲鳴が、長く尾を引いて仲良く白い空間にこだました。
アリル王子とその相棒は、通い慣れたはずの道で迷子になっていた。
「変ですねえ」
ぼんやりとアリルが呟く。
自室のクローゼットに入ってから隠者の庵までは、ほんの数歩―――のはずが、もうかなり長いこと歩いている。
おかしいと気づいたのは、ゆうに十歩以上は歩いてからだった。振り返ると部屋に戻る道は消えていた。仕方なく『前』とおぼしき方角に進んではいるのだが。
「一体、ここはどこなんでしょう」
無意味な問いを口にする。どこからも返事は無い。
シャトンはとうに自分で歩くのをやめていた。毛皮の襟巻きになったかのような格好で、アリルの左肩に顎をのせて寛いでいる。
今いる場所がどこか、など大した問題ではない。というより分かり切っている。
ここは魔法の空間。どこでもない場所だ。
問題なのは、ここから出る方法が分からない、ということだ。
とりあえず足下に道はある。が、これが庵に続いているという保証は全くない。
しかし一か所に止まっている理由がない以上、前に進むしか手はないのだ。
「あちらを出た時は真夜中を少し過ぎたくらいでしたっけ。もう夜明けが近くなってるんじゃないでしょうか」
ぶつぶつと誰に言うともなく、アリルはしゃべり続ける。
夜も昼も無い、白い闇に閉ざされた無音の空間。せめて自分の声だけでも聞いていなければ、気が滅入ってしまう。
ここにいる間にも時間は経過してゆくのだろうか。
地上世界で夜が明けても、ここにいる限り太陽の顔は拝めそうにない。
とにかく、前へ前へ。
首と肩の上に感じる重みと温もりだけがアリルの気力を支えている。
「せめて、午後のお茶の時間の前には、どこかにたどり着いていたいですねえ」
やはり、返事は無い。
「温かいミルクと、ビスケット……」
ふかふかの毛皮を撫でる。
――すぴー、すぴー。
耳元で安らかな寝息が聞こえる。
頬に生温かい風を感じて、アリルは溜め息をついた。
「良いご身分で……」
足を止めて辺りを見回す。視界が狭い。
まさかこんなことになるとは思いもしなかったから、灯りも持っていない。
「ちょっとお借りしますよ」
せめてもの気休めに、シャトンの長いしっぽをそっと右手に握って、松明のようにかざしてみる。銀色のしっぽの先はわずかに光を帯びているようにも思えたが、まるで役には立たなかった。
石でも土でもない。この平らな道は、いったいどこまで続いているのやら。
なんで僕がこんな目に、とまた溜め息をつく。
「こうしていても仕方ありません。歩きますか」
ぼやきながら足を踏み出しかけたとき、肩の上でぴくっとシャトンが耳をそばだてる気配がした。
「どうしました?」
小さな足を踏ん張って身を乗り出す猫を、ずり落ちないように左手で支える。
「何か聞こえないかい」
自分の足音すら聞こえない、音のない世界。人間の鈍い聴覚しか持ち合わのないアリルには、もちろん何も聞こえなかった。
「何が聞こえるんですか?」
「人の泣き声みたいだ」
「嫌だな、こんなところで。泣き女とかだったりしたら、どうしたらいいんですか。アレの声を聞いてしまったら、僕たちのどっちかが死んでしまうかもしれないんですよ」
「どうしようもないね」
ひそひそと声を殺し、忍び足で歩く。
しばらくすると、アリルの耳にもその音が聞こえてきた。洞窟の割れ目を吹き抜けるすきま風のような音。
シャトンの言うとおり、ひゅうひゅうと高い音はすすり泣く声にも聞こえる。
(ただの風、ただの風)
自分にそう言い聞かせても、だんだん歩みがのろくなってゆく。
通路の真ん中に、靄の塊のようなものが見えた。もやもやとわだかまるそれは、まるで地面にうずくまり、すすり泣く女の姿にも似て――。
ぞくり、と冷たいものがアリルの背を這い上がる。
「しゃ、シャトン……」
自分のものとも思われぬ、かすれた声が出た。相棒を支える左手に力がこもる。唾を飲み込もうとしたが、口の中はからからに乾いている。
「あれは、何ですか」
「知らないよ。一応、ヒトっぽい形をしてはいるけれど」
肝の据わった猫は、さほど動揺してはいないようだ。前足に力をこめてぐいっと伸び上がろうとする。鋭い爪が厚いマントの布地を突き抜けて、アリルの右肩に食い込んだ。
「なんだか、湿っぽい匂いがするねえ」
シャトンが首をかしげる。
「湿っぽい?」
「濡れた石のような、雨上りの草の葉のような」
ふんふん、と二人して辺りの空気の匂いを嗅ぐ。
「つい最近、どこかで嗅いだような覚えが――」
その話し声に気づいたのか、ぴたりと泣き声が止んだ。
もやもやとした半透明の何かが、ゆっくりと頭をもたげたように見えた。白い顔がこちらを振り向こうとしている。
ひゅっ、とアリルの喉が鳴った。
「こんなところで何してるんだい?」
いきなり背後からポンと背中を叩かれて、アリルは思わずシャトンのしっぽをぎゅっと握りしめた。
「ギャ―――――ッ!」
「フギャアア――ッ!」
二人分の悲鳴が、長く尾を引いて仲良く白い空間にこだました。
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