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閑話11

唄い手

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 その電話は駅から降りた時に掛かって来た。
 いつもと同じ、少し緊張したような、それでいて張りのある、暖かな声だ。
 優香はほっと溜息を吐く。

「良かった」

 迷宮に入る仕事が予定より早く終わったとの隆志からの連絡だったのだ。
 たった三日だったのに、ずっと優香は不安に押し潰されそうな気持ちで毎日を過ごしていた。
 同僚の御池などは「あいつ仕事サボって優香を不安にさせてなにやってんのよ!」と、ご立腹だったが、優香としては隆志がハンターであることを明かすわけにもいかず、隆志が仕事を休む言い訳にした、実家の手伝いについて、忙しいみたいだというフォローを入れるしかなかったのである。
 そこで「実家の用事って、まさかお見合いじゃないでしょうね!」などとデリカシーのない発言をした御池は、彼女達の指導役のような立場にいる園田女史にお説教を食らう羽目になったのだった。

 会社での出来事を思い出し、笑顔を深めた優香は、携帯電話を大事に胸に抱くと、少しだけ残念な気持ちになった。
 既にシャトル便で外縁部の自宅のある壁外街に戻って来てしまったので、隆志を特区に迎えに行くことが出来ないのだ。
 本当は戻る予定の日は退社後に何の予定も入れずに時間を空けてあり、迎えに行って一緒に食事をしたいと思っていたのである。

「私って、すごく我儘かな?」

 優香はそう独りごちた。
 僅かな時間でも隆志の顔を見ないと不安になるし、とても寂しい。
 そんな自分がまるで隆志に依存しているようで優香は嫌だった。
 仕事で毎日頑張って、更にハンターとして命懸けで戦っているのだ、隆志だって一人で気を抜きたい時だってあるだろう。
 いつもいつも優香が張り付いていたら迷惑に違いないのだ。
 そもそも優香は、今は命の危機など何もない、優しい日常の中で過ごしている。
 父が冒険者だった頃だってそうだったと、優香は思う。
 彼女は父が冒険者であったことを知らず、ただの開拓の仕事を現場で行っているのだと思っていた。
 父の仲間が事故で亡くなって悲しい思いをしたことも何度かあったが、それも自分自身には何の危険も及ばない他人ごとだ。
 いつだって自分は護られているばかりで、真実を知らず、知ろうともしていなかった。
 そのことで優香はずっと自分を責めていた時期もある。
 だからこそ、今度はもっと隆志の傍にいたいと思ってしまうのかもしれないと、優香自身にも自覚はあった。
 しかし近すぎる距離は相手の負担になる。

「でも、何も出来ないのはもっと嫌だから、うん、明日は最高のご飯を作らなくっちゃね」

 遠くからこわごわ窺っているような気弱な付き合いはしたくないというのが優香の本音だ。
 そんな優香への周りからの評価は、一見大人しそうだけど、押しが強いというものだった。

 隆志の有給はまだ二日残っていて、明日と明後日も仕事は休みだ。
 電話では明後日には出勤したいようなことを言っていたが、もう届けを出しているのだからゆっくり休むべきだろう。
 なにやら迷宮で色々あったらしく明日は一日手続きで奔走するらしいし。
 
 そんな風に色々と考えながら家路を辿っていた優香は、ふと、歩き慣れた道の一画で、普段と違う何かに気を取られて足を止めた。

「ん? あれ?」

 優香は一瞬、自分がなぜ足を止めたのかわからずに周りを見回した。
 そうしていると、どこかからあまり馴染みのない音が聴こえて来ていることに気づく。

「これって、笛?」

 耳にする機会の比較的多い金管楽器ではなく、それは木管楽器の音色だった。
 夕方、空は茜に染まり、周囲は薄暗くなり何があるかはわかるものの、細かい所までは見えなくなっている時間、昔からそのような時間を人は魔に遭う時間、逢魔が時と呼んだ。
 通りがかる人の顔の判別が付かない、ただ、それが人のような形をしていることはわかる。
 そんな時間には人とそうでない物の距離が極端に近くなるのだ。
 子どもたちは小さい頃にそんな時間には立ち止まらずにまっすぐ帰るように教えられる。
 立ち止まるとそこで世界が固定されてしまって、異界に紛れ込んでしまうことがあると、親は子供に言い聞かせるのだ。

 しかし、優香はそんな心配をしたことが無い。
 そもそも無能力者ブランクである彼女には、異界を感じ取ることが出来ないからだ。

 その木管の温かみのある音色は、どこか懐かしい旋律を柔らかく歌いあげていた。
 この国の人間なら誰でも知っているようなメロディ、半分だけこの国の人間である優香も、幼い頃母に歌って聴かされていたのでよく知っていた。

「ええっと、確か……」

 優香は、その音色に誘われるように音を辿る。
 その笛の音は公園の中から聴こえて来ていた。

 そこは公園と言っても、朝夕のランニングやお散歩のコースになるような広々とした公園ではなく、街の一画の空き地をとりあえず公園にしてみましたという感じの、遊具が少しあるだけの児童公園だった。
 ブランコとシーソー、砂場とジャングルジム、そして動物の姿をした滑り台。
 誰もが小さいころ一度は遊んだであろうそんな遊具は、優香にとってはむしろ新鮮で目新しい。
 彼女の子供の頃の遊び道具は、父の仲間が大木の枝に結んでくれたロープで作ったブランコと、その辺で拾った石、摘んできた花などで、こんな風に整備された公園で遊んだことはない。

 そのため、優香は、何度か人気がなくなった夜の公園で、遊具を使って遊んでみたことがあった。
 優香は好奇心を覚えると、それを行動に移すのを躊躇わない性格だ。
 だが、さすがに子供達が遊んでいたり人目のある昼間にそれを行うことは出来ず、人が来ない夜にやってしまうのが彼女の彼女らしい所であろう。
 一般的に夜は良くないモノが出やすい時間なので、人の澱が溜まりやすいこういう場所に訪れる人は少ないが、その点無能力者である優香はそういった悪いモノの影響を受けないので平気なのだ。
 むしろそういった邪気の影響を受けた人間に襲われることを警戒するべきと、のんきな行動を父や、隆志には厳しく叱られたことのある優香ではある。

 その公園の、ジャングルジムの途中に腰掛けて、一人の少女が笛を吹いていた。
 夕闇にほの白く、僅かに夕焼けを溶かしたように見える桜色の髪と、夕日を映したような瞳、優香は、彼女を見て、まるで花の妖精のようだと感じた。
 浴衣だろうか? 時季的には珍しいが、白地に淡い色合いのこの国の民族衣装は、まるでこの国らしくない髪と瞳を持つ少女に、不思議なぐらい似合っている。

 その少女の手にあるのは横笛だろうか、素朴な作りだが、精緻な模様が描かれていて、ところどころ光を反射してきらきらと光っていた。
 それは金属の輝きというより、銀や螺鈿細工の物のようだった。

「きれい」

 音のことか、少女のことか、笛のことか、自身でもわからないままに、優香をぽつりとそう呟いていた。

「ありがとう」

 気づくと少女は笛を吹くのを止めて、はにかむように優香に向かって礼を言っていた。
 優香は、自分が少女に聞こえるぐらいに大きな声で呟いてしまったことに照れてしまう。

「あ、ごめんなさい、練習の邪魔をしてしまったわね」
「大丈夫」

 少女は優香の謝罪を頭を振って否定すると、少し、遠慮がちに尋ねた。

「お姉さんはこの曲知っている? 私、この曲の旋律は知っているんだけど、どんな歌か知らないの。もし知っていたら教えて欲しいんだけど」
「うん、知っているけど」

 そう答えながら、優香は少し躊躇った。
 昔から彼女の家では、優香は歌うことを禁止されていたのだ。

『お前も相手も嫌な気分になるから止めたほうがいい』

 という父の言い方は、幼い少女にはかなり酷い言葉だったが、だからこそ彼女にとって人前で歌うということは精神的に強いプレッシャーが掛かる、いわゆる嫌なことの一つとなったのである。

「ほんと! そしたら私が吹く笛に合わせて歌ってくれる?」
「え、でも、私すごく歌、下手だから、その」

 やはり優香は躊躇った。
 しかし少女ががっかりしたように、「ダメ? どんな歌か知りたかっただけなんだけどな」とうなだれると、さすがに断りきれずに「下手でよかったら」と、頷いてしまう。
 下手でも、どんな歌かわかればいいのだし、それでこの少女が喜んでくれるならという気持ちが勝ったのである。

「ほんとうに? 嬉しい!」

 パッと、正に花が咲くように微笑んだ少女を見て、優香は自分の中で頑なに強張った『歌』に対する忌避感を押さえ付けた。
 それに、自分が恥をかくぐらい、どうってことはない話だと、そう考えると、強張った気持ちも楽になる。
 
 少女が笛を奏でる。
 そのメロディに合わせて、優香は幼い時以来ほんとうに久々に、歌を唄った。
 それは夕焼けの中で少女達が戯れるさまを描いた、牧歌的な童謡だった。
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