竜の御子は平穏を望む

蒼衣翼

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西の果ての街

西の街の竜

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 しばしの互いの沈黙が場を支配する。
 ライカは、地上種族と竜達が呼ぶ後代の竜の作法を知らないし、前代の竜の作法が通じるかどうかも分からない。
 下手をすると無作法者と思われて一顧だにされない事も有り得るが、例えそうでも、許可を求めた以上は、相手から何か一言を貰うまで決して動く事は赦されない。
 そんな事をすれば、もはや不作法というレベルではない。喧嘩を売っているようなものだ。
 それゆえライカはただ返事を待って佇んだ。

『これは、驚いた……』

 しかし、心配するまでもなく、沈黙の時間は短く終わる。

『梢でさえずる鳥のごとき軽やかな声の主よ、その軽やかさのままに名乗りをいただこう』

 ライカは相手に見える場所まで踏み入ると同時に、自分自身も相手の姿を目に入れた。
 異臭などなく、青い藁草の香りに満ちた清潔な場所に悠々と寝そべっている黒々とした姿にはある種の威厳が漂っている。
 しかし、ライカの養い親達に比べると、その竜は驚く程小柄だった。
 そして、その背の大きく折りたたまれた翼を見て、ライカは息を呑む。

(飛龍?)

 だが、以前竜王達から教わった事を思い出して思い直す。
 体に対する翼の大きさがいかに飛龍に近かろうとも、それは飛龍では有り得ない。
 彼は翼竜だ。
 この地上ではサッズと同じ飛龍は既に全て滅んでいる。
 現在地上に生きる翼ある竜は、前代では全ての竜が持っていた翼を受け継いだ新しい種族なのだ。
 実際、飛龍であるサッズは全体的にほっそりとしているが、この竜はどちらかというと手足は短めで首も短く、胸から後ろ足までが丁度ウサギのように丸まっている。
 尾も体に対する長さの比率は地竜である三竜王に近い長さであり、鱗もまた地竜に近く、ゴツゴツとしていた。
 そういえばと、ライカは思い出す。
 彼の養い親は言っていた。
 地上種族においては翼竜のみが、唯一飛ぶ事の出来る竜なのだ、と。

『大いなる空の勇者よ、我は三竜王の子にて未だ雛たる者。ライカと申します』

 竜族には養子とか養父などという概念が存在しない。
 人間のように他人の集団による社会を形成しない竜族の意識には、家族かそれ以外という認識しかないからだ。
 血が繋がっているかどうかではなく属する家族が何者かと、その中の立場とが重要なのだ。
 ゆえに例えそれが養子だろうが竜族的には実子という事になる。

『これは雅な挨拶をいただいたと思えば、伝説の竜王の御子であったか。我が生の波乱の時期は終わったと思っておったが、生きている限り何が起こるか分からぬものよ。しかし、男子には珍しい名前ですな』

 相手はカラカラと笑った。が、これは人が聞けば狼の唸り声に似た声である。
 狼が恐れられている事もあって、竜をよく知らない人間は竜の笑い声を聞くと思わず震え上がるものだ。
 知らぬ者からしてみれば、間違ってもそれが機嫌の良い証だとは思えないらしい。
 竜と長く付き合った人間が竜の声を表現した言葉には、それ鳥のごとし狼のごとしというものがあるが、実際彼らの声はそれらの動物の声と近い音ではあった。
 もちろん単に音として近いだけで、実際には細かい違いはあるのだが。

『いえ、あの』

 ライカは真っ赤になって弁解した。

『俺の名前は人間の両親のつけてくれた名前で、なので別に女名という訳ではないのです』

 実はライカという名は竜族では女名だ。
 全くの偶然だが、これが元で竜王達は時々彼を無意識に女の子として見ている節があるようではあった。
 竜族の名前にはある種の力があり、少なからず名の主も呼ぶ側も影響を受け易い。

『これは失礼した。しかし、という事はあなたは噂に聞く人化の法術で変化されている訳ではなく、そのまま人間の子供なのか。人間がまさか我らの言葉を話せるはずはないと思っていたが。驚くべき事だ』
『ええ、竜王方も驚いてましたよ。そもそも喉の構造が違うはずだからと』
『確かに不思議な話だ……と、失礼をお詫びします。挨拶を返すのも忘れて話込んでしまいましたな。我が名はアルファルス、同じく人に名付けられ、人族の戦士ラケルドを魂の伴侶カーム・ラグァに持ちし者です』

 挨拶が済む前に話を進めてしまった事を詫びて、彼、アルファルスは挨拶を返した。

『いえ、非礼なる訪問を快く受けていただきありがとうございます。ところでカーム・ラグァとはなんですか?』

 ライカは聞き慣れない言葉に首を傾げた。

『カーム・ラグァとは、我ら人と結んだ地上種族の者が生み出した言葉、魂の伴侶、すなわち運命を共にする者、人間の騎乗者の事です』

 知識深き竜王にも知らない事もあったのだとライカは少し感動した。
 或いは知っていても教え忘れただけという事もあるが。

『なるほど、するともしやラケルドという方はこの街の領主様では?』
『ご存知でしたか』
『ええ、噂だけですが。ところで挨拶を結ばせていただいてよろしいでしょうか?』
『是非もありません、喜んで』

 許可を口にし、静かに彼の方へと首を伸ばした竜の目元に、ライカは頬を摺り寄せた。
 これは竜族の正式の挨拶であり親愛の証で、親しい者同士なら名乗り等せずにこの挨拶だけで終わるのが常だ。
 竜は目の下に感覚器官があり、ここに接触する事で相手の詳細なデータを保管して、後々個々に意識を飛ばす事が出来るようになるという実利的な意味合いもある。
 接触するだけで相手の健康状態すら分かるのだ。

 次いで、アルファルスが逆側の頬に気をつけて顔を摺り寄せる。力加減を間違えるとその硬い鱗で少年の頬を削ってしまうので返す側は慎重にならざるを得ないが、さすがに人間と付き合いの長い乗用竜だけあって加減が上手かった。
 実際にはライカには竜のような感覚器官は無いのでこの挨拶はライカにとっては意味はないのだが、挨拶の形式なので仕方がない。
 挨拶が済むと、ライカはアルファルスの足元のふわりとした藁の山に座り込んだ。乾いた草のいい香りが全身を包むようで、ライカはほっと息を吐く。

 竜族は香りにかなり敏感な種族で、悪臭のある場所で暮らすとストレスを感じる。
 この竜舎の管理者はきちんとした仕事をしているようだった。
 ライカが寛いだのを見て、主であるアルファルスも、のんびりと体を横たえる。

『さっきの話の続きですが、実は俺は竜の言葉だけでなく飛翔術も使えるんです』
『……それは呆れた話だが、そもそも言葉も飛翔術も竜族に元々備わったもので後天的に習って覚えるものではない。ゆえに他者に教えるすべもない。話だけ聞いたなら信じ難い話ですな』

 人間で言えば声を出したり歩いたりする行為に当たるそれらは、竜族には考える前に覚えるような事だが、体の造り自体が違う人間には備わっている能力ではないのだ。

『そうなんです。それが、どうやら俺が赤子の時分に竜のミルクを与えたらしくて、それが原因かもしれないと竜王方は言ってました』
『は? 竜のミルクを人間の赤子に? 竜王様方も無茶をなさいましたな。しかし、そうですか、という事は我らの血肉を身の内に入れたという事ですな』
『さすがに量はかなり少なかったらしいですけどね』

 笑ってライカはそう言うと、ふと気になってアルファルスの翼に触れた。

『翼に傷がありますね』

 手に触れた感触に思わず眉を寄せる。触れただけでそれが酷いものであるのが分かるような傷だ。
 おそらくもはやこの竜は空高く羽ばたく事はないだろう。飛翔の術は地上種族においては働きが弱く、それこそライカのようにただ浮かぶ力でしかない。
 地上種族の竜族が空を自在に翔るには、どうしても翼の力が必要なのだ。

『古傷ですよ、おかげでもはや昔日のように空を駆け抜ける事は適いませんが、我がカーム・ラグァはそれでも変わらず我と生きると言ってくれた。戦士としては生き死にに関わるような弱体であったのにも関わらず。ですから我もその傷を誇りに思いはすれ気に病むことはないのです』

 痛みのない柔らかい言葉に、ライカも緊張を解いて微笑んだ。
 どうやらここの領主は評判通りの人間らしい。
 現実的にはライカが直接領主様に関わるような事もないだろうが、自分の住む街を治める者が憧れを抱けるような人間であるというのは、なんとなく嬉しい。

『ところで、ライカ殿はどうしてここにいらしたのかな?』

 聞かれて、来訪の目的の根本的な話をまだ全くしていなかった事に気付いて、ライカはさっと頬を染めて慌てて言った。

『肝心な話を忘れてしまって申し訳ありません。実は今度この街に住む事になったのでご挨拶に伺ったのです』
『ほう、それは……よくぞ竜王様方が御子を手放される覚悟をなされたものだ』

 彼は心からの驚きを込めて言った。

『実は産みの両親の願いで、人間の祖父と暮らして人として生きて欲しいとの事だったので、道理に適っているという結論になったのです。ちょっと揉めましたけど』

 それにしても、とアルファルスは呟いた。
 竜族は家族単位で生きる種族だが、他の種族に比して身内に対する情愛が深い事で知られている。
 例えば母親の竜などは卵を産めばそれが孵り子供が自ら生きていける位に成長するまで自分は全く食事をしないのだ。
 本来竜族の女は男より二回りも大きい体格を持つが、子育てをするとやせ細り男の半分程の体格までになってしまう。
 そして、子供が幼体からある程度成長するまで、伴侶ですらその近くに寄らせず、何かの拍子に子供が死ぬような事があれば必ず狂い死ぬ。

 そんな母程激しくないにしても、竜族の家族間の情愛は総じてそのような強い性質を持っていた。

 彼らに家族か世界かを選べと言えば、ためらわずに家族を選ぶだろう。
 つまり竜王の身内で最も力が弱いであろうこの子供の安全と幸福を他者に任せるという行為は、竜王達からすれば我が心臓である竜玉を他人の手に預けるよりも恐ろしい事のはずなのだ。

(さすがは竜王様と言うべきか)

「どうした? アルファルス、ネズミでも入り込んだか?」

 なじんだ人間の声に、アルファルスははっとした。
 竜舎付きの下男が漏れ聞こえる声を不審に思って様子を見に来たのだろう。

『人が来ますぞ』
『ああ、大丈夫です。俺を見ない振りをしていてください』

 カンテラの灯りと人の足音が近付き、アルファルスの寝床の周囲が照らされる。
 その光は明らかにそこに佇む少年を照らし出していたが、見回りに来た男がライカに気付いた風もなかった。

「最近運動してないから寝つけないのかな? 領主様も忙しいお方だからなあ、よしよし、アルファルス、今度狩りに連れて行ってもらえるように頼んでみるからな」

 そう呟くと、男はゆっくりと立ち去った。
 気配が去ると、彼らはホッと息をつき、アルファルスは感心したようにライカを見た。

『どういう仕掛けですかな?』
『それこそ法術ですよ。無価値のまじないというんですけどね、そもそもはセ……白の竜王が人里でも自由に空を舞えるようにと作り出したものなんですが、人間に術の掛かった対象を無視するようにその無意識に働きかける術なんです』

 人の少数が魔法を使うように、天上種族の竜族は法術を使う。
 これは後天的に習って覚えるものなので、竜の言葉さえ操れればライカでも習う事が出来るものだ。

『けっこう便利ですよ』
『確かに便利そうだ』

 彼らは顔を合わせて笑うと、ライカは相手の鼻筋に触れた。

『それでは、夜分に寝所をお騒がせして申し訳ありませんでした。またお邪魔させていただいてよろしいでしょうか?』
『いく度でも、その訪れは我が喜びです』

 最後にペコリと頭を下げる人間らしい礼をして、ライカはその場を離れた。
 その小さな姿を見送りながら、アルファルスは小さく呟いた。

『これはまた……我が守りの手は唯一人の為にと思っていたが、心を砕かねばならぬ相手が新たに出来たようだな』

 魂を連ねるというのは互いに感じている事を共有する事でもある。
 その夜、城の私室にて領主がふと書類から顔を上げて笑みを浮かべた事を知るものは、彼の半身である竜以外誰もいなかった。
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