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閑話
リリーとムーンの休憩時間①
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1
きっかけは一枚の地図だった。
テーブルに羊皮紙が広げられている。紙全面に大きく図形、その上に細かく記された文字。右下にはタンザナ王国と目立つ飾り文字。リリーとムーンは紙を覗き込んで見ていた。
「わたしたちが住んでいるウェスタル領はここです」
リリーが左端を指で図形の一部をぐるぐると辿って囲う。その中には緑に塗られた場所が多い。
「これが全部薄霧の森で、この家がここら辺です」
今度は指でとんとんと叩いて示す。
ムーンは近隣の地理を知らないと言った。二百年以上も森の中を彷徨ってきたものの、ほとんど思考を放棄してきたから、どこに何があるのか知らないらしい。
それを聞いたリリーは倉庫から丸めた羊皮紙を取り出して広げた。タンザナの地図だった。それからリリーの説明が始まったのだ。
「実は森の情報は未確認のところが多くて、情報が少ないんですよ。想像で補ってるみたいですね。昔、描かれている湖に行こうとしたら、何もなかったこともあります。大雑把なんですよ」
地図に描かれた王都は土地の高低差や建物まで表現されていて精密だった。対するウェスタル領内にある薄霧の森は粗雑だ。緑で色を塗ればいいとでもいうようないい加減な完成度。しかも描かれていることがデタラメなら、地図としての信用はない。
「あの……探検家たちの間で……この森は縁起が悪いとされていて……」
リリーが言い難そうにすると、ムーンは地図から目を離して顔を上げる。
「私か」
「近づけないみたいなんです……!」
泳ぐリリーの視線。気不味さに話題を変えようとした。
「外周は正確なんだと思います。住んでいても、わたしはここのことを何にも知らないんだなあ……」
ぼんやりと地図を眺めていると、ムーンがなだらかな抑揚で言った。
「散策に行くか?」
2
リリーは「不在」「ご用の方は中でお待ち下さい」と書いた看板を入口のドアノブにかけ、期待を顔に滲ませて外で待つムーンに駆け寄る。手には蓋のついたバスケット。
「お待たせしました。ムーンさんっ」
方位磁針を手のひらに乗せる。針はケースの中でくるくると回り、やがて先端が尖った針が一方向を示す。
「こっちが北ですね。北には山岳地帯がありますよ。行ったことはないですけど……」
「行こう」
言うが早いかムーンはリリーを抱き上げて方位磁針が指した方角を向いた。体勢を低くして地面を強く蹴り上げる。リリーはバスケットを抱えて「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。木立の間を風のような速さで抜ける。視界の景色があっという間に流れていく。
始めのうちは身を固くしていたリリーだが、ムーンは地面に根を張った巨木のように安定していて振動が少なく、緊張が解れていった。周りの景色を楽しむ余裕まで出てくる。体験したことのない速さに胸が弾み、膝に抱えたバスケットにギュッと力を入れた。
途中、大きな湖や川を越える。一時間ほど走ったところで、目の前に丘陵が見えた。
「あそこにしましょう」
リリーが髪を押さえながら伝えると、ムーンは丘陵に進行方向を定めた。上がっていくと木の本数が少なくなっていく。代わりに太陽を浴びた草が伸びやかに生えている。見晴らしがいい場所で止まり、ムーンはリリーを下ろした。
3
「ああ、気持ちいい。こんなところがあったんですね」
丘陵からは遠くの景色まで見える。満遍なく深碧の木々が生えていて、住んでいる土地がどれほど豊かなのか実感できる。
「私も知らなかった。ただ暗い中をずっと歩いていたからな」
リリーはバスケットから敷布を取り出し、ふわりと風になびかせて広げた。
「どうぞ座って下さい」
ムーンは布を見つめて数秒間を置いてから膝を立てて腰を下ろした。リリーもその横に座る。
「今日は連れてきてくれて、ありがとうございます。なんか……世界が広がった感じがして楽しいです」
「ああ。独りだったら来なかっただろうな」
青々と繁る景色を二人並んで眺めた。リリーが深く息を吸い込むと、爽やかな風が身体の中に通る。優しい太陽の陽射しが暖かかった。
リリーはバスケットの蓋を開けてムーンに見せ、「持ってきちゃいました」と中身を見せる。ガラスの水筒や布で包まれたパンなどが入っている。ムーンに誘われてから急いで準備をしたものだ。「なるほど」とムーンは頷く。
黒パンに小瓶に詰めたハーブバターをスプーンで塗り、チーズを乗せる。そのままかぶりつくと、ハーブの清涼感がある風味とチーズとバターのコクのある旨味が混ざる。よく噛むと硬い黒パンから麦の甘みが出て、また違った味わいになる。最後に喉を水で潤せば満たされる。リリーは至福の溜息をついた。
「いい景色ですね」
明るい色の柔らかい髪が風でふわふわと流れる。太陽に照らされてきらきらと光る。自然の恵みの色だ。
ムーンは隣の少女を見ながら「ああ」と答えた。
4
食事を終えた後、しばらく風景を楽しんでから、後片づけをした。腹ごなしに近辺を少し歩く。会話をしながら歩いていると、心地のよい風が吹いた。二人だけの穏やかな時間。
「そろそろ帰りましょうか? 患者さんが待ってるかもしれないです」
「ああ」
リリーはもじもじと肩を揺らし、上目遣いでムーンの顔を見る。何かを言いかけているようだ。薄紅色の唇が開きかけている。
「どうした?」
「あ、あの……」
躊躇いながら開いた口から言葉が飛び出す。
「帰る前に薬草採ってきていいですか?! 種類がいつもと違っていて……!」
辛抱堪らないといったリリーの態度にムーンは深く頷いたのだった。
次回→CASE 4 夏患い
きっかけは一枚の地図だった。
テーブルに羊皮紙が広げられている。紙全面に大きく図形、その上に細かく記された文字。右下にはタンザナ王国と目立つ飾り文字。リリーとムーンは紙を覗き込んで見ていた。
「わたしたちが住んでいるウェスタル領はここです」
リリーが左端を指で図形の一部をぐるぐると辿って囲う。その中には緑に塗られた場所が多い。
「これが全部薄霧の森で、この家がここら辺です」
今度は指でとんとんと叩いて示す。
ムーンは近隣の地理を知らないと言った。二百年以上も森の中を彷徨ってきたものの、ほとんど思考を放棄してきたから、どこに何があるのか知らないらしい。
それを聞いたリリーは倉庫から丸めた羊皮紙を取り出して広げた。タンザナの地図だった。それからリリーの説明が始まったのだ。
「実は森の情報は未確認のところが多くて、情報が少ないんですよ。想像で補ってるみたいですね。昔、描かれている湖に行こうとしたら、何もなかったこともあります。大雑把なんですよ」
地図に描かれた王都は土地の高低差や建物まで表現されていて精密だった。対するウェスタル領内にある薄霧の森は粗雑だ。緑で色を塗ればいいとでもいうようないい加減な完成度。しかも描かれていることがデタラメなら、地図としての信用はない。
「あの……探検家たちの間で……この森は縁起が悪いとされていて……」
リリーが言い難そうにすると、ムーンは地図から目を離して顔を上げる。
「私か」
「近づけないみたいなんです……!」
泳ぐリリーの視線。気不味さに話題を変えようとした。
「外周は正確なんだと思います。住んでいても、わたしはここのことを何にも知らないんだなあ……」
ぼんやりと地図を眺めていると、ムーンがなだらかな抑揚で言った。
「散策に行くか?」
2
リリーは「不在」「ご用の方は中でお待ち下さい」と書いた看板を入口のドアノブにかけ、期待を顔に滲ませて外で待つムーンに駆け寄る。手には蓋のついたバスケット。
「お待たせしました。ムーンさんっ」
方位磁針を手のひらに乗せる。針はケースの中でくるくると回り、やがて先端が尖った針が一方向を示す。
「こっちが北ですね。北には山岳地帯がありますよ。行ったことはないですけど……」
「行こう」
言うが早いかムーンはリリーを抱き上げて方位磁針が指した方角を向いた。体勢を低くして地面を強く蹴り上げる。リリーはバスケットを抱えて「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。木立の間を風のような速さで抜ける。視界の景色があっという間に流れていく。
始めのうちは身を固くしていたリリーだが、ムーンは地面に根を張った巨木のように安定していて振動が少なく、緊張が解れていった。周りの景色を楽しむ余裕まで出てくる。体験したことのない速さに胸が弾み、膝に抱えたバスケットにギュッと力を入れた。
途中、大きな湖や川を越える。一時間ほど走ったところで、目の前に丘陵が見えた。
「あそこにしましょう」
リリーが髪を押さえながら伝えると、ムーンは丘陵に進行方向を定めた。上がっていくと木の本数が少なくなっていく。代わりに太陽を浴びた草が伸びやかに生えている。見晴らしがいい場所で止まり、ムーンはリリーを下ろした。
3
「ああ、気持ちいい。こんなところがあったんですね」
丘陵からは遠くの景色まで見える。満遍なく深碧の木々が生えていて、住んでいる土地がどれほど豊かなのか実感できる。
「私も知らなかった。ただ暗い中をずっと歩いていたからな」
リリーはバスケットから敷布を取り出し、ふわりと風になびかせて広げた。
「どうぞ座って下さい」
ムーンは布を見つめて数秒間を置いてから膝を立てて腰を下ろした。リリーもその横に座る。
「今日は連れてきてくれて、ありがとうございます。なんか……世界が広がった感じがして楽しいです」
「ああ。独りだったら来なかっただろうな」
青々と繁る景色を二人並んで眺めた。リリーが深く息を吸い込むと、爽やかな風が身体の中に通る。優しい太陽の陽射しが暖かかった。
リリーはバスケットの蓋を開けてムーンに見せ、「持ってきちゃいました」と中身を見せる。ガラスの水筒や布で包まれたパンなどが入っている。ムーンに誘われてから急いで準備をしたものだ。「なるほど」とムーンは頷く。
黒パンに小瓶に詰めたハーブバターをスプーンで塗り、チーズを乗せる。そのままかぶりつくと、ハーブの清涼感がある風味とチーズとバターのコクのある旨味が混ざる。よく噛むと硬い黒パンから麦の甘みが出て、また違った味わいになる。最後に喉を水で潤せば満たされる。リリーは至福の溜息をついた。
「いい景色ですね」
明るい色の柔らかい髪が風でふわふわと流れる。太陽に照らされてきらきらと光る。自然の恵みの色だ。
ムーンは隣の少女を見ながら「ああ」と答えた。
4
食事を終えた後、しばらく風景を楽しんでから、後片づけをした。腹ごなしに近辺を少し歩く。会話をしながら歩いていると、心地のよい風が吹いた。二人だけの穏やかな時間。
「そろそろ帰りましょうか? 患者さんが待ってるかもしれないです」
「ああ」
リリーはもじもじと肩を揺らし、上目遣いでムーンの顔を見る。何かを言いかけているようだ。薄紅色の唇が開きかけている。
「どうした?」
「あ、あの……」
躊躇いながら開いた口から言葉が飛び出す。
「帰る前に薬草採ってきていいですか?! 種類がいつもと違っていて……!」
辛抱堪らないといったリリーの態度にムーンは深く頷いたのだった。
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