影牢 -かげろう-

解放と君臨

07

とにかく、ハイエナ共が涎を垂らして参加権を奪い合うことでお馴染みの北白川本家のお披露目会に出向く羽目になった俺は、早々に会場から離脱した。

上等なワインと料理を片手に、バルコニーで一人飲みと洒落込もうじゃないか。爺さん共の相手は仕事の席だけで十分だ。上手い飯をわざわざ不味く頂くこともあるまい。ちらりと遠くから見た年若い従妹は随分と愛らしく美しく、それこそ天使のように可憐で清純ではあった。

北白川本家のお嬢様。およそこの国で思い付く限りの贅を極めた暮らしが出来るに違いない、誰もが羨む境遇で純粋培養された完全無敵のお嬢様は相変わらず可愛らしくはあったが、それだけだ。他人に言いなりの人形には、全く食指が動かない。

今夜の主役とあって、大輪の花のように鮮やかで目を奪われる美しさを備えて雪と並び歩く様は、童話から抜け出てきた王子様とお姫様だ。だが、

ーーーどちらも俺の相手ではない。

あと数年すれば、分らんがね。現時点では、年若い従弟妹たちを生温かい目で見守る程度だ。

それよりも、気になるのはこの匂い。
甘く熟れた南国の果実のような、今にも触れたら落ちてしまいそうに咲き誇る大輪の花びらのような、得えも云われぬ芳香。漂う空気のうねりさえ見て取れるほど濃厚に、この身体に纏わりついて離れない。絡め取られていくような感覚。

噎せ返るほどだ。僅かでも身体を動かす度に、さわさわとだが何度も確実に、空気に混じった芳香の粒子がこの肌を撫でていく。匂いに愛撫されているようで、腹の奥の官能が目を醒ます。畜生、腰にクる。

間違いない。この会場の何処かで、誰かが、発情している。

だが、俺以外の人間には感じられないらしい。これだけの上層階級を集めているのだから、会場内はαだらけと云ってもいい。かく云う俺自身もαの家に生まれた、αの遺伝子が搾り出した極みの一滴といってもいいくらいだ。

俺の鼻がバカになったのか、出席者全員の鼻が麻痺しているのか……まあ冷静に考えて前者だろうが、勘違いで済ますには明確すぎる、手触りすら感じられるほどの輪郭を持って迫ってくる匂いに、

狂わされそうになる。

手で顔の下半分を覆っても、指の隙間から流れ込んでくる。迂闊うかつに口を開こうものなら、舌にさえその甘さがこびりついて痺れそうになる。

ーーーこりゃ、やべえな。

知らぬ間に媚薬でも盛もられて、一人で盛さかっている状態としか形容出来ないこの有様ありさまに溜め息が洩れる。うっかり媚薬を使われて襲われる、なんて話が冗談にならないのが上層階級の坊ちゃんの悲しい性だ。

媚薬はさておき、何処のΩだか分からないが、抑制剤使っとけよ、傍はた迷惑な。こんなαだらけの場所でフェロモン垂れ流すとか、正気の沙汰とは思えない。襲ってくれと云わんばかりだ。

……いや、むしろ襲われたいのか？

まあ、会場内のαであれば、そこそこ相手にとって不足はないだろう。策略としてαを誑たらし込むためにわざとフェロモンを撒き散らしているのならば、相当大した度胸だ。でも悪い策ではない。俺は好きにはなれないが、そういう打算やら腹黒さやらを否定するもんでもない。