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クララ、勝夫人の興味深い話を聞くのこと
ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第84回 クララ、勝夫人の興味深い話を聞くのこと
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今回分は、勝夫人の興味深い昔話とグラント将軍のために日本人が夜会の模様がメインとなります。
明治12年7月6日 日曜
午後、港のコレラ騒ぎのため金沢に行かれなくなったことを告げに、母と勝夫人のところに行った。
その折り、この話し好きな夫人はぞっとするような経験をいろいろ話して下さった。
本当に波瀾万丈の人生を送られてきたのだ。
「安房がいない時でした」
勝夫人はそう切り出された。
「江戸の何ヶ所でコレラが発生したという知らせを聞きました。
二十五年ぐらい前の話のことです。
その頃は田町の氷川神社の下に住んでおりました。
子供たちはまだとても小さくて、おゆめは十、小太郎が八つ、小鹿が七つで、あそこにいる逸はまだ生まれてもおりませんでした。
安房から預けられた大切な子供たちですから、それは注意をしておりました。
何事も起こらず過ぎていきましたが、ある日、髪結いの母親が病気になったと聞きました。
良いおばあさんで気やすくしていたので様子を見に行きましたら、病気になったのは娘の方で、四ッ頃、今で云えば夜の十時頃に、ひどい痛みに苦しみだし、何をしても治らないのでした。
家に帰ると、じきに使いが来て、娘が死んだと云ってきました。
また、友達の家から籠で帰宅の途中亡くなった男の方もありました。
安房はおりませんし、私は心配で、毎晩みんなが寝静まった後、蝋燭を持って見回り、一人一人顔をのぞきこんで異常がないかを確かめ、翌朝また一番に起きて、各部屋を調べました。
お陰様で十五人の大家族も誰一人あの恐ろしい病気にかからずにすみました。
ほんとうに恐ろしい、ひどいことでした」
そう云うと老女は溜息をついて、まるで過去の苦労が書いてあるかのように、美しい庭の植込み越しに、遠くの青い丘や空のかなたを見つめた。
それからもう一度溜息をつくと、頭を振りお茶を入れて飲んだ。
「地震の経験はおありですか、オクサマ?」
私はそう聞いた。
「地震ですか? ありますとも。
コレラのつい一年前に大地震があって、江戸の殆どがやられましたよ」
「どうか聞かせて下さい」
「前にも申しましたように、主人は仕事で長崎におりました。
その頃軍艦奉行をしておりましたので、よく家を空けましてね。
小さい子供たちと使用人の面倒をみなくてはなりませんでした。
一月の夜の十時頃で、そろそろ寝ようかという時、家がミシミシミシと軽く揺れ出しました。
『ああ、地震だわ。すぐ終わるでしょう』
と思った途端、地面の中で遠くの雷が聞こえるような音がして、大揺れが次から次へと来て、瓦が落ち障子が倒れ二階がグラリと傾きました。
それは恐ろしくて、三人の子供たちと老母を抱えて、近くの竹藪に逃げ込みました。
竹の根は絡み合っているので地割れに呑まれることがないのです。
真っ暗な恐ろしく寒い夜で、空は家の焼ける真っ赤な炎で明るくなっていました。
あたりは人の悲鳴と火の粉が飛びかい、余震が絶えず地鳴りがして、これが明け方まで続きました。
明るくなってようやく歩けるようになって見てみると、一夜にして江戸の街はメチャクチャでした。
家の者は全部無事でしたが、向かいの家の女の子は落ちてきたもので下敷きになって死にました。
他にもひどいことがいっぱい起きました。
老母と娘が住んでいたある家では、地震が始まると戸口から飛び出して、母親は逃げられたのですが、落ちてきた梁で娘は動けなくなってしまったのです。
娘のいないことに気づいた母親が戻ってみると、近くで火の手が上がり、手の施しようもないのです。
哀れな老母は気が狂ったように、通りがかりの誰彼に『タスケ、タスケ』と叫びました。
親切な近所の人たちが、自分も困っているところを、助けてやろうとしましたが無駄でした。
娘はそれを見るとこう云いました。
『逃げて下さい。助からないんですから。私のために危ないことはしないで。お母さん、どうぞ逃げて。
これも定めです。後生ですから皆さんも逃げて下さい。無駄なことなんです』
火の手が近づき、健気な娘が母に逃げるようにいう声が聞こえました。
老母は気も狂わんばかりになって走りまわり
『誰かかわいいおはなを助けてください。ああナムアミダブツ、どうぞ娘をお助け下さい』
そう叫んでいましたが、誰も来ませんし、そもそも手の施しようがありません。
とうとう通行人が哀れんで、手近な布団をつかんで、仰向けになった娘の顔に投げて、息の根をとめてやったのです。
こんなことがたくさん起こりました。
家の者が全部助かってこんな有り難いことはありません」
老婦人が話好きなのをみて、水を向けると、他にも興味深い話をして下さった。
東京の大部分を水浸しにし、特に下町では床上まで水が来て、神棚まで届いたところもあるという津波のことや、勝家が吹き飛んでしまった嵐のことなども伺った。
「はい、この部屋でしたよ。三人の子供たちを抱え、傘をさして、いつ死ぬかと思いました」
夫人は部屋を見回しながら仰った。
「上野の戦の時もここにいらっしゃったのですか?」
「いえ、あの時は向こうの寺の近くに住んでおりました。
官軍はことに安房を目の仇にして、門のところに大筒を三つも置いて、抜刀して座敷に駆け込んできて怒鳴りました。
『安房! 安房守は何処だ。外道、出て来い、ヤーヤー!』とね。
ああほんとうに恐ろしいことでした。
もうあんな目には二度と遭いたくありません」
「オクサマ、いろいろなことがおありでしたね。
苦労なさったでしょうが、これからは静かに暮らされますでしょう」
私は立ち上がりながら云った。
「ハイ、アリガトー」
そうお辞儀をしながらオクサマは仰った。
「もう余生はきっと何事もなく送れると思っております。サヨーナラ!」
その言葉に送られ、私たちは帰った。
明治12年7月7日 月曜
今朝はマクラレン氏が信仰と徳について説教をなさり、信仰とは何か、元来男らしさを意味するヴァーチュー(徳)の意味について素晴らしい説明をなさった。
誰もが聖書に定められている通りに生きることができれば、この汚れた世界はどんなに清らかになることだろう。
今夜の会はとてもよかった。
フレージャー氏が話をしに来て下さった。ビンガム夫人がみえ、勝氏までいらっしゃった。
フレージャー氏は短い良い話をして下さり、イブスキ氏が身振りや強調の仕方に至るまで、実に正確に逐語訳して下さった。
彼は、フォールズ博士の通訳としてかなり前から講演などに出ており、まったく天才的だ。
それからディクソン氏が話をし、また通訳がついた。
歌は古今賛美集を使った。
明治12年7月8日 火曜
今日はグラント将軍のために日本人が夜会を催した。
私たちも招かれたので勿論行った。
勝提督夫妻も招かれたのだけど、代わりにお逸をやり、行かれなかった。
私たちは九時に一番良い服を着て出かけた。
母は黒の紗織、私は胴が青のクレープにレースで縁取りをした白のローン。
お逸はとても凝った和服だった。
着物は鼠の縮緬で裾に縫い取りがあり、刺繍をした緋縮緬の帯あげに金糸の帯、刺繍をした淡い青の半襟。
髪は飾りが沢山ついていた。
あんまり沢山なので、アディが「花火みたい」と云ったほどだ。
榎坂からの道は提灯がずっとついていた。
工部大学校の前に提灯で大きなアーチが造ってあり、その上でU・S・Gという字が燃えていた。
大変立派な会で、私たちは警官、学生、一般人の立ち並ぶ間を、堂々と走り抜け、赤、白、青の提灯の長い列に沿って大ホール正門に着いた。
ここで十人あまりの係が控えていてクロークに案内してくれると、ミス・ビンガムが待っていた。
薔薇や裳裾――生まれて初めてだ――を直し、混んだ大ホールに入る。
ここはとても大きいホールだ。
「四千人の収容能力がある」と建築したド・ボワンヴィル氏からうかがったことがある。
ホールの周囲に大きな回廊が巡らしてあり、五十余の金色に塗った列柱で回廊を支えていた。
入口の正面突き当たりは壇になっていて、その上に、松、椰子等の大きな木が体裁よく置いてあり、その後ろにはアメリカと日本の国旗が、常緑樹の葉で作ったU・S・Gの字の下に、美しく下がっていた。
ホールは人の揺れ動く波でいっぱい。
美しく着飾った婦人たちは、暗い海面の燐光のようで、工部大学校のホールはいつになく華やかだった。
突然ざわめきが静まり、人々がバルコニーの下に退くとグラント将軍夫妻が入場され、高座の肘かけ椅子に坐られた。
息子のフレッド・グラント大佐はじめ軍服の随行員はその後ろの段に着席した。
ビンガム公使夫人、太政大臣三条実美夫人がグラント夫人の右手に坐った。
将軍の隣で、アメリカ公使の吉田清成駐米全権公使が男の方たちを紹介した。
母とビンガム嬢はフレージャー氏に、お逸と私はシェパード氏に紹介された。
グラント将軍はとても赤い顔をしていたが、グラント夫人は上野の時よりずっとよく見えた。
帽子を外しレースの袖のついた縞の紗織を着ていらした。
ちなみに息子のグラント大佐は軍服だった。
出席者は主として日本人で、二千名もいたので全部を紹介するのにかなりかかった。
紹介のすんだ人たちは周りに広がったり、自分のグループに行ったりした。
私たちはビンガム公使のグループに属していたので、エマさんが私たちを引っ張り、壇の方に引き寄せ、紹介が終わるまでそこにいた。
天蓋の下を出て(足元がとても悪かった)、両側から提灯に照らされた学生食堂に行くと、精養軒最上の食事が用意されていた。
ポンチが満々と入った巨大な器――なんと、ヘップバン夫人の風呂とまったく同じだ!――のところには、実物大の「精養軒梅」が堂々と据えてあった。
男の人たちはテーブルをアタックして食べだした。
そんな中、清国の公使たちは脇目もふらず、まるで命懸けのように猛烈な勢いで食べるので、周りが空いてしまった。
この滑稽な二人のみっともない振る舞いに外国人たちはとてもおかしがっていた。
シャンペンがたくさんこぼれる中で、おかしなことがいくつか起こった。
一隅では、燕尾服に白い帯を胴のあたりに巻き付けた日本人が、コップに盛ったアイスクリームを指で食べていたし、もう一人の人はニヤニヤ笑いながら、長いナイフでアイスクリームを舐めているので口が切れそうだった。
それからフェントン氏の指揮で海兵隊が「グラントのマーチ」を演奏する中をホールに戻り、お友達とまた一緒になった。
ホールは華やかそのもの。
前にも云ったように大多数は日本人で、婦人は主として宮中の礼服をつけていた。
吉田夫人、森有礼外務大輔夫人、井上嬢、鍋島夫人は洋装で、外務卿の井上馨夫人はクレープデシンの美しいイブニングに、ピカピカのダイヤモンドのブローチ、首飾り、腕輪、指輪をしたとても豪華な装いだった。
三条夫人、大隈重信参議大蔵卿夫人などは宮中の正装姿で、絹の長い緋袴に上は金やブルーで模様を織り出した素晴らしいブロケードを着、下に白い衣を何枚か重ねているのが襟元で見えた。
髪は白いリボンでただ高く結んで腰の下まで下げていた。
日本では天女は緋の袴をはいて、髪が十ヤードもの長さだと考えられているからなのだ。
戸口のところに奇妙な人たちがいて、私の好奇心をそそった。
四人いて、みな白髪を短く切って後ろにとかしつけ、煉瓦色の袴に緑の着物、大きなびょう釘を打ったドタ靴を履いている。
日本人の友達に聞いてみたらなんと未亡人だそうだ!
文部省の田中不二麿文部大輔夫妻、西郷従道陸軍卿夫妻、陸軍大輔の大山巌中将――私の生徒である大山さん――夫妻、川路夫妻、その他大勢の方々がみえていた。
とても楽しくて、母が十二時ちょっと過ぎに帰ろうとした時、私はまだその場を離れる気になれないほどだった。
だがホールはどんどん人が減り、グラント将軍一行も帰られ、ビンガム公使も帰り支度をされており、日本人はいなくなっていた。
それで私はようやく楽しい会場を離れた。
横浜の人たちは汽車が来るまでまだしばらくダンスをしていた。
飲み過ぎた一人の海軍少尉候補生は、ダニューブ河のさざ波に足を取られて、不様に羊のように仰向けにひっくり返ってしまった。
かくしてこの盛大な催しは終わり、陽気な人々は去り、薔薇はしおれ、バンドは静かに退出し、明るいアーチは燃え尽き、最後の車の乗客が門を出る際に振り返ると、ホールは人気もなく、天空高く星がこの空虚な静けさを静かに見据えていた。
日本人はグラントを王族より丁重に扱っているそうだ。
宴会、催し物、贈り物の山に、すべてのことを当然と受け止めるアメリカ人すら、その歓迎ぶりには驚いている。
「グラント将軍はまるで神様のような扱いを受けているから、ただちに彼のためにお寺を建立した方がよい」
ある日本人婦人の言葉だ。
実際友達のところにいる使用人はこう聞いたそうだ。
「通りにたくさん提灯が出ているのを見たけれど、何の神様の祭なのですか?」
この暖かい受け入れについて、色々な意見が外国人から出ている。
しかし、日本人自身はアメリカで日本人使節が親切にされたことと、グラント将軍が大統領在任中、日本に有利なように条約を改訂してくれたからだと云っている。
とにかく我が国の代表がこのように丁重に取り扱われるのを見るのは誇らしいことだ。
【クララの明治日記 超訳版解説第84回】
「今週は先週に引き続き、グラント将軍特集の予定でしたけれども」
「たみ義母さまがクララに語った内容、本当に江戸にとってエポックメイキングなことばかりだから、今回はこちらの解説をするねー。
まず最初にクララが聞かされたのは、安政年間のコレラ騒動。
丁度グラント将軍来日時にコレラが再流行していたから、話のきっかけになったんだろうね。
「少し前にドラマ化された某漫画でも、コレラの流行が描かれていましたわね。
日本での一般的な呼び方はコロリ、漢字表記だと“虎列刺”でしたっけ?」
「うん。呆気なくコロリと死んじゃうと云うことで“三日コロリ”ってね。
時系列的に云うと安政5年、つまり1858年、長崎に上陸したコレラは東に蔓延して、7月末には江戸に侵入。
8月に入ると江戸とその近郊での病勢は激甚を極め、流行期間1ヶ月余りで、推定死者は江戸だけで約10万人。
これは少々誇大な数字らしいけれど、実は江戸期のどんな地震よりも、死者数は多いと考えられています」
「それはそれで、なんだか意外な気がいたしますわね。
地震の規模がもっとひどいと思っていたのか、コレラの流行が想像以上に大きいのか、難しいところですけれども」
「じゃあ、次はその地震の方、いわゆる安政の大地震の話を。
義母さま“コレラのつい一年前に大地震があって”と云っているけれど、これは間違い。
安政大地震が起きたのは安政2年、つまり1855年の10月2日夜。
義母さまは1月と云っているのは、旧暦と新暦が゜ごちゃごちゃになっているのかな?」
「旧暦と新暦の違いにしても少しおかしくありませんこと? 旧暦だと11月11日のようですわよ?」
「んー、他の地震とごっちゃになっているのかな? 本当にこの当時はよく地震があったようだから……って、調べてみたら安政年間に三つも巨大地震があったみたい。
それはともあれ。
老母と娘さんの話、本当にお気の毒だよね。。。」
「阪神大震災の時にも殆ど同じような事例があったように聞きますわよ。
ただ今のご時世だと、慈悲の心から“息の根を止めてくれる人”はいないと思いますけれども」
「…………世知辛い世の中だものね。
ただ一般的には火で焼かれる前に、先に煙に巻かれちゃうから……ということが多いんだろうけど」
「残るは上野の彰義隊戦争の話ですけれど、ここで意外な話が出て来ますわね」
「普通テレビドラマや小説だと、勝邸に乗り込んでくるのは幕府の強行派だものね。
“官軍の人間が大砲持参で勝邸に押しかけた”なんて展開、見たことないもん」
「普通に考えると、おかしな話ですわね。この時点では江戸城は開城は決定している筈ですし。
まかり間違ってこの時点で勝提督が“官軍の手で”殺されていたりしたら、とんでもない展開になっていた筈ですわよ?」
「抜刀して座敷に駆け込んできて怒鳴る、なんて如何にも薩摩藩士あたりがやりそうな手口だけどね」
「いえ、何処の時代の何処の人間だろうと“過激派”なんて、似たようなものですわよ」
「うーん、それは確かにそうかも? でもとりあえず、ここは“たみ母さまの証言”を残しておくね」
「それにしても、肝心なときにいつも家にいらっしゃいませんわね、勝提督は?」
「……父様“お仕事が”忙しかったし、仕方ないところもあるし……」
「たみ夫人が“勝とは同じ墓には入りたくありません”と云ったのは、手広かった女性関係だけでなく、危機一髪、肝心なときにばかり家を不在にしたからかもしれませんわね」
「……ううっ、少なくともこの展開では完全に否定できないかも?」
「それにしても勝夫人、折角この頃は『もう余生はきっと何事もなく送れると思っております』と云っておられたのに、この後も……」
「……その件については、また改めて語らせて頂きますね」
明治12年7月6日 日曜
午後、港のコレラ騒ぎのため金沢に行かれなくなったことを告げに、母と勝夫人のところに行った。
その折り、この話し好きな夫人はぞっとするような経験をいろいろ話して下さった。
本当に波瀾万丈の人生を送られてきたのだ。
「安房がいない時でした」
勝夫人はそう切り出された。
「江戸の何ヶ所でコレラが発生したという知らせを聞きました。
二十五年ぐらい前の話のことです。
その頃は田町の氷川神社の下に住んでおりました。
子供たちはまだとても小さくて、おゆめは十、小太郎が八つ、小鹿が七つで、あそこにいる逸はまだ生まれてもおりませんでした。
安房から預けられた大切な子供たちですから、それは注意をしておりました。
何事も起こらず過ぎていきましたが、ある日、髪結いの母親が病気になったと聞きました。
良いおばあさんで気やすくしていたので様子を見に行きましたら、病気になったのは娘の方で、四ッ頃、今で云えば夜の十時頃に、ひどい痛みに苦しみだし、何をしても治らないのでした。
家に帰ると、じきに使いが来て、娘が死んだと云ってきました。
また、友達の家から籠で帰宅の途中亡くなった男の方もありました。
安房はおりませんし、私は心配で、毎晩みんなが寝静まった後、蝋燭を持って見回り、一人一人顔をのぞきこんで異常がないかを確かめ、翌朝また一番に起きて、各部屋を調べました。
お陰様で十五人の大家族も誰一人あの恐ろしい病気にかからずにすみました。
ほんとうに恐ろしい、ひどいことでした」
そう云うと老女は溜息をついて、まるで過去の苦労が書いてあるかのように、美しい庭の植込み越しに、遠くの青い丘や空のかなたを見つめた。
それからもう一度溜息をつくと、頭を振りお茶を入れて飲んだ。
「地震の経験はおありですか、オクサマ?」
私はそう聞いた。
「地震ですか? ありますとも。
コレラのつい一年前に大地震があって、江戸の殆どがやられましたよ」
「どうか聞かせて下さい」
「前にも申しましたように、主人は仕事で長崎におりました。
その頃軍艦奉行をしておりましたので、よく家を空けましてね。
小さい子供たちと使用人の面倒をみなくてはなりませんでした。
一月の夜の十時頃で、そろそろ寝ようかという時、家がミシミシミシと軽く揺れ出しました。
『ああ、地震だわ。すぐ終わるでしょう』
と思った途端、地面の中で遠くの雷が聞こえるような音がして、大揺れが次から次へと来て、瓦が落ち障子が倒れ二階がグラリと傾きました。
それは恐ろしくて、三人の子供たちと老母を抱えて、近くの竹藪に逃げ込みました。
竹の根は絡み合っているので地割れに呑まれることがないのです。
真っ暗な恐ろしく寒い夜で、空は家の焼ける真っ赤な炎で明るくなっていました。
あたりは人の悲鳴と火の粉が飛びかい、余震が絶えず地鳴りがして、これが明け方まで続きました。
明るくなってようやく歩けるようになって見てみると、一夜にして江戸の街はメチャクチャでした。
家の者は全部無事でしたが、向かいの家の女の子は落ちてきたもので下敷きになって死にました。
他にもひどいことがいっぱい起きました。
老母と娘が住んでいたある家では、地震が始まると戸口から飛び出して、母親は逃げられたのですが、落ちてきた梁で娘は動けなくなってしまったのです。
娘のいないことに気づいた母親が戻ってみると、近くで火の手が上がり、手の施しようもないのです。
哀れな老母は気が狂ったように、通りがかりの誰彼に『タスケ、タスケ』と叫びました。
親切な近所の人たちが、自分も困っているところを、助けてやろうとしましたが無駄でした。
娘はそれを見るとこう云いました。
『逃げて下さい。助からないんですから。私のために危ないことはしないで。お母さん、どうぞ逃げて。
これも定めです。後生ですから皆さんも逃げて下さい。無駄なことなんです』
火の手が近づき、健気な娘が母に逃げるようにいう声が聞こえました。
老母は気も狂わんばかりになって走りまわり
『誰かかわいいおはなを助けてください。ああナムアミダブツ、どうぞ娘をお助け下さい』
そう叫んでいましたが、誰も来ませんし、そもそも手の施しようがありません。
とうとう通行人が哀れんで、手近な布団をつかんで、仰向けになった娘の顔に投げて、息の根をとめてやったのです。
こんなことがたくさん起こりました。
家の者が全部助かってこんな有り難いことはありません」
老婦人が話好きなのをみて、水を向けると、他にも興味深い話をして下さった。
東京の大部分を水浸しにし、特に下町では床上まで水が来て、神棚まで届いたところもあるという津波のことや、勝家が吹き飛んでしまった嵐のことなども伺った。
「はい、この部屋でしたよ。三人の子供たちを抱え、傘をさして、いつ死ぬかと思いました」
夫人は部屋を見回しながら仰った。
「上野の戦の時もここにいらっしゃったのですか?」
「いえ、あの時は向こうの寺の近くに住んでおりました。
官軍はことに安房を目の仇にして、門のところに大筒を三つも置いて、抜刀して座敷に駆け込んできて怒鳴りました。
『安房! 安房守は何処だ。外道、出て来い、ヤーヤー!』とね。
ああほんとうに恐ろしいことでした。
もうあんな目には二度と遭いたくありません」
「オクサマ、いろいろなことがおありでしたね。
苦労なさったでしょうが、これからは静かに暮らされますでしょう」
私は立ち上がりながら云った。
「ハイ、アリガトー」
そうお辞儀をしながらオクサマは仰った。
「もう余生はきっと何事もなく送れると思っております。サヨーナラ!」
その言葉に送られ、私たちは帰った。
明治12年7月7日 月曜
今朝はマクラレン氏が信仰と徳について説教をなさり、信仰とは何か、元来男らしさを意味するヴァーチュー(徳)の意味について素晴らしい説明をなさった。
誰もが聖書に定められている通りに生きることができれば、この汚れた世界はどんなに清らかになることだろう。
今夜の会はとてもよかった。
フレージャー氏が話をしに来て下さった。ビンガム夫人がみえ、勝氏までいらっしゃった。
フレージャー氏は短い良い話をして下さり、イブスキ氏が身振りや強調の仕方に至るまで、実に正確に逐語訳して下さった。
彼は、フォールズ博士の通訳としてかなり前から講演などに出ており、まったく天才的だ。
それからディクソン氏が話をし、また通訳がついた。
歌は古今賛美集を使った。
明治12年7月8日 火曜
今日はグラント将軍のために日本人が夜会を催した。
私たちも招かれたので勿論行った。
勝提督夫妻も招かれたのだけど、代わりにお逸をやり、行かれなかった。
私たちは九時に一番良い服を着て出かけた。
母は黒の紗織、私は胴が青のクレープにレースで縁取りをした白のローン。
お逸はとても凝った和服だった。
着物は鼠の縮緬で裾に縫い取りがあり、刺繍をした緋縮緬の帯あげに金糸の帯、刺繍をした淡い青の半襟。
髪は飾りが沢山ついていた。
あんまり沢山なので、アディが「花火みたい」と云ったほどだ。
榎坂からの道は提灯がずっとついていた。
工部大学校の前に提灯で大きなアーチが造ってあり、その上でU・S・Gという字が燃えていた。
大変立派な会で、私たちは警官、学生、一般人の立ち並ぶ間を、堂々と走り抜け、赤、白、青の提灯の長い列に沿って大ホール正門に着いた。
ここで十人あまりの係が控えていてクロークに案内してくれると、ミス・ビンガムが待っていた。
薔薇や裳裾――生まれて初めてだ――を直し、混んだ大ホールに入る。
ここはとても大きいホールだ。
「四千人の収容能力がある」と建築したド・ボワンヴィル氏からうかがったことがある。
ホールの周囲に大きな回廊が巡らしてあり、五十余の金色に塗った列柱で回廊を支えていた。
入口の正面突き当たりは壇になっていて、その上に、松、椰子等の大きな木が体裁よく置いてあり、その後ろにはアメリカと日本の国旗が、常緑樹の葉で作ったU・S・Gの字の下に、美しく下がっていた。
ホールは人の揺れ動く波でいっぱい。
美しく着飾った婦人たちは、暗い海面の燐光のようで、工部大学校のホールはいつになく華やかだった。
突然ざわめきが静まり、人々がバルコニーの下に退くとグラント将軍夫妻が入場され、高座の肘かけ椅子に坐られた。
息子のフレッド・グラント大佐はじめ軍服の随行員はその後ろの段に着席した。
ビンガム公使夫人、太政大臣三条実美夫人がグラント夫人の右手に坐った。
将軍の隣で、アメリカ公使の吉田清成駐米全権公使が男の方たちを紹介した。
母とビンガム嬢はフレージャー氏に、お逸と私はシェパード氏に紹介された。
グラント将軍はとても赤い顔をしていたが、グラント夫人は上野の時よりずっとよく見えた。
帽子を外しレースの袖のついた縞の紗織を着ていらした。
ちなみに息子のグラント大佐は軍服だった。
出席者は主として日本人で、二千名もいたので全部を紹介するのにかなりかかった。
紹介のすんだ人たちは周りに広がったり、自分のグループに行ったりした。
私たちはビンガム公使のグループに属していたので、エマさんが私たちを引っ張り、壇の方に引き寄せ、紹介が終わるまでそこにいた。
天蓋の下を出て(足元がとても悪かった)、両側から提灯に照らされた学生食堂に行くと、精養軒最上の食事が用意されていた。
ポンチが満々と入った巨大な器――なんと、ヘップバン夫人の風呂とまったく同じだ!――のところには、実物大の「精養軒梅」が堂々と据えてあった。
男の人たちはテーブルをアタックして食べだした。
そんな中、清国の公使たちは脇目もふらず、まるで命懸けのように猛烈な勢いで食べるので、周りが空いてしまった。
この滑稽な二人のみっともない振る舞いに外国人たちはとてもおかしがっていた。
シャンペンがたくさんこぼれる中で、おかしなことがいくつか起こった。
一隅では、燕尾服に白い帯を胴のあたりに巻き付けた日本人が、コップに盛ったアイスクリームを指で食べていたし、もう一人の人はニヤニヤ笑いながら、長いナイフでアイスクリームを舐めているので口が切れそうだった。
それからフェントン氏の指揮で海兵隊が「グラントのマーチ」を演奏する中をホールに戻り、お友達とまた一緒になった。
ホールは華やかそのもの。
前にも云ったように大多数は日本人で、婦人は主として宮中の礼服をつけていた。
吉田夫人、森有礼外務大輔夫人、井上嬢、鍋島夫人は洋装で、外務卿の井上馨夫人はクレープデシンの美しいイブニングに、ピカピカのダイヤモンドのブローチ、首飾り、腕輪、指輪をしたとても豪華な装いだった。
三条夫人、大隈重信参議大蔵卿夫人などは宮中の正装姿で、絹の長い緋袴に上は金やブルーで模様を織り出した素晴らしいブロケードを着、下に白い衣を何枚か重ねているのが襟元で見えた。
髪は白いリボンでただ高く結んで腰の下まで下げていた。
日本では天女は緋の袴をはいて、髪が十ヤードもの長さだと考えられているからなのだ。
戸口のところに奇妙な人たちがいて、私の好奇心をそそった。
四人いて、みな白髪を短く切って後ろにとかしつけ、煉瓦色の袴に緑の着物、大きなびょう釘を打ったドタ靴を履いている。
日本人の友達に聞いてみたらなんと未亡人だそうだ!
文部省の田中不二麿文部大輔夫妻、西郷従道陸軍卿夫妻、陸軍大輔の大山巌中将――私の生徒である大山さん――夫妻、川路夫妻、その他大勢の方々がみえていた。
とても楽しくて、母が十二時ちょっと過ぎに帰ろうとした時、私はまだその場を離れる気になれないほどだった。
だがホールはどんどん人が減り、グラント将軍一行も帰られ、ビンガム公使も帰り支度をされており、日本人はいなくなっていた。
それで私はようやく楽しい会場を離れた。
横浜の人たちは汽車が来るまでまだしばらくダンスをしていた。
飲み過ぎた一人の海軍少尉候補生は、ダニューブ河のさざ波に足を取られて、不様に羊のように仰向けにひっくり返ってしまった。
かくしてこの盛大な催しは終わり、陽気な人々は去り、薔薇はしおれ、バンドは静かに退出し、明るいアーチは燃え尽き、最後の車の乗客が門を出る際に振り返ると、ホールは人気もなく、天空高く星がこの空虚な静けさを静かに見据えていた。
日本人はグラントを王族より丁重に扱っているそうだ。
宴会、催し物、贈り物の山に、すべてのことを当然と受け止めるアメリカ人すら、その歓迎ぶりには驚いている。
「グラント将軍はまるで神様のような扱いを受けているから、ただちに彼のためにお寺を建立した方がよい」
ある日本人婦人の言葉だ。
実際友達のところにいる使用人はこう聞いたそうだ。
「通りにたくさん提灯が出ているのを見たけれど、何の神様の祭なのですか?」
この暖かい受け入れについて、色々な意見が外国人から出ている。
しかし、日本人自身はアメリカで日本人使節が親切にされたことと、グラント将軍が大統領在任中、日本に有利なように条約を改訂してくれたからだと云っている。
とにかく我が国の代表がこのように丁重に取り扱われるのを見るのは誇らしいことだ。
【クララの明治日記 超訳版解説第84回】
「今週は先週に引き続き、グラント将軍特集の予定でしたけれども」
「たみ義母さまがクララに語った内容、本当に江戸にとってエポックメイキングなことばかりだから、今回はこちらの解説をするねー。
まず最初にクララが聞かされたのは、安政年間のコレラ騒動。
丁度グラント将軍来日時にコレラが再流行していたから、話のきっかけになったんだろうね。
「少し前にドラマ化された某漫画でも、コレラの流行が描かれていましたわね。
日本での一般的な呼び方はコロリ、漢字表記だと“虎列刺”でしたっけ?」
「うん。呆気なくコロリと死んじゃうと云うことで“三日コロリ”ってね。
時系列的に云うと安政5年、つまり1858年、長崎に上陸したコレラは東に蔓延して、7月末には江戸に侵入。
8月に入ると江戸とその近郊での病勢は激甚を極め、流行期間1ヶ月余りで、推定死者は江戸だけで約10万人。
これは少々誇大な数字らしいけれど、実は江戸期のどんな地震よりも、死者数は多いと考えられています」
「それはそれで、なんだか意外な気がいたしますわね。
地震の規模がもっとひどいと思っていたのか、コレラの流行が想像以上に大きいのか、難しいところですけれども」
「じゃあ、次はその地震の方、いわゆる安政の大地震の話を。
義母さま“コレラのつい一年前に大地震があって”と云っているけれど、これは間違い。
安政大地震が起きたのは安政2年、つまり1855年の10月2日夜。
義母さまは1月と云っているのは、旧暦と新暦が゜ごちゃごちゃになっているのかな?」
「旧暦と新暦の違いにしても少しおかしくありませんこと? 旧暦だと11月11日のようですわよ?」
「んー、他の地震とごっちゃになっているのかな? 本当にこの当時はよく地震があったようだから……って、調べてみたら安政年間に三つも巨大地震があったみたい。
それはともあれ。
老母と娘さんの話、本当にお気の毒だよね。。。」
「阪神大震災の時にも殆ど同じような事例があったように聞きますわよ。
ただ今のご時世だと、慈悲の心から“息の根を止めてくれる人”はいないと思いますけれども」
「…………世知辛い世の中だものね。
ただ一般的には火で焼かれる前に、先に煙に巻かれちゃうから……ということが多いんだろうけど」
「残るは上野の彰義隊戦争の話ですけれど、ここで意外な話が出て来ますわね」
「普通テレビドラマや小説だと、勝邸に乗り込んでくるのは幕府の強行派だものね。
“官軍の人間が大砲持参で勝邸に押しかけた”なんて展開、見たことないもん」
「普通に考えると、おかしな話ですわね。この時点では江戸城は開城は決定している筈ですし。
まかり間違ってこの時点で勝提督が“官軍の手で”殺されていたりしたら、とんでもない展開になっていた筈ですわよ?」
「抜刀して座敷に駆け込んできて怒鳴る、なんて如何にも薩摩藩士あたりがやりそうな手口だけどね」
「いえ、何処の時代の何処の人間だろうと“過激派”なんて、似たようなものですわよ」
「うーん、それは確かにそうかも? でもとりあえず、ここは“たみ母さまの証言”を残しておくね」
「それにしても、肝心なときにいつも家にいらっしゃいませんわね、勝提督は?」
「……父様“お仕事が”忙しかったし、仕方ないところもあるし……」
「たみ夫人が“勝とは同じ墓には入りたくありません”と云ったのは、手広かった女性関係だけでなく、危機一髪、肝心なときにばかり家を不在にしたからかもしれませんわね」
「……ううっ、少なくともこの展開では完全に否定できないかも?」
「それにしても勝夫人、折角この頃は『もう余生はきっと何事もなく送れると思っております』と云っておられたのに、この後も……」
「……その件については、また改めて語らせて頂きますね」
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