上 下
27 / 123
クララ、銀座大火を体験するのこと

ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第23回  クララ、銀座大火を体験するのこと

しおりを挟む
 今回は予告通りに「ユウメイさん、本格初登場!」の回となります。それとこれは歴史にも残る大火となった銀座大火の模様も。

明治9年11月21日 火曜日
 長いことおなざりにしていた日記よ、おいで! 忘れていたように見えるかもしれないけれど、決してお前を忘れていたわけではないのだ。
天気に恵まれた今日の午後 日本の婦人と少女たち一行のおもてなしとゲームを終え、私は疲れ果てて今ここに坐っている。
 昨日のことになる。お逸と私が大鳥夫人を午餐にお招きしに行ったのは。
 ということで、十一時頃に大鳥夫人は一歳の赤ちゃんと、四歳の坊ちゃんを連れておいでになった。
 今日は勝夫人とお逸、おやおさんとおすみも一緒だった。二人の生徒はいつものように来たのだけれど、美しい着物を着ていた。
 おやおさんは、柔らかい色合いの縮緬の着物に、扇や木などの模様が全体についた素晴らしい深紅の帯を締め、襟元に襞をとった柔らかい桃色の襦袢を身につけて、金と鼈甲の簪を二本挿していた。お逸も綺麗なのだけれど、流石に「本物のお姫様」であるおやおさんの威光には叶わない。おすみは主のそれよりは質素で、黄色い着物に紫の羽織を着て、綺麗な簪を一本つけていた。
最 初は気まずかったけれど、だんだんみんな打ち解けてきた。しかし根本的な問題として……
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
 日本の婦人たちは私たちと違って、相手を楽しませようという努力をしない。放っておくと、ひたすら沈黙が場を覆うばかり。
 勝夫人は自宅では陽気な方なのだけれど、余所の家ではやはり「政府高官の妻」という立場を崩すわけにはいかないらしく、その結果必然としてお逸も今日ばかりはいつもの快活さを発揮するわけにはいかず。
 大鳥夫人は身体がお弱いらしく、自分から積極的にコミュニケーションを取られようとしない。おやおさんは天然だし、おすみは最初からおやおさんしか見えていない。
 ただこんな沈黙も彼女たちにとっては至って普通なことらしく(内心は分からないけれど)ごく平然としているのだけれど、間と身が持たないのは私の方だ。
「ちょっとお手洗いに」
 私はその場から逃げ出して近所のシンプソン夫人のところに助けを請いに行かざるを得なかった。
「残念、先約があるの」
 話題が豊富なシンプソン夫人ならば話題の糸口を、と思ったのに、その目論みもあっさり霧散してしまった。
「ロンドンの霧は本当に黒いカーテンのようでね、市中に立ち込めると太陽の出ている日でも日中真っ暗になるのですよ。それに比べると本当に日本の天候は快適ですわね」
 お茶を一杯だけ頂きながら、そんな話だけしてうちに帰ると、私は友人たちのもてなしに取りかかった。
 それで冒頭にあるように、なんとか皆でゲームをすることで場を持たせることには成功したのだけれど、大鳥家の赤ちゃんは始末に負えない子で、小さな暴君であることが分かった。
 ちなみに。本日は来ていないけれど、大鳥家の二人のお嬢さん、おひなさんとおゆきさんは、二年前に洗礼を受けたそうだ。
 うちの使用人のテイは教会の牧師の所へ行って「自分も洗礼例を受けさせて欲しい」と頼んだのだそうだけれど、牧師はテイを知らないので、当然のことながら断られてしまった。それでも私はテイがキリスト教に関心を持っていることがとても嬉しい。ウメがいうには、テイはセイキチやウメに毎晩聖書を読んで聞かせるそうだ。
 もう一つ面白いことがある。
 とうとう私は日本語の先生につくことになったのだ! 軍人でもある佐々木氏が、交換授業を提案なさったのである。佐々木氏は申し分のない紳士で、上手に英語を話される。陸軍省の役人であるサムライで、本当に好ましい方だ。修辞学と手紙の書き方と作文を習いたがっていらっしゃる。私はカネヨシに教えたときに失敗しているから、自信は殆どないけれど、全力を尽くすつもりだ。
 徳川家の継承者のお守り役、滝村鶴雄氏が昨晩夕方にみえた。滝村氏はこの家にあるものがみんな気に入り、出された食べ物は全部とてもおいしいといって召し上がった。

明治9年11月22日 水曜日
 今朝、猫の鳴き声で随分早く目覚めたが、横浜に行く予定なので、そのまま起きていた。
 八時半にはお逸が来て、九時半には家を出た。しかし新橋の停車場近くまで来たら、汽車が出たところなので、大いにがっかりした。
「諦めるものですか!」
 お逸の言葉に、私たち人力車に乗って次の駅、品川へ走ることにした。特に天気は上々だし、東海道を行く乗り心地は快適だった。品川で三十分待つことになったけれど、私たちは立入禁止の場所をありったけにうろついて、駅員を困らせた。でも、駅員の気が狂ってしまわないうちに、汽車がしゅっしゅっと入って来た。
 私たちは二等車で行ったのだけれど、その車内でフランス人とオランダ人が英語で話していて、最低の葉巻を盛んに吸っていた。紳士風の日本人とその奥さんもいた。乗客はそれだけだったが、その日本人はともに大変な喫煙家だったのだ。
 女の人が煙草を吸うのを見ていると面白かった。その女の人は、綺麗な袋から香りの良さそうな煙草を一つまみ取って、煙管の小さな火皿に入れ、機械的に火をつけて、すぱっと吸った。
 そして急激に大きく吸い込みながら、厳粛な顔をして、眼を床の一点から離さず、二本の煙を、なんと! 鼻からすーっと出したのだ! まあ驚いた!
「……お逸、ひょっとして貴女も煙草を吸うの?」
「いまのところ、まだその予定はないわね」
 ちょっとおっかなびっくり我が親友に尋ねてみると、否定とも肯定ともつかぬ答えが返ってきた。
 横浜は活気に溢れ、人々で賑わっていた。まず二、三箇所を回ってから、軽食をしにホテルへ行った。みんな私たち、とりわけお逸をじろじろ見た。お逸はとても綺麗な上に美しい着物を着ていて、横浜乙女とは違っていたからである。
 昼食後ある店に行って、めいめい手袋を買い、私は駱駝の毛のポロネーズ、つまり裾の長い婦人服を買った。五時に駅に着いたら、東京へ行く友人に会った。とても楽しい一日だった。

明治9年11月23日 木曜日
 今日は日本の感謝祭、つまり「米の祭日」――新嘗祭というそうだ――で、学校も役所もみんなお休み。
 どんな小さなあばら家にも、堂々たる政府の建物にも旗が翻っている。
 授業の後、天気もよくて休日でもあるので、ビンガム夫人を訪ねた。
「いつでもピアノを弾きにいらっしゃい。歓迎しますよ」
 以前云われた言葉に甘えることにして楽譜を巻いて持って行った。
 気持ちの良い日光を浴びながら歩いてアメリカ公使館に着くと、ビンガム夫人は客間に下りて迎えて下さった。
「ボーイが『木挽町のお嬢様がおいでになりました』と知らせてくれたのよ」
 しばらくお話をしてから、ピアノのところに連れていって下さった。
 私は一時間、素晴らしい豊富な音色を満喫しながら練習したが、すべすべした鍵盤に指を走らせていると、長い間忘れていた旋律が蘇ってきた。その間夫人は、ご主人のために書類を写しておられた。
「今のは何処の国の民謡かしら?」
 やがておいでになった夫人が、私の弾いていた曲について質問された。
「私も詳しくは知らないんですけれど、スコットランド民謡だそうです。別離の時に演奏するに相応しい曲なので、帰国される方をもてなす時のパーティーなんかで弾くことにしています」
 なんとも物悲しい旋律なのに、何処か心温まるこの曲が私は好きだ。いつかこの国でも広く演奏されるといいな。
 それから夫人に軽食をして行くように誘って下さったので、私は帽子を脱いだ。
ビンガム夫人が手を取って食卓に連れて行って下さった。秘書のスティーブン氏に紹介して貰ってから食事を始めた。
 夫妻はめいめい背の高い古風な感じの椅子を持っていらっしゃるが、ビンガム氏がそのゆったりした椅子に深く坐り、肘を肘掛けにのせて、指を独自のやり方で握りしめている様子は、私の祖父にいつもよりずっと似ていた。
 ビンガム氏の真面目なきっぱりした口調を聞き、半分心配そうな、半分微笑んだような顔を見ていると、私の祖父の面影が目の前に浮かぶ。祖父は政治に深く通じ、民主党とティルデン知事を痛烈に批判していた人だ。
 軽食後、夫人に連れられておうちとお庭を一回りし「さよなら」を云った。
「また弾きにいらっしゃい。それに歩くのは健康にいいですからね。ああ、それと楽譜は置いておきなさい。また来た時にすぐに弾けるように」
 それからフランク・レスリーの「イラストレーテッド・センテニアル・マガジン」を二部下さった。

 急いで家に帰ると、佐々木氏が待っていた。私たちは坐って勉強をした――少なくとも佐々木氏はなさった。
 私はハートの「作文法」の本を貸してあけたのだが、佐々木氏はご自分ですっかり読んでいらっしゃったので、私は復習をしてから、作文を書くための課題の大要を示した。
「クララさんは日本語がどの程度理解できるのですか?」
 私の回答に応じて、佐々木氏はこの次までの宿題を決めて下さった。
 とても紳士的で気持ちの良い方だけれど、教師と云うよりは、ともすると学者的な態度になりがちだ。しかしそれも多分、ただ礼儀正しさから出ることなのだろう。二時間くらい経つと「友達が待っているから行かなくては」と仰った。 
 佐々木氏が帰って間もなく、中原氏がみえた。約一時間後にマッカーティー夫人がユウメイつれて訪ねて来られ、中原氏は帰っていった。
 マッカーティー夫人はとても親切な方だ。
「ユウメイともっとつきあって下さい」
 私もそうしたいと思う。それから「公使館にピアノの練習に行くことはとてもいいことですよ」とも仰った。神様のお陰で私はいい機会に恵まれているのだから、うまく利用しさえすればいいのだ。

明治9年11月25日 土曜日
 今日は横浜に行くのかと半分期待していたのだけれど、取り止めとなってしまった。挙げ句、ドーナツ作りを強制されたのだからたまらない。
 朝の労働後、母と私はマッカーティー夫人を訪問した。夫人は在宅で、養女である清国の少女ユウメイもいた。
「ユウメイ、貴女の部屋にクララさんを案内しておあげなさい」
 母を客間に案内した夫人がそう仰ると、清国人の養女であるユウメイは無言でコクンと頷いた。夫人によると、ユウメイはまだ十三歳なのだという。私より三つも年下なのに、私よりずっと大人びて見える。ユウメイは清国風に、長いゆったりしたスボンの上に肩をボタンで留めたブラウスを着ていた。無言で前を行くユウメイの背中を追っているうちに、なんだかこちらが気圧されてしまいそうになる。
「……どうぞ。お入りになって」
 ユウメイが玄関先での挨拶以来、はじめて口をきいた。部屋に入るだけのことなのに理由もなく身構えてしまったけれど、意外と部屋の内装はごく普通の少女のそれだった。
 と、ベットの上に別のブラウスが並べてあるのが目に入った。
 ユウメイに伺うように視線をやると、またコクンと頷いたので私はそれを取り上げてみた。
「うわーきれい!」
 思わず感嘆の声を上げてしまった。今ユウメイが着ているものよりも、デザインはずっと洗練されているブラウス。あ、でも、これはちょっと……
「お母様には流石にこれでは短すぎますわ、とちゃんと云いましたのよ!」
 初めて感情を露わにしたユウメイの言葉に、私はようやく緊張がほぐれた。思わず笑みがこぼれる。
「いつもはこんな破廉恥な服、着たりはしませんのよ。いつもは膝の下までくるのをちゃんと着ているのですからね!」
 アメリカに二年いたユウメイは英語をわたしと同じくらい上手に話す。……うーん、それも我が事ながら、どうかと思うのだけれど。
「わたくし、将来は先生になるつもりですの」
 ようやく互いにうち解けて話せるようになると、ユウメイはきっぱりと云った。
 私はちょっと吃驚して、うっかり「え、あなたが!」と云ってしまった。
「あら、どうして先生になっちゃいけないの? 他の人だってなるでしょう」
 ユウメイは少し気分を害した口調で云ったので、私ははっとして言い直しをした。
「わたくし、ヨーロッパに行って教育を終え、十八歳までには自立したいと思っておりますの!」
 こういう独立心に富んだ話し方は清国の女性にはまったく新しいことだ。なんて面白いんだろう! 本当にいろいろの人がいるものだ。
 私はこの清国の少女がとても気に入った。アクセントまでアメリカ少女そっくりだった。お兄様がサンフランシスコ領事館にいて、ご両親は亡くなったそうだが、お父様はきっとクリスチャンでいらっしゃったと思う。私は清国に行ったことがないから、勿論よく分からないが、裕福な家庭の出ではないらしい。ユウメイの精神には敬服する。
 この後、マッカーティー夫人が来られて、自然美を誇る加賀屋敷のお庭と池を案内して下さった。

明治9年11月28日 火曜日
 今日、ホール・アンド・ホルツの店で新しい服を試着してみようと思い、一時の汽車で母と横浜へ行って、五時か六時に帰って来た。
 横浜はとても静かだった。景気が悪くて会社がいくつか潰れたのだという。私たちは用事を早めに切り上げて、その辺を歩き回った。ヘップバン家の若夫人とミス・マクニールと、公使館のスティーヴンズ氏に会った。
 夕方矢田部氏がみえて、九時半までいた。非常に丁寧で愛想良く、今までのことはもう過去のことのように思われたので、私はとても気が楽だった。
 矢田部氏はとても物静かで感じがよく、長居はしなかった。ひどい風邪をひいていて、咳が烈しいので、薬を調合してあげた。
「ああ見えても、矢田部氏は英文学にも大変造詣が深いのですよ」
 中原氏や富田夫人によると、そういうことらしいのだけれど、正直私には信じられない。

明治9年11月29日 水曜日
「クララ! 早く起きて服に着替えなさい!」
 突然開け放たれた扉に、私は跳ね起きた。
 一体何が? そう思う間もなく、慌てて部屋に入ってきた母が寝室のカーテンを引く。
北の空が朱に染まっていた。あの方角は……皇居のお堀の方?
 今まで見たこともないほどの大火事だった。
 恐ろしい早さで次々と燃え広がっていくので、見る者は皆、恐怖におののいた。
 炎はどんどん高く上がり、真っ赤な光が夜をあかあかと照らした。おまけに風が強くなって、火の悪魔の破壊作業に手を貸した。
 結局、築地に向かって一直線に二マイル燃え広がり、運河や橋を沢山越えて……なんとか海岸通り沿いで食い止められた。少なくとも銀座の町の三分の一を嘗め尽くしたようだ。
 もし風が北から西に変わっていたらこの家も駄目だったろう。私たちは成り行きを、もうはらはらしながら見守っていた! 
 うちの向かい側の公園には、焼け出された人が沢山、持てるだけの家財道具を持って集まり、また木挽町十丁目には燃え移ったときに備えて消防隊が待機し、警察隊も出勤して、焼け出された気の毒な人々の荷物を護った。
「早くお米とお茶を提供しないと」
 母はすぐにも準備して駆け出しそうになっていたけれど「今の状態で火事場に行くのは危険だ」という兄の反対を受けて、とにかく朝まで待つことにした。
 火は昨晩から今朝の七時頃まで燃え盛り、その後下火になった。
 おやおさんの使用人が、我が家が無事かどうか見に来たのは午前四時過ぎだった。六時にもう一人の使用人が来て「ご無事で何よりでした」と云い、焼けた地域が丁度令嬢たちの通り道にあり、非常に混雑するので、今日は参られませんと告げた。
 正午には家臣のサムライがお見舞い品と松平夫人の挨拶を届けに来たが、これが日本のしきたりなのだ。ある人の家の近くに火事があると、友達がみんな品物を持って、お見舞い品の挨拶などに行く。もっともその家が焼けていなければ、たいていお茶をご馳走になって帰ってくるのだけれど!

 朝食後、焼け跡を見に出かけた。家財道具やくすぶっている灰の山の並んだ通りを縫って行くと、あうちこちで人々が忙しく立ち働き、景観が何かと手助けしていた。
 この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。
 笑ったり、喋ったり、冗談を云ったり、煙草を吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに 助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。
家から追い出されながら、それを茶化そうとつとめ、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった。子供たちですら、まるで静かに楽しんでいるかのようで、仕切った荷物の山を次々と駆け回り、隣人の荷物を調べるように覗き込んでいた。
 ウイリアムズ主教の礼拝堂と家に着いてみると、すっかり灰になってしまって、石の土台しか残っていなかった。
 ブランシェー氏がそこらいらっしゃり、ソーバー夫妻とミス・ホワイティングとウォデル氏も集まっておられた。ブランシェー氏は「何もかもなくなりました」と仰った。三台のオルガン、書物全部、衣類など、ブランシェー氏の持ち物はみんな焼けてしまったのだ。ディヴィッドソン氏も全焼した。
「入船町」という店も廃墟と化していた。だけど、驚くべきはこの後のことだ。
 経営者がやってきてお辞儀をしたかと思ったら、こう云ったのだ。
「自分の荷物は倉庫に入っていて皆無事でした。新しい店はすぐ出来上がります」
私たちは煙と忙しく動き回っている人々の間を通り抜けて行った。既に職人達がせっせと焼け跡を片付けていて、驚嘆したことには、あちらこちらに新しい建築物の枠組みが建てられていた。その進行の早さは驚くべきものだった。確かにこの人達は、いざという時には進取の気性を発揮するのだ。
 私たちは現場の外れまで行って、焼け跡を全部見た。
 綺麗な公園内にあったオーストリア公使館も丸焼けで、黒ずんだ四本の煙突が、痩せこけた幽霊のように、にょきっと立っているだけだった。
 焼けた地域のあちこちに、耐火構造の蔵が無傷で、ドルドイ教徒の遺跡のように残っていたが、それは確かに奇妙な光景だった。
 新聞の報道によると、六マイルにわたって消失し、死者は十人で、一万から二万の家が焼けたと云うが、日本の数字は当てにならない。警察署が二つと、政府の建物も二つ焼けた。焼け跡はすっかり見たので、京橋に出て家に帰った。丸善も焼けていた。

明治9年12月2日 土曜日
 今朝令嬢たちが来てから、団子坂の菊人形を見に出かけた。母とアディ、ウィリイとモモタロウ、お逸と私、おやおさんとおすみというように組んで十一時に出発した。
 まず上野に行って昼食をとり、済むとまた人力車に乗って団子坂に向かった。
 団子坂はあまり綺麗なところではなく、小さな家がごちゃごちゃしていて、あかぎれを切らした小さな子供たちが鼻水を垂らしていた。
 だけど、今日はこんなものを見に来たのではない。高貴な花、菊を見に来たのだ!
 坂になった狭い通りに面して、外側に提灯と紙製の花を吊した小さな門があり、字が書いてあって、中の人形が何を意味しているのか説明してあった。その様子を簡単に書き記してみよう。
 最初の門を潜って、竹の簾の後ろを通って行くと、白い木綿で作った兎の頭を持った男の人――全部菊で出来ている!――が目に入ったけれど、見ているうちにその頭が上下に動いた。
 隣には、富と幸福の神、大黒を象った人形があり、高く上げた手に米俵を持って、揺れながら驚くべき早さでくるくると回っていた。
 菊の衣装はとても巧妙な作りで、坐った姿勢などは実に見事だった。大黒の頭は石膏で出来ており、背景には松と竹が風雅にあしらってあった。
 次々と進んで行くと、色々なものがあった。
 常緑樹で作った鐘をついている人。
 狐の尾を烈しく振っている女の人。
 藪から顔を出し、鳴き声を上げている二匹の子狐。
 桜の花を集めている二人の貴婦人と一人のサムライ。
 手足の麻痺した夫を荷車に乗せて、治療のために箱根温泉に連れて行く女の人。
 女を殺している男。
 ひっくり返ったベンチから老人が転げ落ちるのを見て笑いながら立っている茶屋の女。
 小川を覗き込んでいる貴公子。
 着物を洗っている女を見ようとして空から転げ落ちてくる神様。
 木の柄杓をサミセンとして、洗濯ばさみをばちにして弾いている狐の女。
 老人の頭を口から覗かせている巨大な蛙。その人は口から水を吐き、眉を上げていた。
 上方の土手にいる一人の男が、丁度カトリックで十字を切るときのように、魔除けの、或いは怯えた時の印として、右手の人差し指と中指を左の手のひらに握りしめていた。
勿論、これらは皆、歴史的に有名な場面から取られていることなのだけれど、私には一つか二つ、例えば「刀鍛冶」とか、将軍に直訴したため、磔になった男と妻と二人の子供、といったものしか分からなかった。
 花の細工は完璧で、着物、背景の配置の仕方、人形の位置などに巧妙な工夫が凝らされていた。六時に帰宅した。

明治9年12月4日 月曜日
 いつものようにお逸が来た。授業の後、一緒に銀座へお使いに行った。とても優しい人で、私たち二人は大の仲良しだ。
 祈祷会の始まる頃、富田夫人がご兄弟と来訪され、ご主人からと云って私に新しい本を下さった。四十七士の話『忠臣蔵』の英訳である。奥様は富田氏と一緒に上海へ行かれることになって、洋服をお召しになるので、母が準備のお手伝いをすることになった。
 夕食後、矢田部氏がみえたが、この前の訪問から一週間も経っていない。今日の矢田部氏はひどかった。私の手を取ろうとするのを母が見て、私を部屋の外に呼び出してこう云った。
「矢田部さんは小さな事でも大袈裟に話す人で、日本人の知人も多いし、面倒なことになるといけないから、馴れ馴れしいことをさせては駄目よ」
 矢田部氏のすぐそばに坐るのが嫌で嫌で泣き出したくなったけれど、母は本当によく私の気持ちを分かってくれた。
「今度みえたら外に連れ出してあげますから」
 矢田部氏は帰る時、綺麗な小さな襟止めを私に預けていった。
 それは三角形で真珠が十個とエメラルドが一つついている。何かの協会の記章で、片面に「コーネル」、裏側に「デルタ・ファイ」と「R・ヤタベ」と書いてある。
 本当に下さったのかどうか分からない。
 ただ「取っといて下さい」とかなんとか云われただけである。ウィリイと私がすぐそれを母の所に持っていったら、母は取り上げてしまった。
しおりを挟む

処理中です...