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  序章 女神と世界を統べる者たち

1話 女神の決意

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 周囲は静寂せいじゃくに包まれ、波の音と海鳥の鳴き声が響き渡るだけ。ここは人っ子一人いない、さびれ切った海岸沿いだ。見上げれば少し前まで真っ暗な闇におおわれていた空に、淡い青色が混ざり始めている。そして今度は視線を前に移すと、思わず息を飲む光景が。なんと水平線の向こうからまばゆい光が顔を出し、空と海をあざやかなオレンジ色の光に染めていったのだ。まるで闇に閉ざされていた少女の、これからの希望に満ちた人生を暗示するかのように。
 そんな心を奪われるようなきれいな夜明けの光景。さらにはほおをなでる清々しい潮風により、眠気が一気に吹き飛んでいったといっていい。現在七歳の少女である柊那由他ひいらぎなゆたは、目をかがやかせて水平線をながめていた。

(――これでやっと、あの研究所から自由になれるんですね……)

 ふと感慨深い思いがこみ上げてくる。
 本来、那由他は研究所に隔離かくりされた存在であり、外に出るということを禁じられていたのだ。それはこれからも変わらずにずっと続くものだと思っていたのだが、この日は急に謎の白衣の男が現れて状況が一変した。なんでも彼は本物の研究者でなく凄ウデのエージェントで、ある任務のために研究所に潜入していたそうだ。そしてその任務もおわりに近づき、那由他を自由にしてくれるとのこと。しかし自由といっても那由他は普通の生活を送れるわけではなく、白衣の男が属する組織に引き取られる形になるらしい。つまるところ那由他は白衣の男と同じ、エージェントとして生きていくことになるのだ。ただ、そのことに関してまったく不満はなかった。あの研究所から出られるというだけで充分だったのだから。
 これまでの出来事を思い返していると、迎えのボートが那由他たちの方へ近づいて来るのが見えてきた。

「――おじさんは一緒に来てくれないんですよね……」

 後ろを振り返り、そばにいた三十代前半ぐらいの白衣を着た男にたずねる。

「――ああ、すべてをおわらせるためにも、僕には最後の仕事が残っているんだ。だからきっと那由他ちゃんにはもう会えない。無責任かもしれないけど、これからはきみ一人でがんばっていくしかないんだ」

 そう、この時をもって彼とは別れなければならない。
 白衣の男はこれから研究所に戻り、最後の後始末をつけに行くらしい。その最大の問題点は帰り道の切符きっぷがないということ。彼は任務を達成するためにここでその生涯しょうがいをおえるのだ。
 だからこそ那由他はこの白衣の男といる最後の時間に、やらなければならないことがあった。助けられた恩を返すのは、今この時しかなかったから。

「――おじさんの子供の名前を聞かせてください」

 これは一緒に逃げ出している時にふと聞いた話で、彼には那由他と同い年の息子がいるそうだ。その子は母親を早くに亡くしており、さらにこのままでは父親も帰れないということもあって、白衣の男の親友に預けられたと聞いていた。

久遠くおんレイジっていうんだ。ちょうど那由他ちゃんと同い年だね」
「――久遠……、レイジ……」

 聞かされた名前を那由他は万感の想いを込めてくり返す。その名前を心の奥底に深くきざみ込むかのように。
 今の那由他にあるのは、助けだしてくれた白衣の男にどうやって恩を返すかということだけ。ゆえに自分は今なにをするべきなのか。答えはすでに決まっていた。

「――決めました! おじさんの代わりに、わたしがレイジくんのことを見守ってあげます! たとえ彼がどんな道を選んだとしても、この未来の美少女エージェント! 柊那由他ちゃんが、レイジくんの味方であり続けてみせますから!」

 夜明けの水平線をバックに、バッと両腕を横に広げる。そして白衣の男を安心させようと、陽だまりのような笑顔全開で宣言した。
 これこそ今の那由他にできる唯一の恩返しであろう。もちろん言葉だけで済ます気はない。柊那由他は今の宣言をなにがあっても叶えてみせる覚悟がある。それを白衣の男に伝えるためにも、自身のすべての想いを込めて告げた。

「――そしていつの日か、わたしがこの力を使ってレイジくんを……」
 ふと強い風が吹いた。その音のせいで那由他の言葉はかき消されてしまう。しかし、目の前にいた白衣の男にはぎりぎり伝わったようだ。
「ははは、それはいい。ならレイジはさしずめ、幸運の女神めがみ様に愛された存在というわけだ!」

 白衣の男はその言葉を聞いて、那由他がこの先やろうとしていることを理解したのだろう。まるで肩の荷が下りたかのように笑っていた。

「だから安心してください、おじさん!――わたしが必ず実現してみせますので!」

 彼の心から救われたというような安堵あんどの笑みを見て、自分の選択が間違っていなかったことを知る。彼にとって息子のレイジのことが、唯一の心残りだったのだろう。レイジのことを話しているときは一見なんともなさそうに見えて、どこか無理をしている感じだったのだ。
 だから那由他はこの場でちかいを立てた。決して今の自分の宣言が嘘にならないようにと。彼の満ち足りたような笑みを見詰めながら、そう想ったのだ。

「ありがとう、那由他ちゃん。だが、レイジにしてくれるのは初めのだけで十分だよ。こんな可愛い女の子が味方でい続けてくれるなんて、本当にあいつは幸せ者だ……」
「――え? でもこの力を使えば……」
「那由他ちゃん、最後に一つ言わせてくれ。もし本気でその力を使う気なら、きみが本当に力になってあげたい人のために使うべきだ。――それも心から信頼できる人だけにね……。なぜならその結果、引き起こされる事態はとてつもないものだから……。この言葉の意味わかるね?」

 突然白衣の男が那由他の目線に合わせてしゃがみこみ、真剣な表情でかたり始める。
 その雰囲気に押されてか、那由他はただうなずくしかない。

「――えっと……、わかりました……」                
「よし、いい子だ。じゃあ、おじさんはもう行くよ。微力ながら、那由他ちゃんの人生が幸せになれることを心からいのっているよ」

 白衣の男はほほえみ、那由他の頭を優しくなでてくれる。それはまるで本物の父親が、娘の頭をなでるような感じですごく温かかった。
 しかしそれもすぐにおわり、彼は立ち上がってしまう。これが本当の最後の別れになってしまうのだろう。だからこそ自分のありったけの想いを込めて、感謝の言葉を伝えた。

「――ありがとう、おじさん……。また必ず会いましょう……」
「――ははは……、ああ、必ずだ……」

 白衣の男はボートが到着したのを確認して、元来た道を歩いていく。おそらくこのまま研究所の方へと戻るのだろう。
 その後ろ姿を見つめていると、彼の仲間の男がボートに乗るように指示してきた。
 那由他がその指示にしたがい乗り込むと、すぐさまボートが発進する。そして海岸から離れていく中、那由他はもう一度白衣の男の方を見た。彼は今だ元来た道を歩いていたが、その後ろ姿はどんどん小さくなっていってしまう。その距離が広がっていく光景は、もう二度と白衣の男とは会えないというような確信めいた予感を湧き上がらせた。
 だから那由他は最後の別れの言葉としてぽつりとつぶやく。

「……バイバイ……、おじさん……」

 こうして柊那由他は一人の男の手によって、自由を得たのであった。

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