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最愛なるわたくしのご主人様へ捧ぐ
しおりを挟む「ねぇ、シャンディ!」
「はい。なんでしょうクリス坊ちゃま」
温かな春の日差しが降り注ぐ庭園で、背の小さな少年が私の左手を握りしめる。私はその小さな手を優しく握り返すと、彼の目線まで腰を落としてあげた。
「僕のお嫁さんに……なってくれないかな?」
渾身の勇気を振り絞ったのだろう。彼は瞳を潤ませながら私にそう問いかける。少し間が空き、お屋敷の庭園を駆け抜ける風が彼の柔らかい金髪を優しく撫でていった。
「く、クリス坊ちゃま。それは何かのご冗談ですか?」
「本気だよ! 僕、シャンディのことが好きなんだ!」
――あらあら、これってもしかして? まぁまぁまぁ!!
まだ十二歳の小さな男の子だと思っていたのに、いつの間にかこんなに大きくなっちゃって……。わたくしの方が六つも年上なのに、不覚にもグッときてしまった。さすがは私の天使……!!
私はこの可愛らしい告白に思わず口元に手を当ててしまう。
くぅ、本当は「よく勇気を出して言えましたね」って褒めてあげたい。今が仕事中でなければ、そのまま抱きしめて差し上げたのに。
そしてそんな彼を愛おしそうに見つめると、ゆっくりと首を横に振った。
「残念ですが……それはできかねます。坊ちゃまはまだ未成年ですので」
平常心を取り繕いつつ、つとめて冷静にご説明申し上げる。
すると彼はみるみると表情を変えていき、最後には目に涙を浮かべて声を上げた。
「そ、そんなことないよ! 僕は本気で言ってるんだよ!?」
「いいえ、坊ちゃまはまだ世間のことを何もわかっておりません。それにきっと……いえ、これは言うべきではありませんでした」
危ない、危ない。つい口が滑るところだった。
大人になれば、メイドのわたくしなんてどうでもよくなる。だけどそんなこと、幼い彼に言うべきじゃないわね。
「……それはシャンディが僕のメイドだからってこと?」
「そうですよ。クリス坊ちゃまはこの広大な領地を治める、由緒あるロンド侯爵家の男子なのですから。高貴な血を引くクリス坊ちゃまが、私のような者と婚姻なんて……絶対に許されませんよ」
「でも僕は次男だし、この家を継がないじゃないか!」
それじゃ納得できないと、彼はぶぅーと頬っぺたを膨らませた。
ふふふ、拗ねたクリス坊ちゃまも実に愛くるしい。好き。頬っぺツンツンしたい。
「もういいよ! どうにかしてシャンディをお嫁さんにするんだから!」
「あっ、坊ちゃま……」
クリス坊ちゃまはさっきまで仲良く繋いでいた手を離すと、トテトテと小走りでお屋敷の方へと行ってしまった。その去り際、心なしか目が潤んでいたような気もする。
――あぁ、尊いわ……。
わたくしは空いた左手から熱が消えていくのを感じながら、小さくなっていく後ろ姿をいつまでも見つめていた。
純粋無垢な男の子が大人になっていく様をこうして間近で眺められるだけで、メイド冥利に尽きるわね。むしろこういう楽しみが無いと、こんなハードな仕事を続けてなんていられないもの。
――ドンッ!
「うわっ!?」
「クリス坊ちゃま!?」
わたくしが目を離した隙に、クリス坊ちゃまの驚いた声が耳に入った。慌てて振り返ると、そこには尻もちをつく彼の姿があった。どうやら誰かにぶつかったようだ。
「あいたたた……」
「大丈夫ですか、クリス坊ちゃま」
わたくしがいておきながら、なんという失態でしょう。目にもとまらぬ速さで駆け寄り、状態を確認する。良かった、ズボンが少し汚れてしまったぐらいで、特に大きな怪我はしていないみたい。
「ちっ、クソチビのせいで俺の服が汚れちまったじゃねぇか。これから出掛けるっていうのに、いったいどうしてくれんだよ!?」
そう吐き捨てたのは、クリス坊ちゃまの兄であるライル様だった。彼はロンド侯爵の長子であり、将来は当主の座に収まる人物である。
そんな彼はまだ痛みで立ち上がれない弟に手を差し伸べるでもなく、侯爵閣下譲りの冷めた瞳でクリス坊ちゃまのことを文字通り見下ろしている。
「ライルお兄様……ごめんなさい」
「おい、シャンディ。お前がついていながら何をしているんだよ」
「……申し訳ございません」
せっかくクリス坊ちゃまが謝罪されたというのに、ライル様は一瞥もくれず、私に向かってそう告げた。私はただ頭を下げて謝ることしかできず、悔しさに奥歯を強く噛み締める。
するとライル様はわたくしに近寄り、耳元で囁いた。
「何のために俺がお前をクリスに寄越したと思っている。しばらく俺の傍にいなかったせいで、メイドとしての自覚が足りなくなったんじゃないのか?」
「……っ!!」
それはとても冷たい声で、まるで氷柱のように私の心を貫いていった。
「おい、シャンディ」
「なんでしょうか」
「今晩、俺の――」
「……!!」
そんな私を見たライル様は最後にひと言伝えると、迎えに来ていた馬車に乗ってどこかへと行ってしまった。
「…………」
「ゴメンね、シャンディ。僕、ちゃんと前を見ていなくて」
「いえ、わたくしの方こそ呆けてしまっておりましたので」
立ち上がったクリス坊ちゃまは顔を涙でグチャグチャにさせながら、わたくしのメイド服の裾を握りしめた。怖いお兄様相手の前では泣くのを我慢できたけど、今になって耐え切れなくなったみたい。
わたくしは溢れそうになる感情を押し殺しながら、優しく微笑みかける。
そしてポケットに入っていたハンカチーフを取り出すと、彼の顔についた涙を拭った。
「シャンディ、何かお兄様に言われていたみたいだけれど……」
「……クリス坊ちゃまが心配するようなことは、何もございませんよ」
わたくしの顔が強張っているのがわかったのだろう。気遣わしげにこちらを見上げるクリス坊ちゃまに、私は精一杯の笑顔を浮かべた。
――大丈夫。あの程度のことで動揺したりしない。だってこれはいつものことなんだから。
そう、これは日常茶飯事。だからわたくしは平常心を保ち続けなければならない。それがロンド家のメイドとして、クリス坊ちゃまの専属として働く、わたくしの使命なのだから。
わたくしは屈んで背を合わせると、クリス坊ちゃまの頭を優しく撫でた。それで安心したのか、彼は猫のように目を細めた。
「さぁ、坊ちゃま。お屋敷に入りましょう。コックに言って、今日は焼き菓子を作ってもらいましょう」
「ホント!? 僕、クッキー大好き!」
わたくしの提案に、クリス坊ちゃまはパァッと表情を明るくさせた。
ふふ、すっかり元気になって良かったわ。……でもクッキーが“大好き”でわたくしが“好き”なのはちょっと納得いきませんわね。
そうして二人で手を繋ぎ、仲良く歩き出す。
ライル様が去り際に言った言葉を、今だけは思い出さないように。
『今晩、俺の部屋に来い。話がある』
――大丈夫。わたくしは大丈夫。
わたくしは自分に言い聞かせるように何度も繰り返し唱え続けた。
◇
「ほう、素直にやって来たか」
日中の業務を終えたわたくしは、ライル様の自室へと来ていた。扉を開けると、中にはライル様が一人でソファーに座っている。どうやら葡萄酒で晩酌していたようだ。
わたくしは小さく会釈をして部屋に入ると、後ろ手で扉を閉めた。
部屋の中は薄暗く、窓にはカーテンが引かれており、唯一の光源は天井に吊るされたランプの光のみ。その明かりに照らされて浮かび上がるライル様の姿は、まるで悪魔のようだった。
「ただのメイドであるわたくしに、拒否権はございませんので」
「ふん、良い心掛けじゃないか」
彼はグラスを手に取ると、妖艶な笑みを浮かべながら私に問いかける。
それは言葉とは裏腹に優しさなど少しも感じられないほど、ひどく冷たい声色だった。
「最近のお前は屋敷で見かけても素っ気ないからな。頼んでおいたクリスの報告も、上がってくる頻度が落ちた」
「それは報告する内容が無いからです。クリス坊ちゃまは素直に育っており、問題となる言動もございませんので」
「兄貴である俺と違ってか? ハハハ、皮肉まで言うようになるとはな!」
ライル様は大きな声で笑い出した。しかし目は全くと言っていいほど笑ってはいない。むしろ瞳の奥で怒りの炎を燃やしている。
わたくしは視線を逸らすことなく、真っ直ぐに見つめ返した。
するとライル様はワインの入ったボトルを掴むと、そのまま中身を自分の口に流し込んだ。
ゴクゴクと喉仏が上下し、あっという間に空になったそれをテーブルの上に置くと、再び鋭い眼差しを向ける。
「テメェのご主人様は誰だ?」
「……ライル様でございます」
「だよなぁ!? 父上が見つけてきたメイドだかは知らんが、クリスよりも先に俺が目をつけてやったんだ。お前は俺のモンだ。あのチビにはやらねぇ」
ライル様は立ち尽くす私に近づくと、いきなり胸ぐらを掴んだ。そしてそのまま力任せに引き寄せると、乱暴に唇を重ねてきた。
舌先で強引に口をこじ開けられ、口内へ液体を流し込まれる。鼻腔をくすぐる芳しい香り。これはきっと上質なものに違いない。だけどお世辞にも美味しいとは思えなかった。
コクリと飲み干すと、ライル様はそのまま私の腰を抱き寄せた。そして更に深く唇を合わせ、今度は口腔内に残っていた葡萄酒を余すところなく舐め回される。
長いキスの後、ようやく解放された時にはもう息が切れていた。ライル様はそんなわたくしを満足げに眺めながら、ニヤリと意地悪く笑う。
わたくしは乱れた呼吸を整えつつ、平静を取り繕った。
――大丈夫。この程度、慣れっこだもの。
そう、これはいつものこと。だから私は動揺なんてしない。
わたくしの態度が気に食わなかったのか、ライル様は眉根を寄せた。
「ライル様。お酒の飲み過ぎはあまり……」
「うるせぇ、母親みたいなことを言うんじゃねぇ」
赤らんだ顔が目の前にくると、酒精の匂いがツンと漂った。思わず背けようとするも、ライル様は わたくしの顎を右手で掴んで離してくれない。
しかしそれも一瞬のことで、彼はすぐに元の調子を取り戻すと、わたくしの耳元で囁くように告げる。
「まぁいい。俺は今、大きな商売を始める前で気分が非常に良いんだ」
「……それは初耳でございます」
「あぁ、これは父上にも言っていないからな」
ニィ、と笑みを深くするライル様。わたくしは嫌な予感を覚えた。
「これは他の誰でもない、次期当主となる俺が始める商いだ。そして必ず成功する……ククッ、父上の驚く顔が浮かぶようだぜ」
「あの、それはどのような商いなのですか?」
「ん? お前も興味があるのか」
ライル様の指が わたくしの頬を舐めるようになぞる度に、ゾワゾワとした嫌悪感が背筋を流れていく。
それでも表情に出さぬよう努めて冷静さを装うと、わたくしは真っ直ぐにライル様を見据えて尋ねた。
「もしやライル様は、何か危ない取引をなさるおつもりなのでは……」
「あ? まさかお前、俺のやることにケチつける気か?」
「しかしそれがもし、閣下にバレたら!」
わたくしの言葉にライル様は大袈裟に肩をすくめた。そしてわたくしの顔を覗き込むと、深い笑みを浮かべる。
「……じゃあ聞くが、逆に危険のない取引きなんてこの世に存在するか? そんなモンねぇだろうがよ!」
「そ、それは……」
ライル様の言うことは尤もだ。
だが彼はまだ未成年であり、成人前。その若さで商人としての手腕を振るおうとしているのは凄いことだとは思うけれど、やはり世間知らずな一面もある。
このままではいつか、痛いしっぺ返しを食らうのではないだろうか?
「お前は黙って俺に従っていれば良いんだよ。この商売が軌道に乗れば、お前もクリスも幸せになれるだろうが」
「い、いえ、それは……」
「なぁ、シャンディ。お前は可愛い奴だよ。従順だし、体つきも良い」
ライル様は再び私の唇を奪うと、そのまま床に押し倒した。
ギシッという音と共に背中に伝わる衝撃。覆い被さってくるライル様の顔は、先程よりも赤く染まっているように見えた。
「何より俺の言いなりになりつつも、クリスを大事にしてるところが最高だ。心配しなくとも、あいつには何もしない。だから大人しく―――」
「おい、何をしている」
突如現れた第三者の声に、私とライル様の動きが止まる。
聞き覚えのある声。それはライル様の父であるロンド侯爵閣下のものだった。
「ち、父上!?」
「ノックをしても返事が無いから入らせてもらった。ところで――シャンディはクリスのメイドだったと記憶しているのだが?」
閣下はライル様を押し退けると、その鋭い眼光でこちらを睨め付ける。
わたくしは慌てて起き上がると、乱れた衣服を直した。
その様子を見ていたライル様は、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……シャンディ。キミは部屋に戻りなさい」
「父上、待ってください! 俺の話も聞いてくださ……」
「ライル。これ以上、私を失望させるな」
「……はい」
ライル様は肩を落とし、大人しく引き下がっていった。その姿はまるで親に叱られた子供のように小さく見える。
わたくしはは改めて深々と頭を下げると、静かに部屋を後にした。
ライル様の部屋を出て廊下をしばらく歩いたあと。わたくしは大きく息を吐いた。
「ふぅー……。なんとかなりましたか……」
「ふふ、間一髪でしたね?」
「ひゃうっ!?」
突然聞こえた声に驚き、思わず変な悲鳴を上げてしまう。
「驚かせてしまいましたか?」
「い、いえ。私こそ大きな声を出して申し訳ありません。……ですがどうしてチャールズ様がここに」
薄暗い廊下を振り返ると、そこには片眼鏡を掛けた執事が暗闇の中に佇んでいた。
わたくしはバクバクと高鳴り続ける胸を押さえながら、チャールズ様を問い詰める。
しかし彼はクスリと笑うと、意味ありげな視線を向けてきた。わたくしは眉根を寄せつつ、彼の言葉を待つ。するとやがて、彼は口を開いた。
「たまたまこの廊下を通りかかっただけですよ。そうしたら焦った様子の貴女が見えたので」
「……チャールズ様も見ていたのですか?」
「同じ使用人ですし、ボクのことはチャールズで。しかし見ていたとは……はて、何のことでしょうか」
惚けるように微笑む彼を見て、わたくしは大きな溜息をつく。
彼はわたくしの先輩使用人で、年齢はわたくしと同じ十八歳ぐらい。非常に優秀らしく、侯爵閣下のお気に入りとして常に傍でその腕を振るっている。それに見た目も……ただの執事にしておくには勿体ないほどの美少年だ。
そんな完璧な彼には、どうやら全てお見通しらしい。
ならばもう下手に誤魔化す必要もないだろうと、わたくしは先程の一件について語り始めた。
「ほう、それは災難でしたね」
「えぇ。でもまさかライル様があそこまで暴走するなんて……」
「彼は次期当主という立場上、様々なストレスを抱えているでしょうからねぇ。そこに年上女性の魔力を受けて、つい魔が差してしまったんでしょう。まぁあの年頃ならよくあることです。特に貴族であれば尚更」
「年上女性の魔力って……まるでわたくしが魔女みたいな言い草ですね」
そう言って笑いかけると、チャールズ様は目を細めて笑みを浮かべた。その表情にドキリとする。
なんだろう? 普段は無愛想なのに、こういうときに限って優しい笑顔を見せるんだもの。本当にずるいわ。
そんなことを思っていると、不意に彼が話し始めた。
「大丈夫。ボクに任せてくれれば、きっとすべては上手くいきますよ」
「……チャールズが?」
「ええ。ボクの出す条件を飲んでくださるのなら、貴女の望みは全て叶えると約束しましょう」
「わたくしの……望みですか」
そう呟き、少し考える。
そういえば聞いたことがある。この屋敷には、優秀な使用人を自分の味方に引き入れようとする人物がいると。彼の目的は知らないけれど、怪しさ満載だ。
だけどわたくしもこの仕事が気に入っている。なによりクリス様のいない生活なんて考えたくもない……。
そしてわたくしは彼の瞳を見つめ返すと、ゆっくりと首を縦に振った。
◇
「ライル様! これは一体どういうことですか!」
あの深夜の呼出しから数日後。わたくしはライル様の部屋の前で大声を上げる。
しかし彼からの返事は無い。
仕方なく扉を開けると、中へと足を踏み入れた。
部屋の主であるライル様は、椅子に座って机の上に置かれた書類を眺めていた。
わたくしの声に反応して顔を上げたものの、すぐに興味なさそうな表情に戻る。そんな彼の態度を見た瞬間、わたくしの中で何かがプツンッと切れた気がした。
「クリス坊ちゃまには手を出さないというお約束だったではないですか!」
「さて、なんのことだか俺には分からないな」
「坊ちゃまが誘拐されたのですよ!? それもわたくしがライル様の言いつけで留守にしている間に……こんな偶然があってたまりますか!」
土に汚れたクリス坊ちゃまのハンカチを手に、わたくしはライル様に詰め寄る。しかし彼は悪びれた様子もなく、こちらを睨め付けてきた。どうやらシラを切るつもりらしい。
「……もういいです。今すぐ探しに行ってまいります」
「おい待てよ。そんな勝手が許されると思ってるのか?」
ライル様の手がわたくしの腕を掴む。
その力はとても強く、とても振り解けるようなものではない。
「何か問題でも?」
わたくしはキッと彼を睨み付けた。
しかし彼は怯むことなく、逆に不敵な笑みを浮かべる。
「大ありだ。街中でメイド姿のお前がクリスの名を叫んで探し回ってみろ。ロンド侯爵家の人間が賊ごときに拉致られたなんて外に知れたら、末代までの恥だろうが」
「貴方はクリス様の命と世間体を天秤にかけるおつもりで!?」
「勘違いするな。俺は別にそこまで非情な男じゃない」
「どの口でそんなことを……!」
その言葉を聞いて絶句してしまう。
この男はどこまで腐っているのだろうか。
「それにお前はクリスがどこにいるかも分かってねえんだろ?」
「それは……」
「仮に見つけたとしてもどうやって助け出するんだ? ひ弱なメイドが騎士の真似事でもする気か? そんなの無理だよなぁ?」
……悔しいけれど、彼の言う通りだ。
確かに今のわたくしはただの無能な女に過ぎない。
「なあシャンディ。俺だって何も意地悪がしたくて言っているんじゃない。ただ、お前のためを思って忠告してやってるんだぜ?」
「……どういう意味ですか」
「クリスが貴族として生きていくのは無理だ。気の弱いアイツは社交界でもやっていけないし、死ぬまで侯爵家の駒として生きていくのは過酷だろう」
それはきっと事実に違いない。
だからといって、わたくしがクリス様の傍を離れることなどあり得ない。第一、このことを侯爵閣下が知ったら怒るどころでは済まされないでしょうに。
そんなことはライル様だって分かりきっているはずなのに、いったいどうして……。
そこまで考えてハッとする。ある考えに思い至って、わたくしは怒りのあまり身体が震えそうになった。
「まさか、閣下もこのことをご存じで……!?」
思わず声が上擦ってしまう。
しかし彼は相変わらずニヤついた笑みを浮かべたまま、平然と答える。
「分かるだろ? 俺はただ、父上の代わりに行動に移しただけだ。ククッ、孝行息子だろう?」
「そんな……」
「だから、誘拐の件はお前の失敗じゃない。そもそもがロンド侯爵家における計画だったんだ」
「……」
「クリスは良い奴だったと思う。俺も本心ではアイツが嫌いじゃなかったさ」
そう言ってライル様は寂しげに笑う。
わたくしは何も言えず、黙ったまま俯いた。
――許せない。
貴族というのは、ここまで自分の利益しか考えられない生き物なのだろうか。あんなにやさしいクリス坊ちゃまを騙し、傷付けようとするなんて……。
この瞬間を境に、わたくしは決意を固めた。
この生活を守るためにずっと我慢していたけれど、それも必要なくなったから。
「――歯ぁ、喰いしばってくださいねライル様」
「なにを――グハッ!?」
ライル様が何かを言い切る前に、わたくしは彼の頬を思い切り殴ってやった。
その衝撃で彼の身体は椅子から落ち、床へと倒れ込む。
しかしわたくしの気持ちはこれっぽっちも晴れやしない。むしろ胸の中にモヤモヤとしたものが溜まっていくような感覚だった。
倒れたライル様を見下ろしながら、わたくしは今までの鬱憤を晴らすよう高らかに宣言した。
「クリス坊ちゃまは誰にも渡しませんわ。例え貴方たちロンド侯爵家であってもね」
「シャンディ……」
「わたくしは、自分の意思でクリス坊ちゃまをお守りすると決めたのです。それを邪魔すると言うのならば、たとえ侯爵閣下の命令であったとしても、わたくしは絶対に従わない」
わたくしの言葉を聞いたライル様は赤くなった顔を手で覆い隠しながら、ゆっくりと起き上がった。
「ふふ、そうかよ……そんなにもアイツが大事か」
そういう彼の瞳には、先ほどまでのような侮蔑の色はなかった。代わりに憤怒の炎を灯らせ、ギラリとわたくしのことを睨み付けてくる。
その迫力に思わず一歩後ずさりそうになるものの、わたくしはグッと堪えてライル様と対峙する。
しばらくお互いに無言のまま向かい合っていると、やがて彼は深いため息と共に口を開いた。
「なら仕方ない。申し訳ないが、お前は廃棄処分だ」
「なにを――」
そう言った途端、彼はポケットに隠し持っていたナイフを取り、わたくしに向かって突進してきた。
咄嵯に身を翻すが、不意を取られたせいでライル様の動きの方が僅かに早い。
ザクッと嫌な音がして、左肩に激痛が走った。痛みに耐えきれず、思わず膝をつく。
「っつぅ……」
「残念だよ、シャンディ。俺はお前のこと、けっこう好きだったんだけどな」
ライル様はわたくしの目の前に立つと、トドメを刺すべく刃を振りかざした。
――ごめんなさい、クリス坊ちゃま。
「ふぅ。無茶をするなぁキミは……」
「……えっ!?」
痛みがやってくるかと思ったその瞬間。聞き覚えのある声が聞こえたかと思うと、ライル様の手にあったはずのナイフが宙を舞っていた。
「チャールズ……?」
「すみません、シャンディさん。遅くなりました」
片眼鏡に執事服。鴉のような艶のある黒い髪と瞳。そしてこの世のものとは思えないほどの美貌の持ち主。
わたくしのピンチに現れてくれたのは、同僚のチャールズだった。彼はいつもの柔和な笑みを浮かべると、わたくしにそっと手を差し伸べる。
「あ、ありがとうございます」
「気を緩めるのはまだ早いと思いますよ。ほら、これを御覧なさい」
そう言ってチャールズは一通の手紙をわたくしに差し出した。刺された肩を押さえながら、わたくしは受け取った手紙を開く。
その内容を見た瞬間、わたくしは息が詰まるような感覚を覚えた。
「これは……!?」
「貴方の大事な人が拘束されている場所です。命はまだ無事のようですよ」
手紙には『クリス・ロンドは領都東にある廃屋にて発見し保護した。怪我はなし』という旨が書かれていた。良かった、無事だったのねクリス坊ちゃま……!!
安堵する私とは対照的に、信じられないとばかりに目を見開くライル様。
「……なっ、どうして貴様がそれを!!」
しかしチャールズはそんな彼を気にする様子もなく、涼しい顔で微笑んだ。
「チャールズ……てめぇ、何モンだ? さてはただの執事じゃねぇな?」
「いえいえ、ただの執事ですよ? あぁでも、少しだけ他の人より悪知恵が働くかもしれませんが」
そう言って彼はニヤリと笑った。
――わたくしがチャールズのことを苦手だと感じる、一番の理由。それは彼が常に笑顔を絶やさないこと。
普段から不気味なところがある彼だけれど、こうして味方でいてくれると何とも心強い。
「そうそう、ライル様が始めようとしていた新しい商売ですが……」
「あ?」
「隣国を相手に、禁制の薬物を取り扱おうとしたそうですね。残念ながら、そちらの証拠も押さえております」
「ま、待て。取り押さえだと!? お前にそんな権限はないだろうが!」
ライル様は慌てた様子で言い返す。
しかしチャールズは動じることなく、懐から新たに一枚の紙を取り出した。
あれは……契約書かしら? 隣で覗き見ると、確かに違法薬物を取り扱っている証拠が記されている。しかもその書面には、侯爵閣下が関与していたことも書いてある。
「なっ……」
「我が主は大変お怒りでしたよ。大物貴族の跡取りがこんなにも愚かだったなんて、とね。ですから、今回の件は到底見逃せません。もちろん、クリス様の誘拐もです。この件に関わった者は全員、相応の罰を受けて頂くことになります」
チャールズの言葉を聞いたライル様は一瞬だけポカンとしたが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「我が主だと!? ふざけるな、貴様の主は父上だろうが! だいたい俺は次期当主なんだぞ! お前ら二人とも、雇われの分際でタダで済むと思っているのか?」
ライル様はチャールズを指差して、唾を飛ばしながら叫んだ。
するとチャールズは小さくため息を吐きながら、彼に語りかける。
その表情は先ほどまでの柔和なものとは打って変わって、酷薄な笑みを浮かべていた。
――ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
「侯爵家なんて、ボクにとってはどうでもいい存在なんですよ。むしろ無能な貴族を潰せるなら、喜んで協力します」
「なっ……なんだと!?」
「だってそうでしょう?」
チャールズはそこで一旦言葉を切ると、わたくしの方へと視線を向けた。
「侯爵家が傾けば、領地に住む民が困るのですよ? 領民が貧困に陥れば、今度は国の税収が下がります。それは国家の損失です。何よりも領民の生活を守るべき立場にある者が、率先して悪事に手を貸していたなんて……恥を知りなさい」
チャールズの言葉を聞いたライル様の顔色が変わる。
「国、だとぉ? まさか貴様は……」
「ボクたちの本当の主は侯爵家ではございません。貴方がいくら権力をふりかざそうと、それは無意味です」
「俺たちより上の存在……ってそりゃ王族しかいねぇじゃねぇか」
呆然と呟いた後、ハッとした様子でこちらを見るライル様。
――ええ、その通りよ。
この場に居るわたくしとチャールズは、ある高貴な御方に仕える者なのだ。
チャールズは再びニッコリと笑うと、わたくしに向かって話しかけてきた。
「というよりボクたちはみな、とある人物の私生児ですので。単に血の尊さで言えば、貴方たちと同等か、それ以上ですよ」
「ちょっと、チャールズ!? それ以上は!」
「おっと、失礼。つい口が滑りました」
慌てて止めるも、時すでに遅し。
ライル様は口をあんぐり開けて固まっている。
まったくもう、この人は……。
「……いやはや、ボクと違ってシャンディさんは相当な演技力をお持ちですね。このお屋敷で見掛けた時は正直、とても驚きました」
「わたくしはプロのメイドですもの。これくらいできなくては務まりませんわ」
「な、ななな……シャンディまでコイツと同類だってのか!?」
ようやくわたくしの正体を理解したライル様は、わたくしとチャールズを交互に見て、ガタガタと震え出した。
「えぇ。もっとも、わたくしはチャールズみたいに、コソコソと悪事を探ったりすることはありませんけどね」
「任務を放ったらかしにして、まさか本物のメイドに徹するとは……我が主が知ったら嘆きますよ?」
「……さて、おしゃべりはここまでにしておきましょうか」
わたくしが話題を無理矢理に変えると、チャールズはやれやれと肩をすくめた。
「ま、いいでしょう。さて、これからライル様はしかるべき罰を受けることとなります」
「ぐっ……」
ライル様は悔しげに歯ぎしりするも、何も言い返せないようだ。
まぁ当然よね。証拠も押さえられている上に、こちらは二対一。どう考えても勝ち目はないわ。
しかしチャールズはまだ言い足りないようで、彼の前に歩み寄った。そして胸ぐらを掴むと、グッと顔を近づける。
「まったく。貴族は国家の犬だと弁えておけば良かったものを。ワンちゃんは、ご主人様に与えられたおうちで真面目に働くものですよ?? 野良で生きられるほど、貴方たちは強くないのだから」
「ひぃっ……」
うわぁ、凄まじく怖い。
ライル様もすっかり怯えきっているじゃない。
――仕方がない。そろそろ助け舟を出してあげようかしら。
そう思った瞬間、廊下の奥から複数の足音が聞こえてきた。どうやら、騒ぎを聞きつけた衛兵たちがやってきたらしい。
「……さて、これで一件落着ですかね」
「えぇ、そうね」
チャールズが振り返り、いつも通りの笑みを浮かべる。……だけど、わたくしは彼の笑顔が少し怖かった。
「シャンディさん。今からでもボクに乗り換えませんか? 自分で言うのもなんですけれど、ボクって優良物件だと思うんですよね」
「チャールズ、貴方って人は……」
「ふふ、冗談ですよ。まぁ、クリス様に愛想を尽かした時は是非」
チャールズはクスッと笑うと、再びわたくしの手を取った。
「さぁ、いつまでもボクに構っている場合ではないでしょう。ここは片付きましたし、そろそろ貴方の大事な人を迎えに行ってあげてはいかがですか?」
チャールズはわたくしの耳元で囁くと、優しく背中を押してくれる。……まったく、敵わないわね。
「ありがとう、チャールズ。クリス坊ちゃまを連れてすぐに帰ってきますわ」
「はい、お待ちしております」
恭しく頭を下げるチャールズにわたくしも一礼すると、その場を立ち去った。……さぁ、早くクリス様の元へ向かわないと。
わたくしは部屋を出ると、屋敷の外を目指した。
◇
「……うぅ。こ、ここは?」
「クリス坊ちゃま!!……良かった、目が覚めたのですね!」
ベッドの上で目を開けたクリス坊ちゃまに、わたくしはすぐに声を掛けた。
「んん……シャンディ? 僕は帰ってこれたの!?」
「はい、もちろんですとも」
「……っ、よかった」
わたくしの言葉を聞いた途端、クリス坊ちゃまはホッとした様子で涙を流す。……どうやら相当怖がらせてしまったみたいね。
「ごめんなさい、わたくしのせいで危険な目に遭わせてしまいました」
「ううん、僕こそゴメンね。僕、また迷惑を掛けちゃったみたいだ……」
しょんぼりと項垂れるクリス坊ちゃまを見て、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
……ダメよ、今はそんなことをしている場合じゃ――。
わたくしはブンブンと首を横に振って雑念を振り払うと、努めて明るい声を出した。
「いえ、そんなことはありませんよ。それにチャールズが助けに来てくれたおかげで、無事に帰ることができましたから」
「チャールズ……お父様の執事が?」
「えぇ。彼が来てくれなければ、今頃は冷たい棺の中だったかもしれません。本当に感謝してもしきれませんね」
クリス様は驚いた表情を見せた。やはり、チャールズのことを知らなかったようね。
彼の本当の正体について話すべきか迷ったけれど、結局それは口にしないことにした。きっと、今は知らない方が幸せなこともあるはずだもの……。
チャールズについては、またいずれ機会があればお話することにしましょう。
ひとまずわたくしは、クリス坊ちゃまが眠っている間の出来事を簡単に説明することにした。
ライル様たちの企みによって誘拐されたこと。そして、チャールズのおかげで無事に帰ってくることができたこと。
それらを話し終えると、クリス様は申し訳なさそうな表情で謝罪を口にした。
「僕のせいでシャンディに怪我を……」
クリス坊ちゃまが再び肩を落とす。二度目は耐え切れなかったわたくしは、思わずクリス坊ちゃまを自分の胸に抱きよせてしまった。
「いいえ、とんでもない! わたくしの方こそ、肝心な時にお傍を離れてしまうなんて……」
「でも、シャンディも僕のために体を張って頑張ってくれたんでしょう? それならおあいこだよ」
クリス坊ちゃまはそう言って微笑む。あぁ、なんとお優しいのかしら。こんなにも天使のような少年は他にいないわよね。
わたくしが感激に打ち震えていると、クリス坊ちゃまがもぞもぞと動き出した。
あら、いけない。つい強く抱きしめすぎてしまったかしら?
慌てて腕の力を緩める。しかし、クリス坊ちゃまはわたくしの胸から顔を上げることはなかった。
――あれ、これはひょっとして甘えられているのでは……?
「えへへ。シャンディの匂いだ……」
クリス坊ちゃまは安心したような声でそう言うと、さらにぎゅうと身を寄せてくる。
……ちょっと待って。それ以上はわたくしの理性のタガが外れて大変なことになっちゃうから!!
「ご、ゴホン! そろそろお食事の時間ですよ!? 今日は特別にわたくしが腕を振るって、美味しいご飯を用意いたしますわ!!」
わたくしはわざとらしい咳払いをして話題を変える。すると、クリス坊ちゃまはパッと顔を輝かせた。
「やったー! シャンディの作る料理はいつも美味しいもんね!!」
「ふふ、お褒めいただき光栄ですわ」
その様子にほっと安堵の息をつく。
……ふぅ、なんとか誤魔化せたみたいね。
それからクリス坊ちゃまはベッドから飛び起き、部屋から出ようとした。ふふふ、可愛い。
「あ、そうだ」
クリス坊ちゃまはドアのノブに手を伸ばしたところで、何かを思い出したかのようにこちらへと振り返った。もじもじとしながらも、わたくしの目をじっと見つめて口を開く。
「僕、たくさん勉強して、身体も鍛えて強くなるよ。今度は大切な人を守れるくらい、強く……」
「クリス坊ちゃま……!!」
わたくしはその言葉を聞いて感動で打ち震えていた。……なんて健気なのかしら!!
自分の命の危機よりも、わたくしのことを案じてくれるだなんて。
ふふっ。ライル様と同じ道を歩むようでしたら、わたくしが直々に躾をしなくてはと思っていましたが……それは杞憂に終わりそうですわね。
わたくしはクリス様の頭を優しく撫でながら、心からの笑顔を向けた。
「大丈夫ですわ、クリス坊ちゃま。あなたはもう既に、素敵な紳士への一歩を踏み出したんですもの」
「シャンディ……ありがとう!」
わたくしたちは笑い合うと、お互いに手を取り合った。
……クリス様が成人するまでの残り四年。その間に、彼を立派な殿方へと育て上げなくっちゃ。
「それじゃあ、早速ご飯を食べに行きましょうか」
「うん! 今日のメニューは何かなぁ~♪」
「ふふ、今日はチキンソテーですわよ」
「本当!? わぁい、楽しみだよぉ」
嬉しそうに飛び跳ねるクリス様を見て、わたくしは思わず笑みを零したのであった。
◇
四年の間にいろいろと事態は動いた。
ロンド侯爵家当主とライル様は共に失脚し、二人は国外追放処分となった。
ロンド父子を陥れた犯人もチャールズの手によって発見され、処刑されている。
調べではロンド侯爵家を嵌めようとした隣領の貴族が企んだものだったらしい。
わたくしはというと、あの事件解決が評価されて騎士爵になった。
そのおかげでクリス様が成人を迎えたのと同時に、彼の婚約者として正式に婚約を結ぶことができた。……まぁほとんどはチャールズのおかげだったんだけれど。
そして現在。わたくしはロンド侯爵家の若き当主となったクリス様と共に、屋敷で穏やかな日々を送っている。
「ねぇ、シャンディ。これ見て!」
「まぁ、これは……!」
テーブルの上に広げられたのは、ひとつの絵画だった。どうやらチャールズが指揮して、使用人たちが記念に描いて贈ってくれたみたい。その絵画には、幸せそうな笑顔を浮かべているわたくしたちの姿があった。
「シャンディ、これからもずっと一緒にいようね」
「はい。いつまでも、共に歩んでいきましょう」
こうして、メイドから侯爵夫人となったわたくしの新たな生活が始まったのである――……。
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______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
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