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二章
15 聖女エステル
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この世界には魔力という優れた力が存在する一方で、瘴気という厄難に苦しめられていた。
悪魔や魔物が放つ穢れである瘴気は、人の目には黒い霧のようなものに見える。禍々しい気配を放つその空気に触れただけで皮膚は爛れ、吸い込めば肺が腐り、長時間晒されれば壮絶な苦痛に苛まれながら命を落とす。生き延びたとしても肉体は醜く変貌し、理性は失われ、人々に害をなす魔物に成り果ててしまう。
魔力がなくとも、戦闘技術の高い者たちが共闘すれば魔物を倒すことはできる。しかし瘴気は物理的な力で抗うことができない。瘴気を祓うことができるのは魔力を持つ者だけだ。
魔力保有者は瘴気に対する抵抗力を持っているので、瘴気に触れたとしても直ちに死ぬことはない。瘴気を祓うためにはこの抵抗力を利用する。つまり、自らの体内に瘴気を取り込むことで浄化する。いくら瘴気に対して抵抗力があるといっても、加減を間違えれば死に至る危険な技だ。
か弱き人々のために身を削って瘴気を祓い、魔術を用いて魔物を討伐する者たちは、魔力を持たない者たちからの崇敬を集めた。こうして魔力を持つ者たちは王侯貴族として君臨するようになり、魔力を持たない者たちは平民として忠節を尽くすようになった。
これが『緋閃のグランシャリオ』の世界設定であり、僕が生まれ落ちたこの世界の歴史でもある。
ルミエ王国が建国されてから約五百年。それだけ歴史の厚みがあれば、小説には登場しない故事来歴も山のように存在する。だが大まかな流れは小説とまったく同じ。ルミエ王国の黎明期に誕生した聖光教についても、聖光教の修道女であるエステルの人物像も、大きく変わるところはなかった。
エステルは『緋閃のグランシャリオ』に複数登場するヒロインのうちのひとり。主人公と最も心を通わせ、絆を深めた女性だ。
侯爵家の末娘として生まれたエステルは、類まれな魔力と美貌に恵まれたにも関わらず聖職者の道を選び、わずか十二歳で修道女となった。
国教でもある聖光教の聖職者は、瘴気祓いを専門に行う。光を主神とし、その教理は前世でいうノブレス・オブリージュに近い。
――魔力という高貴な力は神より与えられた奇跡の力であり、瘴気祓いは魔力を持つ者の義務である。光の中で生きる者たちは皆兄弟。その命は神の加護の元に平等である、云々。
ご大層な能書だが、残念ながら建前に過ぎない。瘴気という厄難を祓う術を持つ者が貴族として君臨する以上、平民はどれほど不条理を突きつけられようとも受け入れざるを得ない。歪な力関係から生じる軋轢を和らげるための方便のようなものだ。
前述した通り、瘴気祓いには危険が伴う。幾度も繰り返せば寿命が縮むとまで言われている。平民などのために自らの命を削りたがる貴族などいない。家督を継ぐこともできず、かといって他にこれといった才能もない、落ちこぼれの貴族子弟が仕方なく聖職者になる、というのが貴族社会での暗黙の了解だった。
そのような内情があるから組織も当然のように腐敗する。瘴気祓いは本来無償なのだが、聖職者たちは何かと理由をつけて後回しにし、高額な献金を積まれてようやく重い腰を上げる。瘴気の被害に苦しむ平民を生かさず殺さず、足元を見て私服を肥やすことが常態化していた。
だがエステルは違った。献金などなくても平民の訴えがあれば即座に駆けつける。瘴気を祓うのみならず、貧しい者を救い、病める者を癒し、見返りなど一切求めない。慈愛に満ちた精神に、疑いを知らない純真な心根。ひとたび彼女と言葉を交わせば誰もが毒気を抜かれてしまう。
エステルが活躍すればするほど、他の聖職者たちの杜撰な対応が浮き彫りになる。組織の腐敗が明るみに出てしまえば、いずれ献金という名の賄賂も受け取ることができなくなる。そう危惧した司祭はエステルをたしなめたが、そもそもエステルの献身こそが聖光教のあるべき姿なのだ。司祭がいくら婉曲的に「あまり出しゃばると貴方のためになりませんよ」と牽制しても、純真すぎるエステルは司祭の言葉に裏があるなどとは思いもよらず、言葉通り「私の体調を心配していただけてありがたい」と感謝し、より一層責務に励むばかりだった。
まだ成人前の僕の耳にエステルの評判が届く頃には、彼女はすでに「聖女」と呼ばれていた。
聖光教会において「聖女」という正式な位階は存在しないのだが、エステルに助けられた者たちは自然と彼女を聖女様と呼ぶようになり、平民たちの間で定着していった。
小説のアリスティドだったらエステルを毛嫌いしていたはずだ。エステルはアリスティドの一歳年下で、爵位も侯爵位。しかしその才能はアリスティドを凌駕する。家督を継ぐか、王家に嫁ぐかと期待されていたにもかかわらず、平民に肩入れして聖職者の道を選んだ。才能がないのに公爵の地位にしがみつくアリスティドとは真逆の存在といえる。
平民嫌いの叔父はエステルを「夢みがちな少女の自己満足」「困った正義感」と、暗に偽善だと罵っていた。僕は表面上は叔父に追随しながらも、シグファリスとエステルが出会う日を楽しみにしていた。小説とは違う出会い方になるだろうが、いずれ二人は結びつくはずだ。この世界でなら、引き裂かれることなく、想いを通わせることができる。
僕さえ悪魔ディシフェルに体を乗っ取られなければ、それは実現していたはずだった。
悪魔や魔物が放つ穢れである瘴気は、人の目には黒い霧のようなものに見える。禍々しい気配を放つその空気に触れただけで皮膚は爛れ、吸い込めば肺が腐り、長時間晒されれば壮絶な苦痛に苛まれながら命を落とす。生き延びたとしても肉体は醜く変貌し、理性は失われ、人々に害をなす魔物に成り果ててしまう。
魔力がなくとも、戦闘技術の高い者たちが共闘すれば魔物を倒すことはできる。しかし瘴気は物理的な力で抗うことができない。瘴気を祓うことができるのは魔力を持つ者だけだ。
魔力保有者は瘴気に対する抵抗力を持っているので、瘴気に触れたとしても直ちに死ぬことはない。瘴気を祓うためにはこの抵抗力を利用する。つまり、自らの体内に瘴気を取り込むことで浄化する。いくら瘴気に対して抵抗力があるといっても、加減を間違えれば死に至る危険な技だ。
か弱き人々のために身を削って瘴気を祓い、魔術を用いて魔物を討伐する者たちは、魔力を持たない者たちからの崇敬を集めた。こうして魔力を持つ者たちは王侯貴族として君臨するようになり、魔力を持たない者たちは平民として忠節を尽くすようになった。
これが『緋閃のグランシャリオ』の世界設定であり、僕が生まれ落ちたこの世界の歴史でもある。
ルミエ王国が建国されてから約五百年。それだけ歴史の厚みがあれば、小説には登場しない故事来歴も山のように存在する。だが大まかな流れは小説とまったく同じ。ルミエ王国の黎明期に誕生した聖光教についても、聖光教の修道女であるエステルの人物像も、大きく変わるところはなかった。
エステルは『緋閃のグランシャリオ』に複数登場するヒロインのうちのひとり。主人公と最も心を通わせ、絆を深めた女性だ。
侯爵家の末娘として生まれたエステルは、類まれな魔力と美貌に恵まれたにも関わらず聖職者の道を選び、わずか十二歳で修道女となった。
国教でもある聖光教の聖職者は、瘴気祓いを専門に行う。光を主神とし、その教理は前世でいうノブレス・オブリージュに近い。
――魔力という高貴な力は神より与えられた奇跡の力であり、瘴気祓いは魔力を持つ者の義務である。光の中で生きる者たちは皆兄弟。その命は神の加護の元に平等である、云々。
ご大層な能書だが、残念ながら建前に過ぎない。瘴気という厄難を祓う術を持つ者が貴族として君臨する以上、平民はどれほど不条理を突きつけられようとも受け入れざるを得ない。歪な力関係から生じる軋轢を和らげるための方便のようなものだ。
前述した通り、瘴気祓いには危険が伴う。幾度も繰り返せば寿命が縮むとまで言われている。平民などのために自らの命を削りたがる貴族などいない。家督を継ぐこともできず、かといって他にこれといった才能もない、落ちこぼれの貴族子弟が仕方なく聖職者になる、というのが貴族社会での暗黙の了解だった。
そのような内情があるから組織も当然のように腐敗する。瘴気祓いは本来無償なのだが、聖職者たちは何かと理由をつけて後回しにし、高額な献金を積まれてようやく重い腰を上げる。瘴気の被害に苦しむ平民を生かさず殺さず、足元を見て私服を肥やすことが常態化していた。
だがエステルは違った。献金などなくても平民の訴えがあれば即座に駆けつける。瘴気を祓うのみならず、貧しい者を救い、病める者を癒し、見返りなど一切求めない。慈愛に満ちた精神に、疑いを知らない純真な心根。ひとたび彼女と言葉を交わせば誰もが毒気を抜かれてしまう。
エステルが活躍すればするほど、他の聖職者たちの杜撰な対応が浮き彫りになる。組織の腐敗が明るみに出てしまえば、いずれ献金という名の賄賂も受け取ることができなくなる。そう危惧した司祭はエステルをたしなめたが、そもそもエステルの献身こそが聖光教のあるべき姿なのだ。司祭がいくら婉曲的に「あまり出しゃばると貴方のためになりませんよ」と牽制しても、純真すぎるエステルは司祭の言葉に裏があるなどとは思いもよらず、言葉通り「私の体調を心配していただけてありがたい」と感謝し、より一層責務に励むばかりだった。
まだ成人前の僕の耳にエステルの評判が届く頃には、彼女はすでに「聖女」と呼ばれていた。
聖光教会において「聖女」という正式な位階は存在しないのだが、エステルに助けられた者たちは自然と彼女を聖女様と呼ぶようになり、平民たちの間で定着していった。
小説のアリスティドだったらエステルを毛嫌いしていたはずだ。エステルはアリスティドの一歳年下で、爵位も侯爵位。しかしその才能はアリスティドを凌駕する。家督を継ぐか、王家に嫁ぐかと期待されていたにもかかわらず、平民に肩入れして聖職者の道を選んだ。才能がないのに公爵の地位にしがみつくアリスティドとは真逆の存在といえる。
平民嫌いの叔父はエステルを「夢みがちな少女の自己満足」「困った正義感」と、暗に偽善だと罵っていた。僕は表面上は叔父に追随しながらも、シグファリスとエステルが出会う日を楽しみにしていた。小説とは違う出会い方になるだろうが、いずれ二人は結びつくはずだ。この世界でなら、引き裂かれることなく、想いを通わせることができる。
僕さえ悪魔ディシフェルに体を乗っ取られなければ、それは実現していたはずだった。
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