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Chapter 8

02 名前

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 絵本を閉じて表紙を撫でる。もう何度も読み返して、僕の手に馴染んだ絵本。霧谷さんのサインが入った絵本。高校生の時にこの絵本に出会って以来、お守りみたいにいつも持ち歩いていた。
 この絵本の代わりに鞄に入れているのは、退職願だ。

 夜の公園で霧谷さんに出会った日。その翌日に書いたのだけれど、矢幡さんに渡す前に他の同僚の転職が決まってしまった。お店に迷惑がかからない時期に辞めようとタイミングを計っているうちに霧谷さんがお店に現れて、渡すタイミングをつかめないままずるずると働き続けていた。

 クリスマスを乗り越えたとはいえ、お正月にバレンタイン、卒入学シーズンまで繁忙期は続く。だからまだしばらくはパティシエを続けなくちゃいけない――というのは、自分を誤魔化しているけだ。
 今の環境で向上心を持って働く気概もない。そのくせ新しい一歩を踏み出す意気地もない。惰性で現状のままでいる方が楽だから、ただ流されている。

 僕はいつもそうだ。なにをするにも自信がなくて余裕がない。外面ばかり良くしようと空回りして、切羽詰ると間に合わせの嘘をつく。

 霧谷さんにも酷いことを言ってしまった。結局名前も伝えないままだし、その上矢幡さんと付き合ってるだなんて。あんな嘘をついてしまったら、せっかく霧谷さんと縁ができたと喜んでいた矢幡さんにまで迷惑がかかってしまうかもしれないのに。

 霧谷さんの悲しげな眼差しがずっと胸に引っかかっていて、霧谷さんのことを考えるたびにじくじくと胸が痛む。
 嘘をついたことを訂正して、きちんと謝るべきだと思う。でも今更どんな顔をして霧谷さんの前に立てばいいのだろう。それに、霧谷さんはもう僕に呆れて、昔のことなんかどうでもいいと思っているかもしれない。そうだったらいい。でもやっぱり、忘れられたら悲しいとも思う。自分に都合のいい考えで頭の中がめちゃくちゃだ。

 ――霧谷さんへの仕打ちを後悔して、結局は自分を哀れんでいるだけだ。

「どうしようもないなぁ……」

 一人呟いて、手元の絵本に視線を落とす。
 未練を断ち切るためにも、霧谷英志関連の書籍は全部捨ててしまおうか。年内の古紙回収は明日までだったはず――。
 自分で考えついて、自分の考えにぞっとする。そこまでしなくったっていいじゃないか。いやこれがあるからいけないのだ。とりあえず来年になってから考え直したら? そうやって問題を先送りするから後で話がややこしくなるんじゃないか。

 脳内で意見を戦わせている最中に、ドアチャイムの音が狭い部屋に響いた。台所からたった数歩の玄関に目をやると、もう一度甲高い電子音が僕を急かす。今度は「お届けものでーす」と、ドア越しのくぐもった声も一緒に届いた。
 そういえばネットでお米を注文していた。でも配送予定日って今日だったかな。絵本を作業台の上に置き、判子を持って玄関の扉を開ける。
 目の前に飛び込んできたのは、明らかに配達員ではない、私服の、長身の男性の姿。
 霧谷さん。どこからどう見ても霧谷さんだった。

「ちょっと無用心すぎない? 子ヤギの方がよっぽどしっかりしてる」
「わ――――!?」

 とっさに扉を閉めようとしたけれど、霧谷さんがドアに足を挟みこんだ方が早かった。まるで借金取りのような強引な仕草に、僕は力任せにドアノブを引っ張る。霧谷さんも負けじと扉の縁を掴んでこじ開けようとする。

「ちょっ、なっ、なんです突然! お引取り下さい!」
「――のぞむ」

 突然の来訪に混乱した僕の耳に届いたのは、ばたついた状況に似合わない、霧谷さんの静かな声だった。

「お前の名前は、望。真崎望。旧姓は大路。そうだよな」

 体から、力が抜ける。扉がゆっくりと開かれて、僕の手からドアノブが離れていく。

「少しだけでいいから、話を聞いてくれないか」

 正面から見据えられて、なにか答えようと口を開いたけれど、小さく息がもれただけで言葉が出ない。霧谷さんはそれを了解の合図と取ったのか、僕の部屋に足を踏み入れた。

 霧谷さんの背後で玄関の扉が閉まった音がやけに大きく聞こえる。革靴を脱いだ霧谷さんは、立ちすくむ僕の脇をすり抜けて、さっさと部屋の奥に進んでいく。奥、といっても狭すぎて、台所を通り抜けたら六畳ちょっとの生活スペースがあるだけで、それが僕の部屋の全容だ。隠したいけど隠しようがない。

「綺麗にしてるんだな」

 物珍しそうに僕の部屋を眺めていた霧谷さんが、本棚に目を留めた。

「へえ、揃ってるじゃん。さすが俺のファン」

 僕をからかう霧谷さんに、なんて言ったらいいのかわからなかった。それどころか、自分の気持ちすら分からない。怒りたいのか、泣きたいのか、叫びたいのか。多分全部だ。

「悪かったな、ずっと店に顔出さないで。年末で仕事が立て込んでたのと、遠出する用事があって……ほら、これ、お土産。来年のカレンダーとか色々」

 華やかな模様の紙袋を差し出されて、つい受け取りかけてしまった手を慌てて引っ込める。
 霧谷さんが、僕の部屋にいる。白昼夢みたいで、瞬きしたら消えてしまいそうだ。さっき、僕の名前を呼んだのも、勘違いだったのかも。そんな僕の考えを見透かしたかのように、霧谷さんはもう一度「望」と、はっきり名前を呼んだ。

「べつに……今更、名前なんか……」

 喉から声を絞り出すようにして、ようやくそれだけもごもごと呟いて、顔を背ける。
 霧谷さんはそっけない僕の態度なんか気にならないみたいに、紙袋からなにかを取り出した。
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