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眩い君に陶酔したい
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毎日、変わり映えのない人生を送っている。朝起きて出社して、怒られて、仕事が終わったら家に帰ってカップ麺をすすって寝る。休日はちょっと遅くまで寝て起きてコンビニで弁当を買って食べて、おざなりな自慰をしてシャワーを浴びて寝る。特別なイベントは何も起こらない。
(なんてつまらない男なんだ)
今年で三十五歳になった俺は、見た目が年齢より老けていると言われることが多い。当然だ、肌はボロボロで目の下にはクマがある。せめてもの思いで髪は定期的に短くしているが、それでも老けて見えるらしく一番ひどいときは四十代に間違われたこともある。
「おい、山下」
「はい」
「なんだその靴は。ボロボロじゃないか。君は内勤とは言え、いい年なんだから見た目にくらい気を遣いなさい」
「はあ……」
部長が俺の見た目を注意する。……たしかに、言われてみれば革靴は傷が入りまくって先の方は剥げている。部長が怒りたくなるのも無理はない、と思った。
「なるべく早く買いに行きなさいね」
そう言って部長はその場を去ろうとしたが、何かを思い出したのか振り返って再度声をかけてきた。
「おっと、肝心なことを言い忘れた。おつかいなんだが頼まれてくれるか?」
「はい、なんでしょう」
「明後日、総務部の田中さんが寿退社するだろ?当日に渡す花束の予約をしてきてくれんか?」
「はあ……」
なんで俺なんだろう、と思っていると、部長が再び口を開いた。
「もともと頼んでた部下が予約を忘れていたらしくてな……。もうあいつは信用ならんから、お前が代わりに行ってきてくれ。近くにちっさい花屋があるだろ?急な用立てだから、もし多少値が張ったら俺のポケットマネーから出す」
そう言って部長は一万円をその場で渡してきた。
「頼んだよ」
そう言って部長は今度こそ自分のデスクに戻っていった。
(……昼休みに行ってくるか)
ちょうどお昼手前の時間だったので、俺はいつもより少しだけ早い昼休憩を取ることにした。デスクの引き出しから財布を取り出し、オフィスを出てエレベーターに乗る。
*********************
(外暑いな……。まだ歩いて五分なのに、汗が噴き出る)
日差しがぎらぎらと射す七月。クールビズとは言え、エアコンのきいた部屋でしか仕事をしていないせいか、ワイシャツの下はびっしゃりと汗をかいていた。最近の男性は日傘を持っているが、生憎俺はそんな洒落た物を持っていない。太陽の光を照り返すコンクリートの反射がきつい。
(俺も日傘買うべきかな……。似合わないけど)
なんてネガティブなことを考えながらハンカチで汗を拭く。そして、目的地である花屋が見えた。店と店の隙間にある小さな花屋。おそらく、水をいっぱい浴びたであろう植物たちが水滴で輝いていた。
(そういえば、花なんて見るのは久しぶりだ。きれいだなあ)
近寄って、ぼんやりと花を見ていると、店員がお店から出てきた。
「こんにちは、暑いですね」
「あ、ああこんにちは」
急に声をかけられてびっくりした俺はさらに驚く。
(び、美形だ……)
出てきたのは柔らかな金髪の長髪男性。二十代前半くらいだろうか?うなじの後ろで髪を結んでおり、毛先が肩につくくらいの長さだ。目は明るめの茶色で、若干たれ目なのか、微笑んでいると目がにこにこして見える。パリッとしたカッターシャツに緑のエプロンを着ている。
「……すみません。えと、今度退職する女性のスタッフに退職祝いの花を渡したくて……」
「かしこまりました。退職される方のイメージカラーなどありますか?」
「イメージ……」
正直、田中さんとあまり接点がないので、イメージが湧かない。ない記憶を一生懸命思い返す。
「えっ、と……誰にでも優しくて、よく笑っている……女性らしい方で……」
たどたどしく言葉を紡ぐ俺に、美形の店員は微笑んだ。
「なるほど。でしたら、ピンクの花束などはいかがでしょうか?」
「あ、ありがとうございます……。ではそれで。お任せでお願いします」
「わかりました。では、ご予算はどれくらいでしょうか?」
「えっと……急ぎで申し訳ないのですが、明後日までに五千円くらいで作れますか?」
「大丈夫ですよ。出来上がった商品は何時頃取りに来られますか?」
「あ、えっと、当日の十二時から十三時くらいでもいいですかね……」
「かしこまりました。では、お名前と電話番号をお願いします」
「あ、はい」
俺は店の中に案内され、すぐ近くのカウンターで小さなメモ用紙に名前と電話番号を書く。
「……はい。ありがとうございます。山下……俊文(としふみ)様ですね」
「では、また。取りに行きますね……うわっ!」
俺がペコリと会釈して背中を向けた瞬間、入口の段差につまずき勢いよく道路にダイブした……と思った。だが、その寸前で店員に後ろから勢いよく引っ張られ、気づけば彼の腕の中に抱き留められていた。
「大丈夫ですか?」
店員は焦った顔で俺の顔を見ている。
「ごごご、ごめんなさい!み、店のお花とか蹴っ飛ばしていませんか!?大丈夫ですか!?」
慌てる俺を見た店員はきょとんとし、その後「ふふふふふ」と声をもらした。どうやら笑っている。
「全然大丈夫ですよ。お客様こそ、お怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫です……。本当にすみませんでした」
「いえ全然。お花も無事ですし、謝らなくていいですよ。立てますか?」
「た、立てます……。はあ、びっくりした……」
「段差、気を付けてくださいね。ここ狭いですから。あ、それとこれ。よかったらどうぞ」
「あ、どうも……」
受け取ったのは、この店のラインとインスタの入った名刺だった。
「登録、よろしくお願いします。登録していただけましたらサービスしますので」
なんだか先ほどのつり橋効果なのか、にこにこ笑う店員はすごくキラキラして見えた。
「は、はい……」
小声でそう答えると、俺はふらふらしながらも今度こそ躓くまいと、しっかり段差を確認して店を出た。
*********************
総務課の田中さんが退職する日の昼休み。俺は花屋へ向かう。相変わらず天気は良くて、アスファルトの照り返しがしんどい。オフィスを出てすぐに汗がツーっと頬の横を流れていく。ふらふらとしながら顔を上げると、店先では例の美形店員が優しい表情で花に水をあげていた。じょうろから流れる水が輝いていて、それを受けた植物の葉先もキラキラとしている。
(花屋が似合う人だなあ……)
まるで、あの辺だけが絵画のように美しい。その様子を少し遠くからぼんやりと眺めていると、店員が視線に気が付いたのか、こちらを見てにっこりと微笑んだ。一瞬焦って思わず心臓が跳ね上がったが、すぐに用件を思い出し、慌てて小走りで店へ向かう。店先に着くと、店員が笑顔で出迎えてくれた。
「こんにちは、お待ちしておりましたよ」
「す、すみません……のろのろ来て。その、暑くてぼーっとしてて。えっと、花の受け取りに来ました」
「ふふ、大丈夫ですよ。ありがとうございます。こちらですが、いかがでしょうか?ご確認ください」
渡された紙袋の中には、ピンクの花を中心とした華やかなブーケがあった。
「おお……綺麗ですね」
「ありがとうございます」
そう言って店員は頬に手を添えて笑った。顔の横に流れてきている髪を耳の後ろに流し、レジの前に立つ。
「そういえば、ライン登録してくれましたか?」
「あ、すみません……。なにもしてなくて……」
「お安くしますので、ぜひ」
店員はレジ前のQRコードに片手を向ける。にっこりと笑っているものの、何やら圧を感じたので、俺はレジ前にあるQRコードからラインを恐る恐る登録する。すると、花のアイコンが出てきた。追加のボタンをタップすると、ポンポンと三つほど何かが届いた。
「登録ありがとうございます。ではそこの一番下のところをタップしていただければ割引になりますので」
「は、はあ」
慣れない手つきでタップをし、会計を済ませる。
「ありがとうございました」
店員がそう言って花の入った紙袋を渡す。俺は会釈をして受け取り、今度は躓かないように慎重に店先に出る。店員もお見送りに一緒に出てくる。
「またのご利用、お待ちしておりますね。それから」
店員は微笑みながら、店先の花たちに視線を送る。
「よければ、たまに遊びに来てください。この子たちも喜びますので」
「?は、はあ」
俺は少しぽかんとしつつも、再び会釈し、また汗をかきながら自社ビルに向かって歩き出した。
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会社に戻りデスクの下に花を置く。部長に報告しようとしたが、どうやら入れ違いで外出しているようだった。一応、『花の受け取り完了しました』とラインで連絡を入れる。すぐに既読が付いて、『ありがとう、あとで皆で集まるから、その時ついでに渡してくれ』と返信がきた。
(お、俺が渡すのか……)
何の接点もない俺なんかに渡されても、田中さんは嬉しいんだろうか。
(いや、きっと嬉しくない……。というか、俺なら『誰だっけ』が先に来る)
可哀そうな田中さんのことを考えると胃がキリキリしてくるが、仕方ない。とりあえず目の前の仕事を終わらせようと、俺は気を取りしなおしてパソコンに目を向けた。
そして十七時五十分。終業時間の十分前に部長が皆に声をかけ、オフィス入口の近くにあるホワイトボードの前に集まる。俺も花束を抱えて、後ろの方にそっと混ざるように並ぶ。部長は皆に聞こえる大きな声で話し始めた。
「えー。本日で総務部の田中くんが寿退社されます。今まで頑張ってくれてありがとう。幸せにね。でも!もし何か職に困るようなことがあったら戻ってきてもいいからね」
部長なりの温かい言葉を田中さんへ向ける。田中さんは嬉しそうに『ありがとうございます』と言った。
「じゃあ、山下くん!」
部長に呼ばれ、俺はわたわたしながら前に出る。そして、「い、今までありがとうございました」と精一杯のお礼の言葉をかけ、花束を渡した。
「うわあ、綺麗!山下さん、ありがとうございます」
田中さんが笑顔で受け取る。俺はその笑顔になんとか無理やり笑顔を浮かべ、そっとまた集団側に戻った。
「じゃあ解散!お疲れ様でした」
部長が解散の一言を皆に告げる。業務に戻る者も居れば、別れを惜しんで田中さんに話しかけたり、個別にお別れのプレセントを渡す者もいた。俺は前者なので、そっと集団に合わせてデスクに戻る。
「山下」
デスクに戻ると部長が話しかけてきた。
「あ、部長。お疲れ様です」
「お疲れさん。花の準備助かったよ、ありがとう」
「いえ。あの、そういえばおつり……」
「こら」
部長は声を潜め、少し中腰になる。俺も部長に合わせて中腰になると、部長が耳打ちしてきた。
「まだ田中くんが居るだろ。来週の月曜に精算するから。君も少しは気を遣いなさい」
「す、すみません……」
慌てて田中さんの方を見る。どうやら田中さんには聞こえてなかったみたいで、まだ他の社員と楽しそうに話していた。
(よかった……。聞こえてなさそうだ)
部長は「じゃあまた来週」と俺に声をかけて、自分のデスクに戻っていった。俺ははあ、とため息を吐く。
(昔から気が利かないんだよな、俺……)
高校時代に付き合っていた元カノに「俊文って気が利かないよね」と言ってフラれたことをぼんやり思い出した。
(あの子以来、恋人なんていない……。つまり俺は今も気が利かないってことだよな……)
デスクの頭をゴン、と置いてまた「はあ」とため息を吐く。
(いい加減、この生活変えたいな……)
誰かと飲みに行くにも、飲みに行くほど会社に仲が良い人なんていないし、学生時代の友達は結婚やら県外に居るやらでなんとなく疎遠になっている。家族仲は普通だがわざわざ会いに行くほど仲が良いわけでもない。兄弟も居ないし、ネットの友達もいない。
(ちょっとでいいから、このつまらない人生を脱したい……)
転職とか、起業とか、結婚とか、そんな大それたことじゃなくていいから。
(どうしたもんかな……)
ぼんやりそんなことを考えていると、退勤時間のチャイムが鳴ったので、俺はそのままオフィスを出た。
(あ……)
会社を出ると、雨が降っていた。夕立だったのか、帰る人たちから「天気予報で雨とか言ってなかったのに」と不満の声を上げる人が多く居た。それでも、誰かの傘に入れてもらう人や鞄を頭に乗せて帰る人も居る。中にはタクシーで帰る強者も居た。
(折り畳みの傘は持ってない……。ああ、これも気が利かないのひとつなんだろうか)
また自分の至らなさにため息が出そうになる。そこでハッと気が付いた。
(そうだ。こういうときほど、今までと違うことをしてみたらいいんじゃないか?俺の人生を変える何かきっかけになるかもしれない)
そう思い立った俺は、早速普段しないことを頭の中で振り返ってみた。
(……そういえば、会社の一階にあるカフェ、一度も行ったことないな)
いつでも行けると思うと、いつまでも行かない。なら、今日にでも行くべきだ。俺は早速自社ビルの中に戻り、カフェへ入っていった。
「いらっしゃいませー」
カフェ店員の声が響く。天井と床は白で、壁面はコンクリート。壁にはモノトーンのおしゃれな絵が飾ってある。アイアンウッドの机や椅子、カウンターがあり、ランプは天井から吊り下げられている。店内にはジャズっぽい音楽が流れていた。
(いつもはこんな若者向けのカフェに来ないから、緊張するな……)
キョロキョロしながらレジの列へ並ぶ。皆も雨宿りで利用しているのだろうか、店内は少し騒がしく、客入りは多く感じられた。「こういう立地になる店は忙しいんだろうな」と考えていると、自分の注文の番が回ってきた。
「ご注文お伺いします」
「えっと……」
正直、どれがいいかわからない。何せどれも頼んだことがないのだから。
(いつもと違うこと、いつもと違うこと……)
どうせなら、あまり知らない飲み物がいい、と思い決めあぐねていると、店員から催促の声がかかる。
「お客様?」
「あ、すみません……。えと、これでお願いします」
「ウインナコーヒーですね。六百円になります」
「あ、はい……」
もたもたと鞄から財布を取り出し、六百円ちょうど釣銭受け皿に置く。店員は素早く出されたお金を受け取り、レシートが渡されたときにはもうカウンターに注文した商品は置かれていた。レシートを回収し、コーヒーを持って空いていた窓際の席に座った。
(クリームが乗ってるコーヒー、初めて飲むな……)
夏場だというのに、店内は思いのほか寒くて思わずあったかいものを頼んでしまった。一口飲んでみると、普通のクリームだった。ふうん、こんなもんか。という気持ちでクリームとコーヒーをかき混ぜ、コーヒーをちびちび飲む。雨足はまだ止む気配がなく、ザアザアと降っていた。窓からは道路を走る車と、傘を差して歩く人たちが居た。
(……こういうとき、お気に入りの小説とかあったら、様になるよな……)
もちろん読書の趣味はない。普段しないことをすると、さらに普段しないことが必要になってくる。なんの準備もなくカフェに飛び込んだ俺は、やっぱり気が利かないままだ。
「はあ……」
またため息を吐き、机のウインナコーヒーに目を遣る。すると、窓から「コンコン」と小さな音がした。
「え?」
見ると、そこには傘を差した金髪の美形が立っていた。美形はこちらを見てニコニコと笑い、手をひらひらさせている。
「あ!花屋の店員さん!」
思わず大きな声を出して立ち上がる。一瞬近くの人がこちらを見る。
「あ、すすみません……!」
慌てて近くに座っていたお客さんに謝って振り返ると、もう窓の向こうには花屋の店員さんは居なかった。
(げ、幻覚……!?)
びっくりして座れずにいると、今度は横から声をかけられた。
「俊文さん、こんばんは」
「え!?」
先ほどまで外に居た花屋の店員さんは店の中に入ってきていた。
「あの、えと、こ、こんばんは」
突然現れたことも、下の名前で呼ばれたことにもいろいろ驚いている俺を無視して花屋の店員さんはニコニコしながら話しかけてきた。
「お仕事終わりですか?誰かと待ち合わせとか?」
「いえ、その……雨宿りに」
普段と違うことがしたくて、とは言いづらく言葉を濁した。花屋の店員さんはにこっと微笑む。
「そうなんですね。良ければ、ご一緒してもいいですか?」
「え!?お、俺とですか?」
「あ、お嫌でなければですけど……」
「あ……」
嫌か、嫌じゃないか。別に嫌ではない。ただ、そこまで親しくもない、ましては数日前に知り合った人間とお茶をするというのは若干気が引ける。
(……いやでも、正直一人でコーヒー飲んでても退屈だし……)
「ど、どうぞ。ご一緒してください」
俺は彼を受け入れることにした。
「よかった。じゃあちょっと注文してきますね」
そう言って花屋の店員はカフェ店員のところに行き、何かを注文していた。会計を済ませ、商品を持って花屋の店員さんは戻ってきた。何やら白い塊が入った飲み物だった。
「それ、なんですか?」
「ああ、これマシュマロ入りホットチョコレートなんです。僕、甘いものに目がなくて」
照れ笑いを浮かべながら、花屋の店員さんは席に着く。そしてそのまま俺の目を見て言った。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたよね。僕、藤崎咲也って言います」
「ああ、えと、藤崎さん。よろしくお願いします」
「はは、よろしくお願いします」
花屋の店員さん、もとい藤崎さんがホットチョコレートを一口飲む。俺も合わせて一口コーヒーを飲むと、藤崎さんはカップを置いて質問してきた。
「俊文さんって、よくここに来られるんですか?」
「え?いやあ、まさか。こんなおしゃれなところ普段なら来ませんよ」
……しまった。また気の利かない話し方をしてしまった。藤崎さんの顔を見ると少しきょとんとしていた。
(あああやってしまった……なんで俺はこう、とげのあるというか、うまく話せないんだ)
「ええと、その、俺、俺普段寄り道せずに帰っているので…ハハハ。今日はその……雨だし、気まぐれに行ってみようかなって思ってですね……」
そう言うと、藤崎さんは笑顔になった。
「そうなんですね。じゃあ、今日の出会いは奇跡ですね。声かけてよかった」
「え、ええ、まあ」
もしかしてキザな人なのだろうか。藤崎さんの言い回しが気になりつつ、俺も質問を投げかける。
「藤崎さんは?雨の中出かけられてたみたいですけど」
「ああ、僕も仕事が終わって帰るところだったんです。何となくカフェを見たら俊文さんがいらっしゃって。思わず声かけちゃいました」
「そ、そうなんですね……。普段ここには来られるんですか?」
「そうですね……。たまに来て、ここで本を読んだり、仕事したりしていますよ」
「ここで仕事を?」
「ええ、実は僕、ホームページも作っていまして。そこで注文受け付けたりとか、お客様のご意見を確認したりしてて。時々ホームページの改修作業とかもしているんです」
驚いた。花屋は花を売るだけではないというのは分かってはいたが、ホームページまで自分でやるものなんだろうか。
「花屋さんって大変ですね……」
月並みな、ありふれた回答しか出てこない俺を、藤崎さんは馬鹿にせずに笑っていた。
「あはは。本当なら外注をかける部分なんですけど、そんなお金なくて。たまたま得意分野だったから自分でやっているんです。オンラインで予約がかかると、その記録から人気の花とかが目安になるので、それも管理しやすくて気に入っているんです」
「へえ……。すごいな……」
目を伏せて微笑みながら語る彼は美しかった。マシュマロはほぼ溶けていたが、彼は気にすることなくまたカップを持ち、一口飲む。
(この人、こんなに若くて綺麗で、何でもできるんだな……)
「はああ……」
今日でもう何回目だろうか。藤崎さんの前だというのにうっかりため息が出てしまった。
「どうしたんですか?俊文さん」
「あぁ……。すみません……。その、俺、藤崎さんがうらやましくて」
「僕が、ですか?」
「その……俺には何にもないから。君がキラキラしてて、若いのが、いいなって……」
俺の愚痴のような、妬みのような言葉を藤崎さんは黙って聞いていた。
「あ……すみません。嫌ですよね、こんなこと言われて……」
はは、と乾いた笑いをこぼし、俺はバツが悪くなってコーヒーをまた一口飲んだ。
「俊文さん」
「……はい」
「良ければ、僕とまたこのカフェで集まりませんか?」
「え、俺とですか?」
「ええ。俊文さん、何もないっておっしゃったじゃないですか。なら、僕と楽しい予定作りませんか?今回はゼロ回目、次から一回目。第一回はその次に何をするか予定を立てる会にしましょうよ」
藤崎さんと楽しい予定を作る。目からうろこだった。俺が知り合ったばかりのこんな若い子と遊ぶなんて。
「い、いいんですか……?」
「もちろん!僕は嬉しかったですよ、僕のことをうらやましいって言ってくれるの」
そう言うと、藤崎さんは俺の手を取って、その両手で俺の両手を包んだ。
「楽しみですね、第一回目。これも、今日俊文さんがここに来てくれたおかげですね」
その言葉で、俺は一気に有頂天になって、体の体温が上がったのがわかった。
(うれしい……!)
彼はひょっとしたら、俺のつまらない人生を変えてくれる人、いや神様かもしれない。
「あ、ありがとうございます……!その、一回目の会議、楽しみです……!」
「ふふ、じゃあ早速なんですけど、ライン交換しませんか?プライベートの」
「あ、あぁ、わかりました」
椅子の下に置いていた鞄からスマホを取り出し、ラインの画面を開く。
「……はい、ありがとうございます」
「……藤崎さんのアイコン、かっこいいですね」
何やら海と鳥居を背景に、サマーニットを着た後ろ姿の写真が俺のスマホ画面に出ていた。
「ありがとうございます。旅行先で友達に撮ってもらったんですよ。俊文さんは写真設定しないんですか?」
「そういえば……気にしたことなかったです……」
「ふふふ、俊文さんって面白いですね」
「え」
「あ、次の会議ですけど、来週の金曜日の夜に集まるのはどうですか?仕事終わりのこの時間に」
「大丈夫です。空いてます」
「ふふ、じゃあ今日はこれで僕は失礼しますね!来週楽しみです」
では、と言って彼はいつの間にか空になっていたカップを返却口に持って行って店を出て行った。店を出てからも、彼は俺の居る席に手を振ってから去っていた。彼が出て行ってから気が付いたが、雨はもう止んでいた。
(来週が待ち遠しいのはいつ以来だろう……)
変わらず胸が高鳴り続ける中、俺は冷めきったコーヒーを一気飲みし、同じように返却口へ持って行き店を後にした。
*********************
あっという間に金曜日が来た。俺は定時の十分前からそわそわが止まらず、定時のチャイムが鳴ると同時に退勤した。早足でエレベーターに向かい、ボタンを押す。なかなか来ないエレベーターに対し、ちょっとイライラした俺は足を一定のリズムでぺたぺたと踏み鳴らす。
(あ……)
ふと足元を見ると、ボロボロの革靴が目に入る。
(そういえば、これも買いに行かなきゃな……)
エレベーターが到着し、俺は中へ入るとエレベーターの中にある鏡が見えて、ふと自分の身なりを見つめた。よく考えたら、スーツも何枚かを使い古しているからくたびれている気がする。
(ほんと、俺小汚いな……。藤崎さんからいくつに見えてるんだろう)
こんな格好で会いに行くなんて、俺はもしかしたら失礼なことをしているのかもしれない。
「はあ……」
俺はため息を吐きながら、一階へのボタンを押した。
エレベーターが一階へ到着する。俺はカフェに入る前にせめてちょっと身なりと整えようとトイレに向かった。整えると言っても、髪の毛を少し手で整え、シワっぽいスーツを少しでも伸ばして誤魔化そうとしたくらいだが。
改めてカフェに入って店内をキョロキョロしていると、前回と同じ席に彼は座っていた。よく見ると、手元で何やら小さめの本を読んでいる。
(読書している姿もきれいだなあ……)
そう思いながら、俺は藤崎さんが待っている席へ小走りで向かった。
「ふ、藤崎さん。遅くなってすみません」
声をかけられた藤崎さんは、パッと顔を上げ、俺の方を見た。にこっと微笑み本を閉じる。
「ああ、俊文さんお疲れ様です。待ってませんよ、僕もさっき着いたばかりなので」
「あんまり待たせていないのならよかった。ちょっと飲み物買ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
藤崎さんは片手をひらひらさせて手を振る。俺は鞄から財布だけ取ってレジに向かった。
「俊文さん、ウインナコーヒー好きなんですか?」
「いや……その……」
前回注文したものと違うものを頼もうとしたのだが、やっぱりどれを頼んだらいいかわからず、結局同じものを頼んでしまった。
(変わるって、難しいよな)
とほほ、と若干古い表現が出そうな感じで落ち込んでいると、藤崎さんはふふっと笑った。
「よかったら、一口飲みます?今日のはアイスキャラメルラテなんですけど」
「え、いいんですか?」
「はい。美味しかったら、次注文できるし、チャレンジしてみませんか?」
ニコニコと微笑むこの人と待ち合わせをして、まだ十分程度しか経っていないのに、俺にはこの人がもう菩薩に見えていた。
「優しい……」
「そんなことないです、普通ですよ」
藤崎さんは笑ってキャラメルラテを俺の前にすっと差し出した。
「そうですか……?俺は藤崎さんみたいに、気の利くこと言えないので、憧れます」
差し出されたものを受け取り、ストローから一口飲む。
「美味しいです」
俺は控えめな笑顔でそう言ってキャラメルラテを藤崎さんに返す。
「よかった!好きなものが増えましたね」
「……そうですね」
ほっこりしたところで、藤崎さんは本題に入った。
「さて、楽しい予定を立てる会を始めましょうか。俊文さんは好きなことって何かありますか?」
「好きなこと……」
正直、好きなことなどひとつもない。酒は惰性で飲んでいるし、おしゃれにはとんと疎い。読書もしないし、ゲームも苦手だ。
「何も……ないです」
場の空気がしーんとなる。楽しい回をいきなり凍らせるところから始めてしまった。俺がずん、と落ち込んでいると、藤崎さんは少し質問の方向を変えてきた。
「でしたら、今困っていることはありますか?何でもいいですよ」
「なんでも……」
困っていること。何かあった気がする……。そう思い返していると、部長の顔が頭を過った。
「あ、ある……!実は、革靴がボロボロで……スーツもくたびれてて、上司に怒られたんですよ!」
言ってみて、自分がだらしないと明言してしまったことを後悔した。ただでさえ冴えない男が会社でもダメ人間だなんて、藤崎さんとは言え呆れてしまうに違いない。ハハハ、と笑ってみるものの、藤崎さんの目を見ることができず、気づけば下を向いていた。いたたまれない空気の中、藤崎さんが口を開く。
「そうなんですね……。なら、一緒に革靴もスーツも買いに行きませんか?僕見繕いますよ」
「え!?」
「僕、スーツ好きなんですけど、職業柄着る機会が少なくて……。俊文さんが良ければぜひ選ばせてください」
なんて嬉しい申し出なんだろうか。この人はどこまで優しいんだろうか。嬉しさで目をぎゅっとつむってガッツポーズをしていると、藤崎さんはクスクス笑った。
「あ、すみません……」
「いえ、いいんですよ。そんなに喜んでくれるなんて光栄です。じゃあ、僕おすすめのお店いくつかピックアップしておくので、今度はそこで待ち合わせしましょう。あとでラインしますね」
嬉しそうにそういうと、藤崎さんはキャラメルラテを一口飲んでスマホを取り出した。画面をタップして、何やら録音画面を開いている。
「それじゃあ、せっかくなのでインタビュー形式で教えてください。俊文さんのお仕事のこと、業種とか、服装規定とか、聞かせてもらえますか?もちろん、社外秘になるようなことは避けてくださいね」
「ええ、緊張するなあ……」
「大丈夫ですよ。次の会議でいい買い物ができたら削除しますし」
「はは、じゃあ来週の楽しい会に向けて答えていこうかな」
……それから、俺はできる限り自分のことを話した。文房具メーカー勤務の事務職であること、出世の兆しはなく部長にはよく気が利かないと怒られていること、スーツは入社して一回程度しか買いなおしていないこと(革靴も同じくらい)、スーツは服のことを考えなくていいから着ているが、実はもう少しオフィスカジュアルでもよいこと、目立つのは苦手なのに何故か悪目立ちしてしまうこと。
俺の話を、藤崎さんは優しい顔で聞いてくれていた。……途中、スーツのくだりでは噴き出して笑っていたけど。
またコーヒーを飲むのを忘れて、ホットで頼んでいたはずなのにすっかり冷え切ってしまっていたが、冷えたことに気を留めることもなく、この日の会議は心地よく、スムーズに進んだ。
(そうだ……)
自分のことを話すのって、結構楽しい。開放的な気分になるのだ。普段から誰かとコミュニケーションを取っていない俺には、遅れてきた青春だった。
*********************
僕から見た「山下俊文」という男は甲斐性のなさそうな、平凡な男だった。見た目は年齢よりおじさんっぽいし、リアクションが薄くて、あまり深く考えることがなさそうで、子供がそのまま大きくなっただけの人に見える。花を予約したときも、ラインの登録なんて簡単な作業すら慣れてなさそうで。花屋を出るときも段差に躓いてこけそうになっていたし、おそらく会社でもそんなに仕事が出来るわけではないんだろう。ただ、あの日。雨の降るオフィス街のビルから出てきた彼を偶然見かけた。きっと彼のことだから、傘も持たず、そのまま雨の中を走っていくのだろうと思った。すると、予想に反して彼はキョロキョロ周りを見回したあと怪しい動きをしながらカフェに入っていった。
(……実は奥さんとかいるのかな)
ダメンズに尽くしたい女性は少なくない。迎えに来てもらうのかもしれない。どうせなら奥さんの顔でも拝んでやろうと思って、彼をしばらく雨の中から見ていた。しかし、誰かと連絡を取っている様子もない。スマホを見ることもなく、ただコーヒーと外を眺めてつまらなさそうにため息を吐いていた。
(…………マジで何しているんだろう)
気になってしまったから、つい、勢いで声をかけにカフェへと入った。何とか相席して聞いてみると、どうやら入ったものの時間のつぶし方が分からず困っていたことがわかった。
(なんか、この人可哀そうになってきたな)
聞けば聞くほど、この人には何もない。むしろ、これでは世の中の事を何も知らずに歳だけ重ねている。なんだかもやもやとした気持ちを抱えていると、彼が零すように言った。
『その、俺、藤崎さんがうらやましくて』
『俺には何にもないから。君がキラキラしてて、若いのが、いいなって……』
彼のその言葉は、俺の中の何かを小さく動かした。
(この人、きっと自分の情けないところ、わかっているんだ。変えたいんだ)
羨ましい、と言われることは正直よくある。たまたま容姿は良い方に産まれたし、ファッションは見るのも考えるのも好き、店を持つときだって、何かを始められるのは面白かったし、運営のためにいろいろ試行錯誤するのも楽しかった。こういうことをしていると、当然嫌な人も寄ってくる。
『咲也くんは何でもできていいね』
『もとから才能があったんだ』
『実家が太いんだろ』
羨ましいの感情の中でも、妬みは受けるのがしんどかった。僕は僕のやりたいことを全力で向き合っているだけなのに、成功している部分だけを見てそう言われてきた。だから、彼の「キラキラしていて」という言葉は醜さを感じなくて。もちろん、彼の中では醜い感情に感じられるのかもしれないけれど、僕にはとても好ましい感情に思えた。
「俊文さんは好きなことって何かありますか?」
彼に興味を持った僕は、聞いてみた。すると、彼は少し暗い表情になってしまった。
『好きなこと……。何もないです……』
困り気味に、少し落ち込んだ声でそう答えた。好きなものがなく、何かに惹かれることもなく、ただ仕事と職場の往復だけの毎日。……もしかして、僕が想像している人柄と違って、実は何か病気を抱えているのだろうか。うつ病の人は好きなものへの関心がなくなってくると聞いたことがある。僕は心配になってきたので、質問を変えてみた。
『今困っていることはありますか?』
他人にはおせっかいだと思われるだろうし、僕にもその自覚はある。そもそもこの人に何かを変えたいという気持ちがなければ僕の提案も無意味にはなるが、それでも彼の力になりたいと思ってしまっていた。彼は少し考えて、はっとした顔をした。
『実は、革靴がボロボロで……』
……とてもささやかな悩みだった。それがなんだかいじらしくて。
(この人はつまらないんじゃなくて、きっと世界を知らない、素朴な少年なんだ)
それなら、と僕は革靴とスーツを見立てる約束をした。
(まあ、ちょっとだけスーツを見たいという自分の欲望もあったけど)
この時にはもう彼のことをもっと知りたい、そして彼の世界を広げてあげたいと思うようになっていた。
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「俊文さん、待ち合わせぴったりですね」
「ごめんね……。待たせたかな?」
「いえ、僕もさっき着いたところなので。行きましょうか」
待ち合わせたのは繁華街近くの駅前だ。日曜日であるせいか、人通りが多い。彼はミントブルーのさらっとした襟シャツの中に白Tシャツで、黒のパンツに黒のおしゃれなサンダルを履いていた。
「藤崎さんはおしゃれだなあ。そのサンダル高そう」
「お目が高いですね。これドットマークスのサンダルなんです」
「へえ……」
ドットマークスが素材なのかブランド名なのか、そういう形のサンダルがドットマークスと言うのかわからなかった。とても浅い返事をし、彼のファッションに触れることは諦めた。歩きながら、藤崎さんに案内されていると、藤崎さんは話題を振ってきた。
「俊文さんは普段どこでお洋服を買われるんですか?」
「どこだったかな……。スーツとかはセレクトブルーで買うけど、私服はウニシロとかがほとんどだよ」
「ウニシロ安くていいですよね。どんな服が好きとかあります?この形が好きとか、素材がいいとか」
「え……。あんまり考えたことないな……。気が付いたらTシャツばっかり買ってるな……」
「Tシャツいいですよね、一枚でさらっとも着れるし、合わせても可愛いし」
「合わせる……」
「……今日時間に余裕があったら、私服も選んでいいですか?」
「あ、ああ……お手柔らかに……」
俺がもじもじしながらそう言うと、藤崎さんはくすっと笑った。
雑談をしながら歩いていると、目的地に到着した。
「こ、ここ……!?」
お店はなんとオーダースーツのお店だったのだ。全く入ったことのないお店に俺は思わず動揺する。
「お、オーダーって高いんじゃないの……!?」
「ここは結構リーズナブルなんですよ。俊文さん御用達のセレクトブルーと比べると少しだけ高いかもしれませんが、せっかく記念すべき一回目ですし、どうせなら素敵な思い出を形にしませんか?」
「思い出を、形に……」
さあ、とぐいぐい店の方へ引っ張られていった俺は、人見知りの子どものように藤崎さんの後ろでキョロキョロしながら店内を見ていた。店内にはとても良さげなスーツをマネキンたちが着ている。
(こ、こんな営業職でもないのに、良いもの買ってたら目立たないか……!?)
まじまじとスーツを見る。仕立てが良い、ということは分かるがそれ以外は何もわからなかった。
(やっぱり、高いやつは高いな……。藤崎さん、スーツ好きって言ってたけどこういうのよく買ってるのかな……)
藤崎さんの方を見ようとしたら、先ほどまで前に居た藤崎さんは居なかった。どうやら店員のところへ向かっており、何やら話している。話しているのを遠くからぼーっと見ていると、話しを終えた店員と藤崎さんが俺のもとにもどってきた。藤崎さんはニコニコして俺に言った。
「お待たせしました。さ、カウンセリングを受けてきてください」
「カウンセリング……!?」
「そんな難しいお話ではないですよ。気楽に着れるものがいいとか、職業の話とか……。ああ!僕とした話と同じような感じで話してくれたらOKですよ」
ふふふ、と笑いながら藤崎さんは背中をぐいぐいと押してきた。
「生地選びの話になったら呼んでください。僕、俊文さんにおすすめしたいやつあります」
楽しそうに笑いながら、店員に連れていかれる俺を手を振って見送られた。
「ありがとうございました」
カウンセリングからオーダーまで、無事に完了した。出来上がるのは三週間後になるらしいので、今回は冬向けのスーツを作ることにした。初めての体験に俺は用事が終わったてもまだそわそわしていた。その様子を見た藤崎さんは、店の外に出ると俺に話しかけてきた。
「ふふ、どうでした?初めてのオーダースーツは」
「いやあ、冴えない俺でも良く見えるようになるなんて……藤崎さん、流石です」
「僕じゃないですよ、お店のおかげですよ」
「はは、違いない」
一度俺たちはカフェに入って、少しゆっくりすることにした。今度のカフェにはウインナコーヒーはなかったし、藤崎さんと同じものを注文することができた。商品をカウンターで貰い、奥の方の席に座る。
「ここ、初めて来たんですけど、カスタムで注文できました……」
「カスタム初めてでした?」
「はい……。なんか、ツウみたいで……かっこいいね……」
「ふふ、今回のが美味しかったらまたカスタムしに来ましょう。今回のと違うものでもいいですけど」
俺はストローで一口吸ってみる。
「……美味しい」
「美味しいでしょう?ホイップとチョコ追加すると、もう。甘くて最高なんです」
藤崎さんは子供のような笑顔を俺に向けて、ストローでカスタムされたカフェラテを飲む。
「俊文さん。ここで飲み終わったら、今度はセレクトブルーに行きましょう」
「え、でもさっきスーツ買ったし……」
「あれは冬用ですから。今の時期なら、夏物も安くなっています。直近で必要なものは今のうちにセールで買って、来年も着ればお安く済みますよ」
「たしかに……」
「それに、俊文さんの職場ってもうすこしカジュアルでもよさそうなので、ジャケットとシャツと……。ああ、あと革靴ですね。それはシューズマートとか、靴を専門に扱っているお店の方が安く済むのでそこに行きますか」
ここと、ここ。グーグルマップでタップして、店舗付近を見せてくれる。俺はカフェラテを飲みながら画面をぼーっと見た。
「意外と近いところにあるね」
「そうなんです。買い物しやすくて助かりますよね」
二人はそれから、また互いのことを話しながらカフェラテを飲んでいた。藤崎さんのお店は一から立ち上げたものであること、植物を育てている時間が癒しであること、実は梅雨の時期にでるナメクジが苦手であること、恋人は現在いないこと。
「彼女が居ないのは、今忙しいからですか?」
俺がそう聞くと、藤崎さんは「そうですね」と少し寂しそうに答えた。
「まあ藤崎さん、一人で切り盛りしてるし……。イケメンだから、勿体ない気がするけど。結婚とか考えてるの?」
「それは……」
藤崎さんは伏目がちに俺から目を逸らした。……どうやら、聞いてはいけないことを聞いてしまったみたいだ。しまったと思い、取り繕うかのように慌てて喋る。
「あ、ちなみに!俺は独身なんだけど!三十五歳なのに四十代に間違われるし、全然出世する予定も彼女もできる予定なくて!もう毎日同じ人生繰り返してて……。でも藤崎さんに会ってから毎日がちょっとずつ変化してて。キャラメルラテもカフェラテも初めて飲んだし、オーダーメイドのスーツなんて、作れる日が来るなんて思わなかったですよ。だから、こんなおじさんが楽しく生きることができるようにしてくれた藤崎さんには、本当に感謝しています」
久々に、ありったけの気持ちを込めて喋ったら長くなってしまった。だってしょうがないじゃないか。俺にとって神様のような存在である君が、寂しい思いをしてしまうなんて。いつも俺のために色んな提案をしてくれるこんな善い人が、恋人がいないくらいで悲しい顔をしてほしくない。
必死でしゃべったからか、藤崎さんはくすくすと笑い始めた。
「え!?」
「必死すぎですよ、俊文さん」
「あ、あははは……」
「でもそうか、俊文さんってやっぱり若いんですね。僕今年で二十八になるので、思ったより歳が近くて嬉しいです」
「え……!?やっぱ、それ以上に見えてた……?」
「いえいえ。僕の想定が当たってたって話ですよ」
「……ていうか、君は二十代後半なんだな……。二十前半だと思ってた」
「あはは。よく言われますけど、それハラスメントですよ」
「君だってそうだろ!」
笑いながらそう言うと、藤崎さんはカフェラテを飲み干した。
「さて、俊文さんが飲んだら行きましょうか。セールのスーツもかっこいいの選んであげますよ」
「わわ、ちょっと待って、あと一口だから……」
慌てて飲み干すと、俺の空になったカップを上からひょいと取り上げて、ニコニコしながら先に返却口へ向かって行き、カップを捨ててくれた。席を立った俺は追いかけるのに一生懸命になって、カップを持って行ってくれたお礼を言えずに店の外へ出た。
それから、スーツ専門店のセレクトブルーに入り、俺は藤崎さんに言われるがままスーツを購入した。
「いやあ……。セールとは言え、結構買ったな……」
「俊文さん、持ってなさすぎなんですよ。セールに限らず、ジャケットやシャツは多めに買っておいた方がいいですよ」
二人はセレクトブルーでスーツを上下とワイシャツと三着ずつ購入した。ライトグレーと、ネイビーと、黒の無難なスーツだった。藤崎さんは意外と派手なスーツは勧めなかった。むしろ「今までカジュアルめでもOKな部署でかっちりしたスーツ着てたから、悪目立ちしてたんじゃないでしょうか」とアドバイスを受け、シンプルかつカジュアルなものを見繕ってもらったのだ。
「クールビズなんですから、シャツはラインが入ったものでもいいかもしれませんね」
そう言って、ワイシャツはライトブルーにネイビーのラインが入ったシャツや、ワイシャツの襟の内側がチェックになっているもの、白地でボタンが黒になっているものなど、さりげなく個性があるデザインのものを選んでくれた。店を出てすぐのところで、俺は購入後の紙袋を抱きしめながらお礼を言った。
「藤崎さん、本当にありがとう……」
「いいえ。次は靴ですね」
「靴は……つま先がとがっているやつとかは嫌だなあ……」
「大丈夫ですよ、選ぶのはローファーなので」
「ローファーでいいの?」
「ええ。革靴にこだわらなくても。それに、さっきのスーツにローファーは似合うと思うんですよね」
俺は自分が先ほど購入したスーツを着てローファーを履いているのを想像する。
「……あ、ほんとだ。合いますね」
「でしょう?」
二人で顔を見合わせ笑い合う。
(こんな風に、友人と楽しく買い物をするなんて、いつぶりだろうか)
きっと誰も居なかったらスキップをして歩いていたんじゃないかと思うくらい、気分が上がったまま二人でシューズマートへ向かった。ローファーは黒の定番ブランドのものを購入する。もちろん俺は有名なブランドなんて知らないから、藤崎さんから教えてもらったままに買っただけなんだけれど。
「無事に全部購入できましたね」
「これで部長に怒られないで済みそうです……!」
「ふふ、よかったですね」
「ええ」
「………………」
二人の間で、少しばかりの無言が流れる。藤崎さんは少し考えた素振りを見せ、こう言った。
「……今日は、ここまでにしておきましょうか。本当は夕食をご一緒したかったんですけど、今日は荷物が多いし」
「そうか、もうそんな時間か……」
腕時計を見て、時計の針が二十時手前を指していた。
(あっという間だったなあ……)
なんとなく寂しいものの、実際疲れている。でもここから食事までするのは正直疲れるし、遅くなれば明日の仕事に差し支えてしまう。しょうがないか。そう思っていると、藤崎さんは俺の両手を見て、片方の荷物を取り上げた。
「え?」
「今日は、お家まで荷物運びしますよ」
藤崎さんがニカッと歯を見せて笑う。
「えええ!そ、そこまで迷惑かけられないよ……!」
「そんなこと言わずに。せっかくなので甘えちゃってください」
ね?と言いながら藤崎さんの綺麗な顔がわざわざ俺の目の高さまで下がってきて、上目遣いをする。
「じゃ、じゃあ……お願いします」
「やった」
少しだけ藤崎さんが照れたように笑った。
(こんな俺にここまで親切だなんて、本当に変わった人だな)
俺も、藤崎さんを真似た笑顔を返す。一瞬、藤崎さんは戸惑ったような顔をしたが、すぐに笑顔が返ってきた。
(可愛い人だなあ)
それから、二人で夜道を歩き他愛もない話をしながら駅の方へ向かって、電車に乗って四駅ほど乗り俺の自宅の方へ向かって行った。
*********************
この人に「結婚とか考えていないの?」と聞かれたとき、「ああ、この人はどこまでも普通の人なんだな」と少しショックを受けてしまった。別に隠していた訳ではないけど、僕が異性を好きになれないことをこの人は知らない。日本の中でも同性同士で結婚できる地域はできたけど、生憎僕が住んでいるところにはその制度はない。結婚をしたいわけでもないから特に気にしなかったけど。
『イケメンだから、勿体ない気がするけど』
ああ、その言葉にも飽きていた。顔が良いことと、僕が結婚したいかどうかは別の話だ。この人、普通だからこそ無神経なんだ。でも、それは仕方のないことだ。マイノリティなのは僕なのだから。
(でも、いいことも聞けた。彼女居ないんだな……。まあ、想像はできてたけど)
隣で楽しそうに歩いている彼の両手の荷物を取り上げてみる。
「お家まで荷物運びしますよ」
そう言うと彼は遠慮していたので、押し切ろうと思いらしくないぶりっこをした。功を奏して、彼は家まで同行することを許可してくれた。
(もう少し警戒した方が今後のために良いんだろうけど、自分が好意を持たれているなんて思わないんだろうな)
好意を持ってほしい。自分のエゴで彼には善意のふりをして親切をした。そして何より、やっぱり気になる人の家まで行けるのは嬉しい。思わずいつもの笑顔より崩れた笑いが出てしまって、それに対して俊文さんは引くと思った。が、返ってきたのは『嬉しい』とアピールするような笑顔だった。
「……っ!」
つい、可愛くて。びっくりしてしまった。慌てて笑顔を貼り付けたものの、間に合ったかはわからない。
(可愛い、可愛い……。あれは天然だ……)
自分の目にシャッター機能があればよかった。そんな無茶なことを本気で願うくらいには、愛おしい笑顔だった。
(流石に、デート初回だから……あんまり押しちゃダメだよな)
逆につらい、と思ったけどもう少しだけ一緒に居られるならそれでいいか。そう自分に言い聞かせ、できるだけ俊文さんが楽しいと思えるような会話を心掛けながら歩く。そして、彼の家に到着した。彼の家は鉄筋コンクリートの三階建てマンションだった。古いわけではなさそうで、彼はそこの一階に住んでいるようだった。
「ここまで歩かせてごめんね。結構駅からあるんだ」
「いいんですよ、荷物持ちを希望したのは僕ですし」
「ありがとうね」
彼は困り顔の笑顔でそうお礼を言った。俺はまたにこっと微笑んで質問する。
「ところで、俊文さんは何号室ですか?」
「ああ、一番端の一〇四号室だよ」
話しながら、彼はエントランスのインターホンに部屋のキーを差し、エントランスの扉を開く。そのまま二人で中に入り、端の方まで向かう。
「ここまで届けてくれてありがとうね、ほんと、助かったよ。ちょっと待ってね……」
彼は玄関の扉を開く。少し後ろから見た感じだと……洋服やらなにやらが散らかっているように見えた。気にせず、彼は扉を開けて荷物を玄関に置く。僕の持っていた袋も渡し、玄関へ置く。
「よっし。……どうする?よかったらお茶していく?あ、でもお茶が切れてたな……」
うーんと困っている顔をしていたので、俺はまた笑って「いえ、今日は帰りますね。一日楽しかったです。また次の会議で」とそのマンションを出て行った。
*********************
翌日の月曜日。朝から新しいスーツを身にまとい、姿見の前に立った。が、あまり使ってなかったからか、埃であまり自分の姿が見えなかったので新しいスーツを着たまま姿見を磨き始めた。
「よし……っと」
磨き終わり、改めて自分の全身像を見た。ライトグレーのジャケットとスラックス、ワイシャツは白地の黒ボタンで、靴は黒のローファーだ。
「なんか……若く見える?」
明るいトーンの服装だからだろうか。なんだか少し嬉しくなって、その日は髪の毛をできるだけ丁寧に整えて出社した。
「おはようございます」
いつも通り、挨拶をしてデスクに着く。パソコンを起動していると、部長が俺のデスクまでそーっと寄ってきた。
「山下、山下」
「あ、おはようございます部長」
「おはよう。お前どうしたんだ?靴もピカピカだし、そのジャケットもいいな」
出社して早々に部長に褒められた。この会社に入って十三年経つが、身なりを褒められたのは初めてだった。俺は思わず立ち上がって体を九十度にして頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!」
「うんうん、その方が年相応だ」
部長はちょっと気分を良くして自分のデスクに戻っていった。部長が座ったのを確認し、俺も席に着く。
(褒められた……!万年怒られてばっかりの俺が……!)
嬉しくて、思わずデスクの下でこぶしをぎゅっと握り締めた。
(あとで藤崎さんにラインしようかな……。ついでに会議の日もラインしとこう……)
俺は忘れないように、「フジサキ様、昼に連絡」といかにもな感じで付箋に書き、デスクにを貼りつけた。
(今日も一日、がんばろう)
俺は上機嫌でデスクのパソコンと向き合った。
昼休みのチャイムが鳴り、数人が昼休憩へ向かって行く。仕事の区切りが悪い人はまだカタカタとパソコンのキーボードを叩いている。俺はスタートが良かったからか、昼休みにはすぐに入れそうだった。
(そういえば……藤崎さん、店で退職祝いの花を受け取ったとき『また遊びに来てください』って言ってたな……)
あれからお店に行ってないし、今日行ってみようかな。俺は少し浮足立って、デスクから財布を取り出しオフィスを出た。
「ふ、藤崎さん、いらっしゃいますか……?」
店の外から声をかける。すると、奥の方に居て何か作業をしていたのか、数秒遅れて「少々お待ちください」と聞こえた。新しい自分の姿を見せるというのは少し緊張するもので、なぜか俺は背筋をピンとして彼を待っていた。奥からゆっくり出てきた彼は、最初営業用の笑顔だったが、俺だと気が付いた瞬間、びっくりした顔をしていた。
「俊文さん、いらっしゃい。新しいスーツ、似合ってますね!」
嬉しそうに彼はそう言って駆け寄り、俺の周りをくるくると回る。
「ありがとう。いや、その、せっかくだから見せたくてさ。今日部長にも褒められたんだよ。藤崎さんのおかげだ」
「いえいえ。僕なんて、一緒に行っただけですから」
「そんなことないよ。今からまた他の新しいスーツ着るの楽しみなんだ。こんなの初めてでさ、嬉しくて。で、その……せっかく選んでもらったスーツだから、お披露目したいな~なんて……」
喋りながら、自分のことを「女子か!」と心の中でツッコむ。
「見せに来てくれてありがとうございます。やっぱり、いいですね。明るいグレー、俊文さんに似合うと思ったんですよね」
「あはは、俺、自分に似合う色とか考えたことなかったよ」
「自分ではわからないことも多いですから。また買いに行きましょう。今度は私服の方を」
「いいね。あ、そろそろ昼に行かなきゃ。じゃあまた。次の会議の日はまたラインで送ってくれると助かる!」
そう言って俺はそのまま走って近くのコンビニでおにぎりを買い、会社の休憩室でぱくついた。
(あんまりゆっくりできなかったけど、やっぱり見せに行って良かった)
食べ終わってすぐに仕事に戻る。やっぱり、藤崎さんのおかげなんだろうか。この日の仕事はスムーズにすべて片付いていた。定時十分前には、翌日以降に処理しなくてはならないタスクの振り分けまで手が付けられていた(いつもは朝来てやっている)。
終業のチャイムが鳴り、オフィスを出てスマホの画面を開く。すると、ラインの通知が来ていた。アプリを開くと、それは藤崎さんからのラインだった。
『お疲れ様です。急で申し訳ないのですが、今週の会議は今日お願いできないでしょうか?』
俺はラインを見て、考える。
(特に予定もないし、いいか)
突発的に予定が決まるのも、学生のとき以来かもしれない。なんだか学生に戻ったような気持ちになって、俺は『OK』とスタンプで送り、『いつものカフェに居ますね』とラインした。
「急ですみません……俊文さん。しかもお待たせしてしまって……」
「いやあ、全然。むしろ、たまには付き合わせてよ、普段俺ばっかり甘えてるしさ」
席に座っていた俺の元に、走ってきたのか、藤崎さんは息を切らしていた。汗をかいており、長髪の金髪が顔に少し張り付いている。
「ありがとうございます……。はあ、すみません」
「あ、座っててよ。俺注文してくるからさ。何がいい?」
「ありがとうございます……、じゃあアイスティーのストレートで」
「了解!」
俺は意気揚々と注文受付口まで向かって、慣れたように注文する。商品を貰って、席に戻ると、藤崎さんはもう息が整っていた。汗も拭いたのか、いつもの爽やかフェイスになっていた。
「お待たせ。はい、アイスティー」
「ありがとうございます、おいくらですか?」
「いやいいよこれくらい。俺年上だし、おごらせて」
きょとんとした藤崎さんは、くすっと笑って「ありがとうございます」とまた言った。
「じゃあ、早速だけど第二回の会議を始めようか」
「そうですね。藤崎さん、前回の経験を経て、もっとしたいこととか、まだ困っていることとかありますか?」
「そうだなあ」
また頭の中の記憶を探りながら、困っていることを思い出す。そして、前回と違って、今度は藤崎さんのお店に行ったときのことを思い出す。
「あ!日傘……」
「日傘?」
「初めて藤崎さんのお店に行ったとき、アスファルトの照り返しがしんどくて……。俺も持つべきなのか悩んでたんだよね。あ、そういえば初めてこのカフェに来た時は折り畳みの傘もなかったんだよな」
俺がそう言うと、藤崎さんはうーんと言った。
「また買い物に行くのはいいんですが、結構この間お金使っちゃったじゃないですか。大丈夫ですか……?立て続けでも……」
「ははは、大丈夫だよ。俺何にも使ってなかったから、貯金はあるんだ」
「そうですか、それならよかった。じゃあ傘も買いに行きましょうか」
「やった」
「ただ……」
「ただ?」
「そんなに時間がかかるものじゃないので、せっかくですからそのあとにも予定を立てませんか?」
確かに。傘二本買うだけで一日は終わらない。そこで俺はふと良いことを思いついた。
「あ!じゃあ、藤崎さんの行きたいところ、どこかない?俺ばっかりでも良くないし」
「僕の行きたいところ……ですか?」
「そうそう!あ、植物園とかは?」
植物園、と聞いて藤崎さんの表情が明るくなった。
「いいんですか?僕実は植物園大好きで」
「やっぱり。じゃあ、傘買ってそのあと植物園に行きますか」
「そうしましょうか。楽しみです。カメラ持って行かなきゃ」
「カメラ?」
「ええ、僕、写真撮るのも好きなんですよね。スマホでも撮れますけど、やっぱりカメラの方が温かみとか、色々変わってくるので」
目を細めて、彼は自分の手元を見ていた。
「そっか……。藤崎さんはほんとすごいなあ。俺なんてスマホのカメラもあんま使いこなせてない」
「簡単な操作なら僕が植物園で教えますよ」
「ははは!ありがとう。やることいっぱいあるな」
「ええ、楽しいでしょう?」
にっこりとそう微笑みかけられて、俺は思わずドキッと胸が跳ねた。
(び、美形は心臓に悪いな……)
もうだいぶ藤崎さんに慣れてきたと思ったのに、俺はまだ彼の笑顔に慣れていないみたいだ。
*********************
週末。土曜日の朝から俺と藤崎さんはまた繁華街の駅に集まっていた。この日の藤崎さんはシルエットの大きな白シャツの上から空色みたいなブルーのゆるっとしたベストを着ていた。首からは一眼レフをかけていて、肩には黒レザーで長方形のショルダーバッグをかけていた。
「き、今日もおしゃれだね。でもそれよりカメラ……かなり本気だね?」
「ふふ、ごめんなさい。今日の僕のメインは植物園になっちゃいまして……」
「いやいや、いいと思うよ。でも俺にスマホカメラの操作も教えてくれよ?」
「わかってますよ」
俺たちは駅ビルの中にある雑貨屋さんに入った。そこでは傘のポップアップストアが出ていたので、俺たちは折り畳み傘のコーナーへ向かった。
「日傘、どうしましょうか。晴雨兼用もありますけど、個人的には別々で分けて、雨用の傘は会社に置いておくのがいいと思います」
「あ、なるほど……!持ち歩くんじゃなくて、置いておくのか。そうしようかな」
「雨用は、俊文さんの好きなものを選んでいいと思いますよ。どれがいいですか?」
優しい笑顔で、俺の目を見る。
(この目、優しくてすきだなあ)
ぼーっと見ていると、藤崎さんは「ん?」と不思議そうな顔をした。
「俊文さん?」
「え!?あ、ああごめん。そうだよね、好きなもの……」
俺は思わず黙ってしまった。好きなもの、と言われて頭に浮かんだのは目の前の藤崎さんの姿だった。途端に顔が熱くなるのを感じて思わず両手で顔を叩いた。唐突な俺のセルフ顔面パンチにびっくりした藤崎さんは慌てる。
「俊文さん!?」
「す、すすすみません!ごめんなさい!えっと、えっと……何の話でしたっけ!?」
「好きな傘の話ですよ。何色がいいとか、ありますか?」
「あ、傘ね!そうだったそうだった!傘……ええと……あ、これいいかも!」
俺が手に取ったのは、藤崎さんのベストと同じ空色の折り畳み傘だった。
「……あ、その色好きなんですか?」
藤崎さんは一瞬固まって、ぎこちない笑顔で俺を見る。
(やらかした……!)
ちょっと恥ずかしいどころではない。最早ちゃんとアピールしている、意識している!そう自覚した瞬間、慌てて言い訳を述べた。
「あ!そうそう!俺この色大好きで!昔からね!?最近じゃなくて……あ、たまたまだけど!藤崎さんの服と同じだね!?もうびっくり!」
急な大声に周りの人がちらりとこちらを見る。藤崎さんは俺をじっと見ていたが、俺はもう周りと藤崎さんの視線が痛すぎて、「日傘!日傘コーナー行こう!」と小声で強く主張し、首を左右にガンガン横に振って、日傘がありそうなコーナーへ一人走っていった。
「え、はやっ」
置いて行かれた藤崎さんはびっくりはしているものの、店内に迷惑をかけない小走りで俺のところまで来てくれた。俺の後ろに立って、藤崎さんが声をかけてくる。
「急にどうしたんですか」
「い、いやその。ごめん……。悪いんだけど、日傘選んでくれない?俺、何でもいい……」
「こら」
何でもいい。と言った途端、藤崎さんは俺の腕を後ろから引っ張り、俺と向き合う形になった。藤崎さんの表情は少し怒っているようだった。思わず視線を足元に落とす。藤崎さんは視線の合わない俺を無視して口を開く。
「せっかく選びに来たんですから、ちゃんと選んでください。僕は俊文さんの好きなものが知れて嬉しいですし……それに」
藤崎さんは一呼吸置く。
「それに、僕も、その色好きなんです。僕に任せたら、日傘もその色になっちゃいますよ」
その言葉に驚いて顔を上げると、藤崎さんも少し顔を赤らめて口をへの字にしていた。
「あ、あはは……」
いよいよ俺は耳まで熱くなってきていると、藤崎さんは赤らめたまま目を逸らした。
「俊文さん、同じ色の傘買ったらきっと晴用と雨用間違えちゃいますよ。いいんですか」
「……え、あ、よ、よくない!選びます!」
「じゃあ、ほら。選んで」
「あ、でも日傘でおすすめなのまだ聞いてない……」
「……そうでしたね」
藤崎さんがこほん、と咳払いをしていつもの調子に戻っていった。結局、内側が黒で外側がネイビーの無難なものを選び、二本の折り畳み傘を購入した。タグは切ってもらって、会計を済ませる。レジから離れて藤崎さんのもとへ戻ると、なんだか二人ともぎこちなくなったまま店舗の外へ出た。スマホを見ると時間は十二時前を差している。日は高く、藤崎さんを見ると綺麗な金髪が反射して少しだけ眩しかった。藤崎さんはくるっと俺の方を向く。
「俊文さん」
「は、はい」
「せっかくですから、日傘差していきませんか?ここからバスまで結構ありますし」
「ええ?でも俺だけ差すのもなあ」
「ふふ、そういうと思いまして。僕も持ってきてたんですよ」
そう言ってバッグから取り出したのは白い折り畳み傘だった。
「……空色じゃないんだ?」
「あはは。僕、機能重視で買ったんです。本当はその色がよかったんですけどね」
そう言いながら、彼は日傘を開く。先ほどまで日差しで透けるようにきらめいた金髪に影が入る。
「ほら。僕は差しましたから、俊文さんも早く」
「わ、わかったよ……」
買ったばかりのネイビーの日傘を開いて、男二人でバス停まで歩く。
「なんか、浮いてない?大丈夫……?」
「そんなことないですよ、ほら。あっちに傘差している人いるでしょう?」
俺は藤崎さんが指を指した方向を向く。見ると、本当に何人か男性も日傘を差していた。
(よ、よかった……)
集団心理というか、自分が目立っているわけではないことに安心した俺はほっとして藤崎さんの隣に並んで歩き始めた。
*********************
「よし、着いたね!」
「着きましたね」
バスに乗って植物園に着き、入場券を買って中へ入る。
「あれ、傘閉じちゃうの?」
「ええ。写真を撮りますからね」
藤崎さんは傘を閉じて鞄に入れ、カメラを持ち上げる。
「俊文さん、こっち向いて」
「え?」
パシャッ。
振り返ると、カメラを向けた藤崎さんがシャッターを切っていた。
「え、え、ちょっと」
「ふふ、いい感じですよ。ほら」
藤崎さんが俺の横に寄ってきて、カメラの画面から写真を見せる。
「おじさん撮って楽しいか……?」
「楽しいですよ。あとおじさんじゃないですよ」
カメラをのぞき込んでいた俺に顔を近づけて、目を細めて笑った。優しい目をしていて、まつげが長くて、肌が陶器みたいだ。そんな風に考えていると、彼が言った。
「デートみたいですね」
「デッ!」
思わず下を噛む。いたた……としゃがみこんだら「大丈夫ですか?」と彼も一緒にしゃがみこんできた。
「だ、大丈夫……」
「無理しないでくださいね」
困り顔で彼は優しい言葉をかける。
「いや、ちょっと噛んだだけ……。平気、行こうか」
誤魔化すように笑って、俺は少し赤くなった顔を見られないように先を歩いた。
入口はフォトスポット用に花で飾られたベンチがいくつかあった。家族連れやカップルが楽しそうにそのベンチに座り、写真を撮っている。
「わあ、俊文さんそこに座ってくださいよ」
「えええ!?俺男だよ!?恥ずかしいから……」
やんわり断ったが、彼は「うーん」と悩んで目を閉じたあと、名案を思い付いたかのように手を叩いた。
「では、一緒に座るのはどうですか?」
「っえ!?」
「ダメです?」
「目立つよ……」
植物園に入った途端、藤崎さんのテンションが変わった。明らかにはしゃいでいる。
(こういうの、若者の間では流行ってんのかな……)
ノッた方がいいのだろうか。そう悩んでいると、藤崎さんは少し残念そうな顔をしてにこっと笑った。
「……とりあえず、まだ序盤ですし一通り見て回りましょうか」
「……そうだね」
二人で順路を回っていく。周りには水路なんかもあって、石でできた飛び飛びの橋の周りで子供たちが遊んでいる。
「なんか生き物とか居るのかな」
「どうでしょうね。浅いですし、アメンボくらいなら居るかもしれませんね」
話ながら最初に到着したのはバラ園だった。まるで洋画に出てくる庭園のような造りをしており、いろんな色のバラが順路に沿って咲いていた。
「へえ……。綺麗だね。バラって赤と白しかないと思ってたけど、グラデーションのやつもあるんだね」
「そうなんですよ。バラは品種改良されて種類も色も豊富なんです。花弁の数も実は種類によって違うんですよ」
「ほんとだ……。こっちのは花屋で見たことあるけど、こっちのはなんかモコモコだ」
「こちらのは高芯咲きといって、花弁がつぼみから一枚ずつ降りていくようなつくりになっているんです。さっき言っていたモコモコの方はカップ咲きと言って、たくさんの花弁が重なり合っているんです」
藤崎さんはそう説明すると、カメラをバラの方向に向けてパシャパシャと撮り始めた。
「さ、さすが花屋だ……。すっごく詳しい……」
「ええ、花屋ですからね」
「あとさ、よく見たら人の名前みたいなバラ多くないか?」
「ああ、それはですね、バラが贈り物として使われることが多くて、贈り人の名前が由来になっていることが多いんです」
俺が見ていたバラの名前は『クイーンエリザベス』という名前だった。
(なるほど、贈り物として花に人の名前が付けられるのか……)
よくわからないけど、なんかすごい。俺から出てきた感想はそんな感じだった。
「あ、あの場所!あそこに立ってください、俊文さん」
俺が花に注目していると、藤崎さんはカメラを構えたまま俺を呼んで、とある場所を指さした。バラ園の中央にある真っ白なガーデンハウス。
「え!?あの中に入るの!?」
「映えスポットですから!ね、俊文さんお願いします」
「ええええ~……」
今は人が入っていて、女の子二人が交互に撮り合っている。
「ああいうの、若い子がするからいい感じになるんじゃん……?俺が入っても映えないよ……?」
「そこをなんとか。僕が映えさせますから」
「ううーん……」
先ほども断ってしまったし、断り続けるのもなんだか悪い。俺は渋々了承し、女の子たちが去ったあとにさっと中へ入った。
「す、すぐ撮ってくれ!できるだけ早く!」
「はいはい」
藤崎さんは嬉しそうにカメラを向けて、俺を何枚か撮った。普段から悪目立ちする方なのだが、被写体としての経験は皆無なのでいつもと違う視線に緊張で指先がしびれる。カメラのレンズ越しに、藤崎さんがこちらを見ているのが、なんだか恥ずかしかった。
「……よし、撮れました。バッチリですよ」
「な、ならよかった……。はあ」
「ふふ。さあ、次はあそこに行きましょう」
次に指を指したのは温室だった。茶色のレンガの建物で、入口には植物に覆われたパーゴラがある。温室の中に入っていくと、中は植物で密集しており、男二人で歩くにはとても狭い通路だった。
「な、なんか外と違って迫力がすごいね……」
「そうですね……。距離が近いですね。でも俊文さん、上とか横ばかりに気を取られて、足元見ないのはダメですからね」
「こ、今度はこけないよ!分かってるってば」
藤崎さんが笑いながら、いろんな花の写真を撮っている。俺はふと思い出したかのようにスマホを取り出した。
「あ、そういえばスマホカメラ」
「ああ、そうでしたね。ちょっと見せてください……。えーと」
彼が俺のスマホを見るために彼の髪の毛が頬に当たるくらい近くに来た。思わず心臓が跳ねる。心拍が上がっているのをバレないように、口を一の字にきゅっとしてスマホに集中する。
「あ、そんなに複雑な機能はなさそうですね……。フラッシュは一旦切っておきますね。ほら、あとはここをタップするだけで撮れますよ。もし加工とかしたかったら別のアプリを入れてください、ね……」
「え、ああなんだ、それでよかったのか。ありがとう」
「俊文さん、あの……」
小声で、彼が耳元まで顔を寄せて言った。
「……意識してます?」
「え!?」
温室で俺の声が響く。先に入っていたカップルがこっちをじろっと見てくる。
「ば、馬鹿!そういうんじゃなくて……!その、顔が近いんだよ……」
回りをキョロキョロしながら俺は少し彼から離れる。
「あ……ごめん、その……」
上手く説明できず(できるわけもなく)、俺がもじもじしていると藤崎さんはクスっと笑った。そして、カメラを向けてきた。
「は、はあ!?なんでカメラ向けたんだよ!」
びっくりして思わず彼の胸を叩く。
「いや、あはは。可愛くてつい」
彼は満面の笑みでそう言う。「あほか!」と言って、俺は藤崎さんを押しのけずいっと先へ進んだ。……案の定、上からつるされていた鉢から垂れていた花に激突する。
「わっ!」
「ああ、もう。大丈夫ですか」
「っび、くりしたぁ……」
「ほんとにもう、ドジですね」
「ド……!?君そんな風に思ってたのか!?」
「そうですね。注文できないし、スマホカメラも使えないですし、よくこけるし……」
「こ、こける以外はできるようになっただろ……」
「スマホカメラはまだでしょ?」
「お、押すだけなんだからできるよ!」
そう言って先ほどぶつかった花を写真に収めようとスマホを花へ向ける。が、慌ててスマホを向けた勢いで手からスマホが落ちてしまった。藤崎さんがスマホを拾って、俺に渡す。俺が受け取ろうとすると、スマホを持っていた反対の手で俺の差し出した手をぎゅっと掴んだ。
「危なっかしいので、こうしちゃいますね」
「はあ!?」
「この温室の中ではカメラは諦めますから、ちゃんとお花見てくださいね」
にっこりして俺の手を握った彼は、握ったまま温室の中を見回っている。
(ま、まずい……!手汗が……ていうか、男同士……!)
夏の暑さも相まって、全身の毛穴から汗が噴き出る。手なんかきっとびしゃびしゃだ。
(俺は今周りにどう見られているんだ……!?)
恥ずかしくて、周りの花をまともに見ることもできない。すると、違う部屋に移動したのか、池のようなものが見えてきた。
「ほら、見てください俊文さん。スイレンですよ」
「……葉っぱが大きい……」
見ると、スイレンの葉は淵だけ直角に上に向かって折れていた。他にも、スイレンがあるがそのスイレンは淵が折れているわけではなく、まるでホールケーキからショートケーキを切り分けたような切り込みがあった。
「スイレンにもいろんな形があるんだね……」
「どれも魅力的ですよね」
手を繋いだまま、彼はスイレンの説明をする。
「知っていますか。スイレンはこのように葉に切り込みが入っているのですが、ハスの葉は切り込みがないんです。水面より高い位置にあるのもハスの特徴ですね」
「へえ……。花屋にハスもスイレンもあるイメージないけど、本当に何でも知っているんだなあ」
俺が尊敬のまなざしを向けると、彼はちょっと照れて俺から顔をそむけた。
「そんなキラキラした目を向けなくても……。たまたまですよ」
「や、だってすごいことじゃないか。俺だったらそんな違い、自分で調べもしなかったし、すごいことだよほんと」
「……どうも」
何やら彼は照れているらしい。
(て、照れてる……俺の言葉で……?)
嬉しい反面、どんな顔で彼の顔を見たらいいのかわからない。思わず手に力を入れると、彼はバッとこちらを見た。
「…………」
まるで付き合いたてのカップルの気まずさというか、何とも言えない空気の二人は無言のまま、温室を見て回った。出口らしきところに出て、彼が俺の手を離す。
「楽しかったですね」
まだ少し顔を赤くしたままの彼が、目を逸らしたまま俺に言う。俺も「そうだね」と言って、離された手の中がまだ熱いのを感じながら、取り留めもなく歩き始めた。少し夕方に差し掛かっており、園内の人がまばらになっていた。俺たちはどこかベンチで休もうと、先ほどのバラの近くにあるベンチを探していたら、見知らぬカップルが先に座ってイチャイチャしていた。
「うわっ」
ちょうど人目を避けたような場所に人が居たので驚いた俺は思わず後ずさる。
「しぃー」
後ずさった俺の背中をさすって、彼は「あっちに行きましょう」と小声で言い指を指した。バラ園のもっと外側にあるルートには誰も居なくて、歩いているとすぐにルート案内の立て看板があった。左側の階段を降りた先には、どうやら『モデル庭園』というものがあるらしく、俺たちはそこへ向かってみることにした。
「へえ……あずまや、っていうのかな。和、って感じ」
「素敵な雰囲気ですよね。他に誰も居ませんし、ここで休憩しませんか?」
「そうだね、よいしょっと……」
俺はすっかり歩き疲れていたので、ベンチへ腰を下ろしただけで疲労がどっと襲ってきた。
「いやあ~~見て回ったなあ」
「見て回りましたね、どれも素敵でした」
藤崎さんもふう、と息を吐き、目を閉じていた。俺も、背柱にもたれかかって目を閉じる。静けさと鳥の鳴き声が相まって、心が浄化されていくような気持ちになった。
(これは、リフレッシュとしていいかもしれない)
俺はまたひとつ知らないことを学んだんだ、と思っているとふいに藤崎さんが口を開いた。
「俊文さん、今まで恋人っていたことありますか?」
「ええ?唐突だなあ……。居たよ、でも学生のときだけだな。大人になってからはぜーんぜん」
「どんな人が好きなんですか?」
「ええと……。優しい人かな」
「僕でも、可能性あります?」
「えええ?……え?」
ぬるっと答えていたから、突然の言葉に俺はテンポが遅れてしまった。俺は藤崎さんの顔を見る。藤崎さんは前を向いたまま、また質問を重ねてきた。
「手を繋いだとき、気持ち悪かったですか?」
「……それは」
俺は思わず黙り込む。気持ち悪いなんて思っていない。そう言いたいが、なぜか言葉が出てこない。
「僕が顔を近づけたとき、どうしてあんなに顔が赤かったんですか?」
「……っそれ、は」
「どうして」
藤崎さんは一度区切って、こちらを真っ直ぐ見た。俺が目を逸らせないでいると今度はベンチに置かれていた俺の手に藤崎さんの手を重ねて言った。
「好きな傘を尋ねたとき、僕の服の色と同じものを選んでくれたんですか」
「……っ!」
俺はなんとか顔を逸らしたものの、手を振りほどくことはできなかった。重ねられた手に熱がこもる。
「俊文さん」
彼が体ごと寄せてくる。顔の距離はきっと五センチもなかったと思う。心拍数が上がって、音もどんどん大きくなる。
「俊文さん、こっち見て」
彼の声が耳元で聞こえる。彼の顔を見るのが怖い。いや、見るのが怖いんじゃない、見られるのが怖い。きっと、俺は顔に出るタイプだから、俺がどう思っているのかなんてすぐにばれてしまう。
(この関係が変わってしまうことが、怖い)
目をぎゅっとつむっていると、彼の重ねていた手が離れていったのが分かった。
(あ……)
きっと、答えない俺に呆れてしまったんだ。いや、もしかしたらうだうだしている俺に怒ってしまったのかもしれない。焦った俺は目を開く。すると、どうやら俺の向かいに藤崎さんが回り込んでいた。
「うおわ!?」
驚いて、大きな声を上げてしまう。藤崎さんは、ぷ、と噴き出してしまった。今度は藤崎さんが顔を逸らして笑い始める。
「す、すみません……。でも、お、驚きすぎ……」
「そそそ、そんなに笑わなくてもいいだろ!?」
「笑いますよ。そんなあからさまに顔真っ赤にして。……可愛い」
かわいい。三十五歳の俺が、人生で言われたことのない言葉だった。
「俺が……?」
「ええ、可愛いですよ。ねえ、俊文さん。さっきから僕、あなたに言いたいことがあるんですけど、そろそろ言ってもいいですか」
胸が詰まるような、呼吸もままならないような中、俺はゆっくりうなずいた。
「……好きです。僕を、あなたの恋人にしてください。後悔は、させませんから」
彼は耳まで赤くして、震える手でそう俺に言った。
(彼は年下だし、俺なんかよりずっとちゃんとした人だし、何より男同士だし)
そんな否定要素が頭をぐるぐる回るのに、彼の目を見てしまうと、そんな言葉たちは消え失せていてしまう。
(だめだ……)
この人を、手放したくない。
そう思ってしまった俺は、こう答えた。
「ふ、ふつつか者ですが……よろしくお願いします」
ピタっと彼の動きが止まる。そして、大きな声で笑い始めた。
「え、え……?」
俺が戸惑っていると、彼は目の端の涙が出るほど笑っていた。
「と、俊文さん……!それは、プロポーズを、う、受けた時にする返事ですよ……っ!」
あーーー、と笑ったあと彼はにっこりと笑った。
「俊文さんにはかなわないなあ」
そう言って、彼は俺の手を掴んでぎゅっと握った。
「はい。結婚を前提に、よろしくお願いしますね」
俺は「そんなところまで答えてない!」と言いたかったのだが、彼の優しい目を見たらそうも言えなくなってしまって、短く「はい」と答えた。
(なんてつまらない男なんだ)
今年で三十五歳になった俺は、見た目が年齢より老けていると言われることが多い。当然だ、肌はボロボロで目の下にはクマがある。せめてもの思いで髪は定期的に短くしているが、それでも老けて見えるらしく一番ひどいときは四十代に間違われたこともある。
「おい、山下」
「はい」
「なんだその靴は。ボロボロじゃないか。君は内勤とは言え、いい年なんだから見た目にくらい気を遣いなさい」
「はあ……」
部長が俺の見た目を注意する。……たしかに、言われてみれば革靴は傷が入りまくって先の方は剥げている。部長が怒りたくなるのも無理はない、と思った。
「なるべく早く買いに行きなさいね」
そう言って部長はその場を去ろうとしたが、何かを思い出したのか振り返って再度声をかけてきた。
「おっと、肝心なことを言い忘れた。おつかいなんだが頼まれてくれるか?」
「はい、なんでしょう」
「明後日、総務部の田中さんが寿退社するだろ?当日に渡す花束の予約をしてきてくれんか?」
「はあ……」
なんで俺なんだろう、と思っていると、部長が再び口を開いた。
「もともと頼んでた部下が予約を忘れていたらしくてな……。もうあいつは信用ならんから、お前が代わりに行ってきてくれ。近くにちっさい花屋があるだろ?急な用立てだから、もし多少値が張ったら俺のポケットマネーから出す」
そう言って部長は一万円をその場で渡してきた。
「頼んだよ」
そう言って部長は今度こそ自分のデスクに戻っていった。
(……昼休みに行ってくるか)
ちょうどお昼手前の時間だったので、俺はいつもより少しだけ早い昼休憩を取ることにした。デスクの引き出しから財布を取り出し、オフィスを出てエレベーターに乗る。
*********************
(外暑いな……。まだ歩いて五分なのに、汗が噴き出る)
日差しがぎらぎらと射す七月。クールビズとは言え、エアコンのきいた部屋でしか仕事をしていないせいか、ワイシャツの下はびっしゃりと汗をかいていた。最近の男性は日傘を持っているが、生憎俺はそんな洒落た物を持っていない。太陽の光を照り返すコンクリートの反射がきつい。
(俺も日傘買うべきかな……。似合わないけど)
なんてネガティブなことを考えながらハンカチで汗を拭く。そして、目的地である花屋が見えた。店と店の隙間にある小さな花屋。おそらく、水をいっぱい浴びたであろう植物たちが水滴で輝いていた。
(そういえば、花なんて見るのは久しぶりだ。きれいだなあ)
近寄って、ぼんやりと花を見ていると、店員がお店から出てきた。
「こんにちは、暑いですね」
「あ、ああこんにちは」
急に声をかけられてびっくりした俺はさらに驚く。
(び、美形だ……)
出てきたのは柔らかな金髪の長髪男性。二十代前半くらいだろうか?うなじの後ろで髪を結んでおり、毛先が肩につくくらいの長さだ。目は明るめの茶色で、若干たれ目なのか、微笑んでいると目がにこにこして見える。パリッとしたカッターシャツに緑のエプロンを着ている。
「……すみません。えと、今度退職する女性のスタッフに退職祝いの花を渡したくて……」
「かしこまりました。退職される方のイメージカラーなどありますか?」
「イメージ……」
正直、田中さんとあまり接点がないので、イメージが湧かない。ない記憶を一生懸命思い返す。
「えっ、と……誰にでも優しくて、よく笑っている……女性らしい方で……」
たどたどしく言葉を紡ぐ俺に、美形の店員は微笑んだ。
「なるほど。でしたら、ピンクの花束などはいかがでしょうか?」
「あ、ありがとうございます……。ではそれで。お任せでお願いします」
「わかりました。では、ご予算はどれくらいでしょうか?」
「えっと……急ぎで申し訳ないのですが、明後日までに五千円くらいで作れますか?」
「大丈夫ですよ。出来上がった商品は何時頃取りに来られますか?」
「あ、えっと、当日の十二時から十三時くらいでもいいですかね……」
「かしこまりました。では、お名前と電話番号をお願いします」
「あ、はい」
俺は店の中に案内され、すぐ近くのカウンターで小さなメモ用紙に名前と電話番号を書く。
「……はい。ありがとうございます。山下……俊文(としふみ)様ですね」
「では、また。取りに行きますね……うわっ!」
俺がペコリと会釈して背中を向けた瞬間、入口の段差につまずき勢いよく道路にダイブした……と思った。だが、その寸前で店員に後ろから勢いよく引っ張られ、気づけば彼の腕の中に抱き留められていた。
「大丈夫ですか?」
店員は焦った顔で俺の顔を見ている。
「ごごご、ごめんなさい!み、店のお花とか蹴っ飛ばしていませんか!?大丈夫ですか!?」
慌てる俺を見た店員はきょとんとし、その後「ふふふふふ」と声をもらした。どうやら笑っている。
「全然大丈夫ですよ。お客様こそ、お怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫です……。本当にすみませんでした」
「いえ全然。お花も無事ですし、謝らなくていいですよ。立てますか?」
「た、立てます……。はあ、びっくりした……」
「段差、気を付けてくださいね。ここ狭いですから。あ、それとこれ。よかったらどうぞ」
「あ、どうも……」
受け取ったのは、この店のラインとインスタの入った名刺だった。
「登録、よろしくお願いします。登録していただけましたらサービスしますので」
なんだか先ほどのつり橋効果なのか、にこにこ笑う店員はすごくキラキラして見えた。
「は、はい……」
小声でそう答えると、俺はふらふらしながらも今度こそ躓くまいと、しっかり段差を確認して店を出た。
*********************
総務課の田中さんが退職する日の昼休み。俺は花屋へ向かう。相変わらず天気は良くて、アスファルトの照り返しがしんどい。オフィスを出てすぐに汗がツーっと頬の横を流れていく。ふらふらとしながら顔を上げると、店先では例の美形店員が優しい表情で花に水をあげていた。じょうろから流れる水が輝いていて、それを受けた植物の葉先もキラキラとしている。
(花屋が似合う人だなあ……)
まるで、あの辺だけが絵画のように美しい。その様子を少し遠くからぼんやりと眺めていると、店員が視線に気が付いたのか、こちらを見てにっこりと微笑んだ。一瞬焦って思わず心臓が跳ね上がったが、すぐに用件を思い出し、慌てて小走りで店へ向かう。店先に着くと、店員が笑顔で出迎えてくれた。
「こんにちは、お待ちしておりましたよ」
「す、すみません……のろのろ来て。その、暑くてぼーっとしてて。えっと、花の受け取りに来ました」
「ふふ、大丈夫ですよ。ありがとうございます。こちらですが、いかがでしょうか?ご確認ください」
渡された紙袋の中には、ピンクの花を中心とした華やかなブーケがあった。
「おお……綺麗ですね」
「ありがとうございます」
そう言って店員は頬に手を添えて笑った。顔の横に流れてきている髪を耳の後ろに流し、レジの前に立つ。
「そういえば、ライン登録してくれましたか?」
「あ、すみません……。なにもしてなくて……」
「お安くしますので、ぜひ」
店員はレジ前のQRコードに片手を向ける。にっこりと笑っているものの、何やら圧を感じたので、俺はレジ前にあるQRコードからラインを恐る恐る登録する。すると、花のアイコンが出てきた。追加のボタンをタップすると、ポンポンと三つほど何かが届いた。
「登録ありがとうございます。ではそこの一番下のところをタップしていただければ割引になりますので」
「は、はあ」
慣れない手つきでタップをし、会計を済ませる。
「ありがとうございました」
店員がそう言って花の入った紙袋を渡す。俺は会釈をして受け取り、今度は躓かないように慎重に店先に出る。店員もお見送りに一緒に出てくる。
「またのご利用、お待ちしておりますね。それから」
店員は微笑みながら、店先の花たちに視線を送る。
「よければ、たまに遊びに来てください。この子たちも喜びますので」
「?は、はあ」
俺は少しぽかんとしつつも、再び会釈し、また汗をかきながら自社ビルに向かって歩き出した。
*********************
会社に戻りデスクの下に花を置く。部長に報告しようとしたが、どうやら入れ違いで外出しているようだった。一応、『花の受け取り完了しました』とラインで連絡を入れる。すぐに既読が付いて、『ありがとう、あとで皆で集まるから、その時ついでに渡してくれ』と返信がきた。
(お、俺が渡すのか……)
何の接点もない俺なんかに渡されても、田中さんは嬉しいんだろうか。
(いや、きっと嬉しくない……。というか、俺なら『誰だっけ』が先に来る)
可哀そうな田中さんのことを考えると胃がキリキリしてくるが、仕方ない。とりあえず目の前の仕事を終わらせようと、俺は気を取りしなおしてパソコンに目を向けた。
そして十七時五十分。終業時間の十分前に部長が皆に声をかけ、オフィス入口の近くにあるホワイトボードの前に集まる。俺も花束を抱えて、後ろの方にそっと混ざるように並ぶ。部長は皆に聞こえる大きな声で話し始めた。
「えー。本日で総務部の田中くんが寿退社されます。今まで頑張ってくれてありがとう。幸せにね。でも!もし何か職に困るようなことがあったら戻ってきてもいいからね」
部長なりの温かい言葉を田中さんへ向ける。田中さんは嬉しそうに『ありがとうございます』と言った。
「じゃあ、山下くん!」
部長に呼ばれ、俺はわたわたしながら前に出る。そして、「い、今までありがとうございました」と精一杯のお礼の言葉をかけ、花束を渡した。
「うわあ、綺麗!山下さん、ありがとうございます」
田中さんが笑顔で受け取る。俺はその笑顔になんとか無理やり笑顔を浮かべ、そっとまた集団側に戻った。
「じゃあ解散!お疲れ様でした」
部長が解散の一言を皆に告げる。業務に戻る者も居れば、別れを惜しんで田中さんに話しかけたり、個別にお別れのプレセントを渡す者もいた。俺は前者なので、そっと集団に合わせてデスクに戻る。
「山下」
デスクに戻ると部長が話しかけてきた。
「あ、部長。お疲れ様です」
「お疲れさん。花の準備助かったよ、ありがとう」
「いえ。あの、そういえばおつり……」
「こら」
部長は声を潜め、少し中腰になる。俺も部長に合わせて中腰になると、部長が耳打ちしてきた。
「まだ田中くんが居るだろ。来週の月曜に精算するから。君も少しは気を遣いなさい」
「す、すみません……」
慌てて田中さんの方を見る。どうやら田中さんには聞こえてなかったみたいで、まだ他の社員と楽しそうに話していた。
(よかった……。聞こえてなさそうだ)
部長は「じゃあまた来週」と俺に声をかけて、自分のデスクに戻っていった。俺ははあ、とため息を吐く。
(昔から気が利かないんだよな、俺……)
高校時代に付き合っていた元カノに「俊文って気が利かないよね」と言ってフラれたことをぼんやり思い出した。
(あの子以来、恋人なんていない……。つまり俺は今も気が利かないってことだよな……)
デスクの頭をゴン、と置いてまた「はあ」とため息を吐く。
(いい加減、この生活変えたいな……)
誰かと飲みに行くにも、飲みに行くほど会社に仲が良い人なんていないし、学生時代の友達は結婚やら県外に居るやらでなんとなく疎遠になっている。家族仲は普通だがわざわざ会いに行くほど仲が良いわけでもない。兄弟も居ないし、ネットの友達もいない。
(ちょっとでいいから、このつまらない人生を脱したい……)
転職とか、起業とか、結婚とか、そんな大それたことじゃなくていいから。
(どうしたもんかな……)
ぼんやりそんなことを考えていると、退勤時間のチャイムが鳴ったので、俺はそのままオフィスを出た。
(あ……)
会社を出ると、雨が降っていた。夕立だったのか、帰る人たちから「天気予報で雨とか言ってなかったのに」と不満の声を上げる人が多く居た。それでも、誰かの傘に入れてもらう人や鞄を頭に乗せて帰る人も居る。中にはタクシーで帰る強者も居た。
(折り畳みの傘は持ってない……。ああ、これも気が利かないのひとつなんだろうか)
また自分の至らなさにため息が出そうになる。そこでハッと気が付いた。
(そうだ。こういうときほど、今までと違うことをしてみたらいいんじゃないか?俺の人生を変える何かきっかけになるかもしれない)
そう思い立った俺は、早速普段しないことを頭の中で振り返ってみた。
(……そういえば、会社の一階にあるカフェ、一度も行ったことないな)
いつでも行けると思うと、いつまでも行かない。なら、今日にでも行くべきだ。俺は早速自社ビルの中に戻り、カフェへ入っていった。
「いらっしゃいませー」
カフェ店員の声が響く。天井と床は白で、壁面はコンクリート。壁にはモノトーンのおしゃれな絵が飾ってある。アイアンウッドの机や椅子、カウンターがあり、ランプは天井から吊り下げられている。店内にはジャズっぽい音楽が流れていた。
(いつもはこんな若者向けのカフェに来ないから、緊張するな……)
キョロキョロしながらレジの列へ並ぶ。皆も雨宿りで利用しているのだろうか、店内は少し騒がしく、客入りは多く感じられた。「こういう立地になる店は忙しいんだろうな」と考えていると、自分の注文の番が回ってきた。
「ご注文お伺いします」
「えっと……」
正直、どれがいいかわからない。何せどれも頼んだことがないのだから。
(いつもと違うこと、いつもと違うこと……)
どうせなら、あまり知らない飲み物がいい、と思い決めあぐねていると、店員から催促の声がかかる。
「お客様?」
「あ、すみません……。えと、これでお願いします」
「ウインナコーヒーですね。六百円になります」
「あ、はい……」
もたもたと鞄から財布を取り出し、六百円ちょうど釣銭受け皿に置く。店員は素早く出されたお金を受け取り、レシートが渡されたときにはもうカウンターに注文した商品は置かれていた。レシートを回収し、コーヒーを持って空いていた窓際の席に座った。
(クリームが乗ってるコーヒー、初めて飲むな……)
夏場だというのに、店内は思いのほか寒くて思わずあったかいものを頼んでしまった。一口飲んでみると、普通のクリームだった。ふうん、こんなもんか。という気持ちでクリームとコーヒーをかき混ぜ、コーヒーをちびちび飲む。雨足はまだ止む気配がなく、ザアザアと降っていた。窓からは道路を走る車と、傘を差して歩く人たちが居た。
(……こういうとき、お気に入りの小説とかあったら、様になるよな……)
もちろん読書の趣味はない。普段しないことをすると、さらに普段しないことが必要になってくる。なんの準備もなくカフェに飛び込んだ俺は、やっぱり気が利かないままだ。
「はあ……」
またため息を吐き、机のウインナコーヒーに目を遣る。すると、窓から「コンコン」と小さな音がした。
「え?」
見ると、そこには傘を差した金髪の美形が立っていた。美形はこちらを見てニコニコと笑い、手をひらひらさせている。
「あ!花屋の店員さん!」
思わず大きな声を出して立ち上がる。一瞬近くの人がこちらを見る。
「あ、すすみません……!」
慌てて近くに座っていたお客さんに謝って振り返ると、もう窓の向こうには花屋の店員さんは居なかった。
(げ、幻覚……!?)
びっくりして座れずにいると、今度は横から声をかけられた。
「俊文さん、こんばんは」
「え!?」
先ほどまで外に居た花屋の店員さんは店の中に入ってきていた。
「あの、えと、こ、こんばんは」
突然現れたことも、下の名前で呼ばれたことにもいろいろ驚いている俺を無視して花屋の店員さんはニコニコしながら話しかけてきた。
「お仕事終わりですか?誰かと待ち合わせとか?」
「いえ、その……雨宿りに」
普段と違うことがしたくて、とは言いづらく言葉を濁した。花屋の店員さんはにこっと微笑む。
「そうなんですね。良ければ、ご一緒してもいいですか?」
「え!?お、俺とですか?」
「あ、お嫌でなければですけど……」
「あ……」
嫌か、嫌じゃないか。別に嫌ではない。ただ、そこまで親しくもない、ましては数日前に知り合った人間とお茶をするというのは若干気が引ける。
(……いやでも、正直一人でコーヒー飲んでても退屈だし……)
「ど、どうぞ。ご一緒してください」
俺は彼を受け入れることにした。
「よかった。じゃあちょっと注文してきますね」
そう言って花屋の店員はカフェ店員のところに行き、何かを注文していた。会計を済ませ、商品を持って花屋の店員さんは戻ってきた。何やら白い塊が入った飲み物だった。
「それ、なんですか?」
「ああ、これマシュマロ入りホットチョコレートなんです。僕、甘いものに目がなくて」
照れ笑いを浮かべながら、花屋の店員さんは席に着く。そしてそのまま俺の目を見て言った。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたよね。僕、藤崎咲也って言います」
「ああ、えと、藤崎さん。よろしくお願いします」
「はは、よろしくお願いします」
花屋の店員さん、もとい藤崎さんがホットチョコレートを一口飲む。俺も合わせて一口コーヒーを飲むと、藤崎さんはカップを置いて質問してきた。
「俊文さんって、よくここに来られるんですか?」
「え?いやあ、まさか。こんなおしゃれなところ普段なら来ませんよ」
……しまった。また気の利かない話し方をしてしまった。藤崎さんの顔を見ると少しきょとんとしていた。
(あああやってしまった……なんで俺はこう、とげのあるというか、うまく話せないんだ)
「ええと、その、俺、俺普段寄り道せずに帰っているので…ハハハ。今日はその……雨だし、気まぐれに行ってみようかなって思ってですね……」
そう言うと、藤崎さんは笑顔になった。
「そうなんですね。じゃあ、今日の出会いは奇跡ですね。声かけてよかった」
「え、ええ、まあ」
もしかしてキザな人なのだろうか。藤崎さんの言い回しが気になりつつ、俺も質問を投げかける。
「藤崎さんは?雨の中出かけられてたみたいですけど」
「ああ、僕も仕事が終わって帰るところだったんです。何となくカフェを見たら俊文さんがいらっしゃって。思わず声かけちゃいました」
「そ、そうなんですね……。普段ここには来られるんですか?」
「そうですね……。たまに来て、ここで本を読んだり、仕事したりしていますよ」
「ここで仕事を?」
「ええ、実は僕、ホームページも作っていまして。そこで注文受け付けたりとか、お客様のご意見を確認したりしてて。時々ホームページの改修作業とかもしているんです」
驚いた。花屋は花を売るだけではないというのは分かってはいたが、ホームページまで自分でやるものなんだろうか。
「花屋さんって大変ですね……」
月並みな、ありふれた回答しか出てこない俺を、藤崎さんは馬鹿にせずに笑っていた。
「あはは。本当なら外注をかける部分なんですけど、そんなお金なくて。たまたま得意分野だったから自分でやっているんです。オンラインで予約がかかると、その記録から人気の花とかが目安になるので、それも管理しやすくて気に入っているんです」
「へえ……。すごいな……」
目を伏せて微笑みながら語る彼は美しかった。マシュマロはほぼ溶けていたが、彼は気にすることなくまたカップを持ち、一口飲む。
(この人、こんなに若くて綺麗で、何でもできるんだな……)
「はああ……」
今日でもう何回目だろうか。藤崎さんの前だというのにうっかりため息が出てしまった。
「どうしたんですか?俊文さん」
「あぁ……。すみません……。その、俺、藤崎さんがうらやましくて」
「僕が、ですか?」
「その……俺には何にもないから。君がキラキラしてて、若いのが、いいなって……」
俺の愚痴のような、妬みのような言葉を藤崎さんは黙って聞いていた。
「あ……すみません。嫌ですよね、こんなこと言われて……」
はは、と乾いた笑いをこぼし、俺はバツが悪くなってコーヒーをまた一口飲んだ。
「俊文さん」
「……はい」
「良ければ、僕とまたこのカフェで集まりませんか?」
「え、俺とですか?」
「ええ。俊文さん、何もないっておっしゃったじゃないですか。なら、僕と楽しい予定作りませんか?今回はゼロ回目、次から一回目。第一回はその次に何をするか予定を立てる会にしましょうよ」
藤崎さんと楽しい予定を作る。目からうろこだった。俺が知り合ったばかりのこんな若い子と遊ぶなんて。
「い、いいんですか……?」
「もちろん!僕は嬉しかったですよ、僕のことをうらやましいって言ってくれるの」
そう言うと、藤崎さんは俺の手を取って、その両手で俺の両手を包んだ。
「楽しみですね、第一回目。これも、今日俊文さんがここに来てくれたおかげですね」
その言葉で、俺は一気に有頂天になって、体の体温が上がったのがわかった。
(うれしい……!)
彼はひょっとしたら、俺のつまらない人生を変えてくれる人、いや神様かもしれない。
「あ、ありがとうございます……!その、一回目の会議、楽しみです……!」
「ふふ、じゃあ早速なんですけど、ライン交換しませんか?プライベートの」
「あ、あぁ、わかりました」
椅子の下に置いていた鞄からスマホを取り出し、ラインの画面を開く。
「……はい、ありがとうございます」
「……藤崎さんのアイコン、かっこいいですね」
何やら海と鳥居を背景に、サマーニットを着た後ろ姿の写真が俺のスマホ画面に出ていた。
「ありがとうございます。旅行先で友達に撮ってもらったんですよ。俊文さんは写真設定しないんですか?」
「そういえば……気にしたことなかったです……」
「ふふふ、俊文さんって面白いですね」
「え」
「あ、次の会議ですけど、来週の金曜日の夜に集まるのはどうですか?仕事終わりのこの時間に」
「大丈夫です。空いてます」
「ふふ、じゃあ今日はこれで僕は失礼しますね!来週楽しみです」
では、と言って彼はいつの間にか空になっていたカップを返却口に持って行って店を出て行った。店を出てからも、彼は俺の居る席に手を振ってから去っていた。彼が出て行ってから気が付いたが、雨はもう止んでいた。
(来週が待ち遠しいのはいつ以来だろう……)
変わらず胸が高鳴り続ける中、俺は冷めきったコーヒーを一気飲みし、同じように返却口へ持って行き店を後にした。
*********************
あっという間に金曜日が来た。俺は定時の十分前からそわそわが止まらず、定時のチャイムが鳴ると同時に退勤した。早足でエレベーターに向かい、ボタンを押す。なかなか来ないエレベーターに対し、ちょっとイライラした俺は足を一定のリズムでぺたぺたと踏み鳴らす。
(あ……)
ふと足元を見ると、ボロボロの革靴が目に入る。
(そういえば、これも買いに行かなきゃな……)
エレベーターが到着し、俺は中へ入るとエレベーターの中にある鏡が見えて、ふと自分の身なりを見つめた。よく考えたら、スーツも何枚かを使い古しているからくたびれている気がする。
(ほんと、俺小汚いな……。藤崎さんからいくつに見えてるんだろう)
こんな格好で会いに行くなんて、俺はもしかしたら失礼なことをしているのかもしれない。
「はあ……」
俺はため息を吐きながら、一階へのボタンを押した。
エレベーターが一階へ到着する。俺はカフェに入る前にせめてちょっと身なりと整えようとトイレに向かった。整えると言っても、髪の毛を少し手で整え、シワっぽいスーツを少しでも伸ばして誤魔化そうとしたくらいだが。
改めてカフェに入って店内をキョロキョロしていると、前回と同じ席に彼は座っていた。よく見ると、手元で何やら小さめの本を読んでいる。
(読書している姿もきれいだなあ……)
そう思いながら、俺は藤崎さんが待っている席へ小走りで向かった。
「ふ、藤崎さん。遅くなってすみません」
声をかけられた藤崎さんは、パッと顔を上げ、俺の方を見た。にこっと微笑み本を閉じる。
「ああ、俊文さんお疲れ様です。待ってませんよ、僕もさっき着いたばかりなので」
「あんまり待たせていないのならよかった。ちょっと飲み物買ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
藤崎さんは片手をひらひらさせて手を振る。俺は鞄から財布だけ取ってレジに向かった。
「俊文さん、ウインナコーヒー好きなんですか?」
「いや……その……」
前回注文したものと違うものを頼もうとしたのだが、やっぱりどれを頼んだらいいかわからず、結局同じものを頼んでしまった。
(変わるって、難しいよな)
とほほ、と若干古い表現が出そうな感じで落ち込んでいると、藤崎さんはふふっと笑った。
「よかったら、一口飲みます?今日のはアイスキャラメルラテなんですけど」
「え、いいんですか?」
「はい。美味しかったら、次注文できるし、チャレンジしてみませんか?」
ニコニコと微笑むこの人と待ち合わせをして、まだ十分程度しか経っていないのに、俺にはこの人がもう菩薩に見えていた。
「優しい……」
「そんなことないです、普通ですよ」
藤崎さんは笑ってキャラメルラテを俺の前にすっと差し出した。
「そうですか……?俺は藤崎さんみたいに、気の利くこと言えないので、憧れます」
差し出されたものを受け取り、ストローから一口飲む。
「美味しいです」
俺は控えめな笑顔でそう言ってキャラメルラテを藤崎さんに返す。
「よかった!好きなものが増えましたね」
「……そうですね」
ほっこりしたところで、藤崎さんは本題に入った。
「さて、楽しい予定を立てる会を始めましょうか。俊文さんは好きなことって何かありますか?」
「好きなこと……」
正直、好きなことなどひとつもない。酒は惰性で飲んでいるし、おしゃれにはとんと疎い。読書もしないし、ゲームも苦手だ。
「何も……ないです」
場の空気がしーんとなる。楽しい回をいきなり凍らせるところから始めてしまった。俺がずん、と落ち込んでいると、藤崎さんは少し質問の方向を変えてきた。
「でしたら、今困っていることはありますか?何でもいいですよ」
「なんでも……」
困っていること。何かあった気がする……。そう思い返していると、部長の顔が頭を過った。
「あ、ある……!実は、革靴がボロボロで……スーツもくたびれてて、上司に怒られたんですよ!」
言ってみて、自分がだらしないと明言してしまったことを後悔した。ただでさえ冴えない男が会社でもダメ人間だなんて、藤崎さんとは言え呆れてしまうに違いない。ハハハ、と笑ってみるものの、藤崎さんの目を見ることができず、気づけば下を向いていた。いたたまれない空気の中、藤崎さんが口を開く。
「そうなんですね……。なら、一緒に革靴もスーツも買いに行きませんか?僕見繕いますよ」
「え!?」
「僕、スーツ好きなんですけど、職業柄着る機会が少なくて……。俊文さんが良ければぜひ選ばせてください」
なんて嬉しい申し出なんだろうか。この人はどこまで優しいんだろうか。嬉しさで目をぎゅっとつむってガッツポーズをしていると、藤崎さんはクスクス笑った。
「あ、すみません……」
「いえ、いいんですよ。そんなに喜んでくれるなんて光栄です。じゃあ、僕おすすめのお店いくつかピックアップしておくので、今度はそこで待ち合わせしましょう。あとでラインしますね」
嬉しそうにそういうと、藤崎さんはキャラメルラテを一口飲んでスマホを取り出した。画面をタップして、何やら録音画面を開いている。
「それじゃあ、せっかくなのでインタビュー形式で教えてください。俊文さんのお仕事のこと、業種とか、服装規定とか、聞かせてもらえますか?もちろん、社外秘になるようなことは避けてくださいね」
「ええ、緊張するなあ……」
「大丈夫ですよ。次の会議でいい買い物ができたら削除しますし」
「はは、じゃあ来週の楽しい会に向けて答えていこうかな」
……それから、俺はできる限り自分のことを話した。文房具メーカー勤務の事務職であること、出世の兆しはなく部長にはよく気が利かないと怒られていること、スーツは入社して一回程度しか買いなおしていないこと(革靴も同じくらい)、スーツは服のことを考えなくていいから着ているが、実はもう少しオフィスカジュアルでもよいこと、目立つのは苦手なのに何故か悪目立ちしてしまうこと。
俺の話を、藤崎さんは優しい顔で聞いてくれていた。……途中、スーツのくだりでは噴き出して笑っていたけど。
またコーヒーを飲むのを忘れて、ホットで頼んでいたはずなのにすっかり冷え切ってしまっていたが、冷えたことに気を留めることもなく、この日の会議は心地よく、スムーズに進んだ。
(そうだ……)
自分のことを話すのって、結構楽しい。開放的な気分になるのだ。普段から誰かとコミュニケーションを取っていない俺には、遅れてきた青春だった。
*********************
僕から見た「山下俊文」という男は甲斐性のなさそうな、平凡な男だった。見た目は年齢よりおじさんっぽいし、リアクションが薄くて、あまり深く考えることがなさそうで、子供がそのまま大きくなっただけの人に見える。花を予約したときも、ラインの登録なんて簡単な作業すら慣れてなさそうで。花屋を出るときも段差に躓いてこけそうになっていたし、おそらく会社でもそんなに仕事が出来るわけではないんだろう。ただ、あの日。雨の降るオフィス街のビルから出てきた彼を偶然見かけた。きっと彼のことだから、傘も持たず、そのまま雨の中を走っていくのだろうと思った。すると、予想に反して彼はキョロキョロ周りを見回したあと怪しい動きをしながらカフェに入っていった。
(……実は奥さんとかいるのかな)
ダメンズに尽くしたい女性は少なくない。迎えに来てもらうのかもしれない。どうせなら奥さんの顔でも拝んでやろうと思って、彼をしばらく雨の中から見ていた。しかし、誰かと連絡を取っている様子もない。スマホを見ることもなく、ただコーヒーと外を眺めてつまらなさそうにため息を吐いていた。
(…………マジで何しているんだろう)
気になってしまったから、つい、勢いで声をかけにカフェへと入った。何とか相席して聞いてみると、どうやら入ったものの時間のつぶし方が分からず困っていたことがわかった。
(なんか、この人可哀そうになってきたな)
聞けば聞くほど、この人には何もない。むしろ、これでは世の中の事を何も知らずに歳だけ重ねている。なんだかもやもやとした気持ちを抱えていると、彼が零すように言った。
『その、俺、藤崎さんがうらやましくて』
『俺には何にもないから。君がキラキラしてて、若いのが、いいなって……』
彼のその言葉は、俺の中の何かを小さく動かした。
(この人、きっと自分の情けないところ、わかっているんだ。変えたいんだ)
羨ましい、と言われることは正直よくある。たまたま容姿は良い方に産まれたし、ファッションは見るのも考えるのも好き、店を持つときだって、何かを始められるのは面白かったし、運営のためにいろいろ試行錯誤するのも楽しかった。こういうことをしていると、当然嫌な人も寄ってくる。
『咲也くんは何でもできていいね』
『もとから才能があったんだ』
『実家が太いんだろ』
羨ましいの感情の中でも、妬みは受けるのがしんどかった。僕は僕のやりたいことを全力で向き合っているだけなのに、成功している部分だけを見てそう言われてきた。だから、彼の「キラキラしていて」という言葉は醜さを感じなくて。もちろん、彼の中では醜い感情に感じられるのかもしれないけれど、僕にはとても好ましい感情に思えた。
「俊文さんは好きなことって何かありますか?」
彼に興味を持った僕は、聞いてみた。すると、彼は少し暗い表情になってしまった。
『好きなこと……。何もないです……』
困り気味に、少し落ち込んだ声でそう答えた。好きなものがなく、何かに惹かれることもなく、ただ仕事と職場の往復だけの毎日。……もしかして、僕が想像している人柄と違って、実は何か病気を抱えているのだろうか。うつ病の人は好きなものへの関心がなくなってくると聞いたことがある。僕は心配になってきたので、質問を変えてみた。
『今困っていることはありますか?』
他人にはおせっかいだと思われるだろうし、僕にもその自覚はある。そもそもこの人に何かを変えたいという気持ちがなければ僕の提案も無意味にはなるが、それでも彼の力になりたいと思ってしまっていた。彼は少し考えて、はっとした顔をした。
『実は、革靴がボロボロで……』
……とてもささやかな悩みだった。それがなんだかいじらしくて。
(この人はつまらないんじゃなくて、きっと世界を知らない、素朴な少年なんだ)
それなら、と僕は革靴とスーツを見立てる約束をした。
(まあ、ちょっとだけスーツを見たいという自分の欲望もあったけど)
この時にはもう彼のことをもっと知りたい、そして彼の世界を広げてあげたいと思うようになっていた。
*********************
「俊文さん、待ち合わせぴったりですね」
「ごめんね……。待たせたかな?」
「いえ、僕もさっき着いたところなので。行きましょうか」
待ち合わせたのは繁華街近くの駅前だ。日曜日であるせいか、人通りが多い。彼はミントブルーのさらっとした襟シャツの中に白Tシャツで、黒のパンツに黒のおしゃれなサンダルを履いていた。
「藤崎さんはおしゃれだなあ。そのサンダル高そう」
「お目が高いですね。これドットマークスのサンダルなんです」
「へえ……」
ドットマークスが素材なのかブランド名なのか、そういう形のサンダルがドットマークスと言うのかわからなかった。とても浅い返事をし、彼のファッションに触れることは諦めた。歩きながら、藤崎さんに案内されていると、藤崎さんは話題を振ってきた。
「俊文さんは普段どこでお洋服を買われるんですか?」
「どこだったかな……。スーツとかはセレクトブルーで買うけど、私服はウニシロとかがほとんどだよ」
「ウニシロ安くていいですよね。どんな服が好きとかあります?この形が好きとか、素材がいいとか」
「え……。あんまり考えたことないな……。気が付いたらTシャツばっかり買ってるな……」
「Tシャツいいですよね、一枚でさらっとも着れるし、合わせても可愛いし」
「合わせる……」
「……今日時間に余裕があったら、私服も選んでいいですか?」
「あ、ああ……お手柔らかに……」
俺がもじもじしながらそう言うと、藤崎さんはくすっと笑った。
雑談をしながら歩いていると、目的地に到着した。
「こ、ここ……!?」
お店はなんとオーダースーツのお店だったのだ。全く入ったことのないお店に俺は思わず動揺する。
「お、オーダーって高いんじゃないの……!?」
「ここは結構リーズナブルなんですよ。俊文さん御用達のセレクトブルーと比べると少しだけ高いかもしれませんが、せっかく記念すべき一回目ですし、どうせなら素敵な思い出を形にしませんか?」
「思い出を、形に……」
さあ、とぐいぐい店の方へ引っ張られていった俺は、人見知りの子どものように藤崎さんの後ろでキョロキョロしながら店内を見ていた。店内にはとても良さげなスーツをマネキンたちが着ている。
(こ、こんな営業職でもないのに、良いもの買ってたら目立たないか……!?)
まじまじとスーツを見る。仕立てが良い、ということは分かるがそれ以外は何もわからなかった。
(やっぱり、高いやつは高いな……。藤崎さん、スーツ好きって言ってたけどこういうのよく買ってるのかな……)
藤崎さんの方を見ようとしたら、先ほどまで前に居た藤崎さんは居なかった。どうやら店員のところへ向かっており、何やら話している。話しているのを遠くからぼーっと見ていると、話しを終えた店員と藤崎さんが俺のもとにもどってきた。藤崎さんはニコニコして俺に言った。
「お待たせしました。さ、カウンセリングを受けてきてください」
「カウンセリング……!?」
「そんな難しいお話ではないですよ。気楽に着れるものがいいとか、職業の話とか……。ああ!僕とした話と同じような感じで話してくれたらOKですよ」
ふふふ、と笑いながら藤崎さんは背中をぐいぐいと押してきた。
「生地選びの話になったら呼んでください。僕、俊文さんにおすすめしたいやつあります」
楽しそうに笑いながら、店員に連れていかれる俺を手を振って見送られた。
「ありがとうございました」
カウンセリングからオーダーまで、無事に完了した。出来上がるのは三週間後になるらしいので、今回は冬向けのスーツを作ることにした。初めての体験に俺は用事が終わったてもまだそわそわしていた。その様子を見た藤崎さんは、店の外に出ると俺に話しかけてきた。
「ふふ、どうでした?初めてのオーダースーツは」
「いやあ、冴えない俺でも良く見えるようになるなんて……藤崎さん、流石です」
「僕じゃないですよ、お店のおかげですよ」
「はは、違いない」
一度俺たちはカフェに入って、少しゆっくりすることにした。今度のカフェにはウインナコーヒーはなかったし、藤崎さんと同じものを注文することができた。商品をカウンターで貰い、奥の方の席に座る。
「ここ、初めて来たんですけど、カスタムで注文できました……」
「カスタム初めてでした?」
「はい……。なんか、ツウみたいで……かっこいいね……」
「ふふ、今回のが美味しかったらまたカスタムしに来ましょう。今回のと違うものでもいいですけど」
俺はストローで一口吸ってみる。
「……美味しい」
「美味しいでしょう?ホイップとチョコ追加すると、もう。甘くて最高なんです」
藤崎さんは子供のような笑顔を俺に向けて、ストローでカスタムされたカフェラテを飲む。
「俊文さん。ここで飲み終わったら、今度はセレクトブルーに行きましょう」
「え、でもさっきスーツ買ったし……」
「あれは冬用ですから。今の時期なら、夏物も安くなっています。直近で必要なものは今のうちにセールで買って、来年も着ればお安く済みますよ」
「たしかに……」
「それに、俊文さんの職場ってもうすこしカジュアルでもよさそうなので、ジャケットとシャツと……。ああ、あと革靴ですね。それはシューズマートとか、靴を専門に扱っているお店の方が安く済むのでそこに行きますか」
ここと、ここ。グーグルマップでタップして、店舗付近を見せてくれる。俺はカフェラテを飲みながら画面をぼーっと見た。
「意外と近いところにあるね」
「そうなんです。買い物しやすくて助かりますよね」
二人はそれから、また互いのことを話しながらカフェラテを飲んでいた。藤崎さんのお店は一から立ち上げたものであること、植物を育てている時間が癒しであること、実は梅雨の時期にでるナメクジが苦手であること、恋人は現在いないこと。
「彼女が居ないのは、今忙しいからですか?」
俺がそう聞くと、藤崎さんは「そうですね」と少し寂しそうに答えた。
「まあ藤崎さん、一人で切り盛りしてるし……。イケメンだから、勿体ない気がするけど。結婚とか考えてるの?」
「それは……」
藤崎さんは伏目がちに俺から目を逸らした。……どうやら、聞いてはいけないことを聞いてしまったみたいだ。しまったと思い、取り繕うかのように慌てて喋る。
「あ、ちなみに!俺は独身なんだけど!三十五歳なのに四十代に間違われるし、全然出世する予定も彼女もできる予定なくて!もう毎日同じ人生繰り返してて……。でも藤崎さんに会ってから毎日がちょっとずつ変化してて。キャラメルラテもカフェラテも初めて飲んだし、オーダーメイドのスーツなんて、作れる日が来るなんて思わなかったですよ。だから、こんなおじさんが楽しく生きることができるようにしてくれた藤崎さんには、本当に感謝しています」
久々に、ありったけの気持ちを込めて喋ったら長くなってしまった。だってしょうがないじゃないか。俺にとって神様のような存在である君が、寂しい思いをしてしまうなんて。いつも俺のために色んな提案をしてくれるこんな善い人が、恋人がいないくらいで悲しい顔をしてほしくない。
必死でしゃべったからか、藤崎さんはくすくすと笑い始めた。
「え!?」
「必死すぎですよ、俊文さん」
「あ、あははは……」
「でもそうか、俊文さんってやっぱり若いんですね。僕今年で二十八になるので、思ったより歳が近くて嬉しいです」
「え……!?やっぱ、それ以上に見えてた……?」
「いえいえ。僕の想定が当たってたって話ですよ」
「……ていうか、君は二十代後半なんだな……。二十前半だと思ってた」
「あはは。よく言われますけど、それハラスメントですよ」
「君だってそうだろ!」
笑いながらそう言うと、藤崎さんはカフェラテを飲み干した。
「さて、俊文さんが飲んだら行きましょうか。セールのスーツもかっこいいの選んであげますよ」
「わわ、ちょっと待って、あと一口だから……」
慌てて飲み干すと、俺の空になったカップを上からひょいと取り上げて、ニコニコしながら先に返却口へ向かって行き、カップを捨ててくれた。席を立った俺は追いかけるのに一生懸命になって、カップを持って行ってくれたお礼を言えずに店の外へ出た。
それから、スーツ専門店のセレクトブルーに入り、俺は藤崎さんに言われるがままスーツを購入した。
「いやあ……。セールとは言え、結構買ったな……」
「俊文さん、持ってなさすぎなんですよ。セールに限らず、ジャケットやシャツは多めに買っておいた方がいいですよ」
二人はセレクトブルーでスーツを上下とワイシャツと三着ずつ購入した。ライトグレーと、ネイビーと、黒の無難なスーツだった。藤崎さんは意外と派手なスーツは勧めなかった。むしろ「今までカジュアルめでもOKな部署でかっちりしたスーツ着てたから、悪目立ちしてたんじゃないでしょうか」とアドバイスを受け、シンプルかつカジュアルなものを見繕ってもらったのだ。
「クールビズなんですから、シャツはラインが入ったものでもいいかもしれませんね」
そう言って、ワイシャツはライトブルーにネイビーのラインが入ったシャツや、ワイシャツの襟の内側がチェックになっているもの、白地でボタンが黒になっているものなど、さりげなく個性があるデザインのものを選んでくれた。店を出てすぐのところで、俺は購入後の紙袋を抱きしめながらお礼を言った。
「藤崎さん、本当にありがとう……」
「いいえ。次は靴ですね」
「靴は……つま先がとがっているやつとかは嫌だなあ……」
「大丈夫ですよ、選ぶのはローファーなので」
「ローファーでいいの?」
「ええ。革靴にこだわらなくても。それに、さっきのスーツにローファーは似合うと思うんですよね」
俺は自分が先ほど購入したスーツを着てローファーを履いているのを想像する。
「……あ、ほんとだ。合いますね」
「でしょう?」
二人で顔を見合わせ笑い合う。
(こんな風に、友人と楽しく買い物をするなんて、いつぶりだろうか)
きっと誰も居なかったらスキップをして歩いていたんじゃないかと思うくらい、気分が上がったまま二人でシューズマートへ向かった。ローファーは黒の定番ブランドのものを購入する。もちろん俺は有名なブランドなんて知らないから、藤崎さんから教えてもらったままに買っただけなんだけれど。
「無事に全部購入できましたね」
「これで部長に怒られないで済みそうです……!」
「ふふ、よかったですね」
「ええ」
「………………」
二人の間で、少しばかりの無言が流れる。藤崎さんは少し考えた素振りを見せ、こう言った。
「……今日は、ここまでにしておきましょうか。本当は夕食をご一緒したかったんですけど、今日は荷物が多いし」
「そうか、もうそんな時間か……」
腕時計を見て、時計の針が二十時手前を指していた。
(あっという間だったなあ……)
なんとなく寂しいものの、実際疲れている。でもここから食事までするのは正直疲れるし、遅くなれば明日の仕事に差し支えてしまう。しょうがないか。そう思っていると、藤崎さんは俺の両手を見て、片方の荷物を取り上げた。
「え?」
「今日は、お家まで荷物運びしますよ」
藤崎さんがニカッと歯を見せて笑う。
「えええ!そ、そこまで迷惑かけられないよ……!」
「そんなこと言わずに。せっかくなので甘えちゃってください」
ね?と言いながら藤崎さんの綺麗な顔がわざわざ俺の目の高さまで下がってきて、上目遣いをする。
「じゃ、じゃあ……お願いします」
「やった」
少しだけ藤崎さんが照れたように笑った。
(こんな俺にここまで親切だなんて、本当に変わった人だな)
俺も、藤崎さんを真似た笑顔を返す。一瞬、藤崎さんは戸惑ったような顔をしたが、すぐに笑顔が返ってきた。
(可愛い人だなあ)
それから、二人で夜道を歩き他愛もない話をしながら駅の方へ向かって、電車に乗って四駅ほど乗り俺の自宅の方へ向かって行った。
*********************
この人に「結婚とか考えていないの?」と聞かれたとき、「ああ、この人はどこまでも普通の人なんだな」と少しショックを受けてしまった。別に隠していた訳ではないけど、僕が異性を好きになれないことをこの人は知らない。日本の中でも同性同士で結婚できる地域はできたけど、生憎僕が住んでいるところにはその制度はない。結婚をしたいわけでもないから特に気にしなかったけど。
『イケメンだから、勿体ない気がするけど』
ああ、その言葉にも飽きていた。顔が良いことと、僕が結婚したいかどうかは別の話だ。この人、普通だからこそ無神経なんだ。でも、それは仕方のないことだ。マイノリティなのは僕なのだから。
(でも、いいことも聞けた。彼女居ないんだな……。まあ、想像はできてたけど)
隣で楽しそうに歩いている彼の両手の荷物を取り上げてみる。
「お家まで荷物運びしますよ」
そう言うと彼は遠慮していたので、押し切ろうと思いらしくないぶりっこをした。功を奏して、彼は家まで同行することを許可してくれた。
(もう少し警戒した方が今後のために良いんだろうけど、自分が好意を持たれているなんて思わないんだろうな)
好意を持ってほしい。自分のエゴで彼には善意のふりをして親切をした。そして何より、やっぱり気になる人の家まで行けるのは嬉しい。思わずいつもの笑顔より崩れた笑いが出てしまって、それに対して俊文さんは引くと思った。が、返ってきたのは『嬉しい』とアピールするような笑顔だった。
「……っ!」
つい、可愛くて。びっくりしてしまった。慌てて笑顔を貼り付けたものの、間に合ったかはわからない。
(可愛い、可愛い……。あれは天然だ……)
自分の目にシャッター機能があればよかった。そんな無茶なことを本気で願うくらいには、愛おしい笑顔だった。
(流石に、デート初回だから……あんまり押しちゃダメだよな)
逆につらい、と思ったけどもう少しだけ一緒に居られるならそれでいいか。そう自分に言い聞かせ、できるだけ俊文さんが楽しいと思えるような会話を心掛けながら歩く。そして、彼の家に到着した。彼の家は鉄筋コンクリートの三階建てマンションだった。古いわけではなさそうで、彼はそこの一階に住んでいるようだった。
「ここまで歩かせてごめんね。結構駅からあるんだ」
「いいんですよ、荷物持ちを希望したのは僕ですし」
「ありがとうね」
彼は困り顔の笑顔でそうお礼を言った。俺はまたにこっと微笑んで質問する。
「ところで、俊文さんは何号室ですか?」
「ああ、一番端の一〇四号室だよ」
話しながら、彼はエントランスのインターホンに部屋のキーを差し、エントランスの扉を開く。そのまま二人で中に入り、端の方まで向かう。
「ここまで届けてくれてありがとうね、ほんと、助かったよ。ちょっと待ってね……」
彼は玄関の扉を開く。少し後ろから見た感じだと……洋服やらなにやらが散らかっているように見えた。気にせず、彼は扉を開けて荷物を玄関に置く。僕の持っていた袋も渡し、玄関へ置く。
「よっし。……どうする?よかったらお茶していく?あ、でもお茶が切れてたな……」
うーんと困っている顔をしていたので、俺はまた笑って「いえ、今日は帰りますね。一日楽しかったです。また次の会議で」とそのマンションを出て行った。
*********************
翌日の月曜日。朝から新しいスーツを身にまとい、姿見の前に立った。が、あまり使ってなかったからか、埃であまり自分の姿が見えなかったので新しいスーツを着たまま姿見を磨き始めた。
「よし……っと」
磨き終わり、改めて自分の全身像を見た。ライトグレーのジャケットとスラックス、ワイシャツは白地の黒ボタンで、靴は黒のローファーだ。
「なんか……若く見える?」
明るいトーンの服装だからだろうか。なんだか少し嬉しくなって、その日は髪の毛をできるだけ丁寧に整えて出社した。
「おはようございます」
いつも通り、挨拶をしてデスクに着く。パソコンを起動していると、部長が俺のデスクまでそーっと寄ってきた。
「山下、山下」
「あ、おはようございます部長」
「おはよう。お前どうしたんだ?靴もピカピカだし、そのジャケットもいいな」
出社して早々に部長に褒められた。この会社に入って十三年経つが、身なりを褒められたのは初めてだった。俺は思わず立ち上がって体を九十度にして頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!」
「うんうん、その方が年相応だ」
部長はちょっと気分を良くして自分のデスクに戻っていった。部長が座ったのを確認し、俺も席に着く。
(褒められた……!万年怒られてばっかりの俺が……!)
嬉しくて、思わずデスクの下でこぶしをぎゅっと握り締めた。
(あとで藤崎さんにラインしようかな……。ついでに会議の日もラインしとこう……)
俺は忘れないように、「フジサキ様、昼に連絡」といかにもな感じで付箋に書き、デスクにを貼りつけた。
(今日も一日、がんばろう)
俺は上機嫌でデスクのパソコンと向き合った。
昼休みのチャイムが鳴り、数人が昼休憩へ向かって行く。仕事の区切りが悪い人はまだカタカタとパソコンのキーボードを叩いている。俺はスタートが良かったからか、昼休みにはすぐに入れそうだった。
(そういえば……藤崎さん、店で退職祝いの花を受け取ったとき『また遊びに来てください』って言ってたな……)
あれからお店に行ってないし、今日行ってみようかな。俺は少し浮足立って、デスクから財布を取り出しオフィスを出た。
「ふ、藤崎さん、いらっしゃいますか……?」
店の外から声をかける。すると、奥の方に居て何か作業をしていたのか、数秒遅れて「少々お待ちください」と聞こえた。新しい自分の姿を見せるというのは少し緊張するもので、なぜか俺は背筋をピンとして彼を待っていた。奥からゆっくり出てきた彼は、最初営業用の笑顔だったが、俺だと気が付いた瞬間、びっくりした顔をしていた。
「俊文さん、いらっしゃい。新しいスーツ、似合ってますね!」
嬉しそうに彼はそう言って駆け寄り、俺の周りをくるくると回る。
「ありがとう。いや、その、せっかくだから見せたくてさ。今日部長にも褒められたんだよ。藤崎さんのおかげだ」
「いえいえ。僕なんて、一緒に行っただけですから」
「そんなことないよ。今からまた他の新しいスーツ着るの楽しみなんだ。こんなの初めてでさ、嬉しくて。で、その……せっかく選んでもらったスーツだから、お披露目したいな~なんて……」
喋りながら、自分のことを「女子か!」と心の中でツッコむ。
「見せに来てくれてありがとうございます。やっぱり、いいですね。明るいグレー、俊文さんに似合うと思ったんですよね」
「あはは、俺、自分に似合う色とか考えたことなかったよ」
「自分ではわからないことも多いですから。また買いに行きましょう。今度は私服の方を」
「いいね。あ、そろそろ昼に行かなきゃ。じゃあまた。次の会議の日はまたラインで送ってくれると助かる!」
そう言って俺はそのまま走って近くのコンビニでおにぎりを買い、会社の休憩室でぱくついた。
(あんまりゆっくりできなかったけど、やっぱり見せに行って良かった)
食べ終わってすぐに仕事に戻る。やっぱり、藤崎さんのおかげなんだろうか。この日の仕事はスムーズにすべて片付いていた。定時十分前には、翌日以降に処理しなくてはならないタスクの振り分けまで手が付けられていた(いつもは朝来てやっている)。
終業のチャイムが鳴り、オフィスを出てスマホの画面を開く。すると、ラインの通知が来ていた。アプリを開くと、それは藤崎さんからのラインだった。
『お疲れ様です。急で申し訳ないのですが、今週の会議は今日お願いできないでしょうか?』
俺はラインを見て、考える。
(特に予定もないし、いいか)
突発的に予定が決まるのも、学生のとき以来かもしれない。なんだか学生に戻ったような気持ちになって、俺は『OK』とスタンプで送り、『いつものカフェに居ますね』とラインした。
「急ですみません……俊文さん。しかもお待たせしてしまって……」
「いやあ、全然。むしろ、たまには付き合わせてよ、普段俺ばっかり甘えてるしさ」
席に座っていた俺の元に、走ってきたのか、藤崎さんは息を切らしていた。汗をかいており、長髪の金髪が顔に少し張り付いている。
「ありがとうございます……。はあ、すみません」
「あ、座っててよ。俺注文してくるからさ。何がいい?」
「ありがとうございます……、じゃあアイスティーのストレートで」
「了解!」
俺は意気揚々と注文受付口まで向かって、慣れたように注文する。商品を貰って、席に戻ると、藤崎さんはもう息が整っていた。汗も拭いたのか、いつもの爽やかフェイスになっていた。
「お待たせ。はい、アイスティー」
「ありがとうございます、おいくらですか?」
「いやいいよこれくらい。俺年上だし、おごらせて」
きょとんとした藤崎さんは、くすっと笑って「ありがとうございます」とまた言った。
「じゃあ、早速だけど第二回の会議を始めようか」
「そうですね。藤崎さん、前回の経験を経て、もっとしたいこととか、まだ困っていることとかありますか?」
「そうだなあ」
また頭の中の記憶を探りながら、困っていることを思い出す。そして、前回と違って、今度は藤崎さんのお店に行ったときのことを思い出す。
「あ!日傘……」
「日傘?」
「初めて藤崎さんのお店に行ったとき、アスファルトの照り返しがしんどくて……。俺も持つべきなのか悩んでたんだよね。あ、そういえば初めてこのカフェに来た時は折り畳みの傘もなかったんだよな」
俺がそう言うと、藤崎さんはうーんと言った。
「また買い物に行くのはいいんですが、結構この間お金使っちゃったじゃないですか。大丈夫ですか……?立て続けでも……」
「ははは、大丈夫だよ。俺何にも使ってなかったから、貯金はあるんだ」
「そうですか、それならよかった。じゃあ傘も買いに行きましょうか」
「やった」
「ただ……」
「ただ?」
「そんなに時間がかかるものじゃないので、せっかくですからそのあとにも予定を立てませんか?」
確かに。傘二本買うだけで一日は終わらない。そこで俺はふと良いことを思いついた。
「あ!じゃあ、藤崎さんの行きたいところ、どこかない?俺ばっかりでも良くないし」
「僕の行きたいところ……ですか?」
「そうそう!あ、植物園とかは?」
植物園、と聞いて藤崎さんの表情が明るくなった。
「いいんですか?僕実は植物園大好きで」
「やっぱり。じゃあ、傘買ってそのあと植物園に行きますか」
「そうしましょうか。楽しみです。カメラ持って行かなきゃ」
「カメラ?」
「ええ、僕、写真撮るのも好きなんですよね。スマホでも撮れますけど、やっぱりカメラの方が温かみとか、色々変わってくるので」
目を細めて、彼は自分の手元を見ていた。
「そっか……。藤崎さんはほんとすごいなあ。俺なんてスマホのカメラもあんま使いこなせてない」
「簡単な操作なら僕が植物園で教えますよ」
「ははは!ありがとう。やることいっぱいあるな」
「ええ、楽しいでしょう?」
にっこりとそう微笑みかけられて、俺は思わずドキッと胸が跳ねた。
(び、美形は心臓に悪いな……)
もうだいぶ藤崎さんに慣れてきたと思ったのに、俺はまだ彼の笑顔に慣れていないみたいだ。
*********************
週末。土曜日の朝から俺と藤崎さんはまた繁華街の駅に集まっていた。この日の藤崎さんはシルエットの大きな白シャツの上から空色みたいなブルーのゆるっとしたベストを着ていた。首からは一眼レフをかけていて、肩には黒レザーで長方形のショルダーバッグをかけていた。
「き、今日もおしゃれだね。でもそれよりカメラ……かなり本気だね?」
「ふふ、ごめんなさい。今日の僕のメインは植物園になっちゃいまして……」
「いやいや、いいと思うよ。でも俺にスマホカメラの操作も教えてくれよ?」
「わかってますよ」
俺たちは駅ビルの中にある雑貨屋さんに入った。そこでは傘のポップアップストアが出ていたので、俺たちは折り畳み傘のコーナーへ向かった。
「日傘、どうしましょうか。晴雨兼用もありますけど、個人的には別々で分けて、雨用の傘は会社に置いておくのがいいと思います」
「あ、なるほど……!持ち歩くんじゃなくて、置いておくのか。そうしようかな」
「雨用は、俊文さんの好きなものを選んでいいと思いますよ。どれがいいですか?」
優しい笑顔で、俺の目を見る。
(この目、優しくてすきだなあ)
ぼーっと見ていると、藤崎さんは「ん?」と不思議そうな顔をした。
「俊文さん?」
「え!?あ、ああごめん。そうだよね、好きなもの……」
俺は思わず黙ってしまった。好きなもの、と言われて頭に浮かんだのは目の前の藤崎さんの姿だった。途端に顔が熱くなるのを感じて思わず両手で顔を叩いた。唐突な俺のセルフ顔面パンチにびっくりした藤崎さんは慌てる。
「俊文さん!?」
「す、すすすみません!ごめんなさい!えっと、えっと……何の話でしたっけ!?」
「好きな傘の話ですよ。何色がいいとか、ありますか?」
「あ、傘ね!そうだったそうだった!傘……ええと……あ、これいいかも!」
俺が手に取ったのは、藤崎さんのベストと同じ空色の折り畳み傘だった。
「……あ、その色好きなんですか?」
藤崎さんは一瞬固まって、ぎこちない笑顔で俺を見る。
(やらかした……!)
ちょっと恥ずかしいどころではない。最早ちゃんとアピールしている、意識している!そう自覚した瞬間、慌てて言い訳を述べた。
「あ!そうそう!俺この色大好きで!昔からね!?最近じゃなくて……あ、たまたまだけど!藤崎さんの服と同じだね!?もうびっくり!」
急な大声に周りの人がちらりとこちらを見る。藤崎さんは俺をじっと見ていたが、俺はもう周りと藤崎さんの視線が痛すぎて、「日傘!日傘コーナー行こう!」と小声で強く主張し、首を左右にガンガン横に振って、日傘がありそうなコーナーへ一人走っていった。
「え、はやっ」
置いて行かれた藤崎さんはびっくりはしているものの、店内に迷惑をかけない小走りで俺のところまで来てくれた。俺の後ろに立って、藤崎さんが声をかけてくる。
「急にどうしたんですか」
「い、いやその。ごめん……。悪いんだけど、日傘選んでくれない?俺、何でもいい……」
「こら」
何でもいい。と言った途端、藤崎さんは俺の腕を後ろから引っ張り、俺と向き合う形になった。藤崎さんの表情は少し怒っているようだった。思わず視線を足元に落とす。藤崎さんは視線の合わない俺を無視して口を開く。
「せっかく選びに来たんですから、ちゃんと選んでください。僕は俊文さんの好きなものが知れて嬉しいですし……それに」
藤崎さんは一呼吸置く。
「それに、僕も、その色好きなんです。僕に任せたら、日傘もその色になっちゃいますよ」
その言葉に驚いて顔を上げると、藤崎さんも少し顔を赤らめて口をへの字にしていた。
「あ、あはは……」
いよいよ俺は耳まで熱くなってきていると、藤崎さんは赤らめたまま目を逸らした。
「俊文さん、同じ色の傘買ったらきっと晴用と雨用間違えちゃいますよ。いいんですか」
「……え、あ、よ、よくない!選びます!」
「じゃあ、ほら。選んで」
「あ、でも日傘でおすすめなのまだ聞いてない……」
「……そうでしたね」
藤崎さんがこほん、と咳払いをしていつもの調子に戻っていった。結局、内側が黒で外側がネイビーの無難なものを選び、二本の折り畳み傘を購入した。タグは切ってもらって、会計を済ませる。レジから離れて藤崎さんのもとへ戻ると、なんだか二人ともぎこちなくなったまま店舗の外へ出た。スマホを見ると時間は十二時前を差している。日は高く、藤崎さんを見ると綺麗な金髪が反射して少しだけ眩しかった。藤崎さんはくるっと俺の方を向く。
「俊文さん」
「は、はい」
「せっかくですから、日傘差していきませんか?ここからバスまで結構ありますし」
「ええ?でも俺だけ差すのもなあ」
「ふふ、そういうと思いまして。僕も持ってきてたんですよ」
そう言ってバッグから取り出したのは白い折り畳み傘だった。
「……空色じゃないんだ?」
「あはは。僕、機能重視で買ったんです。本当はその色がよかったんですけどね」
そう言いながら、彼は日傘を開く。先ほどまで日差しで透けるようにきらめいた金髪に影が入る。
「ほら。僕は差しましたから、俊文さんも早く」
「わ、わかったよ……」
買ったばかりのネイビーの日傘を開いて、男二人でバス停まで歩く。
「なんか、浮いてない?大丈夫……?」
「そんなことないですよ、ほら。あっちに傘差している人いるでしょう?」
俺は藤崎さんが指を指した方向を向く。見ると、本当に何人か男性も日傘を差していた。
(よ、よかった……)
集団心理というか、自分が目立っているわけではないことに安心した俺はほっとして藤崎さんの隣に並んで歩き始めた。
*********************
「よし、着いたね!」
「着きましたね」
バスに乗って植物園に着き、入場券を買って中へ入る。
「あれ、傘閉じちゃうの?」
「ええ。写真を撮りますからね」
藤崎さんは傘を閉じて鞄に入れ、カメラを持ち上げる。
「俊文さん、こっち向いて」
「え?」
パシャッ。
振り返ると、カメラを向けた藤崎さんがシャッターを切っていた。
「え、え、ちょっと」
「ふふ、いい感じですよ。ほら」
藤崎さんが俺の横に寄ってきて、カメラの画面から写真を見せる。
「おじさん撮って楽しいか……?」
「楽しいですよ。あとおじさんじゃないですよ」
カメラをのぞき込んでいた俺に顔を近づけて、目を細めて笑った。優しい目をしていて、まつげが長くて、肌が陶器みたいだ。そんな風に考えていると、彼が言った。
「デートみたいですね」
「デッ!」
思わず下を噛む。いたた……としゃがみこんだら「大丈夫ですか?」と彼も一緒にしゃがみこんできた。
「だ、大丈夫……」
「無理しないでくださいね」
困り顔で彼は優しい言葉をかける。
「いや、ちょっと噛んだだけ……。平気、行こうか」
誤魔化すように笑って、俺は少し赤くなった顔を見られないように先を歩いた。
入口はフォトスポット用に花で飾られたベンチがいくつかあった。家族連れやカップルが楽しそうにそのベンチに座り、写真を撮っている。
「わあ、俊文さんそこに座ってくださいよ」
「えええ!?俺男だよ!?恥ずかしいから……」
やんわり断ったが、彼は「うーん」と悩んで目を閉じたあと、名案を思い付いたかのように手を叩いた。
「では、一緒に座るのはどうですか?」
「っえ!?」
「ダメです?」
「目立つよ……」
植物園に入った途端、藤崎さんのテンションが変わった。明らかにはしゃいでいる。
(こういうの、若者の間では流行ってんのかな……)
ノッた方がいいのだろうか。そう悩んでいると、藤崎さんは少し残念そうな顔をしてにこっと笑った。
「……とりあえず、まだ序盤ですし一通り見て回りましょうか」
「……そうだね」
二人で順路を回っていく。周りには水路なんかもあって、石でできた飛び飛びの橋の周りで子供たちが遊んでいる。
「なんか生き物とか居るのかな」
「どうでしょうね。浅いですし、アメンボくらいなら居るかもしれませんね」
話ながら最初に到着したのはバラ園だった。まるで洋画に出てくる庭園のような造りをしており、いろんな色のバラが順路に沿って咲いていた。
「へえ……。綺麗だね。バラって赤と白しかないと思ってたけど、グラデーションのやつもあるんだね」
「そうなんですよ。バラは品種改良されて種類も色も豊富なんです。花弁の数も実は種類によって違うんですよ」
「ほんとだ……。こっちのは花屋で見たことあるけど、こっちのはなんかモコモコだ」
「こちらのは高芯咲きといって、花弁がつぼみから一枚ずつ降りていくようなつくりになっているんです。さっき言っていたモコモコの方はカップ咲きと言って、たくさんの花弁が重なり合っているんです」
藤崎さんはそう説明すると、カメラをバラの方向に向けてパシャパシャと撮り始めた。
「さ、さすが花屋だ……。すっごく詳しい……」
「ええ、花屋ですからね」
「あとさ、よく見たら人の名前みたいなバラ多くないか?」
「ああ、それはですね、バラが贈り物として使われることが多くて、贈り人の名前が由来になっていることが多いんです」
俺が見ていたバラの名前は『クイーンエリザベス』という名前だった。
(なるほど、贈り物として花に人の名前が付けられるのか……)
よくわからないけど、なんかすごい。俺から出てきた感想はそんな感じだった。
「あ、あの場所!あそこに立ってください、俊文さん」
俺が花に注目していると、藤崎さんはカメラを構えたまま俺を呼んで、とある場所を指さした。バラ園の中央にある真っ白なガーデンハウス。
「え!?あの中に入るの!?」
「映えスポットですから!ね、俊文さんお願いします」
「ええええ~……」
今は人が入っていて、女の子二人が交互に撮り合っている。
「ああいうの、若い子がするからいい感じになるんじゃん……?俺が入っても映えないよ……?」
「そこをなんとか。僕が映えさせますから」
「ううーん……」
先ほども断ってしまったし、断り続けるのもなんだか悪い。俺は渋々了承し、女の子たちが去ったあとにさっと中へ入った。
「す、すぐ撮ってくれ!できるだけ早く!」
「はいはい」
藤崎さんは嬉しそうにカメラを向けて、俺を何枚か撮った。普段から悪目立ちする方なのだが、被写体としての経験は皆無なのでいつもと違う視線に緊張で指先がしびれる。カメラのレンズ越しに、藤崎さんがこちらを見ているのが、なんだか恥ずかしかった。
「……よし、撮れました。バッチリですよ」
「な、ならよかった……。はあ」
「ふふ。さあ、次はあそこに行きましょう」
次に指を指したのは温室だった。茶色のレンガの建物で、入口には植物に覆われたパーゴラがある。温室の中に入っていくと、中は植物で密集しており、男二人で歩くにはとても狭い通路だった。
「な、なんか外と違って迫力がすごいね……」
「そうですね……。距離が近いですね。でも俊文さん、上とか横ばかりに気を取られて、足元見ないのはダメですからね」
「こ、今度はこけないよ!分かってるってば」
藤崎さんが笑いながら、いろんな花の写真を撮っている。俺はふと思い出したかのようにスマホを取り出した。
「あ、そういえばスマホカメラ」
「ああ、そうでしたね。ちょっと見せてください……。えーと」
彼が俺のスマホを見るために彼の髪の毛が頬に当たるくらい近くに来た。思わず心臓が跳ねる。心拍が上がっているのをバレないように、口を一の字にきゅっとしてスマホに集中する。
「あ、そんなに複雑な機能はなさそうですね……。フラッシュは一旦切っておきますね。ほら、あとはここをタップするだけで撮れますよ。もし加工とかしたかったら別のアプリを入れてください、ね……」
「え、ああなんだ、それでよかったのか。ありがとう」
「俊文さん、あの……」
小声で、彼が耳元まで顔を寄せて言った。
「……意識してます?」
「え!?」
温室で俺の声が響く。先に入っていたカップルがこっちをじろっと見てくる。
「ば、馬鹿!そういうんじゃなくて……!その、顔が近いんだよ……」
回りをキョロキョロしながら俺は少し彼から離れる。
「あ……ごめん、その……」
上手く説明できず(できるわけもなく)、俺がもじもじしていると藤崎さんはクスっと笑った。そして、カメラを向けてきた。
「は、はあ!?なんでカメラ向けたんだよ!」
びっくりして思わず彼の胸を叩く。
「いや、あはは。可愛くてつい」
彼は満面の笑みでそう言う。「あほか!」と言って、俺は藤崎さんを押しのけずいっと先へ進んだ。……案の定、上からつるされていた鉢から垂れていた花に激突する。
「わっ!」
「ああ、もう。大丈夫ですか」
「っび、くりしたぁ……」
「ほんとにもう、ドジですね」
「ド……!?君そんな風に思ってたのか!?」
「そうですね。注文できないし、スマホカメラも使えないですし、よくこけるし……」
「こ、こける以外はできるようになっただろ……」
「スマホカメラはまだでしょ?」
「お、押すだけなんだからできるよ!」
そう言って先ほどぶつかった花を写真に収めようとスマホを花へ向ける。が、慌ててスマホを向けた勢いで手からスマホが落ちてしまった。藤崎さんがスマホを拾って、俺に渡す。俺が受け取ろうとすると、スマホを持っていた反対の手で俺の差し出した手をぎゅっと掴んだ。
「危なっかしいので、こうしちゃいますね」
「はあ!?」
「この温室の中ではカメラは諦めますから、ちゃんとお花見てくださいね」
にっこりして俺の手を握った彼は、握ったまま温室の中を見回っている。
(ま、まずい……!手汗が……ていうか、男同士……!)
夏の暑さも相まって、全身の毛穴から汗が噴き出る。手なんかきっとびしゃびしゃだ。
(俺は今周りにどう見られているんだ……!?)
恥ずかしくて、周りの花をまともに見ることもできない。すると、違う部屋に移動したのか、池のようなものが見えてきた。
「ほら、見てください俊文さん。スイレンですよ」
「……葉っぱが大きい……」
見ると、スイレンの葉は淵だけ直角に上に向かって折れていた。他にも、スイレンがあるがそのスイレンは淵が折れているわけではなく、まるでホールケーキからショートケーキを切り分けたような切り込みがあった。
「スイレンにもいろんな形があるんだね……」
「どれも魅力的ですよね」
手を繋いだまま、彼はスイレンの説明をする。
「知っていますか。スイレンはこのように葉に切り込みが入っているのですが、ハスの葉は切り込みがないんです。水面より高い位置にあるのもハスの特徴ですね」
「へえ……。花屋にハスもスイレンもあるイメージないけど、本当に何でも知っているんだなあ」
俺が尊敬のまなざしを向けると、彼はちょっと照れて俺から顔をそむけた。
「そんなキラキラした目を向けなくても……。たまたまですよ」
「や、だってすごいことじゃないか。俺だったらそんな違い、自分で調べもしなかったし、すごいことだよほんと」
「……どうも」
何やら彼は照れているらしい。
(て、照れてる……俺の言葉で……?)
嬉しい反面、どんな顔で彼の顔を見たらいいのかわからない。思わず手に力を入れると、彼はバッとこちらを見た。
「…………」
まるで付き合いたてのカップルの気まずさというか、何とも言えない空気の二人は無言のまま、温室を見て回った。出口らしきところに出て、彼が俺の手を離す。
「楽しかったですね」
まだ少し顔を赤くしたままの彼が、目を逸らしたまま俺に言う。俺も「そうだね」と言って、離された手の中がまだ熱いのを感じながら、取り留めもなく歩き始めた。少し夕方に差し掛かっており、園内の人がまばらになっていた。俺たちはどこかベンチで休もうと、先ほどのバラの近くにあるベンチを探していたら、見知らぬカップルが先に座ってイチャイチャしていた。
「うわっ」
ちょうど人目を避けたような場所に人が居たので驚いた俺は思わず後ずさる。
「しぃー」
後ずさった俺の背中をさすって、彼は「あっちに行きましょう」と小声で言い指を指した。バラ園のもっと外側にあるルートには誰も居なくて、歩いているとすぐにルート案内の立て看板があった。左側の階段を降りた先には、どうやら『モデル庭園』というものがあるらしく、俺たちはそこへ向かってみることにした。
「へえ……あずまや、っていうのかな。和、って感じ」
「素敵な雰囲気ですよね。他に誰も居ませんし、ここで休憩しませんか?」
「そうだね、よいしょっと……」
俺はすっかり歩き疲れていたので、ベンチへ腰を下ろしただけで疲労がどっと襲ってきた。
「いやあ~~見て回ったなあ」
「見て回りましたね、どれも素敵でした」
藤崎さんもふう、と息を吐き、目を閉じていた。俺も、背柱にもたれかかって目を閉じる。静けさと鳥の鳴き声が相まって、心が浄化されていくような気持ちになった。
(これは、リフレッシュとしていいかもしれない)
俺はまたひとつ知らないことを学んだんだ、と思っているとふいに藤崎さんが口を開いた。
「俊文さん、今まで恋人っていたことありますか?」
「ええ?唐突だなあ……。居たよ、でも学生のときだけだな。大人になってからはぜーんぜん」
「どんな人が好きなんですか?」
「ええと……。優しい人かな」
「僕でも、可能性あります?」
「えええ?……え?」
ぬるっと答えていたから、突然の言葉に俺はテンポが遅れてしまった。俺は藤崎さんの顔を見る。藤崎さんは前を向いたまま、また質問を重ねてきた。
「手を繋いだとき、気持ち悪かったですか?」
「……それは」
俺は思わず黙り込む。気持ち悪いなんて思っていない。そう言いたいが、なぜか言葉が出てこない。
「僕が顔を近づけたとき、どうしてあんなに顔が赤かったんですか?」
「……っそれ、は」
「どうして」
藤崎さんは一度区切って、こちらを真っ直ぐ見た。俺が目を逸らせないでいると今度はベンチに置かれていた俺の手に藤崎さんの手を重ねて言った。
「好きな傘を尋ねたとき、僕の服の色と同じものを選んでくれたんですか」
「……っ!」
俺はなんとか顔を逸らしたものの、手を振りほどくことはできなかった。重ねられた手に熱がこもる。
「俊文さん」
彼が体ごと寄せてくる。顔の距離はきっと五センチもなかったと思う。心拍数が上がって、音もどんどん大きくなる。
「俊文さん、こっち見て」
彼の声が耳元で聞こえる。彼の顔を見るのが怖い。いや、見るのが怖いんじゃない、見られるのが怖い。きっと、俺は顔に出るタイプだから、俺がどう思っているのかなんてすぐにばれてしまう。
(この関係が変わってしまうことが、怖い)
目をぎゅっとつむっていると、彼の重ねていた手が離れていったのが分かった。
(あ……)
きっと、答えない俺に呆れてしまったんだ。いや、もしかしたらうだうだしている俺に怒ってしまったのかもしれない。焦った俺は目を開く。すると、どうやら俺の向かいに藤崎さんが回り込んでいた。
「うおわ!?」
驚いて、大きな声を上げてしまう。藤崎さんは、ぷ、と噴き出してしまった。今度は藤崎さんが顔を逸らして笑い始める。
「す、すみません……。でも、お、驚きすぎ……」
「そそそ、そんなに笑わなくてもいいだろ!?」
「笑いますよ。そんなあからさまに顔真っ赤にして。……可愛い」
かわいい。三十五歳の俺が、人生で言われたことのない言葉だった。
「俺が……?」
「ええ、可愛いですよ。ねえ、俊文さん。さっきから僕、あなたに言いたいことがあるんですけど、そろそろ言ってもいいですか」
胸が詰まるような、呼吸もままならないような中、俺はゆっくりうなずいた。
「……好きです。僕を、あなたの恋人にしてください。後悔は、させませんから」
彼は耳まで赤くして、震える手でそう俺に言った。
(彼は年下だし、俺なんかよりずっとちゃんとした人だし、何より男同士だし)
そんな否定要素が頭をぐるぐる回るのに、彼の目を見てしまうと、そんな言葉たちは消え失せていてしまう。
(だめだ……)
この人を、手放したくない。
そう思ってしまった俺は、こう答えた。
「ふ、ふつつか者ですが……よろしくお願いします」
ピタっと彼の動きが止まる。そして、大きな声で笑い始めた。
「え、え……?」
俺が戸惑っていると、彼は目の端の涙が出るほど笑っていた。
「と、俊文さん……!それは、プロポーズを、う、受けた時にする返事ですよ……っ!」
あーーー、と笑ったあと彼はにっこりと笑った。
「俊文さんにはかなわないなあ」
そう言って、彼は俺の手を掴んでぎゅっと握った。
「はい。結婚を前提に、よろしくお願いしますね」
俺は「そんなところまで答えてない!」と言いたかったのだが、彼の優しい目を見たらそうも言えなくなってしまって、短く「はい」と答えた。
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