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30話 夜戦①
しおりを挟む暗雲が垂れ込める空、薄暗がりの路地裏を少年が一人行く。
大きめの白シャツに黒のスパッツ、蛍光色のランニングシューズ。
全体的にほっそりとした体付きに、短くはあるが細くしなやかな髪を結った姿はまさしく少女。
軽く駆ける仕草も堂に入っている。傍から見ているカイムですら感心するほどの容姿であった。
コーディネイトは石屋の姉桜香。
自宅まで石屋を迎えに来た厨を見るや否や桜太郎から事情を聞き出し、どこか得心した彼女は弟だけを自室に連れ込み自身が所持する女性向けの衣服を半ば無理やり着させたのだった。
もちろん外出許可も彼女から取っている。「ごゆっくり」と、玄関から弟を送り出した時の満足気な顔が印象的だった。
桜太郎に似て整った小顔に薄く化粧を乗せ、小さく手を振り見送る姿はやはり女性、彼の姉なのだと分からせた。
つまり、本気を出せば石屋も或いは――
「はぁ、はぁ、厨くん、どこまで行けばいいの?」
『いい調子だ。そのまま公園までの坂を登ったあたりで落ち合おう』
神野から借りたインカム越しに石屋に指示を送り、カイムは近くの茂みからその後を追う。
時刻はすでに夜の七時を回ろうとしている。年頃の少女が一人で出歩くには少し遅い時間である。
夜のランニングに誘ったのはカイムだ。突然の誘いを受けた石屋は強く断ることもできず、訳の分からないままあれよこれよという間に夜の街へと繰り出すことになっていた。
この日の昼休み、学院中で『今宵、魔族の男と石屋の御曹司が密会する』といった内容の噂が流れた。
無論これはカイムの望むところであり、噂の発信源は神野だった。
教員として学院に属していることになっている棚木という人物が『生徒失踪事件』と関わりがあると踏んだカイムらは、棚木を引きずり出す一手段としてこうした分かりやすい「案内」を出した。
噂の真相を辿れば、難なく「厨と石屋が夜に街でランニングをする約束をした」という単純な情報に行き着く。
『魔族の男』というのは、先日の襲撃の際に魔族を庇い立てする気の振れた生徒を揶揄する言葉で、学院の者であれば自ずと厨のことだと分かる。
対照的に、中性的な容姿の石屋は男女を問わず学院内では密かな人気を博しており、この噂は瞬く間に広まった。
棚木という不審人物がどういった理由で学院に潜っているかは定かではない。
しかし理由はどうあれ、重要機関に属するイシヤ建設の関係者とも言える石屋桜太郎との接触を目的とする可能性は大いに有り得る。
『すまん。少し、いや、かなり腹の調子が悪くなってきた。鎮守の森を抜けた辺りの茂みに行ってくる』
「え、茂みって、どういうこと!? 公園のトイレに行きなよ!」
開始からすでに三十分。長い坂を上り切りようやく辿り着いた公園から、更に坂を下りて二キロは離れた地点が指定される。
学院での訓練を受けているとはいえ、帰宅部の石屋にとってその時間は余りに長かった。
『もうすぐそこまで来ているんだ』
「だったら尚更だよ、もうっ! 蛇に噛まれても知らないから!」
一息付けると思い踏ん張った甲斐もなく、謎の理由に振り回される石屋は慎ましく悪態を吐いた。
当然進む足は先より重くなる。
慣れないランニングに足をもつれさせながらも、石屋はカイムの奇行に付き合い続ける。
一方、石屋の動向を先回りして見守るカイムは、日課の際にいつも感じる尾行の気配とはまた別の者の動きに集中していた。
一つは間違いなく武徳院のもの。彼女のカイムに対する執着は最早「異常」と呼べるまでのものとなり、カイムが意識的に避けた時以外のすべての鍛錬を尾行、もとい同行するようになっていた。
尋常でない速度で移動するカイムに従う武徳院だが、場所を特定して行う素振りや筋力トレーニングなど、できる限り動きを模倣することに努めるのだった。
「まだ尻尾も見せんか……」
『あの、実況しないでくれる? ちょっとゆっくり行くから、早く済ませてね』
標的とする者は依然捉えられない。しかし、カイムは確実にそれが近付きつつあることを確信していた。
以前屋上で柄の悪い三人に絡まれた日、石屋との下校の際に感じていた違和感。
今はそれに似たものをこれまで以上に感じている。あの日以来、必ず石屋に張り付いて下校していたカイムにはその違いが分かった。
五感による直接的な知覚はできない。故に何者かが尾けていれば、十中八九で魔術か魔法による認識阻害が掛けられている。
気配は比較的下校時間が遅くなった時間にあった。
その者はやはりこの地の者ではないのだろう。
時期、時間共に、優れた五感を持つ者を欺くには少しばかり遅すぎたようだ。
一人ばかりの空間が静まり、ぽっかりと切り取ったように穴を開ける瞬間があったのだ。
それまで辺りを騒がせていた虫の音、木々の枝葉、草が擦れる微かな響きさえ不自然に途絶えていた。
森においては時折、自然とそうしたことが起こることもある。
カイムが知る限り、それは「精霊が通った」際に起こる現象で、山中の野営において何度か経験したことがある。当然異変であるため警戒はするものの、点々と取り留めもなく辺りを飛ぶ動きから「仕方がない」と諦めて消えるのを待つものだと解釈していた。
だが、この地におけるそれは明らかに石屋を追うものだった。動きに何らかの意図が感じられた。
そのことに気付いてから今まで、その者が何者か、目的は何かと探りつつ、有事の際にはどこで仕留めるべきかと常に考え続けていた。
「厨くーん! どこにいるの?」
――来た。
森の外周を回って茂みの方へと迫る石屋。気付かれていないと思っているのか、石屋の少し後ろから森を通って武徳院が小さく駆ける。
その更に森深いところから不気味に、ゆっくりと静寂の空間が動き出した。
「イシヤ、そのまま広い道の方まで出てきてくれ。道まで来たらどこでもいい、その場で頭を抱え込むようにして座るんだ」
カイムの意図が分からず戸惑いつつ、オドオドと辺りを確認しながら歩を進める石屋。
石屋がしゃがんだのと同じくして武徳院が森の縁から顔を覗かせ、石屋の姿を確認した途端に慌てて手近の大木に身を隠した。
気配はもうすぐそこまで来ている。武徳院から少し離れた森の縁を抜け、茂みの間にできた僅かな獣道を渡って、真っ直ぐに石屋に向けて迫っている。
ビュッ
茂みが途切れ、アスファルトとの境からほぼ完全に認識できなくなった空間に向けてカイムが石を投擲した。
「ぐっ!」
しゃがみ込んだ石屋から十メートルほど離れた地点が不自然に歪む。
「タナキ!」
「――っ!」
続けざまに三つ投擲したところで、ようやく気配の主が姿を現した。
一つ目は胴体、残り三つは正確に両足の膝から下辺りに命中したようだ。
スーツ姿の男は痛みに顔を歪め、頻りに両足を気にしている。
それはまさしくカイムが屋上で見た棚木の姿に違いなかった。
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