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第三章

15. 裏切りと約束

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「お嬢様違うのです、私は」

 アイリは蒼白な顔で何度もかぶりを振る。
 もちろんアイリのことは信じているし信じたい。けれど、この状況で信じるにはあまりにも情報が足りなかった。
 何か事情があるなら話して欲しい。でも今のロゼリエッタに、そんな時間は与えられないだろう。

「おやおや、従順であるべき侍女に裏切られたということですか。お可哀想に」

 中を窺う体勢に疲れたらしい。衛兵は扉に身体をもたせかけながら楽しそうに笑った。

 顔を隠した彼の素性を知るべくもない。
 でも声と話し方から察するにロゼリエッタと十歳も離れていないような気がした。

「抵抗なさるのなら今ここで、お二人共不慮の事故として処理させていただく許可も得ております。たとえば――」

 そこで一度言葉を切り、ひどく下卑た笑みを浮かべる。あまりにも自然な表情は世間知らずのお嬢様であるロゼリエッタに、それこそが彼の本性なのだと思わせるには十分なものだった。

「婚約を一方的に解消された哀れなご令嬢は、王女殿下を人知れず逆恨みしていたようです。彼女だけを幸せにさせるものかと、その婚約者たる隣国の王太子殿下を暗殺しようとするも失敗して逃走を図りました。けれど」

 両肘を曲げ、天に許しを乞うように掌を上へと向ける。芝居がかった大仰な仕草でなおも続けた。

「ロゼリエッタ嬢は非常に儚げで美しいお方ですから、道中で下衆な暴漢どもに手籠めにされかけたところを最期は侍女共々、誇り高く自ら命を絶たれてしまったのでしょう。私が見つけた時は、すでにこと切れたお姿に――。些か陳腐ではありますが、このような筋書きでいかがでしょうか」
「おやめ下さい……っ!」

 心ない言葉に耐えかねたのか。
 アイリが馬車から飛び出し、衛兵に取り縋った。

 相手はたかが小娘二人と侮っていたのもあるのかもしれない。
 屈強なはずの衛兵が、ふいを突かれた勢いに押された。アイリをしがみつかせたままバランスを崩して数歩後退る。アイリは馬車の中のロゼリエッタを振り返り、悲痛な声で叫んだ。

「お嬢様どうぞ、馬車を早くお出し下さい!」
「御者と護衛は眠らせてあるとお伝えしたはずですが……。もう忘れてしまいましたか?」

 衛兵は嘲笑しながらアイリを振り払った。細い身体は軽々と宙を舞い、地面に叩きつけられる。そのひどい仕打ちにロゼリエッタは我を忘れて駆け寄った。

「アイリ!」
「お嬢様……本当に申し訳ありません。私が浅慮だったばかりに」

 アイリは彼らに良からぬ何かを依頼していた。
 そのことに傷ついていないと言ったら嘘になる。
 けれどロゼリエッタは首を振り、倒れたままのアイリを護るように抱きしめた。

 強く打ちつけはしたものの怪我を負ったりしてはいないようだ。温かな身体に安堵を覚え、瞳の端に涙をにじませる。

「申し訳ありません。お嬢様、私のことは捨て置いてどうぞお一人で、お逃げ下さい」
「一緒に来てくれるって、約束したじゃない」

 ロゼリエッタは頑なに首を振った。
 未だ護衛も御者も助けに来ない。ならば衛兵の言葉は事実なのだろう。もし嘘なのだとしたら彼らはロゼリエッタを見捨てたということになる。そんな事態を受け入れるよりは、奇襲で眠らされているだけだと思う方が気が楽だった。

 アイリも自分たちを取り巻く状況を悟ったように弱々しい笑みで言葉を紡ぐ。

「私……お嬢様には他にも、お詫び申し上げなければならないことが」
「謝りたいこと?」
「おい、貴族のお嬢様を怖がらせて遊んでいる場合か。早く連れて行くぞ」

 背後から別の声がした。
 衛兵の仲間だ。ロゼリエッタの背筋を冷たいものがすべり落ちた。

「結局、最後まで裏切ることはできませんか。とは言え、華奢なご令嬢でも馬車から引きずり出す作業はさすがに骨が折れそうでしたから、ご協力には感謝すると致しましょう」

 馬車が使えない以上、ロゼリエッタとアイリが衛兵の手から逃げる手段はない。
 アイリたちのことを考えれば彼女たちの安全と引き換えに、余計な抵抗などせずおとなしく捕まった方がいいのかもしれなかった。

 だけど、本当に、約束を守ってくれるのだろうか?

「誰か……。助けて、クロード様……」

 無意識にクロードの名を呼んで助けを求める。
 クロードが来てくれるはずなんてないのに。
 でも"誰か"じゃない。叶うのならクロードに助けて欲しかったのだ。

 その時、風を切り裂く鈍い音が響いた。
 衛兵は右腕に刺さる矢を引き抜き、傷口から血が流れるのにも構わずに怒りのまま周囲を見回した。
 ふとした弾みで目が合うのが恐ろしくて、ロゼリエッタは思わず身を縮こませて顔を伏せる。

「貴様ぁ……っ!」

 それが自分に向けられたものではなくとも、どす黒い憎悪のこもった衛兵の声に身がすくんだ。身体を打ちつけた衝撃が癒えたらしいアイリが体勢を直し、ロゼリエッタの両耳を塞ぐように抱き込む。

 おそらくは衛兵が被っていたと思われる黒い仮面が落ちて来た。鼻を覆う為のせり上がった中心部を支えとして揺れながら、向こう側へ転がって行く。それから聞いたことのない重い音が頭上から何度も聞こえた。
 まだ他に、誰かいる?
 衛兵の仲間がさらに来たのかもしれない。そう思うとたちまち恐怖が込み上げた。

「やりすぎだ、ク……。それくらいにしておかないと後で口を割らせるのが面倒になる」

 また別の声が聞こえる。けれどその声は衛兵たちのそれとは違って凛としたものだった。
 どさり、と一際大きな音がして衛兵が地面に倒れる。
 意を決して視線を向ければ、両頬がひどく腫れ上がっているのが見えた。

「きゃ……!」

 自分に向けられたものではない。でも、明確な暴力の跡を目の当たりにして悲鳴が口をついた。
 腫れ上がった奥に見える目は閉ざされている。
 まさかの事態が頭をよぎり、残酷な予測は冷たい手と化して心臓を鷲掴みにした。

 新たにやって来た人物はロゼリエッタには構わずに衛兵を縛り上げ、猿轡を噛ませる。拘束したということは、意識を失っているだけで生きているということだ。その事実に思わずほっとした。

 でも次はその力が自分に揮われるかもしれない。

 いや――間違いなくそうなのだろう。
 ならば今度こそ、アイリたちの為に上手く立ち回らなければいけない。

 だけど、そう分かってはいても、恐怖に震える身体は誤魔化しようもなかった。アイリの身体の温かさだけを拠り所に、ロゼリエッタはおそるおそる顔を上げる。

 揺れる若草色の大きな目が、驚きのあまりさらに大きく見開かれた。
 そこにいたのは仮面をつけた騎士だった。

「あなたは……」

 ロゼリエッタは呆然と目の前の騎士を見つめた。
 どうして彼がこんな場所にいるのだろう。偶然とはとても思えなくて探るような目を向ける。だけど視線がぶつかりそうになると反射的に俯いた。

「お嬢様。いつまでもその体勢でいらしたら、お召し物が汚れてしまいます」

 アイリの手が背中に触れる。優しく促され、ゆっくりと立ち上がった。
 まだ顔を上げられないでいると、今度は騎士のいる方向へ背中を押された。その腕の中に収まると同時にアイリの意図が分からなくて振り返った。

 アイリは穏やかな笑みを浮かべていた。ロゼリエッタを一瞥し、それから騎士に向けて深々と頭を下げる。

「お嬢様をよろしくお願いします」
「やめてアイリ、そんな言い方をしないで!」

 まるで永遠の別れのようでロゼリエッタは悲鳴にも似た声を上げた。

 アイリだけはずっと一緒にいてくれる。
 そう思っていた。
 でも結局、アイリさえロゼリエッタを置いて行ってしまうのか。

「このようなことになった理由を、然るべき場所でお話ししていただけますね?」
「私の知る情報などお役に立つか分かりませんが、お話できる範囲でご協力させていただきます」

 騎士の言葉にアイリが決意を固めた表情で答えるのと同時に、蹄の音が近づいて来る。
 どきりとして視線を向ければ、ロゼリエッタたちが乗っていた馬車より二回りほども小さい馬車がこちらへ向けて駆けて来ていた。
 今度こそ、新たな追手かもしれない。

「ご心配なさらずとも大丈夫です。彼は敵ではありません」

 ロゼリエッタを安心させる為に騎士が告げる。それを裏づけるよう、二頭の葦毛の馬から伸びた手綱を握ったまま、御者がロゼリエッタに軽く頭を下げて騎士へと声をかけた。

「お迎えが遅くなり申し訳ありません」
「いや。手筈通り、僕たちが乗ったらすぐに走らせて欲しい」
「畏まりました」

 当然のことながら、この後の行動はすでに決まっているらしい。御者と短く言葉を交わし、騎士は迎えに来たという馬車のドアを開けた。

「ここからは僕があなたを護衛致します。お乗り下さい」

 一体どこへ連れて行かれようとしているのか。ロゼリエッタは足がすくんでしまって動けなかった。

 あの衛兵よりは信用の置ける相手だと思う。だって、この騎士はクロードだ。けれどロゼリエッタの望まぬ場所に連れて行かれる事実に関しては、おそらく変わりない。

 騎士が小さな溜め息を吐くのが聞こえた。
 反抗的な態度だと怒らせただろうか。今は素直に言うことに従った方が安全だと頭では分かっている。分かってはいても、足を踏み出す勇気がどうしても出せない。

「ロゼリエッタ嬢」
「でもアイリたちが」
「彼女たちの身柄は我々が安全な場所に運ぶと約束しよう」

 先程も聞こえた声がロゼリエッタの言葉を引き継いだ。
 彼もまた仮面を被っている。誰なのか声では判別できないけれど、ロゼリエッタはその下の素顔を数日前に見たばかりのように思えた。
 あの時、話している声は聞こえなかった。
 でもきっと間違いない。

 ――隣国の王太子・マーガスだ。

「本当に……アイリたちを助けて下さるのですか」
「お約束致します」

 確かに、ここでロゼリエッタがぐずぐずしたところで何の解決にもならない。
 アイリたちの身は主である自分が守ると決めたばかりではないか。
 顔と名を知る彼らを信じるしかない。

 ロゼリエッタは小さな拳を固く握りしめた。それから、一人立ち尽くすアイリに目を向ける。
 微笑むアイリは頷き、再び騎士へと頭を下げた。

「――アイリ」

 ロゼリエッタは声を振り絞った。

 裏切られたかもしれないのに彼女を疑いきれないのは、きっと愚かなことだろう。
 それでも良かった。アイリはロゼリエッタにとって大切な人だ。

「私、必ず、またアイリに会えると信じてるから。私の侍女は、ずっと――アイリしかいないの」

 言葉だけでなく想いも届いただろうか。
 両手で顔を覆ったアイリはその場に崩れ落ちる。肩を震わせながら、何度も頷いているのが見えた。

 また会える。
 否――また会えるように行動するのだ。大切な人を失って泣くのは一度だけでいい。

 瞳に強い決意を湛え、ロゼリエッタは騎士の手を借りて馬車に乗り込む。
 その時、後方に騎乗した騎士と三台の馬車が見えた。遠目でも堅牢に舗装された馬車は、あきらかに軍用のものだ。そして先頭を走る馬車には国旗が掲げられ、勇ましく風にたなびいている。きっとレミリアが手を回してくれたのたろう。

(大丈夫。また、会える)

 もうアイリの方は、見なかった。

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