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第一章

3. 一人きりの心

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 そろそろ最初の曲が流れる時間だからだろうか。
 ダンスホールを兼ねた大広間から社交場のサロンへ向かう人々よりも、サロンからやって来る人々の方が多い。パートナーと思しき異性と一緒の人もそうでない人もダンスを楽しみにして来たことに変わらないのか、皆が楽しそうに笑っていた。

 明るい表情の人々を対照的な暗い表情で見つめ、ロゼリエッタは顔を伏せる。
 今日は体調も悪くなかったし、一曲くらいはクロードと踊りたかった。けれど、とても踊れそうにない。

 視線の端に、ぎこちなく繋いだ手が映る。
 行き交う人々の間を歩くのにはぐれないようにと繋がれた手だ。でも今は人通りはそんなに多くない。用が済んだと離される前に自分からほどくべきだろうか。
 そう思う心とは裏腹に指先へと力がこもる。するとクロードが振り向いた。

「ロゼ? 何かあった?」

 立ち止まって欲しい合図だと思われたのだろうか。
 ロゼリエッタは「いいえ」とだけ答えて首を振った。指先の力を抜いてクロードの横顔を見上げる。だけど視線に気がつかれてしまうかもしれないと、またすぐに俯いた。

 この夜会で気持ちが沈んでしまうことなど最初から分かっていたことだ。
 王家の主催で、王女から招待状をもらった。会場である王城のホールには王女がいる。自分の婚約者が密かな想いを寄せ続ける、美しい王女が。

「ロゼ、ここに座ろう」

 そう言ってクロードが足を止めたのは、サロンの左手側の壁に沿って並べられたソファ一式のうちの一つだった。

 繊細な透かし模様を入れて籐を編んだ腰の高さほどのパーテーションに区切られ、猫足の青いソファが十字に四脚置かれている。正方形のソファは、今日のロゼリエッタのようにボリュームのあるドレスを纏った貴婦人でもゆったり腰を下ろせるだけの大きさがあった。
 そしてソファの真ん中には鏡面さながらに磨き抜かれた木製の丸テーブルがあり、どこも同じ配置になっているのだろう。他のパーテーションの上から見える顔は笑っているものが多く、あちこちから楽しげに談笑する声が聞こえていた。

 二人が着席するなりやって来た給仕係から冷たい飲み物をもらい、肩で小さく息をつく。

「今日はいつになく人が多いようだから、疲れちゃったかな」
「かもしれません」

 せっかく心配して聞いてくれたのに、ロゼリエッタは曖昧に笑って答えるしかできなかった。小さな嘘をついた後ろめたさから視線を落とし、ソファの肘掛けに施された彫刻を指先でなぞる。

 普段ならお互いの近況を話し合ったり他愛のない会話ができるのに、レミリアの話題が出るのが怖くてロゼリエッタは固く口を閉ざした。そんなロゼリエッタの頑なな様子に何を思うのか。クロードも話しかけては来なかった。

 悪い意味で、二人だけが別の世界へと迷い込んだかのようだ。
 親しい間柄同士で交友を深める為に設けられた場所であるはずなのに、お互いの心は逆に遠ざかって行っている気がする。
 実際、ロゼリエッタといても楽しくはないだろう。ただでさえ身体が弱いから常に体調を気遣わなければならないのだ。そのうえ気の利いた会話もできない婚約者となれば、クロードは同情の目を向けられてもおかしくはない。

「ロゼ、クロード」

 どれくらい黙り込んでいたのか。婚約者が同席しているにも拘らず甘やかな雰囲気など微塵もない場所に、透き通る声が響いた。
 レミリアだ。
 ロゼリエッタは弾かれたように顔を上げた。くだらない意地を張って時間を無駄に過ごしていたことに気がつかされても今さらの話だ。

「今から少しクロードのお時間をいただいてもいいかしら?」

 クロードの視線がロゼリエッタに向けられた。一応、ロゼリエッタの気持ちを慮ってくれる余地はあるようだ。

 おそらくは先程言っていた西門での騒ぎに関する話だろう。ならばロゼリエッタには聞かせたくない、聞かせられない話に違いない。
 そうでなくとも、想いは報われなくとも愛する人と少しでも長く一緒にいたいに決まっている。だから本来は"このうえなく都合の良い婚約者"なロゼリエッタでも、今この時ばかりは邪魔者なのだ。

 ロゼリエッタだってクロードと一緒にいたい。けれどその気持ちもまた、彼の想いの前では報われなかった。

「私、少しホールを見て参ります」

 泣きたい気持ちを必死で笑顔の奥に押し込める。王城に来るのは久し振りだもの、と思ってもいないことさえ口にした。
 先程嘘をついたばかりだからか、二つ目の嘘を口にすることに対する罪悪感は希薄だった。だけどつきたくもない嘘であることには変わりなく、それを隠す為にさらに嘘を重ねて口数が増える。

 その事実にクロードが気がついてくれているなら、まだ救われるのに。――否、気がついてくれていても何も変わらないのなら、気がつかれていない方が良いのかもしれない。

「ロゼ、一人では危ないわ」

 心配そうにレミリアが気遣う。でも、ここにいてもいいとは言ってくれない。近衛騎士の任務に関わることだ。当然の判断だろう。
 意地悪な気持ちから、レミリアが二人の時間を奪う為に仕組んだわけではないと、ロゼリエッタだって分かっている。

 私用ではなく公用なのだから仕方ない。
 だけど、こんな時に任務の話をしなくたっていいのに。クロードはレミリアに仕える騎士だ。普段から二人だけで話す機会はいくらだってある。
 そもそもクロードがいなければ困る状況なのだろうか。

 聞き分けのない子供なロゼリエッタが心の中で駄々をこねる。それをおくびにも出さずにロゼリエッタは笑顔のままレミリアに告げた。

「アイリが控えてくれていますから大丈夫です。それに、ホールとサロンを見るだけですから」
「本当なら誰か代わりの騎士を手配するべきところなのだけど、西門での騒ぎと警護とに人員を割いてしまっていて……ごめんなさいね」

 レミリアはさらに申し訳なさそうにクロードを横目で見やる。クロードと目を合わせることを阻止するよう、ロゼリエッタは慌てて言葉を紡いだ。

「ホール付近にも、巡回する騎士様が何人かいらっしゃるのでしょう?」

 レミリアの視線が思惑通りロゼリエッタに戻る。もちろんよ、とロゼリエッタの問いを肯定して大きく頷いた。

「でも気をつけてね。人気のない方には決して行かずに、何かあったら恥ずかしいと我慢したりせずに大きな声で人を呼ぶのよ」
「はい。お心遣いありがとうございます」

 ささやかな、けれども醜い嫉妬心からの妨害にロゼリエッタの胸が痛んだ。こんなことをしたって、ロゼリエッタが席を外せば何の意味もない。それでもレミリアと視線を交わすクロードを見たくはなかった。

 ロゼリエッタは再びクロードに向き直る。婚約者を、その想い人と二人きりにさせてしまう事実に泣き出しそうになる心を叱咤し、声を振り絞った。

「クロード様、ちゃんと後で迎えに来て下さいませね」

 ほんの一瞬だけクロードの目が見開かれた。無理をして笑っていることに気がつかれてしまったのだろうか。ロゼリエッタは笑みを深め、三歳年下の無邪気な婚約者の仮面を被る。
 本当は、今にも張り裂けそうな胸の内に気がついて欲しい。でもそれが叶えられる願いだったなら、こんな想いは抱いてない。

「必ず迎えに行くよ。――約束する」

 この場から一刻も早く立ち去りたくて、ロゼリエッタは立ち上がると二人へ軽い会釈だけをして背を向けた。歩き出したロゼリエッタの耳に、レミリアの小さな声が届く。

「そんな顔をしないでクロード。もう少しの辛抱なのだから」

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