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悪い子でもいい 1
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温かくて、優しい何かに身も心も包まれている。
そんな感覚に気がついたフィオレンツィアは目を開けた。
どうしたのだろう。まぶたが重くて少し痛む。何度も瞬きをすると、少しずつ視界がはっきりして来た。
「目が覚めた?」
「お、に……さま……?」
それでもどこかぼんやりとしたままの意識が、戸惑いの声をあげさせる。
今にもお互いの唇が触れ合いそうなほどの近くにアドルフォードの顔があった。
本当はまだ眠っていて、夢を見ているのだろうか。紫色の目を見つめていると目尻に口づけを一つ落とされた。
「私……?」
ベルリアナに招待されて、ブレアドール侯爵家にいたはずだ。
でも出されたお茶を口にした途端に身体が熱くなって、いるはずのないアドルフォードの顔を見て、それで――。
「ブレアドール侯爵家で倒れた後に丸一日意識がなかったから、記憶がぼんやりしてるのかもしれないね」
「そう、なの?」
分からない。
だけど確かに頭の中に薄いベールがかかったみたいにぼやけている。あんなに淫らな夢まで見てしまったのも、きっとそのせいなのだ。
アドルフォードは優しくフィオレンツィアを抱きしめ、同じくらいの優しさでその髪を撫でた。
以前と何も変わらない仕草なのに胸が痛む。
その理由に思い至って、フィオレンツィアは口を開いた。
「ベルリアナ様のところには、行かなくてもいいの……?」
「どうしてそこでブレアドール侯爵家の令嬢の名前が出るの?」
夜会で見た光景が脳裏をよぎる。不思議そうな顔をするアドルフォードから顔を背けて固く目をつぶった。
でも、思い出したくなんかないのに親しげに話をしていた二人の姿が脳裏を離れない。
目を開けてアドルフォードを見ているのも、目を閉じてお似合いな二人の幻想を見るのも、どちらも同じくらい苦しかった。
「僕は君の傍にいるし、君をどこにも行かせない」
アドルフォードから離れようとしたフィオレンツィアは、自分が覚えている最後の記憶と今の状況とが違っていることにようやく気がついた。
ベッドで眠って、夢を見ていたはずだ。
でも今いるのは自分の部屋じゃなかった。アドルフォードの私室だ。ローソファーの上で、肘かけに背中をもたせかける体勢で抱きしめられている。
「フィオレア、どうして今日はそんなに悪い子なの。――ああ、今日だけじゃないかな。夜会に一人で来た日からずっと、最近の君は悪い子だね」
やっぱり言うことを聞かないフィオレンツィアは悪い子だと思われているのだ。そして悪い子のフィオレンツィアを、アドルフォードは持て余している。
フィオレンツィアの頬を涙が伝った。
「どうして悪い子だと、いけないの?」
アドルフォードが驚いたような目を向ける。
その反応で言葉として紡いでしまっていたことに気がついた。けれど一度こぼれてしまった本当の気持ちは後から後から溢れて来て止まらない。
「私ばっかり、お兄様のもので、お兄様は全然、私だけのものになってくれない。いやなの。お兄様が私を置いて一人で夜会に出て、他の方と親しくしてると思うと胸がとても苦しいの。私だけのお兄様がいいの。私にもお兄様を独り占めさせて欲しいの」
ずっと心にわだかまり続けているものはそれだった。
でも、いい子にしていても独り占めさせてもらえないなら、悪い子だと言われたっていい。どちらのフィオレンツィアも愛してもらえなければ同じことだ。
全てぶつけてしまえばいい。
「フィオレア、君って子は本当に……」
アドルフォードの手が頬を包み、優しく涙を拭ってくれる。
その手が大好きだった。
初めて会った時、「秘密だよ」と笑いながら人差し指を立ててみせた時からずっと、今も大好きな手だ。
甘えるように頬を擦り寄せてしまう。
手放すつもりだった。
けれど触れてしまえば手放すなんて無理に決まっている。
「初めて会った時から僕の心をかき乱す、可愛くて仕方ない悪い子だ」
そうしてアドルフォードはフィオレンツィアの頬を撫でた。
「君に僕との婚約関係を申し出たのは僕の方なんだよ。君をお嫁さんにしたいと思ったから、絶対に他の誰にも取られたくないと思ったから、僕はまだ八歳の君に婚約を申し込んだんだ。君だけが欲しかったから」
「……嘘」
フィオレンツィアは短い言葉で遮って首を振る。
少しの躊躇いの時間の後、心がいちばん苦しい部分を懸命に振り絞った。
「侯爵家の綺麗な方と顔を寄せ合って、お兄様の唇が触れてるんじゃないかって、私……胸が苦しくて痛くて、今もずっと」
「あれは――」
思い当たる節があるらしい。
アドルフォードは記憶を手繰るように視線を上げ、わずかに眉を寄せた。
「隣に座っていたら急にぶつかって来られただけだけど、君のいた位置からだとそこまで近寄ってるように見えたんだね」
そうして大きく息を吐き、表情を和らげる。
「これから夜会は全て一緒に行こう」
今度はフィオレンツィアが驚きで目を見開く番だった。
「行っても、いいの?」
「この前のように君が一人で来て他の男と踊ろうとしているところは僕も見たくないし、疑われたことを無実だとは証明出来ない。もちろん僕は君以外の女の子にキスをしたいなんて思ったことは一度もないけれど、するつもりもないことで君を泣かせたくない。どうせ今さら、僕が収集しないといけない情報もないしね」
「情報?」
「僕はこう見えても"王太子"だからね。各貴族たちの動向を気にしたりはしてるんだよ」
立場が違う。
あの夜会でアドルフォードの告げた言葉を思い出し、フィオレンツィアはその顔を見つめた。
でも。
「お兄様……私、本当に不安だったのよ」
そんな感覚に気がついたフィオレンツィアは目を開けた。
どうしたのだろう。まぶたが重くて少し痛む。何度も瞬きをすると、少しずつ視界がはっきりして来た。
「目が覚めた?」
「お、に……さま……?」
それでもどこかぼんやりとしたままの意識が、戸惑いの声をあげさせる。
今にもお互いの唇が触れ合いそうなほどの近くにアドルフォードの顔があった。
本当はまだ眠っていて、夢を見ているのだろうか。紫色の目を見つめていると目尻に口づけを一つ落とされた。
「私……?」
ベルリアナに招待されて、ブレアドール侯爵家にいたはずだ。
でも出されたお茶を口にした途端に身体が熱くなって、いるはずのないアドルフォードの顔を見て、それで――。
「ブレアドール侯爵家で倒れた後に丸一日意識がなかったから、記憶がぼんやりしてるのかもしれないね」
「そう、なの?」
分からない。
だけど確かに頭の中に薄いベールがかかったみたいにぼやけている。あんなに淫らな夢まで見てしまったのも、きっとそのせいなのだ。
アドルフォードは優しくフィオレンツィアを抱きしめ、同じくらいの優しさでその髪を撫でた。
以前と何も変わらない仕草なのに胸が痛む。
その理由に思い至って、フィオレンツィアは口を開いた。
「ベルリアナ様のところには、行かなくてもいいの……?」
「どうしてそこでブレアドール侯爵家の令嬢の名前が出るの?」
夜会で見た光景が脳裏をよぎる。不思議そうな顔をするアドルフォードから顔を背けて固く目をつぶった。
でも、思い出したくなんかないのに親しげに話をしていた二人の姿が脳裏を離れない。
目を開けてアドルフォードを見ているのも、目を閉じてお似合いな二人の幻想を見るのも、どちらも同じくらい苦しかった。
「僕は君の傍にいるし、君をどこにも行かせない」
アドルフォードから離れようとしたフィオレンツィアは、自分が覚えている最後の記憶と今の状況とが違っていることにようやく気がついた。
ベッドで眠って、夢を見ていたはずだ。
でも今いるのは自分の部屋じゃなかった。アドルフォードの私室だ。ローソファーの上で、肘かけに背中をもたせかける体勢で抱きしめられている。
「フィオレア、どうして今日はそんなに悪い子なの。――ああ、今日だけじゃないかな。夜会に一人で来た日からずっと、最近の君は悪い子だね」
やっぱり言うことを聞かないフィオレンツィアは悪い子だと思われているのだ。そして悪い子のフィオレンツィアを、アドルフォードは持て余している。
フィオレンツィアの頬を涙が伝った。
「どうして悪い子だと、いけないの?」
アドルフォードが驚いたような目を向ける。
その反応で言葉として紡いでしまっていたことに気がついた。けれど一度こぼれてしまった本当の気持ちは後から後から溢れて来て止まらない。
「私ばっかり、お兄様のもので、お兄様は全然、私だけのものになってくれない。いやなの。お兄様が私を置いて一人で夜会に出て、他の方と親しくしてると思うと胸がとても苦しいの。私だけのお兄様がいいの。私にもお兄様を独り占めさせて欲しいの」
ずっと心にわだかまり続けているものはそれだった。
でも、いい子にしていても独り占めさせてもらえないなら、悪い子だと言われたっていい。どちらのフィオレンツィアも愛してもらえなければ同じことだ。
全てぶつけてしまえばいい。
「フィオレア、君って子は本当に……」
アドルフォードの手が頬を包み、優しく涙を拭ってくれる。
その手が大好きだった。
初めて会った時、「秘密だよ」と笑いながら人差し指を立ててみせた時からずっと、今も大好きな手だ。
甘えるように頬を擦り寄せてしまう。
手放すつもりだった。
けれど触れてしまえば手放すなんて無理に決まっている。
「初めて会った時から僕の心をかき乱す、可愛くて仕方ない悪い子だ」
そうしてアドルフォードはフィオレンツィアの頬を撫でた。
「君に僕との婚約関係を申し出たのは僕の方なんだよ。君をお嫁さんにしたいと思ったから、絶対に他の誰にも取られたくないと思ったから、僕はまだ八歳の君に婚約を申し込んだんだ。君だけが欲しかったから」
「……嘘」
フィオレンツィアは短い言葉で遮って首を振る。
少しの躊躇いの時間の後、心がいちばん苦しい部分を懸命に振り絞った。
「侯爵家の綺麗な方と顔を寄せ合って、お兄様の唇が触れてるんじゃないかって、私……胸が苦しくて痛くて、今もずっと」
「あれは――」
思い当たる節があるらしい。
アドルフォードは記憶を手繰るように視線を上げ、わずかに眉を寄せた。
「隣に座っていたら急にぶつかって来られただけだけど、君のいた位置からだとそこまで近寄ってるように見えたんだね」
そうして大きく息を吐き、表情を和らげる。
「これから夜会は全て一緒に行こう」
今度はフィオレンツィアが驚きで目を見開く番だった。
「行っても、いいの?」
「この前のように君が一人で来て他の男と踊ろうとしているところは僕も見たくないし、疑われたことを無実だとは証明出来ない。もちろん僕は君以外の女の子にキスをしたいなんて思ったことは一度もないけれど、するつもりもないことで君を泣かせたくない。どうせ今さら、僕が収集しないといけない情報もないしね」
「情報?」
「僕はこう見えても"王太子"だからね。各貴族たちの動向を気にしたりはしてるんだよ」
立場が違う。
あの夜会でアドルフォードの告げた言葉を思い出し、フィオレンツィアはその顔を見つめた。
でも。
「お兄様……私、本当に不安だったのよ」
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