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恋(ティエラディアナ視点)
父親の恋人
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シェラフィリアが人気のある劇団の公演を観たいと、本来であればなかなか手に入らないはずのチケットを侯爵家の立場を利用して三枚手に入れた。王都で今いちばんの人気だという、劇団の看板を務める舞台女優の噂がシェラフィリアの耳にも入り、そしておそらくは癪に障ったのだろう。
母の性格を思えば、舞台女優を実際に見てもなお自分の方が美しいと自尊心を満足させたかったに違いない。
その傲慢さに足元を掬われることになると、露ほどにも思わずに。
三人で、上位貴族のみが購入を許された二階のボックス席に座った。正面から舞台を見下ろせるその席は舞台側だけがガラス貼りの個室になっており、周囲から中の様子は見られないようになっている。広々とした個室には上質な赤いビロードの長椅子が置かれ、ティエラディアナを真ん中に、父は右隣、母は左隣に、それぞれが微妙な距離を取って腰を下ろした。
舞台の内容をティエラディアナは覚えていない。観たいと言い出したのに何の感情も窺えない目で舞台を、スポットライトを一身に浴びる女を見つめる母を見ていた。父はその時、どんな表情でいたのだろう。それも見ていたのなら、何かが変わっていたのだろうか。
いや……最初から全て、逃れられない運命だったに違いない。
家族三人で観劇に行ってから半年ほどした頃だろうか。
父ミハエルの帰りが遅くなることが増えた。最初のうちこそは帰りが一・二時間遅くなる程度だったが、まるでボーダーラインを試すかのように緩やかに限度を超えて行った。
半年後には日付が変わってからになり、一年も経てばとうとう、陽が昇ってから帰って来ることが当たり前になる。そこで〝父の実験〟は終わったのか、家へ帰って来ない日が一月の大半を占めはじめた。
シェラフィリアが疑惑の目を向けるのも時間の問題だった。
もちろん、本当に仕事が忙しかった日も何回かはあったのだろう。だが、そこに泊まりの仕事と嘘を紛れこませていたこともまた事実なのである。父が舞台女優を愛人にしたという話は、すぐに母の前にあかるみになった。あるいは、父がわざと愛人の存在を仄めかしたかのように。
シェラフィリアはすぐさま屋敷の使用人全てに事細かな話を聞いた。しかし、仕事のスケジュールを管理していた執事は父がラドグリス家を通さずに個人で雇っていた為、シェラフィリアとて仕事と私用とを完全に区別することはできなかった。
侯爵家令嬢の、何よりも女としてのプライドを、自らが「たかが舞台女優風情」と見下す女に完膚なきまでに傷つけられたシェラフィリアは、女の所属する劇団に多額の寄付をした。それが今から一年前の話だ。
もちろん純粋な援助の気持ちなど、そこには微塵もありはしない。立派な劇場を建ててやる計画を持ちかけ、さすが可憐な白百合様のお心遣いは素晴らしいと感涙に咽ぶ座長へ無慈悲にも言い放ったのである。
地位や名誉を得たいのならば、あの薄汚い泥棒猫を看板女優に置くことを今すぐにやめなさい、と。
『ねえティーナ、知っていて? あの時の座長の顔ったら、本当に素敵な見世物だったのよ。無力で滑稽で……貴女にも見せたかったわ、わたくしの可愛いティーナ』
鈴を転がしたような美しい声で、さも楽し気に笑いながら言った母の声をティエラディアナは今でも良く覚えている。
シェラフィリアこそが舞台の女優だった。たおやかな百合のような見た目に女神のような慈悲の心を持ち、聖母のように微笑む醜悪な悪魔。誰よりも眩い光を受け、誰よりも注目を集め、誰よりも称賛を浴びることを貪欲に求める女。
いっそ美しい外見だけで家族をも完全に欺いてくれていたなら良かったのに。
だが、シェラフィリアがミハエルの愛人をスポットライトの当たる場所から力ずくで引き摺り下ろせば、報復とばかりにミハエルはこれまで以上に帰って来なくなった。
むしろ愛人が舞台女優でなくなったことは、ミハエルには都合が良かったのかもしれない。
これまでは舞台に立つ為に割かれていた愛人の時間を、妻が与えてくれたのだから。
女優として美しく羽ばたいていた翼をもがれた痛みはあるだろう。そこまでして手に入れたい愛だったのかは父とその愛人にしか分からないことだ。
「ねえティーナ」
シェラフィリアはティエラディアナの両頬を包み、顔を寄せた。
「わたくしの可愛いティーナ。貴女はわたくしを裏切ったりはしないわよね?」
のぞきこんだ鏡にそうするように、決まった答え以外は決して求めないこの問いかけが、もう何度繰り返されたかも分からない。
ティエラディアナは母の青い目を見つめ、にっこりと微笑んで見せた。
「もちろんですわ、お母様。ティエラディアナはお母様の、たった一人の娘ですもの」
「ティーナ、わたくしの可愛いティーナ」
望む答えを得て満足そうに抱き寄せる母の腕の中で、決して口には出さずに心の中で呟くことも変わらない。
(でもお母様は、私が〝望まないことをする娘〟になれば裏切るのでしょう?)
母の性格を思えば、舞台女優を実際に見てもなお自分の方が美しいと自尊心を満足させたかったに違いない。
その傲慢さに足元を掬われることになると、露ほどにも思わずに。
三人で、上位貴族のみが購入を許された二階のボックス席に座った。正面から舞台を見下ろせるその席は舞台側だけがガラス貼りの個室になっており、周囲から中の様子は見られないようになっている。広々とした個室には上質な赤いビロードの長椅子が置かれ、ティエラディアナを真ん中に、父は右隣、母は左隣に、それぞれが微妙な距離を取って腰を下ろした。
舞台の内容をティエラディアナは覚えていない。観たいと言い出したのに何の感情も窺えない目で舞台を、スポットライトを一身に浴びる女を見つめる母を見ていた。父はその時、どんな表情でいたのだろう。それも見ていたのなら、何かが変わっていたのだろうか。
いや……最初から全て、逃れられない運命だったに違いない。
家族三人で観劇に行ってから半年ほどした頃だろうか。
父ミハエルの帰りが遅くなることが増えた。最初のうちこそは帰りが一・二時間遅くなる程度だったが、まるでボーダーラインを試すかのように緩やかに限度を超えて行った。
半年後には日付が変わってからになり、一年も経てばとうとう、陽が昇ってから帰って来ることが当たり前になる。そこで〝父の実験〟は終わったのか、家へ帰って来ない日が一月の大半を占めはじめた。
シェラフィリアが疑惑の目を向けるのも時間の問題だった。
もちろん、本当に仕事が忙しかった日も何回かはあったのだろう。だが、そこに泊まりの仕事と嘘を紛れこませていたこともまた事実なのである。父が舞台女優を愛人にしたという話は、すぐに母の前にあかるみになった。あるいは、父がわざと愛人の存在を仄めかしたかのように。
シェラフィリアはすぐさま屋敷の使用人全てに事細かな話を聞いた。しかし、仕事のスケジュールを管理していた執事は父がラドグリス家を通さずに個人で雇っていた為、シェラフィリアとて仕事と私用とを完全に区別することはできなかった。
侯爵家令嬢の、何よりも女としてのプライドを、自らが「たかが舞台女優風情」と見下す女に完膚なきまでに傷つけられたシェラフィリアは、女の所属する劇団に多額の寄付をした。それが今から一年前の話だ。
もちろん純粋な援助の気持ちなど、そこには微塵もありはしない。立派な劇場を建ててやる計画を持ちかけ、さすが可憐な白百合様のお心遣いは素晴らしいと感涙に咽ぶ座長へ無慈悲にも言い放ったのである。
地位や名誉を得たいのならば、あの薄汚い泥棒猫を看板女優に置くことを今すぐにやめなさい、と。
『ねえティーナ、知っていて? あの時の座長の顔ったら、本当に素敵な見世物だったのよ。無力で滑稽で……貴女にも見せたかったわ、わたくしの可愛いティーナ』
鈴を転がしたような美しい声で、さも楽し気に笑いながら言った母の声をティエラディアナは今でも良く覚えている。
シェラフィリアこそが舞台の女優だった。たおやかな百合のような見た目に女神のような慈悲の心を持ち、聖母のように微笑む醜悪な悪魔。誰よりも眩い光を受け、誰よりも注目を集め、誰よりも称賛を浴びることを貪欲に求める女。
いっそ美しい外見だけで家族をも完全に欺いてくれていたなら良かったのに。
だが、シェラフィリアがミハエルの愛人をスポットライトの当たる場所から力ずくで引き摺り下ろせば、報復とばかりにミハエルはこれまで以上に帰って来なくなった。
むしろ愛人が舞台女優でなくなったことは、ミハエルには都合が良かったのかもしれない。
これまでは舞台に立つ為に割かれていた愛人の時間を、妻が与えてくれたのだから。
女優として美しく羽ばたいていた翼をもがれた痛みはあるだろう。そこまでして手に入れたい愛だったのかは父とその愛人にしか分からないことだ。
「ねえティーナ」
シェラフィリアはティエラディアナの両頬を包み、顔を寄せた。
「わたくしの可愛いティーナ。貴女はわたくしを裏切ったりはしないわよね?」
のぞきこんだ鏡にそうするように、決まった答え以外は決して求めないこの問いかけが、もう何度繰り返されたかも分からない。
ティエラディアナは母の青い目を見つめ、にっこりと微笑んで見せた。
「もちろんですわ、お母様。ティエラディアナはお母様の、たった一人の娘ですもの」
「ティーナ、わたくしの可愛いティーナ」
望む答えを得て満足そうに抱き寄せる母の腕の中で、決して口には出さずに心の中で呟くことも変わらない。
(でもお母様は、私が〝望まないことをする娘〟になれば裏切るのでしょう?)
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