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恋(ティエラディアナ視点)

見てくれだけは美しいもの

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「ねえティーナ、知っていて?」

 かすかな衣擦れの音と共に聞こえる女の涼やかな声に、ティーナ――ティエラディアナは読みかけの本から顔を上げた。
 正面に置かれた一人がけのソファーにいつの間にか、完成された絵画さながらの空気を纏った母が腰を下ろしている。彼女は右手首にはめた細い金のブレスレットをしなやかな指先で弄び、誰しもが陶然と見惚れるほどに華やかな笑みを浮かべた。

 母の白く華奢な手首で心許なさげに揺れるブレスレットは、今年十九歳になるティエラディアナが身につけるならいざ知らず、成熟しきった大人の女性である母を飾り立てるには些か幼すぎるデザインに見える。
 だが、母にとってはそれがお気に入りの品らしい。ティエラディアナは謂れを知らないが、片時も外すことなく大切に扱っていることだけは確かだ。

 ティエラディアナは母へ一瞥を与え、繊細な模様が刻まれたガラステーブルに手を伸ばした。
 野ばらが描かれた、お気に入りのティーカップを口元に運ぶ。淡いオレンジ色に揺らめく紅茶を一口含めば、母譲りの愛らしい顔がしかめられた。
 カップに注がれた紅茶はすっかり冷めてしまっている。温かい時はとても優雅で芳醇な香りを立てていたのだが、今はほとんどが飛んでしまってわずかに香るだけだ。何か月も待ってようやく取り寄せてもらったのに、本に夢中になりすぎてあまり楽しむことができなかった。
 ひどく残念で、思わず溜め息がこぼれる。それを自分への反応とでも捉えたのか、母は眉を吊り上げた。

「貴女のお父様はまた、あの女のところに行っているのよ。あの、若いというだけで何の地位も後ろ盾もない、舞台女優風情のところにね」

 隠し切れない憎悪のこもった吐息をつくと母はまだ美しい顔を歪め、美しい声を怒りと屈辱に震わせて執拗に、この場にはいない〝あの女〟を罵倒し続ける。どす黒い感情を執拗なまでに塗り込めた悪意の塊を吐き出す姿はとても醜く、貴族たちの手本となるべく名門に連なる存在なのかと眉をひそめさせずにはいられなかった。
 それが他ならぬ自分の母親だということを認めたくなくて、ティエラディアナは意識を逸らす。

 類稀なる美貌を引き立てる見事なプラチナブロンドと雪のように白い肌から、若かりし頃の母は〝社交界に咲いた可憐な白百合〟と称されていたことは有名な話だ。実家の侯爵家も由緒ある家系とあれば、多少の下心が秘められているとは言えダンスの誘いや求婚を申し出る殿方が後を絶たなかったのも十分頷ける。
 それが今やどうだろう。
 面立ちは十九歳の娘がいるとは思えないほど、娘時代の儚げな雰囲気を未だ残した美人であることには変わりない。だが見てくれの問題ではなかった。口を開けば〝夫を寝取った泥棒猫〟を悪し様に罵る内面が醜くなってしまっている。

「それだけではないのよ、ねえティーナ。知っていて? 貴女のお父様はね、またあの女に我がラドグリス家の大事な財産の一部を勝手に貢いだらしいのよ。入り婿の分際で名門ラドグリス家の財産に私欲で手をつけるなんて、恥ずかしいと思わないのかしらね? もしわたくしが貴女のお父様と同じ立場ならとてもとても、そんな恥知らずで恩知らずな浅ましい振る舞いはできはしないのだけれど、彼のご実家の伯爵家はそういった恩や礼節といったことを一切気になさらない家風なのかしら?」

 紅茶の本来の味を楽しむことができず、ティエラディアナは残念な気持ちで再び本へに視線を落とした。

 十五歳のある日、母の兄――つまりはラドグリス侯爵家当主であり、ティエラディアナの伯父にあたる人物が「大人になろうとしているティーナも、事実を知っておいた方がいい」と教えてくれたことが脳裏を過る。

 結婚相手に何ら困ってはいなかった〝可憐な白百合〟ことシェラフィリアだが、その結婚相手にはアインザック伯爵家の四男坊であるミハエル――彼がもちろんティエラディアナの父親だ――を選んだ。
 二人は恋愛結婚ではない。シェラフィリアが、自分に全く見向きもしなかったミハエルに腹を立て、家柄の差に物を言わせて我儘を通したものだった。

 ミハエルがシェラフィリアを口説かなかったことにはちゃんとした理由がある。当時のミハエルにはすでに、ごく一部の人間しか存在を知らない恋人がいたのだ。世間に公表こそしていなくとも、アインザック家と相手方の家との間では結婚の話も内々に進められていた。
 しかし、そこにシェラフィリアの横やりが入った。アインザック家は地位こそ伯爵位に就いているが、元は商人の家系であり、いわば成り上がりだ。そんなアインザック家が格上の、王都でも屈指の権勢を誇る名門ラドグリス家からの申し出を断れるはずもない。ラドグリス家の機嫌を損ねることは自殺行為に等しかった。

 そうして横恋慕ですらない子供じみた略奪は、シェラフィリアの一目惚れからはじまった世紀の大熱愛などと偽りの姿を与えられた。これまで誰の誘いにも靡くことのなかった白百合が前触れもなく婚約したという話は瞬く間に社交界を駆け抜け、長きに渡って暇な貴族たちの関心を独占したものだ。
 たった一枚の薄皮を捲ればそこに愛など最初から全く存在しない。けれど高位貴族の令嬢の高慢な気まぐれだけで、婚姻が結ばれたのだった。

 母は父を入り婿としてラドグリス侯爵家に迎えたものの、この家はあくまでも分家だ。母の兄が継いだ本家はさらに揺るぎない土壌を築き上げている。
 この家を存続させる必要はない。
 それでも母は子を望んだようで、当初はなかなか子宝にも恵まれなかったが結婚して五年後には一人娘のティエラディアナが生まれ、夫婦間に男女の恋愛感情はなくとも家族としての愛情なら芽生えるかと思われた。現にティエラディアナを中心に、仲睦まじい家族の体裁は形成されつつあったのだ。

 ――ただしその幸せな家族の姿も、所詮は見てくれの話である。

 ミハエルはティエラディアナに対し、最低限の務めは果たしてはいた。
 ティエラディアナの誕生日は家族三人で過ごし、プレゼントも直接手渡しで贈ってくれる。だが、そのプレゼントの傾向がある年を境にがらりと変わった。
 いわゆる、年頃の少女が好みそうな品々。まともな会話もなかった父がそんな気の利いたプレゼントを選べるはずがなかった。

 では、選んでいるのは誰なのか。
 薄氷の上にかろうじて築かれていたに過ぎなかった家族の風景に最初の亀裂が入ったのは、ティエラディアナが十四歳の時だった。

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