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未知の病
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男の子が、泣いている。
庭園の隅の植え込みに隠れるように、とても綺麗な男の子が一人で膝を抱えていた。
年は自分より少し上だろうか。涙こそ流してはいないけれど、ひどく悲しそうな表情に見えた。
ここにいるということはそれなりに身分が高い家の子に違いない。
まだ幼くともプリムローズは王女として、貴族は高い矜持を持っているのだと教わっていた。だから無暗に矜持を傷つけるような真似は、たとえ王女であろうとしてはいけない。否、王女だからこそしてはいけないのだと教わった。
彼も弱っているところは見られたくないだろうし、見なかったふりをして立ち去った方が良いのかもしれない。
だけど放っておけなくて、ドレスが汚れるのも構わず隣に座った。
(黒いドレスだもの。少し汚れたって目立たないわ)
それに、隣に人がいるのがいやなら男の子だって自分からいなくなるはず。
男の子は突然隣に座られて驚いたような顔を見せたものの何も言わず、立ち去ることもしなかった。
何も言わず、聞くこともなく、じっと寄り添う。
少しでも元気になってくれたら良いと思いながら。
眩しさを感じて、何度かまばたきを繰り返して目を開ける。
少しだけ眉を寄せると、ややあってわずかに暗くなった。光が差していた方向に顔を向ければ、天蓋からレースのカーテンがかけられている。自室のベッドのそれとは違う、見慣れない織りだ。
(ここは、どこ……?)
夢を見ていた。
とても懐かしくて大切な夢だ。
プリムローズの中に、初めて淡い想いが芽生えた日の。
(――あ)
記憶を手繰り、慌てて跳ね起きる。
着ているのは上質な絹のローブだった。淡いピンク色に染められ、艶やかな光沢を放っている。腰の辺りには気崩れることのないように丁寧にリボンが結ばれており、あきらかに人の手で着せられていた。
あの例の下着もどきは……とさりげなく確認すると、ローブの下に着ているままだった。
「目が覚めましたか」
優しい声がかけられる。
声の主が誰なのかは確かめるまでもない。
けれど伝えたいことがあるし、何よりも顔が見たくて視線を向けた。
「昨夜は申し訳ありませんでした」
昨日とはまた違う正装を纏ったアルバートを見るなりプリムローズはシーツの上に指をつく。
そしてシーツに額を押しつけるよう深々と頭を下げた。
気を失い、朝まで眠ってしまったらしい。
新妻にあるまじき失態だ。
今もまたアルバートに気を遣わせて、手ずからカーテンを引かせてしまった。
これでは本当に新妻ポイントをどんどん失い、白い結婚への道一直線になりかねない。閨での作法の勉強以前の問題だ。
「姫、顔を上げて下さい。今後はあのような行動は控えていただければ、それで十分ですので……」
「もちろんです」
許しの言葉を受け、顔を上げる。
いくら傷ついたからと言って、人が隠しているものを暴こうとするのは決して褒められた行為ではない。ましてや、相手には隠さなければならない理由があったのだからなおさらだ。
キノコを隠していた理由は何だったのか、気にならないと言えば嘘になる。
あくまでもプリムローズの常識内で考えると、賓客への挨拶が深夜近くまで及ぶことを想定して非常食として所持していた、という可能性もあった。
だけど、どうにもしっくり来ない。
(信じられないくらい毒々しい見た目で、まるで毒キノコみたいだったもの。食べたらきっとお腹を壊してしまうわ)
非常食ならパンで良い。それが何故キノコを。
でも正面から尋ねたところで教えてもらえるとは思えない。
一人で考えたって答えが分かるはずもなく、けれど天啓のようにある仮説が閃いた。
同時にますます自分のしでかしてしまったことの重大さに居たたまれなくなる。ちゃんと顔を見て謝罪しなければいけないのに、顔を上げられない。困惑が窺える形の良い口元を見るのが精一杯だった。
伝えるべき言葉を探りながら、ゆっくりと口を開く。
「わたくし、存じ上げなかったこととは言え何とお詫びしたら良いか……」
色や形が毒キノコみたいだった。
つまり、あれはキノコに似てはいるけれどアルバートの身体に害をなすものだ。
そして人の身体に害をなすと言えば、考えられるのは一つしかない。
息を大きく吸い込んで顔を上げた。
「アルバート様が毒キノコ病……ええと、わたくしには未知のものである病に侵されていらっしゃるなんて、本当に存じ上げなかったのです」
「毒、キノコ病……?」
アルバートは放心したような様子で小さく反芻する。
また失敗してしまった。デリケートな問題なのだからもっと違う言葉で伝えた方が良かったかもしれない。
自分の至らなさに落ち込んでいると、やがてアルバートは大きく頷いた。
「そ、そうなのです。実は私は毒キノコ病に罹っているので、姫とは閨を共にすることができないのです。万が一、移してしまっては取り返しのつかないことになりますから」
「なんてお労しいことでしょう……」
やっぱりアルバートは深刻な病を患っているのだ。
プリムローズはそれを無責任な行動で暴き立て、彼に恥をかかせてしまった。謝って済むことではない。
でも白い結婚を送りたい理由が"毒キノコ病"のせいなら、完治したら良いのではないか。
何よりも妻としてではなく、人として心配だ。
アルバートにはずっと、いつだって元気でいて欲しい。
「病のことは姫以外に誰も知りません。ですから姫も決して、他人には口外なさらないでいただけますか」
「も、もちろんです」
神妙に頷き返す。
でもこんな状況なのにプリムローズの心は大きな喜びに満たされ、打ち震えてしまう。
(他にはどなたもご存知ないことを、わたくしにだけ打ち明けて下さったのだもの)
嫌われているわけじゃない。
むしろ大切なことを話してくれた。それだけで泣きたくなるくらい嬉しい。
意を決して手を伸ばす。
ベッドの上に置かれたアルバートの右手に自らの両手を重ね合わせるとまた、びくりと反応されてしまった。
手に触れられるのもいやなのだろうか。
先程までの浮かれた気持ちが萎んで行くほど悲しいけれど、昨日の今日で無理強いは良くない。できることから少しずつするのだ。
静かに手を戻し、悪意や敵意なんてないと証明するかのように微笑みかける。
「アルバート様のご病気が一日でも早く快癒されますよう、わたくしも全力でお手伝い致しますね。ですからどうぞ、頼りないとは思いますがご安心なさって」
ところがアルバートは何とも言えない、複雑そうな顔をした。
病気が治って欲しくないのだろうか。
そんなまさか。
だって毒キノコなのに。
「アルバート様?」
「――ああ、いえ……」
アルバートは視線を彷徨わせ、再びプリムローズに視線を向けた。
真っすぐに見つめてくれるその目には、先程までの逡巡の色はどこにもない。見方によっては事務的とも言える表情だ。
「朝食の準備をさせています。姫の支度が終わりましたら食事にしましょう」
「それは、アルバート様もご一緒して下さるということですか?」
「はい」
表情こそ硬いものの、発せられた言葉はこのうえなく嬉しいものだった。
今から支度となると湯浴みをして着替えて――必要な時間を頭の中で素早く計算する。アルバートの顔は見ていたいけれど、後でまた見られるのだ。のんびりしてはいられない。
「続き部屋で読書をしながらお待ちしておりますから、ごゆっくり支度なさって下さい」
「お心遣いありがとうございます、アルバート様」
身支度を整えて朝食を摂ったら、アルバートは今日も執務に向かうのだろう。その間、立ち入りに許可が必要ならもらって図書室に行こうと思う。
図書室の本はすでにアルバートも調べていると思うけれど、膨大な蔵書数だからまだ目を通していない本もきっとあるはずだ。もしかしたらその中に治療法が書かれているものがあるかもしれない。
そうと決まればプリムローズはいそいそとイレーヌを呼んで準備をはじめた。
庭園の隅の植え込みに隠れるように、とても綺麗な男の子が一人で膝を抱えていた。
年は自分より少し上だろうか。涙こそ流してはいないけれど、ひどく悲しそうな表情に見えた。
ここにいるということはそれなりに身分が高い家の子に違いない。
まだ幼くともプリムローズは王女として、貴族は高い矜持を持っているのだと教わっていた。だから無暗に矜持を傷つけるような真似は、たとえ王女であろうとしてはいけない。否、王女だからこそしてはいけないのだと教わった。
彼も弱っているところは見られたくないだろうし、見なかったふりをして立ち去った方が良いのかもしれない。
だけど放っておけなくて、ドレスが汚れるのも構わず隣に座った。
(黒いドレスだもの。少し汚れたって目立たないわ)
それに、隣に人がいるのがいやなら男の子だって自分からいなくなるはず。
男の子は突然隣に座られて驚いたような顔を見せたものの何も言わず、立ち去ることもしなかった。
何も言わず、聞くこともなく、じっと寄り添う。
少しでも元気になってくれたら良いと思いながら。
眩しさを感じて、何度かまばたきを繰り返して目を開ける。
少しだけ眉を寄せると、ややあってわずかに暗くなった。光が差していた方向に顔を向ければ、天蓋からレースのカーテンがかけられている。自室のベッドのそれとは違う、見慣れない織りだ。
(ここは、どこ……?)
夢を見ていた。
とても懐かしくて大切な夢だ。
プリムローズの中に、初めて淡い想いが芽生えた日の。
(――あ)
記憶を手繰り、慌てて跳ね起きる。
着ているのは上質な絹のローブだった。淡いピンク色に染められ、艶やかな光沢を放っている。腰の辺りには気崩れることのないように丁寧にリボンが結ばれており、あきらかに人の手で着せられていた。
あの例の下着もどきは……とさりげなく確認すると、ローブの下に着ているままだった。
「目が覚めましたか」
優しい声がかけられる。
声の主が誰なのかは確かめるまでもない。
けれど伝えたいことがあるし、何よりも顔が見たくて視線を向けた。
「昨夜は申し訳ありませんでした」
昨日とはまた違う正装を纏ったアルバートを見るなりプリムローズはシーツの上に指をつく。
そしてシーツに額を押しつけるよう深々と頭を下げた。
気を失い、朝まで眠ってしまったらしい。
新妻にあるまじき失態だ。
今もまたアルバートに気を遣わせて、手ずからカーテンを引かせてしまった。
これでは本当に新妻ポイントをどんどん失い、白い結婚への道一直線になりかねない。閨での作法の勉強以前の問題だ。
「姫、顔を上げて下さい。今後はあのような行動は控えていただければ、それで十分ですので……」
「もちろんです」
許しの言葉を受け、顔を上げる。
いくら傷ついたからと言って、人が隠しているものを暴こうとするのは決して褒められた行為ではない。ましてや、相手には隠さなければならない理由があったのだからなおさらだ。
キノコを隠していた理由は何だったのか、気にならないと言えば嘘になる。
あくまでもプリムローズの常識内で考えると、賓客への挨拶が深夜近くまで及ぶことを想定して非常食として所持していた、という可能性もあった。
だけど、どうにもしっくり来ない。
(信じられないくらい毒々しい見た目で、まるで毒キノコみたいだったもの。食べたらきっとお腹を壊してしまうわ)
非常食ならパンで良い。それが何故キノコを。
でも正面から尋ねたところで教えてもらえるとは思えない。
一人で考えたって答えが分かるはずもなく、けれど天啓のようにある仮説が閃いた。
同時にますます自分のしでかしてしまったことの重大さに居たたまれなくなる。ちゃんと顔を見て謝罪しなければいけないのに、顔を上げられない。困惑が窺える形の良い口元を見るのが精一杯だった。
伝えるべき言葉を探りながら、ゆっくりと口を開く。
「わたくし、存じ上げなかったこととは言え何とお詫びしたら良いか……」
色や形が毒キノコみたいだった。
つまり、あれはキノコに似てはいるけれどアルバートの身体に害をなすものだ。
そして人の身体に害をなすと言えば、考えられるのは一つしかない。
息を大きく吸い込んで顔を上げた。
「アルバート様が毒キノコ病……ええと、わたくしには未知のものである病に侵されていらっしゃるなんて、本当に存じ上げなかったのです」
「毒、キノコ病……?」
アルバートは放心したような様子で小さく反芻する。
また失敗してしまった。デリケートな問題なのだからもっと違う言葉で伝えた方が良かったかもしれない。
自分の至らなさに落ち込んでいると、やがてアルバートは大きく頷いた。
「そ、そうなのです。実は私は毒キノコ病に罹っているので、姫とは閨を共にすることができないのです。万が一、移してしまっては取り返しのつかないことになりますから」
「なんてお労しいことでしょう……」
やっぱりアルバートは深刻な病を患っているのだ。
プリムローズはそれを無責任な行動で暴き立て、彼に恥をかかせてしまった。謝って済むことではない。
でも白い結婚を送りたい理由が"毒キノコ病"のせいなら、完治したら良いのではないか。
何よりも妻としてではなく、人として心配だ。
アルバートにはずっと、いつだって元気でいて欲しい。
「病のことは姫以外に誰も知りません。ですから姫も決して、他人には口外なさらないでいただけますか」
「も、もちろんです」
神妙に頷き返す。
でもこんな状況なのにプリムローズの心は大きな喜びに満たされ、打ち震えてしまう。
(他にはどなたもご存知ないことを、わたくしにだけ打ち明けて下さったのだもの)
嫌われているわけじゃない。
むしろ大切なことを話してくれた。それだけで泣きたくなるくらい嬉しい。
意を決して手を伸ばす。
ベッドの上に置かれたアルバートの右手に自らの両手を重ね合わせるとまた、びくりと反応されてしまった。
手に触れられるのもいやなのだろうか。
先程までの浮かれた気持ちが萎んで行くほど悲しいけれど、昨日の今日で無理強いは良くない。できることから少しずつするのだ。
静かに手を戻し、悪意や敵意なんてないと証明するかのように微笑みかける。
「アルバート様のご病気が一日でも早く快癒されますよう、わたくしも全力でお手伝い致しますね。ですからどうぞ、頼りないとは思いますがご安心なさって」
ところがアルバートは何とも言えない、複雑そうな顔をした。
病気が治って欲しくないのだろうか。
そんなまさか。
だって毒キノコなのに。
「アルバート様?」
「――ああ、いえ……」
アルバートは視線を彷徨わせ、再びプリムローズに視線を向けた。
真っすぐに見つめてくれるその目には、先程までの逡巡の色はどこにもない。見方によっては事務的とも言える表情だ。
「朝食の準備をさせています。姫の支度が終わりましたら食事にしましょう」
「それは、アルバート様もご一緒して下さるということですか?」
「はい」
表情こそ硬いものの、発せられた言葉はこのうえなく嬉しいものだった。
今から支度となると湯浴みをして着替えて――必要な時間を頭の中で素早く計算する。アルバートの顔は見ていたいけれど、後でまた見られるのだ。のんびりしてはいられない。
「続き部屋で読書をしながらお待ちしておりますから、ごゆっくり支度なさって下さい」
「お心遣いありがとうございます、アルバート様」
身支度を整えて朝食を摂ったら、アルバートは今日も執務に向かうのだろう。その間、立ち入りに許可が必要ならもらって図書室に行こうと思う。
図書室の本はすでにアルバートも調べていると思うけれど、膨大な蔵書数だからまだ目を通していない本もきっとあるはずだ。もしかしたらその中に治療法が書かれているものがあるかもしれない。
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