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第四楽章 黄金のタクト-Allegro-
4-2 フォルトゥーネ
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たっぷりの眩い光に包まれている。目を開けた傍から視力を奪われてしまいそうだ。
まるで朝の日差しを頭から被った気分で、セシルはゆっくりと慎重に瞳を開いた。
少年が碧の瞳をしばたたかせると、先程の青と闇に支配された空間とは真逆の、水色と金色の世界がそこに広がっていた。徐々に目が慣れてくると、足元を包む緑色の輪郭がだんだんとくっきりしてきた。黒光りする〈マナの柱〉はどこにも見当たらない。
その場で足踏みをしてみると、ふかふかの雑草のクッションの下にしっかりと土を感じた。
どうやら雲の上ではないらしい、とセシルはほっとした。
巻き起こった優しい旋風にさそわれ、少年は顔を上げた。
そこには、緑に包まれた城が横たわっていた。
「……お城……?」
発した自分の声が一人分――単旋律だったので、少し味気ない。セシルが歌うときには決まってマナの倍音が肉声に伴うものだが、先程の二重唱は段違いのことが起こった。倍音どころではない。まるでセシルとリアの二人がソリストに迎えられたオーケストラのようだった。
けれども、両の耳にはまだちらちらと〈マナの歌〉の残響が残っている感じがする。耳鳴りだろうか。そう思って澄ましてみると、それは小さな小さなささやき声だった。
喩えるなら、蟻同士が交わす会話のように微かで、けれども確かに存在している。
もしかしたら、花々が頭を寄せ合って秘密の話をしているのかもしれない。
気付けば、セシルの周りに細かな光の粒が匂うように群れていた。
だがそれは一瞬で霧散し、清い空気のなかに溶けて消えた。恥ずかしかったのだろうか。
少し残念に思いながら見回すと、光の群れは草の上や噴水の周り、セシルの肩あたりなど、そこかしこに溢れていた。まるで落ちてこない雪のようだ、と少年は思った。
目の前で深々と木々に抱かれている城、その体はほとんど見えない。緑の羽根布団を首まで被って長い時を眠り続けてきたように見える。生い茂った枝葉の隙間から見える真っ白な肌は、時が建物の威厳をすっかり食らい尽くした証拠のよう。さながら、白骨化した物言わぬ建物の亡骸だ。
城の前に、小さな噴水のなれの果てがあるだけだ。水は枯れている。
青々と生い茂った草木と光だけが、セシルを取り囲んでいた。
そよそよと吹く風に、緑の香りと己の髪が揺れる。
人々の喧騒と文明から切り取られた、静かで幻想的な空間だ。
「まさか、天国……?」
急に空恐ろしくなったセシルは、知らず知らずのうちに後ずさっていた。
そして、ふわりと後ろに倒れそうになって、慌てて前のめりになってとどまった。
パラリと音を立てて落ちていった石ころが、足元に広がる街の中へと飲まれていく。
肩越しに見下ろした先には、街がまるで小さな丸い絨毯のように敷き詰められていた。
その真ん中にはもっと小さな鏡があった。違う、ファタル湖だ。
遊覧船ラ・プリマヴェラ号から見下ろしたときよりも小さく見える。
信じられ無さに、セシルは目線を上げる。
瞳が映したのは地平線のように散らばった白い雲と、その上を支配するどこまでも続く青のグラデーション。霞みがかった空の足元は今、等しくセシルの足元にも感じられた。そこには山並みが屋根のように連なっている。ヒンデルという名をパーシィが教えてくれたあの山脈だ。
「嘘だろ……」
なんというとんでもない一日だろう! 遊覧船に乗ったのがつい先程の出来事ということにも愕然とした。その後、パーシィとつまらない口喧嘩をし、友人に連れられてフォベトラ城へ行き。かと思いきや、友人の母に身柄を狙われたところをリアに救われた。
闇の洞窟で〈マナの歌〉を奏でたのも、さっきだ。濃密な記憶が一瞬でよぎっていく。
脚の裏から頭のてっぺんまで、悪寒がさっと走り抜けた。セシルは息を飲んだ。
「そうか! もしかして、ここが――!」
少年が手繰り寄せようとした答えが、上書きされる。
「天空城ヘオフォニア。ここが運命の魔女の住処」
柔らかで透明な、少女のようで母親のような女の声だ。あどけない少年のようでもある。
「誰? リア?」
セシルは孤島の縁から遠のいて、声の主を探した。幼なじみの少女を求めて純白の柱を覗き込むと、再び全てをかき消してしまう強い光が彼を襲った。
咄嗟に両腕で目をかばった。
音や脚の裏の触感さえ光に奪われて、時間の存在さえ疑いそうになる。
永遠のような一瞬が過ぎたあと、突然喧騒に包まれた。
その言葉は全く知らないはずなのに、なぜだかなんと言っているのかはぼんやりと解った。
セシルは、気付けば人々の間に立っていた。
先程まで枯れていた噴水にはなみなみと水が注がれ、反対に大地は黄色く砂っぽかった。
成人男性はセシルの背丈と変わらず、女性は低い。彼らの衣服は服と言うよりも、布を体に巻きつけて脱げないようにしているような簡素なものだ。顔は角ばっていて鼻は取ってつけたように大きくごつごつとしている。そんな野性的な相貌にぴったりな眉はぎょろりとした目とくっつきそうなほど近かった。癖の強い黒い髪と浅黒い肌は脂に光っていて匂いそうだ。そう思ったけれど、匂いは感じなかった。少年は小首を傾げた。教科書の絵で見たかも。
観察していると、男の一人と目があった。気まずくてセシルがすぐに視線をそらした瞬間、何者かが広場に現れた瞬間、赤子を抱いた女が体を寄せてきた。
ぎょっとしたセシルは、体をどかそうとした。
けれども、女とセシルはぶつからなかった。
黒々とした人だかりの中、触れもしなかったのに、すれ違ったのだ。
「おかしいな」
セシルは確かにそう言った。だが、その言葉は声になっていなかった。
「おまえは傍観者だよ、歌を継ぐ者よ」
その代わりとばかりに、少年の耳に、先程聴こえた謎の声が寄り添った。
周りの人々が上げる粗野な声とはまるで違う。
「ご覧。運命の魔女の物語を」
声の主を探そうとしたができなかった。それはセシルの内側から響いてきたからだ。
まるで、逃げたくても逃げられない夢の中のようだ。
声が言った通りに、セシルの瞳がある場所に焦点を合わせた。
そこには、在りし日のヘオフォニア城の姿があった。
木々は寄り添うだけで、城を覆い隠すことはない。その証拠に真っ白な外壁にはオレンジ色が全面に塗られオリーブの樹が美しく描かれているのが見えている。
その中心に据え付けられた門へと、兵士の行列が入っていく。彼らが引きつれているのは馬ではない。背にこぶのある薄茶色の毛皮を持つ生き物だ。ラクダだったっけ。セシルは咄嗟に記憶を手繰り寄せた。馬よりも鼻が大きく、睫毛も長い。
おもちゃのような鎧兜を身につけた行列が進むとにわかに歓声が上がった。
金色の金属と重たそうな織物を纏った男だ。周りを歩く兵隊よりも立派な身なりをしている。
人々がひれ伏したあたり、城の主らしい。年齢はパーシィよりも上に見えた。
顔の半分を隠すほどの髭のせいかもしれない、と、セシルは思った。
その彼の後ろから、籠が引かれている。
その中には、四枚の翼を持った何かがいた。それが彼らの獲物だったらしい。
なんだろう? たっぷりした白い毛に包まれているような。
ガタリと籠が揺れ、捕えられた生き物が柵にぶつけられた。
それを見た子どもから悲鳴が上がり、それはどんどんと波及し高まった。
すらりと伸びた肌色の両の手足を見て、瞬時に悟ったのだ。
人間だ!
人々から石を投げつけられるその生き物は、衣服もなく裸で震えている。
体の一部である白い翼で体を包み込んで、己を守ることしかできていない。
異形の者は、小さくなったまま運ばれていった。
どこからともなく小石が投げつけられると、人々は兵士に当たるのも厭わず、それに続いた。
恐怖だ。セシルはすぐに察知した。
自分たちとは異なるものに直面した恐怖が、人を支配し圧倒し、暴力に走らせていた。
大衆の暴力、残酷さに背筋が、そして身体まで凍りついたように感じる。
「オレも、ああなるんだろうか」
現代では失われた魔法を操る、ダ・マスケの人間。魔女の系譜。
パーシィがたまたま、善良な人間だっただろう。
そうでなければ、あのベラドンナのように自身の名声を高めるために利用されたに違いない。
言い知れぬ気持ちの高まりに、拳が握られる。けれどもそれは力なく、心許なく感じる。
セシルの気分がにわかに沈む。ダ・マスケでもケルムでも、セシルは異端者であった。
彼の落ちた肩に、ふわりと優しく触れるものがあった。
「優しき孤独な魔女よ。お前はもう独りではない」
声も一緒になって寄り添ってくれる。それは手のひらのように暖かかった。
「翼持つ娘の物語は孤独から始まる。名も無き彼女はこの日、異形の者として城に買われた」
「買われた……?」
未だ途切れない兵士の列を見送りながら、セシルは振り向かずに問うた。
少しずつ、この状況に順応してきたのだ。
「そうだ。珍しさから、時の王に買われた。彼には美しい息子がいた」
その声が合図だったかのように、兵士の列の真ん中に、王とまではいかないが豪奢な装いをした青年が続いた。人々よりも幾分色白で、髪の色は焼けて紅い。
「世継ぎの王子の頼みで、娘を買ったのだ」
女の声は、彼女が言うように傍観者然としていた。
まるで子どもに物語を聞かせる母親のそれのようだと、セシルはぼんやり思った。
「そして王子と娘は、お互いにひと目で恋に落ちてしまった」
そして、次のページがめくられた。そう表現するのが一番しっくりきた。
それというのも、セシルが身じろぎしていないのに、世界の輪郭が一瞬で溶けだして新たな世界を生み出したからだ。
色は形に、形は輪郭を持ち次第に固まって、いつかのある日を見せた。
広い部屋には温室のように、豊かな緑が満ち満ちている。
部屋の真ん中には、巨大な籠があった。
そこにはやわらかそうなラグが敷き詰められ、クッションが隙間なく置かれている。
一刻前に、娘が入れられていたものとは比べ物にならない。贅沢な鳥籠と言った風貌だ。
籠の中に傷だらけの娘はおらず、金の糸で刺繍を施された真っ白なローブを着た天使がいた。
ただ、セシルが物語に聞いてきた天使とは異なり、彼女は四枚の翼を持っていた。
安らかな金色の世界で、空と同じ色の髪を梳く乙女は、幸福そうに見えた。
彼女はセシルに向かって照れくさそうに微笑むと、ビー玉のように薄青をした瞳を閉じて、口を開いた。てっきり話すのかと思ったが、違った。
高きも低きも自由に跳躍し、それでいて夢見るように甘やかなソプラノは、歌姫のそれだ。
「……〈マナの歌〉……!」
白くて折れてしまいそうな喉から聴こえてきたのは、セシルのよく知った歌だった。
光を愛するための歌は〈マドリガル〉である。
「娘は王子のために歌を歌って聞かせた。そして、名を授かった」
しばしの静寂ののち、セシルの背後からたった一つの盛大な拍手が沸き起こった。
振り向いて見たのは、瞳をキラキラと輝かせる男が立ち上がっているところだった。
彼は少年を通り抜けて、娘の傍に腰かけた。肩を抱き寄せるでも、くちづけるでもない。
ただ、とろけそうなほどうっとりと瞳と瞳で見つめ合っている。
ああ。あの顔は知っている。セシルは少しの羨ましさと申し訳なさを思った。
あれは心から愛する人を見つめる顔だ。
思いあう男女にセシルが気恥ずかしさでいたたまれなくなったとき、彼の口が言葉を紡いだ。
「『君は僕の運命の女《ひと》。運命の魔女、フォルトゥーネ。僕の幸運そのもの』」
たくましい喉から聴こえたのは、女のアルトだった。
そして世界は、再び輪郭を失くした。
麗らかな金色の午後がどんどんと濁って、赤や黒などがぼとりと無遠慮に落とされる。
淡く朗らかな色合いが禍々しくひずんでいく。蠢く色が、セシルの平衡感覚を失わせようとする。色に合わせて、匂いも、言葉も、あらゆるものが無造作にかきまぜられて、不純物のままぶつかってくる。精製されない情報は、ただの暴力だった。
セシルは景色にすっかり酔ってしゃがみこんでしまった。
すると、大地の感覚が手のひらに合った。もちろん膝にもある。
見下ろした四肢は暗闇に隠れている。だが、一瞬で赤く照らし出された。
少年が驚いて顎を上げると、ヘオフォニアが真っ赤に燃えあがっていた。夜闇を炎が切り裂いている。悲鳴は後を絶たず、人が人を斬り、殴っては放り投げている。
上から火の粉と共に降ってきたのは槍だ。その後を追うようにして、なにか重たいものがどさりと落ちてきた。あたりには動かなくなった人間が、人としての尊厳を踏みにじられて放置されている。首があれば、まだいい方だ。だからセシルも、わざわざ確認しなかった。
「なんだよ……これ……!」
セシルの喉にこみ上げてくるのは、恐ろしさだけではなかった。
残虐な行為に燃える正義と、あっけなく生を終わらせられた無念が彼の体を震えさせる。
例えそれが見ず知らずの他人であっても、悪逆非道は許せない。
「何の前触れもなく、敵国に攻め入られた。娘は王子の子を産んだばかりだった」
無感動な説明を耳に、少年はたまらず駆けだした。
炎の舌が壁という壁をなめている隙間を縫って、走った。
恐ろしさはあった。現に、かつらと少女の服という、火の好む装いをしていたから、なおのこと怖かった。だからこそ、とセシルは気持ちを強く持った。
アルプに燃やされた髪だけで、あんなに怖かったんだ。フォルトゥーネはもっと怖いはずだ。
セシルが息をからしてたどり着いたのは、あの優しい午後があった温室だった。
今や静けさはぱちぱちと炎の爆ぜる音で消され、植物は炎に根負けして、命が尽きるのをじっと待っている。
巨大な鳥籠の中には、フォルトゥーネと王子とが寄り添っていた。
「フォル……!」
助けようと一歩進み出たセシルの目の前に、燃え盛る柱が倒れてきた。
重たいそれは、どしんと床を鳴らして火の粉を撒き散らす。
「どうかこの子を」
天使フォルトゥーネは四枚あるうちの二枚をもぎ取って、王子に差し出した。
王子の腕には、泣き叫ぶ赤ん坊がいる。
彼は必死に愛する女を説き伏せていたが、彼女のこの言葉でついに諦めた。
「大丈夫。わたしは空に、あなたは地上に。生きる場所が変わるだけ。いつか一緒にいられる日を夢見て。さあ」
王子が涙ながらに頷くと、光り輝くフォルトゥーネの翼を手にした。
それは煌々と燃える炎よりも眩く、簡単にセシルの視力を奪った。
「そして私はこの城と共に、敵を乗せたままぐんぐんと空を登った。集められし〈マナの柱〉の力で浮かべたのだ。やがてここはヘオフォニアと呼ばれるようになった。悲しみの涙が炎を消し、人を消し、人々の涙だけが残った」
白に染まった世界で、女の声が揺り籠のようにセシルを包む。
「わたしはこっそり、子どもに歌を教えた。時を待ち、夫ともども呼び寄せた。わたしの翼を受け継いだ子――魔女の子らと暮らすために。そして、夫の願いを叶えた。このファタル湖を守るべく新たな国を建立することを」
ああ、そうか。ファタル湖はフォルトゥーネの涙、国は夫の忘れ形見なんだ。
「お帰り、我が子よ。〈地上の翼〉持つ魔女の子よ」
セシルは眠りの淵で、語る声――フォルトゥーネの声に耳を傾けた。
ゆっくりと霧が晴れるように、光が音もなく引いた。セシルはもう驚かなかった。
そこは、遙かな過去に燃え上がった城の温室だった。
何年、いや、何千年経ったかは知らないが、今は緑と蔦とに支配されている。
あたりには、セシルと同じくらいの娘たちの彫刻がいくつも並んでいる。
娘たちは、まるで本当に生きているかのように精巧に彫られている。
素材は光を内包した石だ。触れずともわかる。これは魔法に満ちているマナの結晶だ。
数え切れない彫刻の奥、セシルの正面に、翼をもつ女が背を向けて佇んでいた。
長い髪が宙を泳いでいる。
あの亜麻色の髪が、陽に透けて薔薇色に輝くのをセシルはよく知っていた。
「フォルトゥーネ。あなたが、オレの御先祖様ってこと?」
女は背を向けたままくすりと笑った。
「そうよ。可愛い子」
「リアは? リアはどこ?」
「ここにいるじゃない」
彼女はふわりと飛び立って、ある彫刻のもとに降り立ち、寄り添った。
そこに、同じ顔が二つ並んだ。
片方は美しいエメラルド色を、片方はうっすらと世界に溶ける透明さを。
「本当に、来ちゃったね、セシル」
二枚の翼と亜麻色の髪を持つ乙女が、儚げに微笑んだ。
「やっと会えたね」
まるで朝の日差しを頭から被った気分で、セシルはゆっくりと慎重に瞳を開いた。
少年が碧の瞳をしばたたかせると、先程の青と闇に支配された空間とは真逆の、水色と金色の世界がそこに広がっていた。徐々に目が慣れてくると、足元を包む緑色の輪郭がだんだんとくっきりしてきた。黒光りする〈マナの柱〉はどこにも見当たらない。
その場で足踏みをしてみると、ふかふかの雑草のクッションの下にしっかりと土を感じた。
どうやら雲の上ではないらしい、とセシルはほっとした。
巻き起こった優しい旋風にさそわれ、少年は顔を上げた。
そこには、緑に包まれた城が横たわっていた。
「……お城……?」
発した自分の声が一人分――単旋律だったので、少し味気ない。セシルが歌うときには決まってマナの倍音が肉声に伴うものだが、先程の二重唱は段違いのことが起こった。倍音どころではない。まるでセシルとリアの二人がソリストに迎えられたオーケストラのようだった。
けれども、両の耳にはまだちらちらと〈マナの歌〉の残響が残っている感じがする。耳鳴りだろうか。そう思って澄ましてみると、それは小さな小さなささやき声だった。
喩えるなら、蟻同士が交わす会話のように微かで、けれども確かに存在している。
もしかしたら、花々が頭を寄せ合って秘密の話をしているのかもしれない。
気付けば、セシルの周りに細かな光の粒が匂うように群れていた。
だがそれは一瞬で霧散し、清い空気のなかに溶けて消えた。恥ずかしかったのだろうか。
少し残念に思いながら見回すと、光の群れは草の上や噴水の周り、セシルの肩あたりなど、そこかしこに溢れていた。まるで落ちてこない雪のようだ、と少年は思った。
目の前で深々と木々に抱かれている城、その体はほとんど見えない。緑の羽根布団を首まで被って長い時を眠り続けてきたように見える。生い茂った枝葉の隙間から見える真っ白な肌は、時が建物の威厳をすっかり食らい尽くした証拠のよう。さながら、白骨化した物言わぬ建物の亡骸だ。
城の前に、小さな噴水のなれの果てがあるだけだ。水は枯れている。
青々と生い茂った草木と光だけが、セシルを取り囲んでいた。
そよそよと吹く風に、緑の香りと己の髪が揺れる。
人々の喧騒と文明から切り取られた、静かで幻想的な空間だ。
「まさか、天国……?」
急に空恐ろしくなったセシルは、知らず知らずのうちに後ずさっていた。
そして、ふわりと後ろに倒れそうになって、慌てて前のめりになってとどまった。
パラリと音を立てて落ちていった石ころが、足元に広がる街の中へと飲まれていく。
肩越しに見下ろした先には、街がまるで小さな丸い絨毯のように敷き詰められていた。
その真ん中にはもっと小さな鏡があった。違う、ファタル湖だ。
遊覧船ラ・プリマヴェラ号から見下ろしたときよりも小さく見える。
信じられ無さに、セシルは目線を上げる。
瞳が映したのは地平線のように散らばった白い雲と、その上を支配するどこまでも続く青のグラデーション。霞みがかった空の足元は今、等しくセシルの足元にも感じられた。そこには山並みが屋根のように連なっている。ヒンデルという名をパーシィが教えてくれたあの山脈だ。
「嘘だろ……」
なんというとんでもない一日だろう! 遊覧船に乗ったのがつい先程の出来事ということにも愕然とした。その後、パーシィとつまらない口喧嘩をし、友人に連れられてフォベトラ城へ行き。かと思いきや、友人の母に身柄を狙われたところをリアに救われた。
闇の洞窟で〈マナの歌〉を奏でたのも、さっきだ。濃密な記憶が一瞬でよぎっていく。
脚の裏から頭のてっぺんまで、悪寒がさっと走り抜けた。セシルは息を飲んだ。
「そうか! もしかして、ここが――!」
少年が手繰り寄せようとした答えが、上書きされる。
「天空城ヘオフォニア。ここが運命の魔女の住処」
柔らかで透明な、少女のようで母親のような女の声だ。あどけない少年のようでもある。
「誰? リア?」
セシルは孤島の縁から遠のいて、声の主を探した。幼なじみの少女を求めて純白の柱を覗き込むと、再び全てをかき消してしまう強い光が彼を襲った。
咄嗟に両腕で目をかばった。
音や脚の裏の触感さえ光に奪われて、時間の存在さえ疑いそうになる。
永遠のような一瞬が過ぎたあと、突然喧騒に包まれた。
その言葉は全く知らないはずなのに、なぜだかなんと言っているのかはぼんやりと解った。
セシルは、気付けば人々の間に立っていた。
先程まで枯れていた噴水にはなみなみと水が注がれ、反対に大地は黄色く砂っぽかった。
成人男性はセシルの背丈と変わらず、女性は低い。彼らの衣服は服と言うよりも、布を体に巻きつけて脱げないようにしているような簡素なものだ。顔は角ばっていて鼻は取ってつけたように大きくごつごつとしている。そんな野性的な相貌にぴったりな眉はぎょろりとした目とくっつきそうなほど近かった。癖の強い黒い髪と浅黒い肌は脂に光っていて匂いそうだ。そう思ったけれど、匂いは感じなかった。少年は小首を傾げた。教科書の絵で見たかも。
観察していると、男の一人と目があった。気まずくてセシルがすぐに視線をそらした瞬間、何者かが広場に現れた瞬間、赤子を抱いた女が体を寄せてきた。
ぎょっとしたセシルは、体をどかそうとした。
けれども、女とセシルはぶつからなかった。
黒々とした人だかりの中、触れもしなかったのに、すれ違ったのだ。
「おかしいな」
セシルは確かにそう言った。だが、その言葉は声になっていなかった。
「おまえは傍観者だよ、歌を継ぐ者よ」
その代わりとばかりに、少年の耳に、先程聴こえた謎の声が寄り添った。
周りの人々が上げる粗野な声とはまるで違う。
「ご覧。運命の魔女の物語を」
声の主を探そうとしたができなかった。それはセシルの内側から響いてきたからだ。
まるで、逃げたくても逃げられない夢の中のようだ。
声が言った通りに、セシルの瞳がある場所に焦点を合わせた。
そこには、在りし日のヘオフォニア城の姿があった。
木々は寄り添うだけで、城を覆い隠すことはない。その証拠に真っ白な外壁にはオレンジ色が全面に塗られオリーブの樹が美しく描かれているのが見えている。
その中心に据え付けられた門へと、兵士の行列が入っていく。彼らが引きつれているのは馬ではない。背にこぶのある薄茶色の毛皮を持つ生き物だ。ラクダだったっけ。セシルは咄嗟に記憶を手繰り寄せた。馬よりも鼻が大きく、睫毛も長い。
おもちゃのような鎧兜を身につけた行列が進むとにわかに歓声が上がった。
金色の金属と重たそうな織物を纏った男だ。周りを歩く兵隊よりも立派な身なりをしている。
人々がひれ伏したあたり、城の主らしい。年齢はパーシィよりも上に見えた。
顔の半分を隠すほどの髭のせいかもしれない、と、セシルは思った。
その彼の後ろから、籠が引かれている。
その中には、四枚の翼を持った何かがいた。それが彼らの獲物だったらしい。
なんだろう? たっぷりした白い毛に包まれているような。
ガタリと籠が揺れ、捕えられた生き物が柵にぶつけられた。
それを見た子どもから悲鳴が上がり、それはどんどんと波及し高まった。
すらりと伸びた肌色の両の手足を見て、瞬時に悟ったのだ。
人間だ!
人々から石を投げつけられるその生き物は、衣服もなく裸で震えている。
体の一部である白い翼で体を包み込んで、己を守ることしかできていない。
異形の者は、小さくなったまま運ばれていった。
どこからともなく小石が投げつけられると、人々は兵士に当たるのも厭わず、それに続いた。
恐怖だ。セシルはすぐに察知した。
自分たちとは異なるものに直面した恐怖が、人を支配し圧倒し、暴力に走らせていた。
大衆の暴力、残酷さに背筋が、そして身体まで凍りついたように感じる。
「オレも、ああなるんだろうか」
現代では失われた魔法を操る、ダ・マスケの人間。魔女の系譜。
パーシィがたまたま、善良な人間だっただろう。
そうでなければ、あのベラドンナのように自身の名声を高めるために利用されたに違いない。
言い知れぬ気持ちの高まりに、拳が握られる。けれどもそれは力なく、心許なく感じる。
セシルの気分がにわかに沈む。ダ・マスケでもケルムでも、セシルは異端者であった。
彼の落ちた肩に、ふわりと優しく触れるものがあった。
「優しき孤独な魔女よ。お前はもう独りではない」
声も一緒になって寄り添ってくれる。それは手のひらのように暖かかった。
「翼持つ娘の物語は孤独から始まる。名も無き彼女はこの日、異形の者として城に買われた」
「買われた……?」
未だ途切れない兵士の列を見送りながら、セシルは振り向かずに問うた。
少しずつ、この状況に順応してきたのだ。
「そうだ。珍しさから、時の王に買われた。彼には美しい息子がいた」
その声が合図だったかのように、兵士の列の真ん中に、王とまではいかないが豪奢な装いをした青年が続いた。人々よりも幾分色白で、髪の色は焼けて紅い。
「世継ぎの王子の頼みで、娘を買ったのだ」
女の声は、彼女が言うように傍観者然としていた。
まるで子どもに物語を聞かせる母親のそれのようだと、セシルはぼんやり思った。
「そして王子と娘は、お互いにひと目で恋に落ちてしまった」
そして、次のページがめくられた。そう表現するのが一番しっくりきた。
それというのも、セシルが身じろぎしていないのに、世界の輪郭が一瞬で溶けだして新たな世界を生み出したからだ。
色は形に、形は輪郭を持ち次第に固まって、いつかのある日を見せた。
広い部屋には温室のように、豊かな緑が満ち満ちている。
部屋の真ん中には、巨大な籠があった。
そこにはやわらかそうなラグが敷き詰められ、クッションが隙間なく置かれている。
一刻前に、娘が入れられていたものとは比べ物にならない。贅沢な鳥籠と言った風貌だ。
籠の中に傷だらけの娘はおらず、金の糸で刺繍を施された真っ白なローブを着た天使がいた。
ただ、セシルが物語に聞いてきた天使とは異なり、彼女は四枚の翼を持っていた。
安らかな金色の世界で、空と同じ色の髪を梳く乙女は、幸福そうに見えた。
彼女はセシルに向かって照れくさそうに微笑むと、ビー玉のように薄青をした瞳を閉じて、口を開いた。てっきり話すのかと思ったが、違った。
高きも低きも自由に跳躍し、それでいて夢見るように甘やかなソプラノは、歌姫のそれだ。
「……〈マナの歌〉……!」
白くて折れてしまいそうな喉から聴こえてきたのは、セシルのよく知った歌だった。
光を愛するための歌は〈マドリガル〉である。
「娘は王子のために歌を歌って聞かせた。そして、名を授かった」
しばしの静寂ののち、セシルの背後からたった一つの盛大な拍手が沸き起こった。
振り向いて見たのは、瞳をキラキラと輝かせる男が立ち上がっているところだった。
彼は少年を通り抜けて、娘の傍に腰かけた。肩を抱き寄せるでも、くちづけるでもない。
ただ、とろけそうなほどうっとりと瞳と瞳で見つめ合っている。
ああ。あの顔は知っている。セシルは少しの羨ましさと申し訳なさを思った。
あれは心から愛する人を見つめる顔だ。
思いあう男女にセシルが気恥ずかしさでいたたまれなくなったとき、彼の口が言葉を紡いだ。
「『君は僕の運命の女《ひと》。運命の魔女、フォルトゥーネ。僕の幸運そのもの』」
たくましい喉から聴こえたのは、女のアルトだった。
そして世界は、再び輪郭を失くした。
麗らかな金色の午後がどんどんと濁って、赤や黒などがぼとりと無遠慮に落とされる。
淡く朗らかな色合いが禍々しくひずんでいく。蠢く色が、セシルの平衡感覚を失わせようとする。色に合わせて、匂いも、言葉も、あらゆるものが無造作にかきまぜられて、不純物のままぶつかってくる。精製されない情報は、ただの暴力だった。
セシルは景色にすっかり酔ってしゃがみこんでしまった。
すると、大地の感覚が手のひらに合った。もちろん膝にもある。
見下ろした四肢は暗闇に隠れている。だが、一瞬で赤く照らし出された。
少年が驚いて顎を上げると、ヘオフォニアが真っ赤に燃えあがっていた。夜闇を炎が切り裂いている。悲鳴は後を絶たず、人が人を斬り、殴っては放り投げている。
上から火の粉と共に降ってきたのは槍だ。その後を追うようにして、なにか重たいものがどさりと落ちてきた。あたりには動かなくなった人間が、人としての尊厳を踏みにじられて放置されている。首があれば、まだいい方だ。だからセシルも、わざわざ確認しなかった。
「なんだよ……これ……!」
セシルの喉にこみ上げてくるのは、恐ろしさだけではなかった。
残虐な行為に燃える正義と、あっけなく生を終わらせられた無念が彼の体を震えさせる。
例えそれが見ず知らずの他人であっても、悪逆非道は許せない。
「何の前触れもなく、敵国に攻め入られた。娘は王子の子を産んだばかりだった」
無感動な説明を耳に、少年はたまらず駆けだした。
炎の舌が壁という壁をなめている隙間を縫って、走った。
恐ろしさはあった。現に、かつらと少女の服という、火の好む装いをしていたから、なおのこと怖かった。だからこそ、とセシルは気持ちを強く持った。
アルプに燃やされた髪だけで、あんなに怖かったんだ。フォルトゥーネはもっと怖いはずだ。
セシルが息をからしてたどり着いたのは、あの優しい午後があった温室だった。
今や静けさはぱちぱちと炎の爆ぜる音で消され、植物は炎に根負けして、命が尽きるのをじっと待っている。
巨大な鳥籠の中には、フォルトゥーネと王子とが寄り添っていた。
「フォル……!」
助けようと一歩進み出たセシルの目の前に、燃え盛る柱が倒れてきた。
重たいそれは、どしんと床を鳴らして火の粉を撒き散らす。
「どうかこの子を」
天使フォルトゥーネは四枚あるうちの二枚をもぎ取って、王子に差し出した。
王子の腕には、泣き叫ぶ赤ん坊がいる。
彼は必死に愛する女を説き伏せていたが、彼女のこの言葉でついに諦めた。
「大丈夫。わたしは空に、あなたは地上に。生きる場所が変わるだけ。いつか一緒にいられる日を夢見て。さあ」
王子が涙ながらに頷くと、光り輝くフォルトゥーネの翼を手にした。
それは煌々と燃える炎よりも眩く、簡単にセシルの視力を奪った。
「そして私はこの城と共に、敵を乗せたままぐんぐんと空を登った。集められし〈マナの柱〉の力で浮かべたのだ。やがてここはヘオフォニアと呼ばれるようになった。悲しみの涙が炎を消し、人を消し、人々の涙だけが残った」
白に染まった世界で、女の声が揺り籠のようにセシルを包む。
「わたしはこっそり、子どもに歌を教えた。時を待ち、夫ともども呼び寄せた。わたしの翼を受け継いだ子――魔女の子らと暮らすために。そして、夫の願いを叶えた。このファタル湖を守るべく新たな国を建立することを」
ああ、そうか。ファタル湖はフォルトゥーネの涙、国は夫の忘れ形見なんだ。
「お帰り、我が子よ。〈地上の翼〉持つ魔女の子よ」
セシルは眠りの淵で、語る声――フォルトゥーネの声に耳を傾けた。
ゆっくりと霧が晴れるように、光が音もなく引いた。セシルはもう驚かなかった。
そこは、遙かな過去に燃え上がった城の温室だった。
何年、いや、何千年経ったかは知らないが、今は緑と蔦とに支配されている。
あたりには、セシルと同じくらいの娘たちの彫刻がいくつも並んでいる。
娘たちは、まるで本当に生きているかのように精巧に彫られている。
素材は光を内包した石だ。触れずともわかる。これは魔法に満ちているマナの結晶だ。
数え切れない彫刻の奥、セシルの正面に、翼をもつ女が背を向けて佇んでいた。
長い髪が宙を泳いでいる。
あの亜麻色の髪が、陽に透けて薔薇色に輝くのをセシルはよく知っていた。
「フォルトゥーネ。あなたが、オレの御先祖様ってこと?」
女は背を向けたままくすりと笑った。
「そうよ。可愛い子」
「リアは? リアはどこ?」
「ここにいるじゃない」
彼女はふわりと飛び立って、ある彫刻のもとに降り立ち、寄り添った。
そこに、同じ顔が二つ並んだ。
片方は美しいエメラルド色を、片方はうっすらと世界に溶ける透明さを。
「本当に、来ちゃったね、セシル」
二枚の翼と亜麻色の髪を持つ乙女が、儚げに微笑んだ。
「やっと会えたね」
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