1 / 1
もう一度、恋をしませんか?
しおりを挟む
出会ったのは大学1年生の時。新歓コンパで出会った。長い髪が魅力的で、一目惚れだったと思う。笑うと見える八重歯が可愛くて好きだった。あの頃に戻りたい、なんて言ったら、君は笑うかな。
「…おい」
「え?あ~、お茶ね。はいはい」
そう言って立ち上がる文子を辰彦は盗むように見た。「おい」の一言で何をしてほしいのかわかってしまう。今まで当たり前だと思っていたそんなことが、本当はすごいことなのだと最近ようやく気付いた。
「はい、どうぞ」
ソファーに座る辰彦に手渡すと、文子はテーブルに座り直し、テレビに集中した。辰彦は手の中のお茶を見る。香りのいいそれは自分でいれるときと味が全く違う。それも最近気づいたことだ。
辰彦は60歳を迎え、長年勤めていた会社を定年退職した。辰彦と文子は2人の子宝に恵まれた。その子供も30歳、27歳と立派に大人になった。27歳の次男はつい最近までこの家で一緒に住んでいたが、東京に転勤となったため、今はアパートを借りて一人暮らしをしている。立派に巣立って行った子供たちと反対に、自分はこの家に戻ってきたのだなと辰彦は思った。
辰彦は、28歳で結婚し、それからずっと仕事一筋だった。家の事も、子供の事もすべて文子に任せた。子供の行事に出ることは指で数えられるほどしかなく、家族旅行に連れていくこともあまりなかった。そうやって家庭を犠牲にして仕事をした結果、退職金はそれなりの額であった。だから、辰彦は再就職という道を選ばず、家にいる。文子と2人で。文子は23歳で結婚してからずっと専業主婦をしている。今は週2回のレジ打ちのパート仕事があるが、基本家にいるのは変わらない。
子供たちが居なくなった家はしんと静かで、静かなこの家で妻と何を話していいのか辰彦にはわからなかった。以前に比べ、交わし合う言葉数も減った。それも退職して初めて気づいたことである。家の相談がなくなり、子供の相談がなくなり、そして文子からのダメ出しもなくなった。以前であればお茶を頼んでも「自分でいれたらいいじゃないの」という小言がついていたが、それもいつの間にかない。
今時珍しいほどの亭主関白。その自覚もあった。たぶん、自覚がある分、他よりましである。ましではあるがどうしても頭をよぎるのは「熟年離婚」の文字だった。
「…それ面白いか?」
「え?テレビの事?」
「ああ」
「普通かな」
「…そうか」
途切れる会話。こちらを見ない文子に辰彦は危機感を覚える。
「か、母さん」
「ん?」
「き、今日…その…映画でも見に行かないか?」
「……は?」
心底「何を言っているんだ?」という表情で文子が辰彦を見る。文子の冷たい視線を耐えながら辰彦は慣れない笑みを浮かべた。
「いや、久しぶりにいいかな、なんて…思って」
尻すぼみになるのは仕方がない。どこか落ち込んだような辰彦に、文子は少し考えテレビの電源を切った。ゆっくりと歩き、辰彦と同じソファーに少しだけ距離を取り座る。
「…母さん?」
「何をしたの?」
怒っているわけでなく、どこか呆れているような文子の声色に辰彦は一瞬理解できなかった。
「え?」
「借金…じゃないよね?それだけは本当にやめてよ。…浮気、とか言う?」
「う、浮気?なわけないだろう!」
「違うか。…じゃあ、何?」
「…映画に誘っただけだろ」
気を落とすように言う辰彦を文子はしばらく眺めていた。そして安心したように息を吐く。
「とりあえず嘘は言ってなさそうだね」
「……そんなにおかしいか?俺がお前を映画に誘うの」
「う~ん、そうだね。浮気って言われた方が納得できるくらいには?」
「……」
「で、なんでそんなこと言い出したわけ?」
辰彦は文子を見た。その様子は母親がいたずらをした子供の言い訳を聞いているようでどこか情けなくなる。
「文子」
「……え?」
久しぶりに名前を呼んだ。一番上の子供が生まれて30年、ずっと「母さん」「お前」と呼んできた。けれど、「あやこ」と口から出たその言葉はとても綺麗だなと辰彦は思った。
「文子」
「な、何、急に」
突然の名前呼びに文子はわかりやすく動揺する。どこか頬が赤い気がするのは気のせいだろうか。
「……お前は知らないかもしれないが…俺はお前が好きなんだよ」
「…」
「だから、これからだってお前の一番傍にいたいんだ。死ぬまでずっと」
「な、に…言ってるの?…健康診断の結果、悪かった?」
「いや、別に。ちょっと高血圧だけど、問題ない」
「じゃあ、…なんで急にそんなこと言い出したわけ?」
「2人のこの家に、ちょっと……浮かれてるだけだ」
「…」
辰彦の言葉に文子は目を丸くする。その反応に、そうだろうなと辰彦は思った。熟年離婚の危機さえある自分たちの状況と今の辰彦の言葉が合わないことは理解している。理解しているが、本音だった。この家を支え、子供たちを立派に育ててくれた文子に辰彦は心から感謝していた。そしてそれと同時に、一度は家族愛になった気持ちがもう一度燃え上がっていくのを感じていた。手を繋ぎたくて、キスをしたかった。いい年の親父が何を考えているんだ、と笑われるなと自嘲しながらも、そう思う。
めったに笑わなくなった文子。事務的な会話しかないことが悲しかった。
好きになった大学時代に戻って、文子ともう一度恋をしたい。辰彦はそう思った。
「…で?映画行くのか?」
「いや、行ってもいいけど」
「じゃあ、決定な。ほら、支度しろ」
「……そういう所、大学の時から変わってないんだから」
呆れながらも文子は小さく笑う。八重歯が少し見えて、その笑顔が好きなんだ、そう思いながら辰彦は支度を急いだ。
「…おい」
「え?あ~、お茶ね。はいはい」
そう言って立ち上がる文子を辰彦は盗むように見た。「おい」の一言で何をしてほしいのかわかってしまう。今まで当たり前だと思っていたそんなことが、本当はすごいことなのだと最近ようやく気付いた。
「はい、どうぞ」
ソファーに座る辰彦に手渡すと、文子はテーブルに座り直し、テレビに集中した。辰彦は手の中のお茶を見る。香りのいいそれは自分でいれるときと味が全く違う。それも最近気づいたことだ。
辰彦は60歳を迎え、長年勤めていた会社を定年退職した。辰彦と文子は2人の子宝に恵まれた。その子供も30歳、27歳と立派に大人になった。27歳の次男はつい最近までこの家で一緒に住んでいたが、東京に転勤となったため、今はアパートを借りて一人暮らしをしている。立派に巣立って行った子供たちと反対に、自分はこの家に戻ってきたのだなと辰彦は思った。
辰彦は、28歳で結婚し、それからずっと仕事一筋だった。家の事も、子供の事もすべて文子に任せた。子供の行事に出ることは指で数えられるほどしかなく、家族旅行に連れていくこともあまりなかった。そうやって家庭を犠牲にして仕事をした結果、退職金はそれなりの額であった。だから、辰彦は再就職という道を選ばず、家にいる。文子と2人で。文子は23歳で結婚してからずっと専業主婦をしている。今は週2回のレジ打ちのパート仕事があるが、基本家にいるのは変わらない。
子供たちが居なくなった家はしんと静かで、静かなこの家で妻と何を話していいのか辰彦にはわからなかった。以前に比べ、交わし合う言葉数も減った。それも退職して初めて気づいたことである。家の相談がなくなり、子供の相談がなくなり、そして文子からのダメ出しもなくなった。以前であればお茶を頼んでも「自分でいれたらいいじゃないの」という小言がついていたが、それもいつの間にかない。
今時珍しいほどの亭主関白。その自覚もあった。たぶん、自覚がある分、他よりましである。ましではあるがどうしても頭をよぎるのは「熟年離婚」の文字だった。
「…それ面白いか?」
「え?テレビの事?」
「ああ」
「普通かな」
「…そうか」
途切れる会話。こちらを見ない文子に辰彦は危機感を覚える。
「か、母さん」
「ん?」
「き、今日…その…映画でも見に行かないか?」
「……は?」
心底「何を言っているんだ?」という表情で文子が辰彦を見る。文子の冷たい視線を耐えながら辰彦は慣れない笑みを浮かべた。
「いや、久しぶりにいいかな、なんて…思って」
尻すぼみになるのは仕方がない。どこか落ち込んだような辰彦に、文子は少し考えテレビの電源を切った。ゆっくりと歩き、辰彦と同じソファーに少しだけ距離を取り座る。
「…母さん?」
「何をしたの?」
怒っているわけでなく、どこか呆れているような文子の声色に辰彦は一瞬理解できなかった。
「え?」
「借金…じゃないよね?それだけは本当にやめてよ。…浮気、とか言う?」
「う、浮気?なわけないだろう!」
「違うか。…じゃあ、何?」
「…映画に誘っただけだろ」
気を落とすように言う辰彦を文子はしばらく眺めていた。そして安心したように息を吐く。
「とりあえず嘘は言ってなさそうだね」
「……そんなにおかしいか?俺がお前を映画に誘うの」
「う~ん、そうだね。浮気って言われた方が納得できるくらいには?」
「……」
「で、なんでそんなこと言い出したわけ?」
辰彦は文子を見た。その様子は母親がいたずらをした子供の言い訳を聞いているようでどこか情けなくなる。
「文子」
「……え?」
久しぶりに名前を呼んだ。一番上の子供が生まれて30年、ずっと「母さん」「お前」と呼んできた。けれど、「あやこ」と口から出たその言葉はとても綺麗だなと辰彦は思った。
「文子」
「な、何、急に」
突然の名前呼びに文子はわかりやすく動揺する。どこか頬が赤い気がするのは気のせいだろうか。
「……お前は知らないかもしれないが…俺はお前が好きなんだよ」
「…」
「だから、これからだってお前の一番傍にいたいんだ。死ぬまでずっと」
「な、に…言ってるの?…健康診断の結果、悪かった?」
「いや、別に。ちょっと高血圧だけど、問題ない」
「じゃあ、…なんで急にそんなこと言い出したわけ?」
「2人のこの家に、ちょっと……浮かれてるだけだ」
「…」
辰彦の言葉に文子は目を丸くする。その反応に、そうだろうなと辰彦は思った。熟年離婚の危機さえある自分たちの状況と今の辰彦の言葉が合わないことは理解している。理解しているが、本音だった。この家を支え、子供たちを立派に育ててくれた文子に辰彦は心から感謝していた。そしてそれと同時に、一度は家族愛になった気持ちがもう一度燃え上がっていくのを感じていた。手を繋ぎたくて、キスをしたかった。いい年の親父が何を考えているんだ、と笑われるなと自嘲しながらも、そう思う。
めったに笑わなくなった文子。事務的な会話しかないことが悲しかった。
好きになった大学時代に戻って、文子ともう一度恋をしたい。辰彦はそう思った。
「…で?映画行くのか?」
「いや、行ってもいいけど」
「じゃあ、決定な。ほら、支度しろ」
「……そういう所、大学の時から変わってないんだから」
呆れながらも文子は小さく笑う。八重歯が少し見えて、その笑顔が好きなんだ、そう思いながら辰彦は支度を急いだ。
0
お気に入りに追加
25
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
私の隣は彼の場所
はるきりょう
恋愛
「佐々木を見返したくないの?」
里香の言葉に心が動く。見返したい。見返してやりたい。あの嘲笑うかのような笑みを崩してやりたい。
あの、林だ。不良で、顔立ちがよくて、家柄もいい。そんな彼が遊んでいないわけがない。少しくらいもてあそんでもいいだろ。そもそも、本当に私を好きかもわからない。一か八かの賭け。
「私、告白する!」
思わずそう宣言していた。
※小説家になろうサイト様にも掲載していあります。(一部修正あり)
それでもやっぱり、君が好き
はるきりょう
恋愛
どうして好きだという想いはあるのに、言葉にできなくなるんだろう。
どうして手を繋ぐだけで精いっぱいだったのに、いろんなことに慣れてしまったんだろう。
胸が高鳴って苦しくて、そんな想いはいつ消えてしまったのかな。
愛しているなら、愛してよ!
はるきりょう
恋愛
※部活一筋の彼氏と、その彼女の話。
そう言って紗希は笑った。そして思う。笑顔を作るのが上手くなったなと。
けれどきっとはじめはそんなこと気づいてくれない。こっちを見てはくれないのだから。
はじめの視線に入るには、入るように自分が動かなくてはならない。彼からこちらを見てくれることはないのだ。
それが当たり前だった。けれど、それで「恋人」と呼べるのだろうか。
きゅんきゅんさせて
はるきりょう
恋愛
「何って、小説だよ!この恋愛小説有名なのに知らないの?」
本の表紙を見せながらジェニファーは多少興奮気味にそう伝える。けれどレオナルドは興味なさそうに表紙を一瞥しただけだった。
「知らないよ、恋愛小説なんて。経済とか政治の本しか読まないからね、俺は」
「なんで!読んだ方がいいよ!キュンキュンするから!
「キュンキュン、ね」
「もう、この切なくて甘い感じがもう、ほんと、キュンキュンするの。本当に格好いいし!」
「キュンキュンさせればいいんだろ?」
「え?」
レオナルドの言葉の意味が分からず、ジェニファーは彼を見る。気付けば想像よりも近くにレオナルドの顔があった。
「レ、レオナルド…?」
「レニー、だろ?」
※小説家になろうサイト様でも掲載しています。
貴方といると泣きそうです。
はるきりょう
恋愛
「I love youを訳すならなんて訳す?」
「…あなたといると泣きそうです?」
好き、なんて戯言がちょうどいい。そんな関係が楽だ。本気の言葉などいらない。寂しい時に、一緒に夜を過ごしてくれる人がいればいい。一番である必要なんてないのだから。
前書き編集
好きになったのは、最低な人でした。
はるきりょう
恋愛
彼は有名だ。
『橋元譲は、誰の告白も拒まない』
数々の女がその噂に便乗し、その噂が真実だと証明した。
それでも友香は泣きそうになった。「いいよ」と言われて。だってずっと見ていた。この高校に入って2年間ずっと。
※小説家になろうサイト様に掲載しています。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
ほのぼのしました💓ただ、夫が大学1年のとき新歓コンパで出会ったって言ってるのに、結婚は28歳と23歳❔
読んでいただきありがとうございました!
ほのぼのしていただけたのなら嬉しいです!
年齢については確認します!
ご指摘ありがとうございます!