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ローラとクレアと時々エド(最後のおまけ)
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部屋の中に、太陽の光が差し込んでいた。ローラは少しだけ、窓を開ける。小鳥のさえずりが聞こえた。
まだあまり膨らみのない自分のお腹に右手を伸ばす。ライルと自分との子どもがそこにいる。それは不思議で、けれど、とても幸せなことだった。温かい温度に、「うふふ」と小さく笑みがこぼれる。
「クレアです。奥様、少しよろしいでしょうか?」
ふいに聞こえたノック音に、ローラは扉に目を向けた。
「クレアさん?どうぞ、入って」
入室の許可を聞き、入ってきたのはこの家のメイドでもあるクレア。ローラの身の回りの世話をするために、この部屋に来ることはあっても、自らローラの元に訪れることはほとんどない。突然の訪問にローラは首を傾げる。
「突然、申し訳ありません。お伝えしたいことがあったので」
「いいの。特にやることはなかったから。それより、伝えたいことって?」
「あの…それが、実は私、…今度、結婚することになりまして」
「結婚?」
「はい」
クレアは少しだけはにかみながら頷いた。窓から入ってきた風がクレアの長い髪を揺らす。透き通るような白い肌に端正な顔立ち。やはりとても綺麗な女性だなとローラは思う。
「おめでとう。…突然のことで驚いてしまったわ」
「私も、結婚することになるなんて、予想外でした」
「どういうこと?」
「実はまだ出会ってひと月なんです」
「ひと月?」
「はい。私は相手のことを知らなかったのですが、相手は私のことを知っていてくださったようで、その…一目惚れをされたようです」
照れたように頬が少しだけ赤く染まる。初々しいその反応にけれどローラはどこか冷静に尋ねた。
「一目惚れ、それは素敵ね。でも、初めて会った方ともう結婚?」
ローラの言葉はもっともだった。政略結婚が当たり前な貴族の世界でも、婚約期間は年単位であるのが普通だ。
「相手は子爵家のご子息で、…その、相手の方と、それから父と母も結婚を急ぎまして」
クレアの顔に苦笑が浮かぶ。クレアの家は確か爵位はなかったはずだ。貧乏というわけではないだろう。ウィンザー家のメイドとして働くにはそれなりの教養もマナーも備えている必要がある。けれど、家の存続のために貴族と関係を結びたいと思うのは当主としては当たり前の感情。そして相手がクレアを大切に思っている人であるのならば、娘の感情は後でついてくると考えるのもわかる。
「…クレアさんは、それでいいの?」
けれど、ローラはそう口にしていた。好きな人と結婚できた自分だからこそ、好きな人と結婚してほしいと思ってしまったからだ。この時代、政略結婚は当たり前だ。そして、クレアの主人だとはいえ、家の問題に口を挟むことなどできない。それでもクレアには幸せになってほしいと思った。けれど、同時に自分に嫌気がさした。クレアの幸せを願う気持ちは、もしかしたら、自分のためなのかもしれないから。クレアが傷つき、不安を感じれば、ライルはきっとクレアを気にする。それがいやだからそう思うのかもしれない。
「もし、あなたが身分の高い低いで結婚を無理矢理するのなら、私がなんとかするわ」
ローラの言葉にクレアは静かに首を横に振った。どこか困ったような笑みを浮かべる。
「その必要はありません」
「どうしてか聞いてもいい?」
「幸せになれる気がするからです」
そう言って笑うクレアはすでに幸せそうだった。恋は不思議だ。何年一緒にいても、恋にならないこともある。一緒にいて、急に変わることもある。そして、初めてあって恋に落ちることもある。
「正直、私にはまだわからないんです。好きとか恋とか。でも、…奥様と旦那様のような幸せな夫婦になれる気がするんです」
「…余計なお世話だったのね」
小さくそう言うローラにクレアは首を横に振る。
「いいえ!私のことを心配してくださって、本当にうれしいです」
「2人の結婚を祝福するわ」
「ありがとうございます」
「でも、困ったことがあったらすぐに相談してね」
クレアは嬉しそうに笑みを浮かべ、頷いた。その笑みが優しくて、だから、ローラはずっと前から胸につかえていた思いを吐き出すことにした。
「ねぇ、クレアさん。…私からも一つ伝えたいことがあるの」
「なんでしょうか?」
「私、…ずっと、謝らなければいけないと思っていたの」
何度も言い出そうと思っていた。頭の中で何回もその場面をイメージしていた。けれど、いつもあと少しのところで声に出なかった。けれど、とローラは右手で自分のお腹を触る。この子が生まれる前に、きちんと解決したい、そう思った。
「…私、何かしてしまったでしょうか?」
「いいえ、私が謝ることよ」
ローラはソファから立ち上がる。大きな目でクレアをまっすぐ見た。
「ごめんなさい」
「…あの、何のことでしょうか?」
「あなたの立場も考えず、ライル様とオペラに行かせてしまったわ。本当にごめんなさい」
深々と頭を下げる。それはローラとクレアの立場ではあり得ないことだった。クレアはすぐにローラに駆け寄る。
「奥様、頭をお上げください」
クレアはローラの肩に触れ、身体を起こさせる。ローラはどこか泣きそうな顔をしていた。
「奥様に謝っていただくことなどありません」
「いいえ。私はあなたにひどいことをしてしまいました。…着飾ったあなたとライル様の2人を周りの人が見て、もしも関係を疑えば、あなたはお咎めを受けていたわ。実際、メイド長に叱られていたわね」
それは、1年ほど前のこと。まだライルがクレアを好きだったあの頃の話だ。ライルにオペラを一緒に見ようと誘われたローラは体調不良を理由にオペラに行かなかった。行かなかっただけではなく、自分のドレスを着せたクレアをオペラに向かわせたのだ。
ローラの言うとおり、ライルとオペラから帰った後、クレアはメイド長に呼び出され、注意を受けた。ローラが頼んだことであったことを知っていたため罰はなかったが、自分の立場を考えるように言われたのだ。どんな事情があろうと、周りがそう思えば、それが事実になるときがある。着飾ったメイドと主人が密会のようにオペラを鑑賞していれば、「不倫」と噂されても仕方がないことだった。
「いえ、私がきちんとお断りをすべきでした。主人を守るためのメイドなのですから」
「いいえ、あなたは悪くないわ。私が考えなしだったの」
ローラにとってあの出来事は、ライルのことを思ってのことだった。けれどそれはクレアには何の関係もないこと。そして、周りが2人の関係を疑えば、悪役になるのはクレアだ。仕事を奪い、不名誉な罪を被せる可能性すらあった。ライルのことしか考えられず、クレアの立場を思いやることができなかった。だからローラはもう一度頭を下げる。
「本当にごめんなさい。私には家を守る義務があるわ。家を守ると言うことはそこで働く皆さんを守るということでもある。そんな当たり前のことを考えなかったのは主としての失態だわ。…本当はもっと早く謝るべきだったのに、こんなに遅くなってしまった。本当にごめんなさい」
「奥様、頭を上げてください。奥様は悪くありません」
「…」
「…私は、…奥様が旦那様と結婚されて奥様のお世話もさせていただくことになりました。お2人が結婚されてから、…どこか気を遣われているようなそんな気がしていたんです。だから、あの日、自分の代わりに旦那様とオペラに行って欲しいと言われて、…頼っていただけたんだと思い、嬉しかったのです。そんな風に思って、判断を見誤ったのは私です」
クレアの言葉にローラは左右に首を振る。
「いいえ、あなたは何も悪くないわ」
「いえ、悪いのは私です。奥様は悪くありません」
何度目かの押し問答の末、先に折れたのはローラだった。くすりと小さく笑みをこぼす。
「ずっと終わらないわね、これ」
「はい、そうですね」
クレアの顔にも思わず笑みが浮かぶ。
「奥様、確かにあの日、私が旦那様とオペラに行ったのは間違いでした。奥様が頼み、私が了承した。けれど、幸いなことに何の問題も起きていません。だからここは喧嘩両成敗ということにしませんか?」
少しだけ茶目っ気を加えてクレアが言った。その顔がいつものしっかり者の顔とはまた違い、かわいらしかった。ライルが好きになるのもわかる、と思いながらローラはクレアの言葉に頷く。
「そうね。そうしましょう。…これは、喧嘩だったのね」
「喧嘩ではありませんね。じゃあ、何というのでしょうか、謝罪両成敗?」
クレアの造語に2人は声を出して笑った。
ローラは、いつかライルの口から聞いた『クレアが好きなんだ』という言葉を思い出した。あの時は、こんな風にクレアと笑い合うことなどないと思っていた。けれど、今は、ライルはローラを愛し、そして、ローラはクレアと笑い合っている。
「ねぇ、もう一つだけ言ってもいいかしら?」
「なんでしょうか?」
「クレアさん、いつも本当にありがとう」
ライルがクレアを好きになったからローラはライルに惹かれた。クレアを想うその笑顔を好きになったのだ。きっと、クレアがいなければ、ライルを好きになることもなかっただろう。
そして、結婚前のライルのあの言葉から、ローラはクレアに対して一歩引いていた。メイドとして世話をしなければならないクレアにとって、ローラの態度に困ることもあっただろうと想像できる。けれどクレアは変わらず尽くしてくれた。いつも笑みを浮かべ、優しく声をかけてくれた。だからローラは、再び頭を下げる。そして満面の笑みを浮かべた。ローラの言葉にクレアも嬉しそうに笑う。
「それは、私の台詞です。奥様、いつも優しくしていただいてありがとうございます」
今度はクレアも頭を下げた。綺麗な角度のお辞儀にやっぱり素敵な女性だなと思う。
「そういえば、ライル様にはもう結婚のことは伝えたの?」
「はい。本当は、奥様と一緒に伝えようと思っていたのですが、本日は忙しいとのことだったので、昨夜お仕事から戻られた時にお伝えしました」
「たしか、ライル様は今日、朝から鷹狩りに行かれたのでしたね。朝早く起こすといけないからと昨夜は寝室を別にしたのだったわ」
「はい。そのように聞いていたのですが、本日、ご予定が急遽変わられたようで、今は執務室で事務をされております」
「…」
「もし、今日はお屋敷でのお仕事だとわかっていたら、お2人が一緒の時にお伝えできたのですが」
「……急に変わった予定ですもの、仕方がないわ。そう…、ライル様は今、お部屋にいるのね」
「はい。急なことでしたので、奥様も知らなかったのですね」
「ええ、そうなの。それでは、私は少し、ライル様の様子を見てこようかしら」
「本当に仲がよろしいのですね」
クレアは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうね。…私、…バカなくらい、あの人のことが好きなの」
「私も奥様と旦那様みたいな夫婦になれるよう頑張ります」
クレアはそう言うと頭を下げ、部屋から出て行った。扉の閉まる音が耳に入る。
ローラは一つだけ長い息を吐くと、夫婦の部屋の間にある鍵のかからない扉を見つめた。扉に近づき、開ける。ノックをせずにライルの部屋に入るのは初めてだった。
ライルは机の前に座っていた。書類は広がっているが手は動いていないようである。
「ライル様」
「…ローラ?」
突然のローラの登場にライルは小さく驚いた。腰を上げ、ゆっくりローラに近づく。ローラはライルを待たず、ソファに座った。ライルもそれに従うようにローラの隣に座る。
「…どうかしたのかい?」
ライルは心配そうな表情を浮かべローラを見た。ローラはそんなライルに小さく苦笑を浮かべる。
「それはライル様でしょう?」
「え?」
「クレアさんから聞きました。結婚するそうですね」
「…」
「クレアさんの結婚に落ち込んで、鷹狩りに行けなくなりましたか?」
ローラの言葉をライルは一瞬理解できなかった。2拍遅れて、首を左右に大きく振る。
「違うんだ、そういうんじゃなくて」
ローラはライルがクレアを好きだったことを知っている。他でもないライルがローラに伝えたからだ。
確かに、クレアの結婚を知り、頭が一瞬白くなった。ライルにとってクレアが初恋の相手だ。しかも、数年想い続けた恋だった。けれど、今、愛しているのはローラだけだ。それを伝えたくてライルはローラに右手を伸ばす。
ローラはライルの手を両の手で優しく包んだ。そして首を横に振る。
「わかっています。意地悪を言ってすみません」
「え?」
「初めて好きになった人が結婚するんです。そこに恋愛感情がなくたって、動揺しないわけありませんわ」
「ローラ…」
「わかっております。ライル様が今、愛しているのは私です。…そうでしょう?」
「もちろんだ。俺が愛しているのはローラ、君だ」
「ええ」
「だけど…クレアが結婚すると聞いて、なんだかどうとも表現できない感情が広がって…」
「はい。でも…約束を反故するのはいけませんわ」
鷹狩りの予定を急遽やめてきたことを言っているのだろうライルは思った。今日は、若手貴族たち数人と鷹狩りに行く約束をしていた。鷹狩りは今も貴族の間で人気があり、人脈を作るために必要な交流である。けれど、クレアの結婚を聞いて、「悲しい」とも「落ち込んでいる」とも違うなんとも表現できない感情がライルを包んだ。その感情を処理しきれず、多忙を理由に帰ってきてしまったのだ。
「あなたは父になるのですから。子どもに示しがつきませんわ」
「確かに、そうだな」
ライルのあまりに素直な物言いに、ローラは小さく笑う。
「けれど、今日だけは許しますわ。少しヤキモチを妬いてしまいますけれど」
「え?」
「クレアさんの結婚に落ち込んで何も手につかなくなる、そんなあなたも許します」
「ローラ、違うんだ。落ち込んでいるわけではなく…」
「いいえ、落ち込んでいるんですよ」
ライルの言葉尻を奪って、ローラは断言した。
「初恋の人が別の人と結婚すると聞いて落ち込まないわけがありませんわ」
「いや…その…」
「でも、きっと…そういう風に、落ち込むあなただから私は好きになったんだと思います」
どこか困ったような笑みを浮かべるローラ。そんな彼女をライルは場違いにも綺麗だなと思った。
「…ねぇ、ローラ」
「何でしょうか?」
「好きだよ」
「知っていますわ」
ローラはおもむろに両手を広げた。
「…?」
ライルはローラの行動の意味がわからず小さく首を傾げる。
「ぎゅって…してください」
「え?」
「私がライル様に一番愛されているんだって実感できるように、ぎゅってしてください」
胸が締め付けられる。不安だったのだろうとライルは思った。自分以外の人、それも以前、好きであったクレアの結婚に落ち込んでいる姿を見て不安にならないはずがない。それでも、そんな自分を理解し、愛情をこれでもかというほど注いでくれるローラが愛おしくて仕方がなかった。
腰を少しだけ持ち上げ、ローラに近づく。ライルも両手を伸ばし、ローラを包み込むように抱きしめた。花のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。長い髪に埋めるように顔を近づけた。同じようにローラの腕もライルに回る。
ライルは少しだけ顔を離した。ローラの大きな瞳にライルが映る。たったそれだけのことがひどく幸せだった。にこりと笑うローラにライルも同じように笑みを浮かべる。
ゆっくりと顔を近づけた。ローラはわかっているとでも言うように静かに目を閉じる。2人の距離がゼロになった。愛している、その想いを込めて角度を変える。
「…ん」
甘い声がローラの口から漏れる。
「…愛しています、ライル様」
「俺も愛しているよ、ローラ」
伝わる愛が嬉しくて、愛を伝えられることが嬉しくて、ライルはもう一度角度を変え、深い愛を送った。
エドがローラの部屋から出て行くクレアの姿を見つけたのはたまたまだった。時計を見る。通常、クレアがローラのところに行くには不自然な時間だった。エドは思わず自分とは逆方向に行くクレアの背中を追った。
まだ膨らみは小さいがローラのお腹は日に日に大きくなっている。きっと幸せと不安が同じくらい押し寄せているはずだ。女性にしか言えない悩みもあるのかもしれない。そう思いながらもエドは気が気でなかった。ローラが気に病んでいることがあるのならその全てを取り除きたい。
「クレア様」
「…?あ、エド様」
呼び止められたクレアは振り返り、笑みを浮かべる。
「そんな顔してどうされました?」
「え?」
「すごく不安そうな顔をされていますが」
「いえ、あの、…今、奥様の部屋から出てこられましたが、…何かありましたか?」
「え?」
「奥様の身体には新しい命が宿っています。きっと不安もあるでしょう。その、女性だからこそ相談することがあるのかもと思いまして。けれど、私にできることがあれば、してあげたいのです」
エドの真剣な顔にクレアは慌てて首を横に振る。
「いえ、そういうことはありません」
「そうですか…?」
疑うようなエドの視線にクレアは思わず小さく笑った。
「奥様のことでエド様が知らなくて私が知っていることなんてあるはずありません」
「…そうですか」
「ええ。奥様が一番信頼しているのはエド様ですから」
「…」
「だから安心してください」
「それでは、クレア様は奥様の部屋で何を?」
「少しお伝えすることがありまして」
どこか言いづらそうなクレアの表情にエドは納得したような表情を浮かべた。
「そういえば結婚するそうですね。その報告でしょうか?」
「な、なんで知っているんですか?まだ仲のいいメイド2,3人にしか話していないのに」
「まあ、使用人の部屋は噂話の宝庫ですから」
「…時期を見て私から直接みんなに報告するつもりだったのに」
若干落ち込むようなクレアにエドは小さく口角を持ち上げた。
「まあ、幸せなことなんだからいいじゃないですか」
「そうですけど…」
そう言いながらもどこか嬉しそうなクレアの表情に、幸せな結婚なのだなと思った。噂では家が関係した政略的なものだと聞いたが、それだけではないのかもしれない。
「好きな人なのですか?」
「え?」
「結婚するお相手です」
「……いいえ。でも、好きになれると思う人です」
にじみ出てくるような幸せに、この人の心の中には、その結婚相手がいるのだなとエドは思った。それならば、と口を開く。
「……クレア様、ずっと聞きたいと思っていたことがあったのですが、聞いてもよろしいですか?」
「え?何でしょう?」
「ライル様のことをどう思っているのでしょうか?」
「え?」
「以前、クレア様と旦那様の2人でオペラ鑑賞をしたことがあったでしょう。そのときも使用人の中で噂が持ち上がったのです。実は、クレアさんは旦那様のことを好きなのではないかと」
「…うふふ」
エドの問いにクレアは場違いにも小さく声を出して笑った。
「笑うところではないと思いますけど」
「あ、すみません。そうですよね。でも、…奥様とちょうどその話をしてきたものですから。やっぱり、一緒にいると似てくるんですかね」
「え?」
「奥様とエド様です」
「私と奥様が似ている、ですか」
「ええ。優しいところも、大切な人を一途に思うところもそっくりです」
「…」
「勝手な噂ですよ。私は、旦那様のことを異性としてみたことはありません」
「…本当ですか?」
うかがうようなエドの視線に、クレアは一歩、エドに近づいた。そして右手の人差し指を口元に近づける。
「内緒にしておいてくれますか?」
「え?」
「実は、旦那様のことをずっと、弟のように想っていました」
「弟…?」
「はい。実は、私には生きていればライル様と同い年の弟がいて、だからその子とライル様を重ねていたのです」
「生きていれば、というと…」
「あの子が7歳の時に流行病で死んでしまいました。…そんな悲しみの中、メイドとして働くようになって出会ったのがライル様だったんです。どこか生意気なところも、格好付けるところもなんだか、すごく似ていて、ずっと弟と重ねていました。だから、私がライル様を好きなんて、あり得ないことなんです。だって、弟に恋はしませんよね。だから、安心してください」
クレアのカミングアウトにエドは思わず笑みを浮かべた。その笑みは、ローラといるときにしか見られない本当の笑み。端正な顔に浮かぶ無邪気な笑顔にクレアの胸は一つ音を立てる。けれどクレアは慌てて首を横に振った。自分はもうすぐ結婚するのだ、と言い聞かせる。
「エド様こそ奥様のことをどう思っているのですか?」
「え?」
「だってエド様もずっと奥様と一緒にいるじゃないですか。あんなに綺麗で優しくて、好きになったりしないんですか?」
「そうですね。…誰よりも幸せになってほしいと思っています。そして、それができるのは旦那様だけなんです。…あの人、バカだから」
「え?」
「こっちの話ですよ。それより、クレア様、今度、旦那様に伝えてみてはいかがでしょうか?弟のように想っていると」
「え?でも、失礼でしょう?」
クレアの言葉にエドは笑みを浮かべながら首を横に振った。
「いいえ、喜ばれますよ、きっと」
「そうでしょうか?」
「ええ。旦那様もクレアさんのことを姉のように慕っているはずですから」
「そうですか?」
「そうですよ。私が間違ったこと言ったことありますか?」
確かにエドは執事としてとびきり優秀であった。ローラに仕えているエドはローラのことを一番で考えている。もしかしたら、それでローラが安心するのかもしれない。そう思ったクレアはエドの言葉に頷いた。
「そうですね。わかりました。今後、思い切って言ってみます」
「ええ、そうして見てください」
「なんだか緊張しますね」
「いえ、きっと喜ばれますよ」
エドの言葉にクレアは嬉しそうに笑った。そうして小さく会釈をすると、エドに背を向け歩き出した。
「あ、そうだ。クレア様」
「はい?」
思い出したようにエドがクレアを呼び止める。クレアは振り返り、エドを見た。
「ご結婚おめでとうございます」
端正な顔立ちに笑みが浮かぶ。先ほどとは違うその笑みに、けれど、クレアは満面の笑みを返した。
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げると、クレアは自分の仕事に戻っていった。
クレアはもう一度振り返らなかった。だから知らない。エドが真っ黒な笑みを浮かべていたことに。
「好きだった奴が結婚して、しかも、弟と思われてたとか…、ショック受けるんだろうな。面白くなりそ」
エドはにやりと笑いながら、誰にも聞こえない小さな声で、そう呟いた。
まだあまり膨らみのない自分のお腹に右手を伸ばす。ライルと自分との子どもがそこにいる。それは不思議で、けれど、とても幸せなことだった。温かい温度に、「うふふ」と小さく笑みがこぼれる。
「クレアです。奥様、少しよろしいでしょうか?」
ふいに聞こえたノック音に、ローラは扉に目を向けた。
「クレアさん?どうぞ、入って」
入室の許可を聞き、入ってきたのはこの家のメイドでもあるクレア。ローラの身の回りの世話をするために、この部屋に来ることはあっても、自らローラの元に訪れることはほとんどない。突然の訪問にローラは首を傾げる。
「突然、申し訳ありません。お伝えしたいことがあったので」
「いいの。特にやることはなかったから。それより、伝えたいことって?」
「あの…それが、実は私、…今度、結婚することになりまして」
「結婚?」
「はい」
クレアは少しだけはにかみながら頷いた。窓から入ってきた風がクレアの長い髪を揺らす。透き通るような白い肌に端正な顔立ち。やはりとても綺麗な女性だなとローラは思う。
「おめでとう。…突然のことで驚いてしまったわ」
「私も、結婚することになるなんて、予想外でした」
「どういうこと?」
「実はまだ出会ってひと月なんです」
「ひと月?」
「はい。私は相手のことを知らなかったのですが、相手は私のことを知っていてくださったようで、その…一目惚れをされたようです」
照れたように頬が少しだけ赤く染まる。初々しいその反応にけれどローラはどこか冷静に尋ねた。
「一目惚れ、それは素敵ね。でも、初めて会った方ともう結婚?」
ローラの言葉はもっともだった。政略結婚が当たり前な貴族の世界でも、婚約期間は年単位であるのが普通だ。
「相手は子爵家のご子息で、…その、相手の方と、それから父と母も結婚を急ぎまして」
クレアの顔に苦笑が浮かぶ。クレアの家は確か爵位はなかったはずだ。貧乏というわけではないだろう。ウィンザー家のメイドとして働くにはそれなりの教養もマナーも備えている必要がある。けれど、家の存続のために貴族と関係を結びたいと思うのは当主としては当たり前の感情。そして相手がクレアを大切に思っている人であるのならば、娘の感情は後でついてくると考えるのもわかる。
「…クレアさんは、それでいいの?」
けれど、ローラはそう口にしていた。好きな人と結婚できた自分だからこそ、好きな人と結婚してほしいと思ってしまったからだ。この時代、政略結婚は当たり前だ。そして、クレアの主人だとはいえ、家の問題に口を挟むことなどできない。それでもクレアには幸せになってほしいと思った。けれど、同時に自分に嫌気がさした。クレアの幸せを願う気持ちは、もしかしたら、自分のためなのかもしれないから。クレアが傷つき、不安を感じれば、ライルはきっとクレアを気にする。それがいやだからそう思うのかもしれない。
「もし、あなたが身分の高い低いで結婚を無理矢理するのなら、私がなんとかするわ」
ローラの言葉にクレアは静かに首を横に振った。どこか困ったような笑みを浮かべる。
「その必要はありません」
「どうしてか聞いてもいい?」
「幸せになれる気がするからです」
そう言って笑うクレアはすでに幸せそうだった。恋は不思議だ。何年一緒にいても、恋にならないこともある。一緒にいて、急に変わることもある。そして、初めてあって恋に落ちることもある。
「正直、私にはまだわからないんです。好きとか恋とか。でも、…奥様と旦那様のような幸せな夫婦になれる気がするんです」
「…余計なお世話だったのね」
小さくそう言うローラにクレアは首を横に振る。
「いいえ!私のことを心配してくださって、本当にうれしいです」
「2人の結婚を祝福するわ」
「ありがとうございます」
「でも、困ったことがあったらすぐに相談してね」
クレアは嬉しそうに笑みを浮かべ、頷いた。その笑みが優しくて、だから、ローラはずっと前から胸につかえていた思いを吐き出すことにした。
「ねぇ、クレアさん。…私からも一つ伝えたいことがあるの」
「なんでしょうか?」
「私、…ずっと、謝らなければいけないと思っていたの」
何度も言い出そうと思っていた。頭の中で何回もその場面をイメージしていた。けれど、いつもあと少しのところで声に出なかった。けれど、とローラは右手で自分のお腹を触る。この子が生まれる前に、きちんと解決したい、そう思った。
「…私、何かしてしまったでしょうか?」
「いいえ、私が謝ることよ」
ローラはソファから立ち上がる。大きな目でクレアをまっすぐ見た。
「ごめんなさい」
「…あの、何のことでしょうか?」
「あなたの立場も考えず、ライル様とオペラに行かせてしまったわ。本当にごめんなさい」
深々と頭を下げる。それはローラとクレアの立場ではあり得ないことだった。クレアはすぐにローラに駆け寄る。
「奥様、頭をお上げください」
クレアはローラの肩に触れ、身体を起こさせる。ローラはどこか泣きそうな顔をしていた。
「奥様に謝っていただくことなどありません」
「いいえ。私はあなたにひどいことをしてしまいました。…着飾ったあなたとライル様の2人を周りの人が見て、もしも関係を疑えば、あなたはお咎めを受けていたわ。実際、メイド長に叱られていたわね」
それは、1年ほど前のこと。まだライルがクレアを好きだったあの頃の話だ。ライルにオペラを一緒に見ようと誘われたローラは体調不良を理由にオペラに行かなかった。行かなかっただけではなく、自分のドレスを着せたクレアをオペラに向かわせたのだ。
ローラの言うとおり、ライルとオペラから帰った後、クレアはメイド長に呼び出され、注意を受けた。ローラが頼んだことであったことを知っていたため罰はなかったが、自分の立場を考えるように言われたのだ。どんな事情があろうと、周りがそう思えば、それが事実になるときがある。着飾ったメイドと主人が密会のようにオペラを鑑賞していれば、「不倫」と噂されても仕方がないことだった。
「いえ、私がきちんとお断りをすべきでした。主人を守るためのメイドなのですから」
「いいえ、あなたは悪くないわ。私が考えなしだったの」
ローラにとってあの出来事は、ライルのことを思ってのことだった。けれどそれはクレアには何の関係もないこと。そして、周りが2人の関係を疑えば、悪役になるのはクレアだ。仕事を奪い、不名誉な罪を被せる可能性すらあった。ライルのことしか考えられず、クレアの立場を思いやることができなかった。だからローラはもう一度頭を下げる。
「本当にごめんなさい。私には家を守る義務があるわ。家を守ると言うことはそこで働く皆さんを守るということでもある。そんな当たり前のことを考えなかったのは主としての失態だわ。…本当はもっと早く謝るべきだったのに、こんなに遅くなってしまった。本当にごめんなさい」
「奥様、頭を上げてください。奥様は悪くありません」
「…」
「…私は、…奥様が旦那様と結婚されて奥様のお世話もさせていただくことになりました。お2人が結婚されてから、…どこか気を遣われているようなそんな気がしていたんです。だから、あの日、自分の代わりに旦那様とオペラに行って欲しいと言われて、…頼っていただけたんだと思い、嬉しかったのです。そんな風に思って、判断を見誤ったのは私です」
クレアの言葉にローラは左右に首を振る。
「いいえ、あなたは何も悪くないわ」
「いえ、悪いのは私です。奥様は悪くありません」
何度目かの押し問答の末、先に折れたのはローラだった。くすりと小さく笑みをこぼす。
「ずっと終わらないわね、これ」
「はい、そうですね」
クレアの顔にも思わず笑みが浮かぶ。
「奥様、確かにあの日、私が旦那様とオペラに行ったのは間違いでした。奥様が頼み、私が了承した。けれど、幸いなことに何の問題も起きていません。だからここは喧嘩両成敗ということにしませんか?」
少しだけ茶目っ気を加えてクレアが言った。その顔がいつものしっかり者の顔とはまた違い、かわいらしかった。ライルが好きになるのもわかる、と思いながらローラはクレアの言葉に頷く。
「そうね。そうしましょう。…これは、喧嘩だったのね」
「喧嘩ではありませんね。じゃあ、何というのでしょうか、謝罪両成敗?」
クレアの造語に2人は声を出して笑った。
ローラは、いつかライルの口から聞いた『クレアが好きなんだ』という言葉を思い出した。あの時は、こんな風にクレアと笑い合うことなどないと思っていた。けれど、今は、ライルはローラを愛し、そして、ローラはクレアと笑い合っている。
「ねぇ、もう一つだけ言ってもいいかしら?」
「なんでしょうか?」
「クレアさん、いつも本当にありがとう」
ライルがクレアを好きになったからローラはライルに惹かれた。クレアを想うその笑顔を好きになったのだ。きっと、クレアがいなければ、ライルを好きになることもなかっただろう。
そして、結婚前のライルのあの言葉から、ローラはクレアに対して一歩引いていた。メイドとして世話をしなければならないクレアにとって、ローラの態度に困ることもあっただろうと想像できる。けれどクレアは変わらず尽くしてくれた。いつも笑みを浮かべ、優しく声をかけてくれた。だからローラは、再び頭を下げる。そして満面の笑みを浮かべた。ローラの言葉にクレアも嬉しそうに笑う。
「それは、私の台詞です。奥様、いつも優しくしていただいてありがとうございます」
今度はクレアも頭を下げた。綺麗な角度のお辞儀にやっぱり素敵な女性だなと思う。
「そういえば、ライル様にはもう結婚のことは伝えたの?」
「はい。本当は、奥様と一緒に伝えようと思っていたのですが、本日は忙しいとのことだったので、昨夜お仕事から戻られた時にお伝えしました」
「たしか、ライル様は今日、朝から鷹狩りに行かれたのでしたね。朝早く起こすといけないからと昨夜は寝室を別にしたのだったわ」
「はい。そのように聞いていたのですが、本日、ご予定が急遽変わられたようで、今は執務室で事務をされております」
「…」
「もし、今日はお屋敷でのお仕事だとわかっていたら、お2人が一緒の時にお伝えできたのですが」
「……急に変わった予定ですもの、仕方がないわ。そう…、ライル様は今、お部屋にいるのね」
「はい。急なことでしたので、奥様も知らなかったのですね」
「ええ、そうなの。それでは、私は少し、ライル様の様子を見てこようかしら」
「本当に仲がよろしいのですね」
クレアは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうね。…私、…バカなくらい、あの人のことが好きなの」
「私も奥様と旦那様みたいな夫婦になれるよう頑張ります」
クレアはそう言うと頭を下げ、部屋から出て行った。扉の閉まる音が耳に入る。
ローラは一つだけ長い息を吐くと、夫婦の部屋の間にある鍵のかからない扉を見つめた。扉に近づき、開ける。ノックをせずにライルの部屋に入るのは初めてだった。
ライルは机の前に座っていた。書類は広がっているが手は動いていないようである。
「ライル様」
「…ローラ?」
突然のローラの登場にライルは小さく驚いた。腰を上げ、ゆっくりローラに近づく。ローラはライルを待たず、ソファに座った。ライルもそれに従うようにローラの隣に座る。
「…どうかしたのかい?」
ライルは心配そうな表情を浮かべローラを見た。ローラはそんなライルに小さく苦笑を浮かべる。
「それはライル様でしょう?」
「え?」
「クレアさんから聞きました。結婚するそうですね」
「…」
「クレアさんの結婚に落ち込んで、鷹狩りに行けなくなりましたか?」
ローラの言葉をライルは一瞬理解できなかった。2拍遅れて、首を左右に大きく振る。
「違うんだ、そういうんじゃなくて」
ローラはライルがクレアを好きだったことを知っている。他でもないライルがローラに伝えたからだ。
確かに、クレアの結婚を知り、頭が一瞬白くなった。ライルにとってクレアが初恋の相手だ。しかも、数年想い続けた恋だった。けれど、今、愛しているのはローラだけだ。それを伝えたくてライルはローラに右手を伸ばす。
ローラはライルの手を両の手で優しく包んだ。そして首を横に振る。
「わかっています。意地悪を言ってすみません」
「え?」
「初めて好きになった人が結婚するんです。そこに恋愛感情がなくたって、動揺しないわけありませんわ」
「ローラ…」
「わかっております。ライル様が今、愛しているのは私です。…そうでしょう?」
「もちろんだ。俺が愛しているのはローラ、君だ」
「ええ」
「だけど…クレアが結婚すると聞いて、なんだかどうとも表現できない感情が広がって…」
「はい。でも…約束を反故するのはいけませんわ」
鷹狩りの予定を急遽やめてきたことを言っているのだろうライルは思った。今日は、若手貴族たち数人と鷹狩りに行く約束をしていた。鷹狩りは今も貴族の間で人気があり、人脈を作るために必要な交流である。けれど、クレアの結婚を聞いて、「悲しい」とも「落ち込んでいる」とも違うなんとも表現できない感情がライルを包んだ。その感情を処理しきれず、多忙を理由に帰ってきてしまったのだ。
「あなたは父になるのですから。子どもに示しがつきませんわ」
「確かに、そうだな」
ライルのあまりに素直な物言いに、ローラは小さく笑う。
「けれど、今日だけは許しますわ。少しヤキモチを妬いてしまいますけれど」
「え?」
「クレアさんの結婚に落ち込んで何も手につかなくなる、そんなあなたも許します」
「ローラ、違うんだ。落ち込んでいるわけではなく…」
「いいえ、落ち込んでいるんですよ」
ライルの言葉尻を奪って、ローラは断言した。
「初恋の人が別の人と結婚すると聞いて落ち込まないわけがありませんわ」
「いや…その…」
「でも、きっと…そういう風に、落ち込むあなただから私は好きになったんだと思います」
どこか困ったような笑みを浮かべるローラ。そんな彼女をライルは場違いにも綺麗だなと思った。
「…ねぇ、ローラ」
「何でしょうか?」
「好きだよ」
「知っていますわ」
ローラはおもむろに両手を広げた。
「…?」
ライルはローラの行動の意味がわからず小さく首を傾げる。
「ぎゅって…してください」
「え?」
「私がライル様に一番愛されているんだって実感できるように、ぎゅってしてください」
胸が締め付けられる。不安だったのだろうとライルは思った。自分以外の人、それも以前、好きであったクレアの結婚に落ち込んでいる姿を見て不安にならないはずがない。それでも、そんな自分を理解し、愛情をこれでもかというほど注いでくれるローラが愛おしくて仕方がなかった。
腰を少しだけ持ち上げ、ローラに近づく。ライルも両手を伸ばし、ローラを包み込むように抱きしめた。花のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。長い髪に埋めるように顔を近づけた。同じようにローラの腕もライルに回る。
ライルは少しだけ顔を離した。ローラの大きな瞳にライルが映る。たったそれだけのことがひどく幸せだった。にこりと笑うローラにライルも同じように笑みを浮かべる。
ゆっくりと顔を近づけた。ローラはわかっているとでも言うように静かに目を閉じる。2人の距離がゼロになった。愛している、その想いを込めて角度を変える。
「…ん」
甘い声がローラの口から漏れる。
「…愛しています、ライル様」
「俺も愛しているよ、ローラ」
伝わる愛が嬉しくて、愛を伝えられることが嬉しくて、ライルはもう一度角度を変え、深い愛を送った。
エドがローラの部屋から出て行くクレアの姿を見つけたのはたまたまだった。時計を見る。通常、クレアがローラのところに行くには不自然な時間だった。エドは思わず自分とは逆方向に行くクレアの背中を追った。
まだ膨らみは小さいがローラのお腹は日に日に大きくなっている。きっと幸せと不安が同じくらい押し寄せているはずだ。女性にしか言えない悩みもあるのかもしれない。そう思いながらもエドは気が気でなかった。ローラが気に病んでいることがあるのならその全てを取り除きたい。
「クレア様」
「…?あ、エド様」
呼び止められたクレアは振り返り、笑みを浮かべる。
「そんな顔してどうされました?」
「え?」
「すごく不安そうな顔をされていますが」
「いえ、あの、…今、奥様の部屋から出てこられましたが、…何かありましたか?」
「え?」
「奥様の身体には新しい命が宿っています。きっと不安もあるでしょう。その、女性だからこそ相談することがあるのかもと思いまして。けれど、私にできることがあれば、してあげたいのです」
エドの真剣な顔にクレアは慌てて首を横に振る。
「いえ、そういうことはありません」
「そうですか…?」
疑うようなエドの視線にクレアは思わず小さく笑った。
「奥様のことでエド様が知らなくて私が知っていることなんてあるはずありません」
「…そうですか」
「ええ。奥様が一番信頼しているのはエド様ですから」
「…」
「だから安心してください」
「それでは、クレア様は奥様の部屋で何を?」
「少しお伝えすることがありまして」
どこか言いづらそうなクレアの表情にエドは納得したような表情を浮かべた。
「そういえば結婚するそうですね。その報告でしょうか?」
「な、なんで知っているんですか?まだ仲のいいメイド2,3人にしか話していないのに」
「まあ、使用人の部屋は噂話の宝庫ですから」
「…時期を見て私から直接みんなに報告するつもりだったのに」
若干落ち込むようなクレアにエドは小さく口角を持ち上げた。
「まあ、幸せなことなんだからいいじゃないですか」
「そうですけど…」
そう言いながらもどこか嬉しそうなクレアの表情に、幸せな結婚なのだなと思った。噂では家が関係した政略的なものだと聞いたが、それだけではないのかもしれない。
「好きな人なのですか?」
「え?」
「結婚するお相手です」
「……いいえ。でも、好きになれると思う人です」
にじみ出てくるような幸せに、この人の心の中には、その結婚相手がいるのだなとエドは思った。それならば、と口を開く。
「……クレア様、ずっと聞きたいと思っていたことがあったのですが、聞いてもよろしいですか?」
「え?何でしょう?」
「ライル様のことをどう思っているのでしょうか?」
「え?」
「以前、クレア様と旦那様の2人でオペラ鑑賞をしたことがあったでしょう。そのときも使用人の中で噂が持ち上がったのです。実は、クレアさんは旦那様のことを好きなのではないかと」
「…うふふ」
エドの問いにクレアは場違いにも小さく声を出して笑った。
「笑うところではないと思いますけど」
「あ、すみません。そうですよね。でも、…奥様とちょうどその話をしてきたものですから。やっぱり、一緒にいると似てくるんですかね」
「え?」
「奥様とエド様です」
「私と奥様が似ている、ですか」
「ええ。優しいところも、大切な人を一途に思うところもそっくりです」
「…」
「勝手な噂ですよ。私は、旦那様のことを異性としてみたことはありません」
「…本当ですか?」
うかがうようなエドの視線に、クレアは一歩、エドに近づいた。そして右手の人差し指を口元に近づける。
「内緒にしておいてくれますか?」
「え?」
「実は、旦那様のことをずっと、弟のように想っていました」
「弟…?」
「はい。実は、私には生きていればライル様と同い年の弟がいて、だからその子とライル様を重ねていたのです」
「生きていれば、というと…」
「あの子が7歳の時に流行病で死んでしまいました。…そんな悲しみの中、メイドとして働くようになって出会ったのがライル様だったんです。どこか生意気なところも、格好付けるところもなんだか、すごく似ていて、ずっと弟と重ねていました。だから、私がライル様を好きなんて、あり得ないことなんです。だって、弟に恋はしませんよね。だから、安心してください」
クレアのカミングアウトにエドは思わず笑みを浮かべた。その笑みは、ローラといるときにしか見られない本当の笑み。端正な顔に浮かぶ無邪気な笑顔にクレアの胸は一つ音を立てる。けれどクレアは慌てて首を横に振った。自分はもうすぐ結婚するのだ、と言い聞かせる。
「エド様こそ奥様のことをどう思っているのですか?」
「え?」
「だってエド様もずっと奥様と一緒にいるじゃないですか。あんなに綺麗で優しくて、好きになったりしないんですか?」
「そうですね。…誰よりも幸せになってほしいと思っています。そして、それができるのは旦那様だけなんです。…あの人、バカだから」
「え?」
「こっちの話ですよ。それより、クレア様、今度、旦那様に伝えてみてはいかがでしょうか?弟のように想っていると」
「え?でも、失礼でしょう?」
クレアの言葉にエドは笑みを浮かべながら首を横に振った。
「いいえ、喜ばれますよ、きっと」
「そうでしょうか?」
「ええ。旦那様もクレアさんのことを姉のように慕っているはずですから」
「そうですか?」
「そうですよ。私が間違ったこと言ったことありますか?」
確かにエドは執事としてとびきり優秀であった。ローラに仕えているエドはローラのことを一番で考えている。もしかしたら、それでローラが安心するのかもしれない。そう思ったクレアはエドの言葉に頷いた。
「そうですね。わかりました。今後、思い切って言ってみます」
「ええ、そうして見てください」
「なんだか緊張しますね」
「いえ、きっと喜ばれますよ」
エドの言葉にクレアは嬉しそうに笑った。そうして小さく会釈をすると、エドに背を向け歩き出した。
「あ、そうだ。クレア様」
「はい?」
思い出したようにエドがクレアを呼び止める。クレアは振り返り、エドを見た。
「ご結婚おめでとうございます」
端正な顔立ちに笑みが浮かぶ。先ほどとは違うその笑みに、けれど、クレアは満面の笑みを返した。
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げると、クレアは自分の仕事に戻っていった。
クレアはもう一度振り返らなかった。だから知らない。エドが真っ黒な笑みを浮かべていたことに。
「好きだった奴が結婚して、しかも、弟と思われてたとか…、ショック受けるんだろうな。面白くなりそ」
エドはにやりと笑いながら、誰にも聞こえない小さな声で、そう呟いた。
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