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君と恋愛
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人と話すことが苦手だった。だから、下を向いて本ばかり読んでいた。
知らぬ間に周りから「真面目」と言われるようになった。
学級委員を押し付けられ、みんなから「委員長」としか呼ばれなくなった。
普段の会話はなくて、テストが近くなった時ばかり、ノートだけが人気者になる。
それでいいと思っていた。いいと思うしかなかった。
「委員長~。ノート貸して」
昼休み。お弁当を食べ終え、自席で本を読んでいた真由美は、クラスメイトの男子から、声をかけられた。その言葉で期末まであと一週間だったことを思い出す。
「…何の?」
「数学と化学」
「どうぞ」
授業中に黒板をまとめただけのノートを差し出した。
普通に聞いていれば全員が同じノートを作れるはずなのに、どうして毎回人のノートが必要になるのか不思議で仕方がない。
「ありがとう」
「あ、委員長。俺たちもコピーさせて」
「…ご自由に」
手を上げた数人に感情なく告げる。
「サンキュー」
それでもこの人たちにとっては、普段は話すことのない無愛想な自分に声をかけるほど重要なものなのだと、いつも実感するのだ。ノート一冊が自分の存在より重要視されている。
「そういえばさ、委員長って本名なんだっけ?」
ノートを手にしたクラスメイトは、真由美から少し離れただけであるのに、堂々とそんな話を始めた。聞いていないと思っているのか、聞こえてもいいと思っているのか、ボリュームは小さくなっていない。
「田中、それ失礼すぎるだろ…えっとなんだっけ?」
「木村だって同じだろ!」
そして笑いが起きた。
ノートを貸してと言った田中は、1年から真由美と同じクラスである。コピーを取らせてと言った木村には、この前もノートを貸したはずだ。
2年になって、もうすぐ半年が経とうとしている。それでも、本当の名前すら覚えられていない。
慣れ過ぎて何も感じないと思っていた。それでも聞いていたくはなかった。
「何言っちゃってんの?真由美ちゃんでしょ?真由美ちゃん。高橋真由美」
突然出てきた自分の名前に、思わず顔をあげる。金色の髪が視界に入った。
いつも自然に目に入ってしまう目立つ髪型。いつものように彼は笑っていた。
「そうそう、そんな感じ。よく覚えてるな、純平」
「当たり前だよ。女の子の名前忘れるなんて、失礼なまねはしないの。俺、紳士だから」
「お前それ、ただ女好きなだけだろ?」
「バレたか」
彼の言葉に周囲が笑った。
佐藤純平の周りにはいつも人が集まっている。明るくてスポーツが万能な彼は、生徒だけではなく、教師からも好かれていた。
明るく染めた髪の色は、何度となく注意されていたけれども。それでも、彼のペースにすっかり乗せられ、「重要な式の前には黒くするように」との一言で黙認されている。純平の周りには笑いが絶えない。
真由美は純平を見ていた。笑い声のする方に目を向ければ、鮮やかな金色が見えたから。視線を下げればそこにはいつも笑顔があった。
純平の笑顔を見ているだけで楽しかった。クラスの輪の中に入れなくても、その笑顔を見れば、自分も同じ空間にいるのだと思えた。口を大きく開け、楽しそうに笑うその顔を見るたび、真由美は安心していた。
だからこそ、嬉しかった。純平が自分のことを知っていてくれたことが。たかが、名前を憶えていてくれただけなのに、泣いてしまいそうになるほど、嬉しかったのだ。
「あ、そうだ。ねぇ、真由美ちゃん」
「えっ!」
自然と熱くなる目頭。その原因ともなった人物から突然声をかけられ、真由美は思わず立ち上がる。その反応に、周囲から小さな笑いが漏れた。顔に熱が集まる。
「あ~、ごめん。そんなに大切なことでもないんだけど…俺にもノート貸してくれないかなって。木村たちの後に」
「あ、うん。…ありがとう」
「え?ありがとうは俺のほうでしょ?」
「…あ、えっと、でも。…ありがとう」
どうしても言いたかった。感謝の言葉を伝えたいと思った。
「あ~~!もしかして、委員長、純平のこと好きなんじゃねぇの?」
けれど、その言葉は、「委員長」が「人気者」に伝える言葉としては不似合だったのかもしれない。
「へぇ。意外。委員長ってもっと真面目なやつが好きだと思ってた」
「えっ、ち、違う。そ、そんなことあるわけないでしょう!」
からかわれていることは口調からはっきりしていた。けれど、否定しないわけにはいかない。過剰反応は逆効果。それは理解していた。しかし、慣れていない話題に耳まで赤く染まる。否定の言葉は、誤解を招くだけであった。
「委員長。マジで?委員長が純平ね…」
好奇の視線が集中する。
「やめてって言ってるでしょ!こんなチャラチャラした人、どうやったって、好きになるわけないじゃない!」
声を張ったその言葉に、教室の時間が一瞬止まった。
「…委員長、きついな~」
場の空気を暖めようと、軽い口調で誰かが言った。
「…何、あの言い方?調子のってない?委員長のくせに」
小さな声を真由美の耳が拾う。純平は女子からの人気も当たり前のように高かったのだと、思い出す。
何か言わなければならないと思った。いくらなんでも言い過ぎた。
それでも、真由美の口から言葉は出ない。逃げ出したいけれど、足も動かなかった。
「ひっどいな~。真由美ちゃん」
場の空気を戻したのは、気の抜けるような純平の声。たった一言で、嫌な空気がきれいに消えた。
「ま、チャラチャラしてるって本当のことだけどな、純平」
「お前らもひどいっての」
そう言って笑う。その笑顔に、ほっとする。
「あ、あの…」
さすがに何も言わないわけにはいかないと、謝罪の言葉を口にしようとした。
「ねぇ、真由美ちゃん。じゃあさ、試してみない?」
けれど、その言葉は遮られる。
「え?」
「こんなチャラチャラした俺に恋するかどうか」
「……え?」
「付き合っちゃおうよ」
「………」
「え――――!!!」
周りから、驚きの声が上がったのを、真由美は他人事のように見ていた。
本日の終業を知らせるチャイムが鳴る。
真由美は鞄に教科書とノートを詰めていた。感じる視線には気づかないふりをする。
それでも近づいてくる足音に、それは通用しない。
「真由美ちゃん。一緒に帰ろっ」
ハートマークが見えそうな弾んだ声で言われたその言葉に、周囲の視線が一層集まる。
真由美は昼の自分を心の中で責めた。
軽くため息をつく。目の前の金色の髪が揺れた。
「ため息つくと幸せが逃げるよ」
「佐藤君」
「何?」
「昼休みの発言を、全面的に撤回するから、そろそろ許してはもらえないかしら?」
あくまで冷静に、そして慎重に真由美は言葉を選ぶ。
「ん?」
純平は軽く首を傾げた。おそらく意識した上でのその動作に、多少イラつきながらも、昼休みの失態を思い出し、冷静に告げる。
「ごめんなさい。チャラチャラしているなんて言って。見た目が派手だからそういう風に言ってしまったけれど、でも、思い出してみたら、普段の佐藤君は、チャラチャラなんてしていなかった。だから、あの言葉は撤回するわ」
「そっか。いや、でも実際俺、チャラチャラしてると思うよ?」
「そんなことない。チャラチャラなんてしてない。だから撤回させて」
「…真由美ちゃんがそこまで言うなら、いいよ。それで」
純平の笑みに、今度は安堵の息を吐いた。
「…よかった。本当にごめんなさいね」
「いいよ。…ところで、帰る準備終わった?」
「はい?」
「一緒に帰ろうよ」
純平の言葉に、真由美は動きを止め、周囲の視線はさらに集まった。
「…許してくれたんじゃなかったのかしら?」
「許したよ。ま、許すも、許さないも、別にそこに対して全く怒ってなかったけどね」
「……じゃあ、どうして一緒に帰るっていう話になるの?」
「え?だって、試しに付き合ってみようって言ったよね?」
「……そうね」
「ほら。だからだよ」
満面の笑みを浮かべる純平に今度こそ、声を荒げる。
「何がほら、なのか全くわからないんですけれど!」
「え?」
「え?じゃないわよ!許すって言ってじゃない。それなら、佐藤君の発言も撤回してよ。なんで付き合うとかいう話になるわけ!」
「だってさ、面白そうでしょう?…それに、本当に俺に惚れないのか気になるし」
純平の笑みにどこか黒いものを感じ、真由美は直感した。撤回しなければならない言葉を間違えたのだと。
「…私はどうしたら、許してもらえるのかしら?」
頭を押さえて真由美は問う。
「え~?付き合うしかないんじゃない?それか、前言撤回する?でも、そうしたらそうしたで、別の誤解を生むね」
楽しんでいる。純平の目が告げていた。どうしてこんな目に合わなければならないのか。ただ、名前を憶えていてくれたこの人に、「ありがとう」と伝えただけなのに。
「これって、新手のいじめか何か?」
「ううん。ただの暇つぶし。真由美ちゃんみたいなタイプと付き合ったことないし」
そういうのをいじめとも呼ぶのだと、真由美は心の中で毒づく。何が暇つぶしだ。さみしかったけれど、それでも平穏な高校生活を奪っておいて。
「佐藤君、見かけによらず、性格悪いのね」
「見かけは性格よさそうに見えるんだね」
途中からギャラリーは2人の会話についてきていない。物騒な話に変わってきている2人の会話をただ、首を傾げて聞いているだけだ。
それでも、周りを囲んでいる人々が味方をするのは、真由美の目の前にいるこの男。
「どうしたらいいって言うの?」
純平に問うているのか、自分に問うているのかわからないほどの小さな声。それでも純平の耳はその言葉を拾い、小さく笑う。
「だから、俺と付き合おうよ。お得だと思うけど?」
「…お得?」
「だって、俺、一応、顔の評判はいいし。付き合う子には優しくするし。満足させられる自信あるしね」
「そういうのがチャラいって言ってるのよ」
「あれ?前言撤回したんじゃなかったの?」
楽しそうに笑う純平に聞こえるように大きなため息をついた。
周りの視線が痛い。
なぜ、人前で「付き合う」「付き合わない」の議論をしなければならないのか。しかも、見様によっては、純平の申し出を真由美が断っているように見える。
「何、あれ?」
「生意気」
沈黙ができるたびに、耳に入る声に、どうすることもできない。恋愛に関して、女子に睨まれるという経験は今までなかった。男子とまともに話すことすらなかったのだから。
それでも、こうして、初めて経験し、その怖さがわかる。そんな怖さなど、わかりたくもなかった。
「真由ちゃん、帰ろ?」
不意に、名前を呼ばれた。教室の入り口に見知った顔がある。
栗色の短い髪。端正な顔立ち。身長は平均男子の身長より数センチ高く、それに合わせて手足も長い。
「あれ、2組の涼介くんじゃない?」
「相変わらず、格好いいね」
「…ねぇ、真由ちゃんって誰?」
殺伐とした雰囲気にさわやかな風を入れた涼介に周囲は視線を向けた。しかし、日ごろから視線が集まることに慣れている彼は、気にした風でもなく、ただ一人に目を向けている。
「…えっと。…取り込み中?」
いつもなら、教室の端で一人静かに本を読んでいるはずの真由美が、クラスメイトに遠巻きでだが囲まれている。目の前には、人気者である純平。そして、教室内の雰囲気は、冷たい。
「……なかなか来ないから、迎えに来たんだけど。…えっと、どうしよう?」
困ったように頭をかく涼介の声で我に変った真由美は、急いで涼介のもとに駆け寄り、腕を絡めた。
「わ、私、この人と付き合ってるから!だから、付き合うとか無理ですから」
「え?」
「は?」
涼介と純平が同じように口を開ける。一瞬遅れ、周囲も驚きを示した。
「ね!」
同意を強制する視線を斜め上に向けた。
「え?あ、うん。…そういうことだから、諦めて?」
「じゃ、じゃあ。そういうことだから。…涼介、帰ろう」
「あ、真由ちゃん。待ってよ」
「…ふ~ん」
逃げるように去っていく2人の後ろ姿を見つめ、純平は面白そうに片頬を上げた。
「…ごめん!」
学校を出て少し進んだところで、真由美は両手を合わせ、涼介に謝罪した。
「本当に、ごめん。いくら幼馴染だって言っても、迷惑かけすぎだよね」
「えっと…それは大丈夫だけど。いつだって助けてもらってたの俺のだし」
「それって、小さい時だけじゃない。それからは、いつも私が助けてもらってる。…今度も、彼氏とかみんなの前で言っちゃったし…」
「…真由ちゃん。なんだったの、あれ?」
当然の問いに、真由美はそれまでの経緯を説明する。
「…なんか大変だったね。でも、純平君ってそんなキャラだった?」
「何が暇つぶしなのよ!…これからどうしよう。…そういえば、歩美ちゃんにも早めに事情説明しないと、変な誤解されちゃうね。必要なら私からもちゃんと話すから言ってね」
「あれ?真由ちゃんに言ってなかった?」
「…何を?」
「俺と歩美、結構前に別れたよ」
「…え?聞いてないよ」
「また振られちゃった」
「…もしかして、また原因私?」
「『私と真由美ちゃん、どっちが好きなの?』だって。好きの意味が違うんだから、比べようもないのにね」
「…だから、毎日一緒に帰らなくてもいいって言ってるのに」
「それは嫌。俺がさみしいから」
すぐに返された返事に真由美は苦笑した。
「…そんなこと言ってるから誤解されるんでしょう?」
「ま、それが今回うまく作用しそうだし、いいんじゃない?」
「…?」
「俺たち毎日登下校してるし、家も隣で仲がいいし、『付き合ってる』って噂もあるみたいだよ?特にうちのクラスで。それに、今回の発言。きっと純平君も騙されてくれるって」
「…でも、それじゃあ、涼介に迷惑かかるでしょう?」
「いいんだ。しばらくは彼女とかいらないかなって思ってたし。真由ちゃんの役に立てるならそれでいいよ」
「…いつも本当にごめんね」
「だから、いいんだって。真由ちゃんは、家族みたいなものだから。じゃあ、これから、純平君が諦めてくれるまで、仮の彼氏だね」
「すぐに諦めてくれるよ、きっと。だって、ただの暇つぶしだもん」
「だといいね」
そう言って涼介は笑った。
その笑みは、いつだって、真由美の隣にあったもの。小さい頃は、背が低く、気も小さくて、いつも真由美の後ろに隠れていた。そんな涼介を真由美は、いつもかばってきた。
涼介は真由美にとって守るべき存在だった。それがいつからか、立場は逆転していた。
いつだって、涼介は、真由美のことを守ってくれる。一緒に帰るのもその一つだ。
以前、真由美は一人で帰っていて、不良に絡まれたことがあった。隙を見て人通りの多いところに逃げ出したけれども、それからしばらくは一人で歩くのが怖かった。そのことをどこからか聞きつけた涼介は、それから登下校を一緒にするようになった。
涼介に彼女ができても、いつも真由美を優先してくれる。その申し出には、断っているつもりだが、涼介と彼女が別れる理由には大抵、真由美が関係していた。
格好良くて、要領もいいできた幼馴染の唯一の欠点。それが、真由美だと真由美自身思っている。
早く幼馴染離れをしなければならない。そう思っているのに、今回も迷惑をかけてしまった。
それでも、笑顔で力を貸してくれる涼介を見ると、どうしても甘えてしまうのだ。
隣で、今日の出来事について楽しそうに話す幼馴染のきれいな横顔を眺めながら、心の中でもう一度「ごめん」と告げた。
朝日の光で、目が覚めた。窓を開ければ、さわやかな風。今日も平凡な一日になると疑わなかった。
けれど、それはただの願望でしかなかった。
「委員長と涼介くんが?」
「え~似合わない~」
学校についた瞬間から、耳にした自分の噂。羨望と嫉妬と好奇の視線が注がれる。どうしてこんなことになっているのだろうと痛くなる頭を押さえた。
「おはよう。真由美ちゃん。今日も朝から読書?」
明るい声が頭上から降ってくる。仕方なく顔を上げるとそこには純平の笑顔があった。
「おはよう」
できるだけ冷静に告げる。
「で、今日は一緒に帰ってくれるよね?」
「おいおい。純平。からかうのもその辺にしておいてやれよ」
「そうそう。涼介にも悪いだろう。涼介、空手やってるって言ってたから、あんまりからかってるとやられちまうぜ?」
昨日はただ遠巻きに見ていたクラスメイトが、間に入った。
「確かに、悪いね。…付き合ってるって話が本当なら」
囁かれるように言われた最後の言葉に、真由美の肩が上がった。
「悪いと思ってるなら、もう委員長に構うのやめてやれって」
「…ねぇ、真由美ちゃん」
「…何?」
「いつから付き合ってるの?」
「…い、一週間前」
「そうなんだ、最近なんだね」
「…」
「どうやって知り合ったの?」
「も、もともと幼馴染で…」
「ふ~ん。あ~、そういえば聞いたことがあるかも。隣同士なんだっけ?そういえば、いつも一緒に帰ってるよね」
「…」
「どっちから告白したの?」
質問の応酬。どうしてそれに答えなくてはいけないのか。けれどそう思っていても、拒絶できない圧力があった。
「…わ、私から」
「へ~意外だね」
「…」
「ねぇ、真由美ちゃん。ちょっと耳貸して?」
「え?」
返事を待たずに、純平は、真由美の耳に顔を近づけた。息がかかるほど近づき、囁く。
「俺の方が、いい男だよ?俺にしたら」
言葉の最後に、軽く息を吹きかけた。真由美は慌てて耳を押さえる。
体温は上がり、耳まで赤くなっていた。驚きすぎて文句を言うことすらできない。
「真由ちゃん」
教室の扉が開く音。それと同時に、真由美のクラスに、涼介が入ってきた。
「辞書貸してくれる。…って、どうしたの?真っ赤だよ?」
そういいながら、真由美に駆け寄った。
「あ、いや。…これは…」
「真っ赤」という言葉に、さらに体温は上がった気がした。真由美は、耳を押さえながら、言葉に詰まる。そんな真由美とその前にいる純平を涼介は数回見た。
そして、真由美をかばうように立ち、純平をまっすぐ見る。
「…俺の彼女をからかうのやめてくれない?」
いつもと違う低い声。その声に驚き、真由美は顔を上げた。「怒っている」のだとわかった。いつもの表情だけれども、確かに涼介は怒っていた。
「…俺の彼女、ね?」
「何?何か言いたいことでもある?」
「別に。あ、そうだ。一つ聞いてもいいかな?…どっちから告白したの?」
「俺から」
涼介の回答に、真由美は、頭を抱えたくなるのを必死でこらえた。にやりと純平が笑う。
「さっき真由美ちゃんは自分からって言ったけど?」
「…きっかけを作ったのは真由ちゃんで、『好きだ』と言ったのは俺だから。真由ちゃんは真由ちゃんで、自分からだって思ってるみたいだけど、俺は俺で、俺からだと思ってる」
「…」
「これで満足?じゃあ、もうこれ以上俺の彼女にちょっかいかけないでね」
「涼介…」
「真由ちゃんも、何かあったらすぐに俺に言ってね」
「…ありがとう。あ、辞書って国語でいいの?」
「うん。ありがとう。借りていくね」
「うん」
「あ、それと、今日委員会が入っちゃったんだ。だから、待っててくれる?」
「わかった」
「できるだけ早く来るから」
「うん」
いつもの会話のはずだった。それでも、それは、「幼馴染」の会話ではなく、「恋人」の会話に聞こえた。本当に付き合っているのではないかという錯覚にすら陥る。
笑顔で教室を出ていく涼介を真由美は見送った。
目の前に立っていた純平は、笑顔とは違う表情を浮かべていた。初めて見る表情。それがどんな意味を持つのか、真由美にはわからなかった。
オレンジの光が、教室に差し込んでいる。教室には、真由美しか残っていなかった。
教科書とノートを開き、時間を潰す。涼介を待っている時は、いつもそうしていた。
ガラガラ。教室の扉が開く音。
反射的に顔を上げた。
「…」
「本当に待ってるんだね」
そこに立っていたのは、待ち人の姿ではなかった。
「約束したから」
「いつも一緒にだよね?」
「涼介は心配性だから」
「ふ~ん」
「…何?」
「いや。…あ、そうだ。朝は上手く撒かれたよ」
「何のこと?」
「涼介君って頭がいいんだね」
「…」
「しかも人望もある。あのあとも、何人かに注意されたよ。からかうのはやめろって」
「…あの、一つ教えてくれない?」
「何を?」
「私はそんなにあなたのことを傷つけたの?」
「…」
「…それなら、ごめんなさい。本当に、佐藤君を傷つけるつもりなんてなかったの」
「どうしてそう思うの?」
「だって、普通じゃないから。…一度や二度ならからかわれているだけだと思えるけれど、そうじゃない。…あんな風に嫌がらせをされるほど、恨まれたんだって」
「嫌がらせじゃないのにな」
「嫌がらせじゃないなら何?…試しに付き合おうなんて。…私のことなんてどうでもいいくせに」
真由美の言葉に、純平の整った顔が一瞬歪んだ。
「…どうでもいい?」
「どうでもいいでしょう?接点なんて同じクラスってことくらい」
「好きだと言ったら?」
「…え?」
純平の言葉に、真由美は耳を疑った。沈黙がひどく痛い。
「…からかわないで。佐藤君に好きになってもらえる要素なんて一つもないわ。それに暇つぶしって言ったのはあなたでしょう?」
耐え切れなくなったのは、真由美だった。荒げそうになる声を必死で抑える。
「そうだね。確かに俺が言った」
「ほら、そうなんじゃない」
「ねぇ、じゃあ、なんて言えばよかったの?好きになるわけないと断言された後に」
「…」
「時々視線を感じて、振り向けば真由美ちゃんがいた」
「…!」
純平に視線が集まるのはいつものことで、だから、自分の視線に気づいているとは思っていなかった。
「正直、人に見られることは多いけど、視線の先が真由美ちゃんだった時、驚いたし、嬉しかった。…そんなこと、初めてだった」
「…」
「それから、見るようになったんだ。真由美ちゃんは本に夢中で俺が見ていても気づいてはくれなかったけれど」
「…」
「本を読んでいる真由美ちゃんをきれいだと思った。俺を見てほしいと思ったんだ」
「…そんなこと」
あるはずがない。けれど、純平の目はまっすぐで、否定の言葉を出すことはできなかった。
「ずっと、冗談に混ぜて、名前を呼ぼうと考えていたんだ。それが叶った後だったっていうのに、好きにならないと宣言された俺は、どうすればよかったの?…意地悪の一つもしたくなる」
「…」
「そしたら今度は幼馴染が彼氏?」
純平の顔が苦しそうに歪む。
「そんなはずはない。嘘だ。って…一蹴したいのに。…できると思ってたのに」
端正な顔がさらに歪んだ。
それでも、きれいな顔だと、真由美は場違いにもそう思った。
「チャラチャラしたのが嫌いなら、髪も黒く染めるし、言動にも注意する。…さわやか系が好みなら、そうなれるよう努力する」
「…佐藤…君」
「ねぇ、どうしたら、俺のものになる?」
切羽詰まったような、苦しそうな声。そこには、からかいも嘘も感じられない。
まっすぐ見つめる目は真剣で、言葉が出なかった。
真由美がいつも見てきた純平は笑っていた。いつだってそこにある笑顔に安心していた。
こんなにまっすぐな純平を真由美は知らない。
「真由ちゃん、お待たせ」
扉が開く音と同時に、聞きなれた声が真由美の耳に入る。
「涼介」
涼介は少しだけ驚いた表情を浮かべ、真由美と純平を見つめた。
「真由ちゃんに何を言ったんだ?」
「え?」
「真由ちゃん、困った顔をしてる」
「別に。ただ、愛の告白をしただけだよ」
その軽い口調は、先ほどまでの純平と差がありすぎた。何が本当で何が嘘なのか、わからなくなる。
「…真由ちゃん」
「な、何?」
「ごめんね。先に帰っててくれない?」
「え?」
「ちょっと純平君と話しておきたいんだ。だからお願い」
いつもの涼介なのに、拒むことができない強さがあった。真由美は戸惑いながら頷き、机の上に広げてあった勉強道具を鞄にしまう。
「じゃあ、先に帰るね」
「待ってもらってたのにごめんね。まだ暗くないから大丈夫だと思うけど、気を付けて帰ってね」
「うん。ありがとう」
それだけ伝えると、真由美は教室を出た。
オレンジに染まっていた空が徐々に黒に染まっていく。夜はすぐそこまで来ていた。
真由美は一人帰り道を歩きながら、先ほどの純平の言葉を思い出す。
「好きだと言ったら?」
好きだと言われたらどうするのだろうか。
そんなはずはない。冷静な自分がそう語りかける。それでも、信じたかった。信じたいと思っている自分に驚いた。
真由美と純平は全く違う世界にいた。
文字ばかりの空想と人ばかりの現実。それでも、真由美は純平を目で追った。純平が笑うと嬉しかった。
それを好きだと認めるのが怖かった。叶わないと知っていたから。
恋愛小説に出てくるヒロインは明るくて、きれいで。そんな人ではないと恋をしてはいけないと思っていた。
人と話すことが苦手で、本ばかり読んでいる。何も努力もしていない自分なんかが人を好きになってはいけないと思っていた。でも、それでも、目は純平を追ってた。
「賑やかだから見てた、んじゃない。彼だから見てたんだ」
そう呟いた。不意に涙が出そうになる。それをこらえて、真由美は、駆け出した。
伝えたいことがあるから。
涼介は、ゆっくりと教室内に入り、純平の前に立った。
「…何がしたいの?」
その目に怒りが含まれていることは容易にわかった。それでも純平は気にした風でもなく、近くにあった机に体重を預ける。
「涼介君。…真由美ちゃんは君にとって何?」
質問に答えなかった純平を咎めることなく、涼介は即答する。
「彼女だって」
「…」
口調とは違い真剣な目に、涼介は少しだけ迷い、言い直した。
「一番大切な人」
「大切…ね」
「ああ。誰よりも大切だよ」
「欲しくはならないの?自分だけのものにしたくならない?」
「…」
「俺はね、欲しいよ。真由美ちゃんが欲しい」
「……俺と君は違うから」
「そうだね。涼介君と俺は違う。俺は、そんな風に割り切れない。傍にいたら触れたいし、俺だけを見てほしいと思う。正直、色んな女の子と付き合ってきたけど、欲しいと思ったのは真由美ちゃんが初めてだ。なんで、こんなに欲しいのかわからない。でもね、気づいたら、真由美ちゃんだけを見てたんだ。真由美ちゃんだけが欲しいんだ。たとえ、君から奪うことになっても」
まっすぐに、素直に自分の気持ちを言うことができる純平を涼介は羨ましいと思った。好きな人に好きと伝える。欲しいものを欲しいという。それは強さなのだと、涼介は思う。
「……俺は、ずっと、彼女の背に隠れてきた。昔の俺は、身長も低くて、気も小さかったから周りの友達にいじめられて、それを彼女はずっとかばっていてくれた」
「…その辺りのことなら、聞いたよ。君たちと小学校も中学も同じ人にね。…守れて嬉しかった?」
「え?」
「小学生の頃は、真由美ちゃんも今ほど内に籠ってはいなかったんだろう?でも、中学になって徐々に変わっていった。それを、涼介君が傍で支えていたって言っていたよ」
真由美の背にかばわれていた頃、自分のことだけを気にしてくれているのが嬉しくて、でも、守られているのが悔しかった。だから、涼介は空手を始めた。真由美を守れるようになりたかったから。
背も高くなり、涼介のことをいじめるものはいなくなった。けれど、その頃から、真由美は自分に自信を持てなくなった。周りが大人になっていく速さに追いつくことができなかったのだ。だから、もともとあった人見知りがさらに激しくなり、内に、内に逃げ込むようになった。
そんな真由美を涼介は守ってきた。傍にいて、「大丈夫だよ」と安心させた。真由美が涼介にしてくれたように。
「真由美ちゃんを一人にしているのは、涼介君だよ」
「え?」
「確かに真由美ちゃんは人見知りだ。人の輪の中に入っていくのが苦手なんだと思う。でも、きっかけさえあれば、入っていける。じゃなきゃ、あんな風に俺に文句を言えないし、みんなの前で、君と付き合っているなんて叫べない」
「…」
「真由美ちゃんは強いよ。君が思っている何倍も」
「…」
「真由美ちゃんを守りたいのは、君の願望だ。真由美ちゃんの傍にいて、支えているのも。そして、真由美ちゃんも君が助けてくれると安心している。だからこそ、自分で周りに入っていこうとしない。その努力すらもしていない」
「…」
「でも、それじゃあ、ダメだろ?」
純平の言葉に反論したかった。けれど、言葉が出てこない。全部が正しいわけではないのに、それでも何も言えない自分が涼介は悔しかった。
真由美を守っていたのは事実だ。不安で押しつぶされそうな真由美を支えていたのは涼介だ。けれど、傍にいて、自分だけを頼ってくれる、その事実に、浸っていたのも事実だ。それが、外に出ていこうとする真由美を閉じ込めているのかもしれない、そう思う自分の考えを押し殺していた。
「君に何がわかるんだ!真由ちゃんの不安も、真由ちゃんの弱さも何も知らないくせに」
「わからないよ。何もわからない。…だから、知りたいんだ。だから、真由美ちゃんの傍にいたいんだ」
『家族』と先に言ったのはどっちだっただろうか。涼介は記憶の中を探る。
いつの間にか、真由美は涼介の、涼介は真由美の隣にいることが当たり前になった。生まれた時から、隣にいて、何をするにも一緒だった。真由美は涼介に安心し、時には弟のように、時には兄のように接した。「好き」という言葉は、決して恋愛のそれと取られることはなく、傍にいるのは当たり前なのに、触れることを考えることすら許されなくなった。
「…純平君が羨ましいよ」
小さくもらした言葉。けれど、それは純平の耳にしっかりと届く。
「俺は、涼介君が羨ましいけどね。だって、君は真由美ちゃんのすべてを知っている。彼女の優しさも、弱さも」
「…」
「だけど、どうしても譲れないから」
「……思ったよ。欲しいって。触れたいって。俺だけを見てほしいって」
「…」
「でもね、過去のことだ。…今でも、大好きで、大切だけど、俺は真由ちゃんには触れない。もう、『家族』なんだ。誰よりも大切で、誰よりも幸せになってほしい人。俺は、真由ちゃんの幸せを隣で見ていられたらそれでいい。諦めじゃなく、そう思うんだ」
「…強いね。俺なんか敵わないくらい」
純平の言葉に、涼介は一瞬笑みを浮かべた。
「泣かせたら、容赦なく君から引き剥がすから」
「泣かせないよ」
はっきりと言われたその言葉に、涼介は小さく頷いた。
「はあ、はあ…」
切れる息を整うこともせず、真由美は力いっぱい、教室の扉を開ける。
「お願い、聞いてほしいことがあるの!」
けれどその言葉は、静けさの中に消えていった。教室を見渡す。そこには、純平も涼介もいなかった。
扉に手をかけたまま、ずるずると座り込む。
「当たり前か。…もういないよね」
「涼介君の言った通りか」
「え?」
後ろから聞こえる声に、真由美は振り返った。隣の教室から出てきた純平が笑っていた。
「な、なんでいるの?」
「涼介君がね、きっと真由美ちゃんはここに戻ってくるだろうから待ってろってさ。…なんだよ。自分は真由美ちゃんのことなら全部わかってますって?…やっぱり彼、何とかしないといけないな」
「…涼介との話って、…何もなかった?」
「何もって?」
「…涼介、今にも殴りかかりそうな勢いだったから」
「…大丈夫だよ。ただ話をしただけ」
「よかった」
「それより、真由美ちゃん、聞いてほしいことって?」
そう言いながら、純平は真由美に手を差し伸べる。真由美は戸惑いながらも、その手を取り、立ち上がった。と同時に、引き寄せられる。真由美の腰に、純平の腕が回った。
「汗かいてる」
「え?」
「そんなに必死に走ってきてくれたの?」
「…あ、え…あの…」
純平の言葉に、恥ずかしさがこみ上げる。必死に離れようとするが、真由美を抱く純平の力は強かった。
「真由美ちゃん」
「…っ!」
耳元で囁かれる声。その声に、甘さが混ざり、真由美の体温はさらに上昇していく。
「もう一度、言わせて。今度はちゃんと。そしたら、今度は、真由美ちゃんの本当の言葉を頂戴」
「…」
「好きだよ」
「…わ、私も!」
「…」
「……私も、佐藤君が好き」
「…うん」
「釣り合わないってわかってる。でも、…自分のことも、佐藤君の言葉も、信じたいの」
「真由美ちゃん…ありがとう。それから、色々意地悪言って、ごめん」
「…うん。でも、…それがなかったら、きっと私は、自分の気持ちには気が付かなかったから。だから、いいよ」
真由美は、純平の胸に預けていた頭を持ち上げる。目を合わせれば、純平は照れたように笑った。
その表情も初めて見る顔だった。こうして、一つ一つ、新しい顔を知っていけたらいいなと思う。
「明日の朝、迎えに行くね」
「え?」
「それでさ、朝一で報告しに行こう。…真由美ちゃんの過保護な幼馴染に。幸せになりますって」
「…それじゃあ、結婚の報告みたいだよ?」
「うん。そうだね」
「え?」
「でもさ、そのくらいじゃなきゃ、きっと、彼は認めてくれないと思うんだ。だから、幸せになろう」
「…うん」
頷きながら、真由美はぎこちなく、純平の背中に腕を回した。
明日は、早く起きて、涼介の家まで2人で行こう。そうして、「ありがとう」と「もう大丈夫だよ」と伝えよう。
そしたら、3人で一緒に学校に行けばいい。2人とも文句を言うだろうけれど、きっと、それでも楽しいだろう。
大好きな恋人と幼馴染に囲まれて、幸せじゃないわけがないのだから。
知らぬ間に周りから「真面目」と言われるようになった。
学級委員を押し付けられ、みんなから「委員長」としか呼ばれなくなった。
普段の会話はなくて、テストが近くなった時ばかり、ノートだけが人気者になる。
それでいいと思っていた。いいと思うしかなかった。
「委員長~。ノート貸して」
昼休み。お弁当を食べ終え、自席で本を読んでいた真由美は、クラスメイトの男子から、声をかけられた。その言葉で期末まであと一週間だったことを思い出す。
「…何の?」
「数学と化学」
「どうぞ」
授業中に黒板をまとめただけのノートを差し出した。
普通に聞いていれば全員が同じノートを作れるはずなのに、どうして毎回人のノートが必要になるのか不思議で仕方がない。
「ありがとう」
「あ、委員長。俺たちもコピーさせて」
「…ご自由に」
手を上げた数人に感情なく告げる。
「サンキュー」
それでもこの人たちにとっては、普段は話すことのない無愛想な自分に声をかけるほど重要なものなのだと、いつも実感するのだ。ノート一冊が自分の存在より重要視されている。
「そういえばさ、委員長って本名なんだっけ?」
ノートを手にしたクラスメイトは、真由美から少し離れただけであるのに、堂々とそんな話を始めた。聞いていないと思っているのか、聞こえてもいいと思っているのか、ボリュームは小さくなっていない。
「田中、それ失礼すぎるだろ…えっとなんだっけ?」
「木村だって同じだろ!」
そして笑いが起きた。
ノートを貸してと言った田中は、1年から真由美と同じクラスである。コピーを取らせてと言った木村には、この前もノートを貸したはずだ。
2年になって、もうすぐ半年が経とうとしている。それでも、本当の名前すら覚えられていない。
慣れ過ぎて何も感じないと思っていた。それでも聞いていたくはなかった。
「何言っちゃってんの?真由美ちゃんでしょ?真由美ちゃん。高橋真由美」
突然出てきた自分の名前に、思わず顔をあげる。金色の髪が視界に入った。
いつも自然に目に入ってしまう目立つ髪型。いつものように彼は笑っていた。
「そうそう、そんな感じ。よく覚えてるな、純平」
「当たり前だよ。女の子の名前忘れるなんて、失礼なまねはしないの。俺、紳士だから」
「お前それ、ただ女好きなだけだろ?」
「バレたか」
彼の言葉に周囲が笑った。
佐藤純平の周りにはいつも人が集まっている。明るくてスポーツが万能な彼は、生徒だけではなく、教師からも好かれていた。
明るく染めた髪の色は、何度となく注意されていたけれども。それでも、彼のペースにすっかり乗せられ、「重要な式の前には黒くするように」との一言で黙認されている。純平の周りには笑いが絶えない。
真由美は純平を見ていた。笑い声のする方に目を向ければ、鮮やかな金色が見えたから。視線を下げればそこにはいつも笑顔があった。
純平の笑顔を見ているだけで楽しかった。クラスの輪の中に入れなくても、その笑顔を見れば、自分も同じ空間にいるのだと思えた。口を大きく開け、楽しそうに笑うその顔を見るたび、真由美は安心していた。
だからこそ、嬉しかった。純平が自分のことを知っていてくれたことが。たかが、名前を憶えていてくれただけなのに、泣いてしまいそうになるほど、嬉しかったのだ。
「あ、そうだ。ねぇ、真由美ちゃん」
「えっ!」
自然と熱くなる目頭。その原因ともなった人物から突然声をかけられ、真由美は思わず立ち上がる。その反応に、周囲から小さな笑いが漏れた。顔に熱が集まる。
「あ~、ごめん。そんなに大切なことでもないんだけど…俺にもノート貸してくれないかなって。木村たちの後に」
「あ、うん。…ありがとう」
「え?ありがとうは俺のほうでしょ?」
「…あ、えっと、でも。…ありがとう」
どうしても言いたかった。感謝の言葉を伝えたいと思った。
「あ~~!もしかして、委員長、純平のこと好きなんじゃねぇの?」
けれど、その言葉は、「委員長」が「人気者」に伝える言葉としては不似合だったのかもしれない。
「へぇ。意外。委員長ってもっと真面目なやつが好きだと思ってた」
「えっ、ち、違う。そ、そんなことあるわけないでしょう!」
からかわれていることは口調からはっきりしていた。けれど、否定しないわけにはいかない。過剰反応は逆効果。それは理解していた。しかし、慣れていない話題に耳まで赤く染まる。否定の言葉は、誤解を招くだけであった。
「委員長。マジで?委員長が純平ね…」
好奇の視線が集中する。
「やめてって言ってるでしょ!こんなチャラチャラした人、どうやったって、好きになるわけないじゃない!」
声を張ったその言葉に、教室の時間が一瞬止まった。
「…委員長、きついな~」
場の空気を暖めようと、軽い口調で誰かが言った。
「…何、あの言い方?調子のってない?委員長のくせに」
小さな声を真由美の耳が拾う。純平は女子からの人気も当たり前のように高かったのだと、思い出す。
何か言わなければならないと思った。いくらなんでも言い過ぎた。
それでも、真由美の口から言葉は出ない。逃げ出したいけれど、足も動かなかった。
「ひっどいな~。真由美ちゃん」
場の空気を戻したのは、気の抜けるような純平の声。たった一言で、嫌な空気がきれいに消えた。
「ま、チャラチャラしてるって本当のことだけどな、純平」
「お前らもひどいっての」
そう言って笑う。その笑顔に、ほっとする。
「あ、あの…」
さすがに何も言わないわけにはいかないと、謝罪の言葉を口にしようとした。
「ねぇ、真由美ちゃん。じゃあさ、試してみない?」
けれど、その言葉は遮られる。
「え?」
「こんなチャラチャラした俺に恋するかどうか」
「……え?」
「付き合っちゃおうよ」
「………」
「え――――!!!」
周りから、驚きの声が上がったのを、真由美は他人事のように見ていた。
本日の終業を知らせるチャイムが鳴る。
真由美は鞄に教科書とノートを詰めていた。感じる視線には気づかないふりをする。
それでも近づいてくる足音に、それは通用しない。
「真由美ちゃん。一緒に帰ろっ」
ハートマークが見えそうな弾んだ声で言われたその言葉に、周囲の視線が一層集まる。
真由美は昼の自分を心の中で責めた。
軽くため息をつく。目の前の金色の髪が揺れた。
「ため息つくと幸せが逃げるよ」
「佐藤君」
「何?」
「昼休みの発言を、全面的に撤回するから、そろそろ許してはもらえないかしら?」
あくまで冷静に、そして慎重に真由美は言葉を選ぶ。
「ん?」
純平は軽く首を傾げた。おそらく意識した上でのその動作に、多少イラつきながらも、昼休みの失態を思い出し、冷静に告げる。
「ごめんなさい。チャラチャラしているなんて言って。見た目が派手だからそういう風に言ってしまったけれど、でも、思い出してみたら、普段の佐藤君は、チャラチャラなんてしていなかった。だから、あの言葉は撤回するわ」
「そっか。いや、でも実際俺、チャラチャラしてると思うよ?」
「そんなことない。チャラチャラなんてしてない。だから撤回させて」
「…真由美ちゃんがそこまで言うなら、いいよ。それで」
純平の笑みに、今度は安堵の息を吐いた。
「…よかった。本当にごめんなさいね」
「いいよ。…ところで、帰る準備終わった?」
「はい?」
「一緒に帰ろうよ」
純平の言葉に、真由美は動きを止め、周囲の視線はさらに集まった。
「…許してくれたんじゃなかったのかしら?」
「許したよ。ま、許すも、許さないも、別にそこに対して全く怒ってなかったけどね」
「……じゃあ、どうして一緒に帰るっていう話になるの?」
「え?だって、試しに付き合ってみようって言ったよね?」
「……そうね」
「ほら。だからだよ」
満面の笑みを浮かべる純平に今度こそ、声を荒げる。
「何がほら、なのか全くわからないんですけれど!」
「え?」
「え?じゃないわよ!許すって言ってじゃない。それなら、佐藤君の発言も撤回してよ。なんで付き合うとかいう話になるわけ!」
「だってさ、面白そうでしょう?…それに、本当に俺に惚れないのか気になるし」
純平の笑みにどこか黒いものを感じ、真由美は直感した。撤回しなければならない言葉を間違えたのだと。
「…私はどうしたら、許してもらえるのかしら?」
頭を押さえて真由美は問う。
「え~?付き合うしかないんじゃない?それか、前言撤回する?でも、そうしたらそうしたで、別の誤解を生むね」
楽しんでいる。純平の目が告げていた。どうしてこんな目に合わなければならないのか。ただ、名前を憶えていてくれたこの人に、「ありがとう」と伝えただけなのに。
「これって、新手のいじめか何か?」
「ううん。ただの暇つぶし。真由美ちゃんみたいなタイプと付き合ったことないし」
そういうのをいじめとも呼ぶのだと、真由美は心の中で毒づく。何が暇つぶしだ。さみしかったけれど、それでも平穏な高校生活を奪っておいて。
「佐藤君、見かけによらず、性格悪いのね」
「見かけは性格よさそうに見えるんだね」
途中からギャラリーは2人の会話についてきていない。物騒な話に変わってきている2人の会話をただ、首を傾げて聞いているだけだ。
それでも、周りを囲んでいる人々が味方をするのは、真由美の目の前にいるこの男。
「どうしたらいいって言うの?」
純平に問うているのか、自分に問うているのかわからないほどの小さな声。それでも純平の耳はその言葉を拾い、小さく笑う。
「だから、俺と付き合おうよ。お得だと思うけど?」
「…お得?」
「だって、俺、一応、顔の評判はいいし。付き合う子には優しくするし。満足させられる自信あるしね」
「そういうのがチャラいって言ってるのよ」
「あれ?前言撤回したんじゃなかったの?」
楽しそうに笑う純平に聞こえるように大きなため息をついた。
周りの視線が痛い。
なぜ、人前で「付き合う」「付き合わない」の議論をしなければならないのか。しかも、見様によっては、純平の申し出を真由美が断っているように見える。
「何、あれ?」
「生意気」
沈黙ができるたびに、耳に入る声に、どうすることもできない。恋愛に関して、女子に睨まれるという経験は今までなかった。男子とまともに話すことすらなかったのだから。
それでも、こうして、初めて経験し、その怖さがわかる。そんな怖さなど、わかりたくもなかった。
「真由ちゃん、帰ろ?」
不意に、名前を呼ばれた。教室の入り口に見知った顔がある。
栗色の短い髪。端正な顔立ち。身長は平均男子の身長より数センチ高く、それに合わせて手足も長い。
「あれ、2組の涼介くんじゃない?」
「相変わらず、格好いいね」
「…ねぇ、真由ちゃんって誰?」
殺伐とした雰囲気にさわやかな風を入れた涼介に周囲は視線を向けた。しかし、日ごろから視線が集まることに慣れている彼は、気にした風でもなく、ただ一人に目を向けている。
「…えっと。…取り込み中?」
いつもなら、教室の端で一人静かに本を読んでいるはずの真由美が、クラスメイトに遠巻きでだが囲まれている。目の前には、人気者である純平。そして、教室内の雰囲気は、冷たい。
「……なかなか来ないから、迎えに来たんだけど。…えっと、どうしよう?」
困ったように頭をかく涼介の声で我に変った真由美は、急いで涼介のもとに駆け寄り、腕を絡めた。
「わ、私、この人と付き合ってるから!だから、付き合うとか無理ですから」
「え?」
「は?」
涼介と純平が同じように口を開ける。一瞬遅れ、周囲も驚きを示した。
「ね!」
同意を強制する視線を斜め上に向けた。
「え?あ、うん。…そういうことだから、諦めて?」
「じゃ、じゃあ。そういうことだから。…涼介、帰ろう」
「あ、真由ちゃん。待ってよ」
「…ふ~ん」
逃げるように去っていく2人の後ろ姿を見つめ、純平は面白そうに片頬を上げた。
「…ごめん!」
学校を出て少し進んだところで、真由美は両手を合わせ、涼介に謝罪した。
「本当に、ごめん。いくら幼馴染だって言っても、迷惑かけすぎだよね」
「えっと…それは大丈夫だけど。いつだって助けてもらってたの俺のだし」
「それって、小さい時だけじゃない。それからは、いつも私が助けてもらってる。…今度も、彼氏とかみんなの前で言っちゃったし…」
「…真由ちゃん。なんだったの、あれ?」
当然の問いに、真由美はそれまでの経緯を説明する。
「…なんか大変だったね。でも、純平君ってそんなキャラだった?」
「何が暇つぶしなのよ!…これからどうしよう。…そういえば、歩美ちゃんにも早めに事情説明しないと、変な誤解されちゃうね。必要なら私からもちゃんと話すから言ってね」
「あれ?真由ちゃんに言ってなかった?」
「…何を?」
「俺と歩美、結構前に別れたよ」
「…え?聞いてないよ」
「また振られちゃった」
「…もしかして、また原因私?」
「『私と真由美ちゃん、どっちが好きなの?』だって。好きの意味が違うんだから、比べようもないのにね」
「…だから、毎日一緒に帰らなくてもいいって言ってるのに」
「それは嫌。俺がさみしいから」
すぐに返された返事に真由美は苦笑した。
「…そんなこと言ってるから誤解されるんでしょう?」
「ま、それが今回うまく作用しそうだし、いいんじゃない?」
「…?」
「俺たち毎日登下校してるし、家も隣で仲がいいし、『付き合ってる』って噂もあるみたいだよ?特にうちのクラスで。それに、今回の発言。きっと純平君も騙されてくれるって」
「…でも、それじゃあ、涼介に迷惑かかるでしょう?」
「いいんだ。しばらくは彼女とかいらないかなって思ってたし。真由ちゃんの役に立てるならそれでいいよ」
「…いつも本当にごめんね」
「だから、いいんだって。真由ちゃんは、家族みたいなものだから。じゃあ、これから、純平君が諦めてくれるまで、仮の彼氏だね」
「すぐに諦めてくれるよ、きっと。だって、ただの暇つぶしだもん」
「だといいね」
そう言って涼介は笑った。
その笑みは、いつだって、真由美の隣にあったもの。小さい頃は、背が低く、気も小さくて、いつも真由美の後ろに隠れていた。そんな涼介を真由美は、いつもかばってきた。
涼介は真由美にとって守るべき存在だった。それがいつからか、立場は逆転していた。
いつだって、涼介は、真由美のことを守ってくれる。一緒に帰るのもその一つだ。
以前、真由美は一人で帰っていて、不良に絡まれたことがあった。隙を見て人通りの多いところに逃げ出したけれども、それからしばらくは一人で歩くのが怖かった。そのことをどこからか聞きつけた涼介は、それから登下校を一緒にするようになった。
涼介に彼女ができても、いつも真由美を優先してくれる。その申し出には、断っているつもりだが、涼介と彼女が別れる理由には大抵、真由美が関係していた。
格好良くて、要領もいいできた幼馴染の唯一の欠点。それが、真由美だと真由美自身思っている。
早く幼馴染離れをしなければならない。そう思っているのに、今回も迷惑をかけてしまった。
それでも、笑顔で力を貸してくれる涼介を見ると、どうしても甘えてしまうのだ。
隣で、今日の出来事について楽しそうに話す幼馴染のきれいな横顔を眺めながら、心の中でもう一度「ごめん」と告げた。
朝日の光で、目が覚めた。窓を開ければ、さわやかな風。今日も平凡な一日になると疑わなかった。
けれど、それはただの願望でしかなかった。
「委員長と涼介くんが?」
「え~似合わない~」
学校についた瞬間から、耳にした自分の噂。羨望と嫉妬と好奇の視線が注がれる。どうしてこんなことになっているのだろうと痛くなる頭を押さえた。
「おはよう。真由美ちゃん。今日も朝から読書?」
明るい声が頭上から降ってくる。仕方なく顔を上げるとそこには純平の笑顔があった。
「おはよう」
できるだけ冷静に告げる。
「で、今日は一緒に帰ってくれるよね?」
「おいおい。純平。からかうのもその辺にしておいてやれよ」
「そうそう。涼介にも悪いだろう。涼介、空手やってるって言ってたから、あんまりからかってるとやられちまうぜ?」
昨日はただ遠巻きに見ていたクラスメイトが、間に入った。
「確かに、悪いね。…付き合ってるって話が本当なら」
囁かれるように言われた最後の言葉に、真由美の肩が上がった。
「悪いと思ってるなら、もう委員長に構うのやめてやれって」
「…ねぇ、真由美ちゃん」
「…何?」
「いつから付き合ってるの?」
「…い、一週間前」
「そうなんだ、最近なんだね」
「…」
「どうやって知り合ったの?」
「も、もともと幼馴染で…」
「ふ~ん。あ~、そういえば聞いたことがあるかも。隣同士なんだっけ?そういえば、いつも一緒に帰ってるよね」
「…」
「どっちから告白したの?」
質問の応酬。どうしてそれに答えなくてはいけないのか。けれどそう思っていても、拒絶できない圧力があった。
「…わ、私から」
「へ~意外だね」
「…」
「ねぇ、真由美ちゃん。ちょっと耳貸して?」
「え?」
返事を待たずに、純平は、真由美の耳に顔を近づけた。息がかかるほど近づき、囁く。
「俺の方が、いい男だよ?俺にしたら」
言葉の最後に、軽く息を吹きかけた。真由美は慌てて耳を押さえる。
体温は上がり、耳まで赤くなっていた。驚きすぎて文句を言うことすらできない。
「真由ちゃん」
教室の扉が開く音。それと同時に、真由美のクラスに、涼介が入ってきた。
「辞書貸してくれる。…って、どうしたの?真っ赤だよ?」
そういいながら、真由美に駆け寄った。
「あ、いや。…これは…」
「真っ赤」という言葉に、さらに体温は上がった気がした。真由美は、耳を押さえながら、言葉に詰まる。そんな真由美とその前にいる純平を涼介は数回見た。
そして、真由美をかばうように立ち、純平をまっすぐ見る。
「…俺の彼女をからかうのやめてくれない?」
いつもと違う低い声。その声に驚き、真由美は顔を上げた。「怒っている」のだとわかった。いつもの表情だけれども、確かに涼介は怒っていた。
「…俺の彼女、ね?」
「何?何か言いたいことでもある?」
「別に。あ、そうだ。一つ聞いてもいいかな?…どっちから告白したの?」
「俺から」
涼介の回答に、真由美は、頭を抱えたくなるのを必死でこらえた。にやりと純平が笑う。
「さっき真由美ちゃんは自分からって言ったけど?」
「…きっかけを作ったのは真由ちゃんで、『好きだ』と言ったのは俺だから。真由ちゃんは真由ちゃんで、自分からだって思ってるみたいだけど、俺は俺で、俺からだと思ってる」
「…」
「これで満足?じゃあ、もうこれ以上俺の彼女にちょっかいかけないでね」
「涼介…」
「真由ちゃんも、何かあったらすぐに俺に言ってね」
「…ありがとう。あ、辞書って国語でいいの?」
「うん。ありがとう。借りていくね」
「うん」
「あ、それと、今日委員会が入っちゃったんだ。だから、待っててくれる?」
「わかった」
「できるだけ早く来るから」
「うん」
いつもの会話のはずだった。それでも、それは、「幼馴染」の会話ではなく、「恋人」の会話に聞こえた。本当に付き合っているのではないかという錯覚にすら陥る。
笑顔で教室を出ていく涼介を真由美は見送った。
目の前に立っていた純平は、笑顔とは違う表情を浮かべていた。初めて見る表情。それがどんな意味を持つのか、真由美にはわからなかった。
オレンジの光が、教室に差し込んでいる。教室には、真由美しか残っていなかった。
教科書とノートを開き、時間を潰す。涼介を待っている時は、いつもそうしていた。
ガラガラ。教室の扉が開く音。
反射的に顔を上げた。
「…」
「本当に待ってるんだね」
そこに立っていたのは、待ち人の姿ではなかった。
「約束したから」
「いつも一緒にだよね?」
「涼介は心配性だから」
「ふ~ん」
「…何?」
「いや。…あ、そうだ。朝は上手く撒かれたよ」
「何のこと?」
「涼介君って頭がいいんだね」
「…」
「しかも人望もある。あのあとも、何人かに注意されたよ。からかうのはやめろって」
「…あの、一つ教えてくれない?」
「何を?」
「私はそんなにあなたのことを傷つけたの?」
「…」
「…それなら、ごめんなさい。本当に、佐藤君を傷つけるつもりなんてなかったの」
「どうしてそう思うの?」
「だって、普通じゃないから。…一度や二度ならからかわれているだけだと思えるけれど、そうじゃない。…あんな風に嫌がらせをされるほど、恨まれたんだって」
「嫌がらせじゃないのにな」
「嫌がらせじゃないなら何?…試しに付き合おうなんて。…私のことなんてどうでもいいくせに」
真由美の言葉に、純平の整った顔が一瞬歪んだ。
「…どうでもいい?」
「どうでもいいでしょう?接点なんて同じクラスってことくらい」
「好きだと言ったら?」
「…え?」
純平の言葉に、真由美は耳を疑った。沈黙がひどく痛い。
「…からかわないで。佐藤君に好きになってもらえる要素なんて一つもないわ。それに暇つぶしって言ったのはあなたでしょう?」
耐え切れなくなったのは、真由美だった。荒げそうになる声を必死で抑える。
「そうだね。確かに俺が言った」
「ほら、そうなんじゃない」
「ねぇ、じゃあ、なんて言えばよかったの?好きになるわけないと断言された後に」
「…」
「時々視線を感じて、振り向けば真由美ちゃんがいた」
「…!」
純平に視線が集まるのはいつものことで、だから、自分の視線に気づいているとは思っていなかった。
「正直、人に見られることは多いけど、視線の先が真由美ちゃんだった時、驚いたし、嬉しかった。…そんなこと、初めてだった」
「…」
「それから、見るようになったんだ。真由美ちゃんは本に夢中で俺が見ていても気づいてはくれなかったけれど」
「…」
「本を読んでいる真由美ちゃんをきれいだと思った。俺を見てほしいと思ったんだ」
「…そんなこと」
あるはずがない。けれど、純平の目はまっすぐで、否定の言葉を出すことはできなかった。
「ずっと、冗談に混ぜて、名前を呼ぼうと考えていたんだ。それが叶った後だったっていうのに、好きにならないと宣言された俺は、どうすればよかったの?…意地悪の一つもしたくなる」
「…」
「そしたら今度は幼馴染が彼氏?」
純平の顔が苦しそうに歪む。
「そんなはずはない。嘘だ。って…一蹴したいのに。…できると思ってたのに」
端正な顔がさらに歪んだ。
それでも、きれいな顔だと、真由美は場違いにもそう思った。
「チャラチャラしたのが嫌いなら、髪も黒く染めるし、言動にも注意する。…さわやか系が好みなら、そうなれるよう努力する」
「…佐藤…君」
「ねぇ、どうしたら、俺のものになる?」
切羽詰まったような、苦しそうな声。そこには、からかいも嘘も感じられない。
まっすぐ見つめる目は真剣で、言葉が出なかった。
真由美がいつも見てきた純平は笑っていた。いつだってそこにある笑顔に安心していた。
こんなにまっすぐな純平を真由美は知らない。
「真由ちゃん、お待たせ」
扉が開く音と同時に、聞きなれた声が真由美の耳に入る。
「涼介」
涼介は少しだけ驚いた表情を浮かべ、真由美と純平を見つめた。
「真由ちゃんに何を言ったんだ?」
「え?」
「真由ちゃん、困った顔をしてる」
「別に。ただ、愛の告白をしただけだよ」
その軽い口調は、先ほどまでの純平と差がありすぎた。何が本当で何が嘘なのか、わからなくなる。
「…真由ちゃん」
「な、何?」
「ごめんね。先に帰っててくれない?」
「え?」
「ちょっと純平君と話しておきたいんだ。だからお願い」
いつもの涼介なのに、拒むことができない強さがあった。真由美は戸惑いながら頷き、机の上に広げてあった勉強道具を鞄にしまう。
「じゃあ、先に帰るね」
「待ってもらってたのにごめんね。まだ暗くないから大丈夫だと思うけど、気を付けて帰ってね」
「うん。ありがとう」
それだけ伝えると、真由美は教室を出た。
オレンジに染まっていた空が徐々に黒に染まっていく。夜はすぐそこまで来ていた。
真由美は一人帰り道を歩きながら、先ほどの純平の言葉を思い出す。
「好きだと言ったら?」
好きだと言われたらどうするのだろうか。
そんなはずはない。冷静な自分がそう語りかける。それでも、信じたかった。信じたいと思っている自分に驚いた。
真由美と純平は全く違う世界にいた。
文字ばかりの空想と人ばかりの現実。それでも、真由美は純平を目で追った。純平が笑うと嬉しかった。
それを好きだと認めるのが怖かった。叶わないと知っていたから。
恋愛小説に出てくるヒロインは明るくて、きれいで。そんな人ではないと恋をしてはいけないと思っていた。
人と話すことが苦手で、本ばかり読んでいる。何も努力もしていない自分なんかが人を好きになってはいけないと思っていた。でも、それでも、目は純平を追ってた。
「賑やかだから見てた、んじゃない。彼だから見てたんだ」
そう呟いた。不意に涙が出そうになる。それをこらえて、真由美は、駆け出した。
伝えたいことがあるから。
涼介は、ゆっくりと教室内に入り、純平の前に立った。
「…何がしたいの?」
その目に怒りが含まれていることは容易にわかった。それでも純平は気にした風でもなく、近くにあった机に体重を預ける。
「涼介君。…真由美ちゃんは君にとって何?」
質問に答えなかった純平を咎めることなく、涼介は即答する。
「彼女だって」
「…」
口調とは違い真剣な目に、涼介は少しだけ迷い、言い直した。
「一番大切な人」
「大切…ね」
「ああ。誰よりも大切だよ」
「欲しくはならないの?自分だけのものにしたくならない?」
「…」
「俺はね、欲しいよ。真由美ちゃんが欲しい」
「……俺と君は違うから」
「そうだね。涼介君と俺は違う。俺は、そんな風に割り切れない。傍にいたら触れたいし、俺だけを見てほしいと思う。正直、色んな女の子と付き合ってきたけど、欲しいと思ったのは真由美ちゃんが初めてだ。なんで、こんなに欲しいのかわからない。でもね、気づいたら、真由美ちゃんだけを見てたんだ。真由美ちゃんだけが欲しいんだ。たとえ、君から奪うことになっても」
まっすぐに、素直に自分の気持ちを言うことができる純平を涼介は羨ましいと思った。好きな人に好きと伝える。欲しいものを欲しいという。それは強さなのだと、涼介は思う。
「……俺は、ずっと、彼女の背に隠れてきた。昔の俺は、身長も低くて、気も小さかったから周りの友達にいじめられて、それを彼女はずっとかばっていてくれた」
「…その辺りのことなら、聞いたよ。君たちと小学校も中学も同じ人にね。…守れて嬉しかった?」
「え?」
「小学生の頃は、真由美ちゃんも今ほど内に籠ってはいなかったんだろう?でも、中学になって徐々に変わっていった。それを、涼介君が傍で支えていたって言っていたよ」
真由美の背にかばわれていた頃、自分のことだけを気にしてくれているのが嬉しくて、でも、守られているのが悔しかった。だから、涼介は空手を始めた。真由美を守れるようになりたかったから。
背も高くなり、涼介のことをいじめるものはいなくなった。けれど、その頃から、真由美は自分に自信を持てなくなった。周りが大人になっていく速さに追いつくことができなかったのだ。だから、もともとあった人見知りがさらに激しくなり、内に、内に逃げ込むようになった。
そんな真由美を涼介は守ってきた。傍にいて、「大丈夫だよ」と安心させた。真由美が涼介にしてくれたように。
「真由美ちゃんを一人にしているのは、涼介君だよ」
「え?」
「確かに真由美ちゃんは人見知りだ。人の輪の中に入っていくのが苦手なんだと思う。でも、きっかけさえあれば、入っていける。じゃなきゃ、あんな風に俺に文句を言えないし、みんなの前で、君と付き合っているなんて叫べない」
「…」
「真由美ちゃんは強いよ。君が思っている何倍も」
「…」
「真由美ちゃんを守りたいのは、君の願望だ。真由美ちゃんの傍にいて、支えているのも。そして、真由美ちゃんも君が助けてくれると安心している。だからこそ、自分で周りに入っていこうとしない。その努力すらもしていない」
「…」
「でも、それじゃあ、ダメだろ?」
純平の言葉に反論したかった。けれど、言葉が出てこない。全部が正しいわけではないのに、それでも何も言えない自分が涼介は悔しかった。
真由美を守っていたのは事実だ。不安で押しつぶされそうな真由美を支えていたのは涼介だ。けれど、傍にいて、自分だけを頼ってくれる、その事実に、浸っていたのも事実だ。それが、外に出ていこうとする真由美を閉じ込めているのかもしれない、そう思う自分の考えを押し殺していた。
「君に何がわかるんだ!真由ちゃんの不安も、真由ちゃんの弱さも何も知らないくせに」
「わからないよ。何もわからない。…だから、知りたいんだ。だから、真由美ちゃんの傍にいたいんだ」
『家族』と先に言ったのはどっちだっただろうか。涼介は記憶の中を探る。
いつの間にか、真由美は涼介の、涼介は真由美の隣にいることが当たり前になった。生まれた時から、隣にいて、何をするにも一緒だった。真由美は涼介に安心し、時には弟のように、時には兄のように接した。「好き」という言葉は、決して恋愛のそれと取られることはなく、傍にいるのは当たり前なのに、触れることを考えることすら許されなくなった。
「…純平君が羨ましいよ」
小さくもらした言葉。けれど、それは純平の耳にしっかりと届く。
「俺は、涼介君が羨ましいけどね。だって、君は真由美ちゃんのすべてを知っている。彼女の優しさも、弱さも」
「…」
「だけど、どうしても譲れないから」
「……思ったよ。欲しいって。触れたいって。俺だけを見てほしいって」
「…」
「でもね、過去のことだ。…今でも、大好きで、大切だけど、俺は真由ちゃんには触れない。もう、『家族』なんだ。誰よりも大切で、誰よりも幸せになってほしい人。俺は、真由ちゃんの幸せを隣で見ていられたらそれでいい。諦めじゃなく、そう思うんだ」
「…強いね。俺なんか敵わないくらい」
純平の言葉に、涼介は一瞬笑みを浮かべた。
「泣かせたら、容赦なく君から引き剥がすから」
「泣かせないよ」
はっきりと言われたその言葉に、涼介は小さく頷いた。
「はあ、はあ…」
切れる息を整うこともせず、真由美は力いっぱい、教室の扉を開ける。
「お願い、聞いてほしいことがあるの!」
けれどその言葉は、静けさの中に消えていった。教室を見渡す。そこには、純平も涼介もいなかった。
扉に手をかけたまま、ずるずると座り込む。
「当たり前か。…もういないよね」
「涼介君の言った通りか」
「え?」
後ろから聞こえる声に、真由美は振り返った。隣の教室から出てきた純平が笑っていた。
「な、なんでいるの?」
「涼介君がね、きっと真由美ちゃんはここに戻ってくるだろうから待ってろってさ。…なんだよ。自分は真由美ちゃんのことなら全部わかってますって?…やっぱり彼、何とかしないといけないな」
「…涼介との話って、…何もなかった?」
「何もって?」
「…涼介、今にも殴りかかりそうな勢いだったから」
「…大丈夫だよ。ただ話をしただけ」
「よかった」
「それより、真由美ちゃん、聞いてほしいことって?」
そう言いながら、純平は真由美に手を差し伸べる。真由美は戸惑いながらも、その手を取り、立ち上がった。と同時に、引き寄せられる。真由美の腰に、純平の腕が回った。
「汗かいてる」
「え?」
「そんなに必死に走ってきてくれたの?」
「…あ、え…あの…」
純平の言葉に、恥ずかしさがこみ上げる。必死に離れようとするが、真由美を抱く純平の力は強かった。
「真由美ちゃん」
「…っ!」
耳元で囁かれる声。その声に、甘さが混ざり、真由美の体温はさらに上昇していく。
「もう一度、言わせて。今度はちゃんと。そしたら、今度は、真由美ちゃんの本当の言葉を頂戴」
「…」
「好きだよ」
「…わ、私も!」
「…」
「……私も、佐藤君が好き」
「…うん」
「釣り合わないってわかってる。でも、…自分のことも、佐藤君の言葉も、信じたいの」
「真由美ちゃん…ありがとう。それから、色々意地悪言って、ごめん」
「…うん。でも、…それがなかったら、きっと私は、自分の気持ちには気が付かなかったから。だから、いいよ」
真由美は、純平の胸に預けていた頭を持ち上げる。目を合わせれば、純平は照れたように笑った。
その表情も初めて見る顔だった。こうして、一つ一つ、新しい顔を知っていけたらいいなと思う。
「明日の朝、迎えに行くね」
「え?」
「それでさ、朝一で報告しに行こう。…真由美ちゃんの過保護な幼馴染に。幸せになりますって」
「…それじゃあ、結婚の報告みたいだよ?」
「うん。そうだね」
「え?」
「でもさ、そのくらいじゃなきゃ、きっと、彼は認めてくれないと思うんだ。だから、幸せになろう」
「…うん」
頷きながら、真由美はぎこちなく、純平の背中に腕を回した。
明日は、早く起きて、涼介の家まで2人で行こう。そうして、「ありがとう」と「もう大丈夫だよ」と伝えよう。
そしたら、3人で一緒に学校に行けばいい。2人とも文句を言うだろうけれど、きっと、それでも楽しいだろう。
大好きな恋人と幼馴染に囲まれて、幸せじゃないわけがないのだから。
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