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愛の言葉を君の口から
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土のにおいがした。雨が降るんだと葵は思った。早く降ってほしい。そうすれば、遠慮せずに泣けるから。
「別れよう」
そう言った慶太の顔を葵はただじっと見つめた。冗談ではないことは目を見ればすぐにわかる。どこか苛立つような口調に苦しくなって下を向く。
いやだ、と思った。いやだ、いやだ。けれど言葉に出せば、堪えている涙まで一緒に出てきてしまいそうで、ただ俯いたまま聞いていた。別れることよりも、これ以上嫌われるのがいやだった。葵は以前、慶太が言っていた言葉を思い出す。
「泣かれるのって面倒」
これ以上嫌われたくはなかった。「いやだ」と告げたところで、「別れよう」という言葉が覆されないのならなおさらだ。せめて、これ以上嫌われたくはない。
「最後まで何にも言わないんだな」
呆れた様な声に、びくりと肩が上がる。それでも葵は黙っていた。
「さよなら」
去っていく慶太の背中を葵はただ見送った。角を曲がり見えなくなる。
何か冷たいものが頬に触れた。雨だった。頬に当たる回数が次第に増えていく。今度は暖かい何かが頬に触れた。涙だ。
もういいのだと、葵は思った。もう、泣いてもいいのだ。そう思ったら次から次への涙が出てきた。雨の中、声を出して泣いた。
「ねぇ、葵たち…別れたの?」
沙智の言葉に葵は小さく頷いた。別れ話をしてから一週間が経っている。気づく人がいても無理はない。
「…なんで?だって、お似合いだったじゃない」
目を丸くする沙智に葵は微苦笑を浮かべる。
「嫌われちゃったみたい」
「…」
「別れよう…だって」
自嘲気味に笑った。そんな葵に沙智の表情が歪む。
「そっか」
小さく頷き、沙智は葵の頭に手を伸ばした。髪を撫でるその手が優しい。何も言わずにいてくれる優しさが嬉しくて泣きそうになる。
「…何がいけなかったのかな?」
頑張ったつもりだった。わがままは言わなかった。慶太はサッカー部のエースで、休みはほとんど部活でつぶれた。デートにだって数えるほどしか行っていない。それでも不満は言わなかった。会いたいと困らせることもしなかった。
「何がいけなかったのかな」
もう一度言葉が出た。考えても無駄なことはわかっているのに。
葵は俯いていた顔をふと、上げる。その先に見えた背中に胸が鳴った。
すぐに見つけてしまう。
どうして同じ学校なのだろうか。隣のクラスでは簡単に目に入ってしまう。そして自分ばかりが苦しいのだ。
「昨日のテレビ見た?」
友だちと話す声は一週間前と何も変わらない。きっと彼の中ではもう終わったことなのだ。そう思うと悲しくて、けれど姿が見られたことが嬉しかった。
嬉しく思ったことがなによりも悲しい。だって、もう、慶太は彼氏ではないのだから。あの雨の日、頷いた瞬間から。
「葵、…大丈夫?」
心配そうな表情を浮かべる沙智に葵は小さく頷いただけだった。
「…葵、今日は私と一緒に帰らない?家においでよ」
「え?」
「何があったか、今どう思ってるか話しちゃえば少しはすっきりするんじゃない?」
「…」
「…やっぱり、まだ話せない?」
葵は小さく首を振る。沙智の優しさが痛いほどわかった。
「沙智、聞いてくれる?」
「もちろん。じゃあ、決まりね。ほら、もう少しで授業始まるから席に戻ろう?」
沙智の言葉に促され自席についた。それと同時にガラガラと音を立て、教師が入ってくる。
こんなに苦しいのに、世界は当たり前のように過ぎていく。それがなんだか悔しかった。きっと、こんなにつらいのも今だけなのだろう。そう思うと安心した。けれど、喜んでいいことなのかわからなかった。
昇降口をくぐれば、冷たい風が頬を撫でた。秋から冬に変わる季節。ふと、サッカー部の練習風景を思い出し、半袖半ズボンでは寒いだろうなと思った。
「風が冷たいね」
「もうすぐ冬だもんね」
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
沙智の言葉に頷く。
「…?」
ふと、視線が自分に向けられているような気がして顔を動かす。2人の女子生徒と目が合った。相手は気まずそうに、すぐに逸らす。
「ほら、やっぱ別れたんだよ。いつもあの子練習見てたもん」
「やっぱりそうかな」
「そうだって」
「じゃあ、私、告っちゃおうかな」
「あの子でも付き合えたんだから大丈夫だよ!」
聞こえないように小声で話しているのはわかった。けれど、そう言う話ほど耳に入ってきてしまうものである。
葵はもう一度彼女たちを見た。綺麗だなと思う。茶色く染まった長い髪、スカートからのぞく足は細い。以前、慶太が好きだと言った女優に似ている気がした。もしかしたら、それを知っていて近づけたのかもしれない。
自分の短い髪とは大違いだ。綺麗やかわいいと言われる類ではないことはわかっていた。だからこそ、わがままを言わなかった。いつも購買のパンで済ませる慶太のために、お弁当を作ってきた。自分にできる「理想の彼女」でいたつもりだった。
「…葵?どうかした?」
「なんでもないよ。早く、行こうよ。聞いてほしいこといっぱいあるから」
精一杯笑った。きっと泣いてしまうだろう。けれど、泣くのは沙智の前だけにしたかった。泣いていたという噂が慶太の耳に決して入らないように。
「無理して笑わなくてもいいのに」
「…」
葵は心配そうに言う沙智の言葉を聞こえないふりをして足を速めた。
家に入るとすぐに沙智の部屋に通された。
「今、飲み物持ってくるね」
「ありがとう」
葵の言葉に頷き、沙智は部屋を出る。
ふと、顔を上げた。視線の先に写真立てがあった。写っているのは笑顔の沙智と沙智の彼氏だった。腕に手を回し、笑い合う2人の姿は、自分たちにはなかったもの。
キスをした。それ以上もした。けれど、思い出せば、2人で遊んだ回数を数えるのには、両手の指でも足りてしまう。半年も付き合っていたというのに。慶太はサッカー部の練習があった。部活がない日も自主練をしていた。だから仕方がないのかもしれない。けれど、それでも自分たちは本当に付き合っていたと言えるのだろうか。
「ごめん、お待たせ」
俯く顔を沙智の声で必死に上げる。
「ありがとう。…いい香り」
「うん。ミントティー。リラックスできるかなって」
沙智の言葉に葵は一瞬言葉を飲み込んだ。
「…葵?」
「……私、そんなに思いつめてるように見える?」
どこか苦笑して尋ねる葵に、沙智は少し考え、頷いた。
「ちょっとだけだけど」
「…」
「なんだろう。見ていて、私が苦しくなるよ」
「…ごめんね」
「謝ることじゃないでしょう?…ねぇ、何があったの?」
「……別れようって言われたの。……ただ、それだけ」
「…」
「精一杯頑張ったの。…部活でなかなか会えなくても文句言わなかったし、頑張って朝早く起きてお弁当作ったの。サッカーのルール憶えて、試合の応援に行って、泣くのが嫌いだって言ったから、最後まで泣かなかった」
「葵…」
「何がいけなかったのかな?」
「…」
「他に好きな人でもできたのかな?」
「葵…」
「…どうしよう、沙智。…苦しいよ」
言葉にしたら止まらなかった。涙があふれ出る。
沙智は思わず葵を抱きしめた。すがるように声を出し、涙を流す葵の背中をさする。「大丈夫だよ」そう声をかけることしかできなかった。
「葵、頑張ったね」
「…でも、ダメだった。重かったの…かな?」
「ねぇ、葵」
沙智の言葉に葵は顔を上げる。涙で濡れる頬を手の甲で拭った。
「…他の人にも目を向けて見れば?」
「え?」
「慶太君だけじゃなんだよ。もっと好きな人ができるかもしれないじゃない」
「……」
「中学校の頃の友だちに誰か紹介してって言われてるの。…いいやつだよ。面白くて、優しい。一度会ってみない?」
「…え?」
「そんな重く考えなくても、遊ぶだけ。…気晴らしにはなるかもよ?」
「……そう…だね。私、無理やりにでもそうやって別の人を見ないと、たぶん、ずっと慶太君ばかりを見ちゃうと思う」
「葵…」
「今日もね、すぐに見つけちゃったの。慶太君の背中。みんな同じ制服を着てるのに、どうしても目が追っちゃうの。…もう、彼女じゃないのに」
「…」
「私ね、中学校の頃、みんな友だちだったの。周りが恋をし始めても、バカなことを言って話している方がずっと楽しかった。でも、高校に入って慶太君を見つけたの。顔より雰囲気に惹かれたんだと思う。同い年なのに、纏う雰囲気が大人っぽくて、けれどだんだんと見ていくうちに普通の高校生男子だなってわかったの。それでも、一人だけ別に見えた」
「…うん」
「友だちと大声で笑うところも、真剣に部活してるところも、惹かれた雰囲気と違っても、どうしても視線で追っちゃうの。隣のクラスで接点がなかったのに、勇気を振り絞ってLINE聞いたんだよね」
「そうだったね。私も付き合ったもんね」
慶太の連絡先を聞くとき、沙智についてきてもらった。見えないところでずっと沙智の手を握っていた。連絡先を教えてもらえた時は、慶太がいなくなった後、2人で跳ねて喜んだ。
「初めてLINE送るときも沙智に手伝ってもらったよね」
「葵、何度も何度も書き直してたよね。最後の方は紙に書きだしたもんね」
「そうだったね。…必死だったな。付き合う前も、付き合ってからも、ずっと私だけが好きだったんだと思う。…嫌われないように、いっぱい我慢した」
「葵…」
「変でしょう?付き合っていたのに、ずっと片思いだったの。…でも、つらい以上に隣にいられることが嬉しかった。…バカみたいだよね」
自嘲の笑みを浮かべる葵に沙智は首を横に振った。
「そんなことないよ。葵が頑張ってたことは私がよく知ってるもん。それに、慶太君だって葵のこと好きだったよ。私には、そう見えた」
その言葉に葵は泣きそうになって俯いた。
「好きだって言ってほしかったな」
「…うん」
「もっと会いたかった。部活を休めなんて言わないから、部活が終わった後、ちょっとだけでも会いたかった。せめて、電話で話したかった」
「…そうだね」
「こんなことなら、もっとわがまま言えばよかった。どうせ、振られるなら、もっと、もっと言えばよかった」
「…うん」
「……一度で、よかった。嘘でも、『好きだ』って聞きたかったよ」
泣き出した葵の肩に沙智は手を置く。声を出し、泣き始める葵の頭をポンポンとあやすように叩いた。
太陽の陽射しで葵は目を覚ました。瞼が重い。鏡の前に行けば、目が赤かった。昨日、泣きすぎたなと思う。
胸は苦しかった。けれど、それでも素直に言葉にしたからか昨日よりどこかすっきりしている自分に葵は驚く。人間ってすごいなと他人事のように思った。
「…学校、行きたくないな」
学校に行けば、嫌でも慶太の姿を見つけてしまう。どうしても癖で慶太を捜してしまう。そして、そんな自分を実感するたび苦しくなる。
葵は小さくため息をついた。そんなとき、着信音が鳴る。
「…沙智?」
LINEを開けば、昨日言っていた沙智の友だちに今日の放課後会うことになったと書かれてある。
「…『善は、急げ』か」
沙智の言葉に小さく笑う。けれど、慶太以外の人を好きになれるのかわからなかった。だって、まだ、こんなにも好きなのだ。
葵は自分の胸に手を当てた。苦しいと思う。慶太を想うだけでこんなに胸が苦しくなる。涙が出そうになり葵は自分の頬を軽く叩いた。
「忘れなきゃ。…忘れなきゃ」
呪文のように2回呟いた。
「葵、今日、大丈夫?」
学校に着くと挨拶の代わりに沙智はそう葵に尋ねた。そんな沙智に葵は笑みを浮かべる。
「大丈夫。でも、ずいぶん、急だったね」
「善は急げ、だってば」
「そうだね」
「あ、そうだ。ちなみに、今日2人で会ってね」
「…え?一緒に来てくれないの?」
「大丈夫、雄大って言うんだけど、めっちゃ優しいやつだから。それに、葵はまだ付き合うとか考えてないってちゃんと言ってあるよ。だから、今日は友だちとして遊んできなよ」
「でも、初対面の人と2人きりって」
「2人にはこのくらいの荒療治くらいで十分なの」
「…2人って雄大さんも…訳あり?」
「…まあ、そんなとこかな。とりあえず、雄大が正門まで迎えに来てくれることになったから。そこまでは一緒にいるけど、そこからは2人だからね」
「…わかったよ」
少しだけ頬を膨らまし、葵が頷く。そんな様子に沙智は小さく微笑んだ。
「少しは昨日のですっきりした?」
「…うん。聞いてもらえてよかった。やっぱり、話したかったみたい」
「いつでも言ってね」
沙智の言葉に葵は大きく頷く。
「あ、一応事前情報だけど、雄大はへたれだけど、結構イケメンだよ。楽しみにしてて」
「本当に色々ありがとう」
「どういたしまして」
そう笑って沙智は自分の席に戻った。葵も自分の席に座る。
強引だなと葵は小さく笑った。だけど、そうでないと自分は慶太を忘れられない。それをわかってくれている沙智に葵は感謝した。
ふと、顔を上げる。また見つけてしまった。同じ黒い学ラン。背丈が飛びぬけて大きいわけではない。それでも、離れたところから背中だけ見て、わかってしまう。見つけて、嬉しくなってしまう。
葵は目を閉じ、心の中で言い聞かせる。新しい恋に目を向けるのだ。終わった背中を見続けてもつらいだけ。
「忘れなきゃ、…忘れるの」
小さく声を出し、もう一度自分に言い聞かせた。
帰りのHRのあと、寄るところがあるという沙智を残し、一人で正門に向かった。外に出ると太陽の陽射しは暖かいのに、吹き付ける風は冷い。「寒い」と手を合わせて呟く。
「葵、ごめん。遅くなって」
駆け足で正門に向かってくる沙智に葵は小さく首を振る。
「いいよ。でも、どこに行ってたの?」
「ちょっと伝言をしにね」
「伝言?」
「うん。あ、…雄大来たよ」
葵は沙智が指を指した先を見る。手を振ってこちらに向かってくるのは背の高い端正な顔立ちをした人だった。
「…え?あの人?」
「うん。あれ」
「…紹介なんてなくてもすぐに彼女できそうなのに」
「それがね、だめなの。へたれだってばれちゃってるから」
「別にへたれでも優しければいいと思うのに」
「そう言ってくれる葵だから紹介したいの。雄大!」
「沙智、久しぶり」
雄大はそう笑って軽く手を上げた。近くで見る顔はさらに整っており、葵は思わず見とれてしまう。
「久しぶり~、元気だった?…葵、これが雄大」
「お前、これって。…ま、いいけど。こんにちは」
笑うと砕けた表情になり、かわいいとさえ思える。そんな雄大に通り過ぎる女子生徒の視線が集まるのがわかった。穏やかに笑う物腰も優しい。
「こ、こんにちは。ちょ、ちょっと沙智、いい?」
そう言って葵は沙智と雄大に背を向ける。
「何?雄大じゃ、やだ?」
「本当に紹介なんているの?彼女なんてすぐにできるでしょ?…紹介するの私でいいの?」
「だから、いいんだって。私も葵と雄大がカレカノになったら嬉しいし」
「…でも、こんな格好いい人だなんて」
「葵ちゃんもかわいいよ」
「え?」
突然入ってきた声に思わず振り向く。声が聞こえていたらしく笑みを浮かべている雄大の顔が視界に入ってきた。
「沙智から葵ちゃんの話を聞いて、優しい人だなって思ってたんだ。だから、俺の事少しでも気に入ってくれたら嬉しい」
まっすぐな言葉に思わず頬が赤く染まった。
「え?あ…えっと…」
何か言わなくてはと思うが言葉が出ない。その様子に雄大はくすりと笑う。
「ほんと、かわいいね」
雄大は葵の赤くなっている頬に思わず手を伸ばした。
「…あんた、誰?」
けれどその手は葵に触れることなく叩き落される。
「……慶太君…?」
葵は目を丸くした。自分と雄大の間に割入った背中はいつも見つけてしまう背中だったから。
慶太が振り向き、葵を見た。どこか怒っているような視線に思わずびくりと肩が上がる。
「ねぇ、葵ちゃん、怖がってるけど」
「…あんたに関係ない」
「いや、関係ある。これから口説こうとしてる女の子だよ?」
慶太の纏う尖った空気に雄大はにこやかにそう返した。その様子にイラついたように慶太は舌打ちをする。
「何が葵のことで、面白いものを見たければ正門に来いだよ」
慶太はそう言い、沙智を見る。睨まれた沙智は気にする様子なく笑った。
「面白いでしょう?自分が振った女がイケメンに口説かれてるなんて」
「ふざけんな」
「別にふざけてないよ?雄大が彼女欲しいのも本当で、葵の話をしたら気に入ったのも本当。別に関係ないでしょう?慶太君とは違う男の人と恋したって。慶太君と葵は別れたんだし」
「…」
「別れようって言ったの慶太君なんでしょう?そう言って泣かせたくせに、彼氏面しないでよ!」
今度は沙智が慶太に怒鳴るように言った。
「…泣いた?」
「沙智!それは言わないで」
そう叫んだ葵の手を慶太は掴む。
「泣いたって何?」
「…」
「あの時、何も言わなかったくせに!」
怒鳴る声に、葵はまた肩を上げた。その様子に慶太は「ごめん」と小さく謝る。けれど、手は掴んだままだった。
先ほどからのやり取りのせいで、周りの生徒たちがこちらをちらちらを見ている。雄大の容姿のため、視線を集めていたからなおさらだった。
慶太は舌打ちし、葵の手を掴んだまま歩き始める。葵は手を振り払おうとするが、慶太の手は外れない。
助けを求めるように沙智と雄大を見る。けれど2人はただ笑って見守るだけだった。そのまま引きずられるようにその場から去っていく。
「慶太君、手を離して」
「…」
「…ねぇ、痛いってば」
手を引いたが強い力でびくともしなかった。そのまま狭い路地に入る。ようやく手が離された。掴まれたところが痛い。
「…誰、あいつ」
まっすぐ見つめる目が怖かった。だから葵は思わず視線を逸らす。
「…慶太君、部活はいいの?」
「あいつは誰か聞いてるんだけど」
「…」
「泣いたって何?」
「…」
「…何か言えよ!」
怒鳴る声に葵は泣きそうになる。けれど、まっすぐ慶太の目を見つめた。
「あの人は、沙智の友だちで、今日、紹介された人です。あの日、私は、振られたのが悲しくて泣きました。…これで、満足?」
「…あいつと付き合うの?」
「わかんないけど、…格好良くて優しい人だから、付き合うかもしれない。……でも、そんなこと慶太君が聞かないで」
苦しくなる。葵は胸を押さえた。出てくる涙を必死で堪える。
「私を振った慶太君が、…私のこれからのことに口出さないでよ!」
「…」
「なんで、あそこにいたの?なんで、こんなところに連れてきたの?なんで、責めるみたいに言うの?…別れようって言ったのは、慶太君でしょう?」
「だって葵は…何も言わなかったから」
「別れようって言われて…それを引き留められるほど、…私は、慶太君に好かれてるなんて思えなかったから。…だから、これ以上、…嫌われないように、必死で……泣かないように…してるのに……」
「……別れたくなかった?」
慶太のその問いに、葵は睨むように前を見た。堪えていた涙が頬を伝う。
「私は、ちゃんと言ったよ。好きだって、何度も。……別れたくないに決まってるじゃない。こんなに好きなのに」
「葵…」
「……好きかどうか言ってくれなかったのは、慶太君じゃない」
「…」
「今になって…こんな、…嫉妬みたいな…こんなこと……しないでよ」
涙が頬を伝う。伸ばした慶太の手を払うように拒否した。
葵の反応に傷ついたように慶太は俯く。そして小さな声で言った。
「…葵は何も言わなかったから」
「え?」
「会いたいも遊びに行こうも。LINEとか電話しほしいとも言わなかったから。…だから、無理して傍にいるんだと思った。…無理してほしくなかったんだ。わがまま言ってほしかった」
慶太の言葉に葵は思わず手を振りあげた。手のひらが慶太の頬に当たり、いい音が鳴る。
「慶太君が言ったんじゃない!面倒な女は嫌いだって。泣かれるのも好きじゃないって。…だから、慶太君がいなくなるまで泣かなかったのに。わがままだって我慢したのに。…何、それ」
力の抜けた手で慶太の胸板を2,3度叩く。「何、それ」ともう一度呟いた。
「頑張ったのに。いっぱい我慢したのに。…もう、いいよ」
葵は慶太に背を向けようとした。けれど、慶太は葵の腕を掴み、自分の胸に引き寄せる。
「やだ!」
離れようと抵抗する葵を痛いほどの力で抱きしめた。
「ごめん」
謝る声が聞こえる。けれど、葵は首を横に振った。
「ごめん」
「やだってば」
「……好きだ」
慶太の言葉に葵は動くのをやめた。目を丸くして、慶太の顔を見る。
「好きだ」
もう一度、言った。
「…今、言うの?今更、言うの?」
「虫のいい話だってわかってる。でも、好きなんだ」
「…」
「葵に無理してほしくなかったんだ。それに、ちゃんと言ってほしかった。言いたいこと言えない関係なら、付き合っても意味がないって思ってた」
「…私だって、言ったよ?……慶太君が私の事、ちゃんと好きだってわかったら言ったよ?いっぱいわがまま伝えたよ」
「…」
「…でも、慶太君は何も言わなかった。だから、ずっと、ずっと、片思いだと思ってた。わがまま言ったらすぐに離れていくって思ったから、何も言えなかった」
「ごめん。キスしたり、抱いたり、そう言うことで伝わってると思ってた。だから、言葉で言わなくてもいいと思ってた」
頭を下げる慶太に葵は首を横に振る。
「わかんないよ。私、そんなに大人じゃないもん。言葉じゃないとわかんない。…わかんないよ」
慶太の腕が葵の背中に回る。
「好きだ」
「…」
「葵が好きだ」
「…」
「いっぱい傷つけてごめん。いっぱい泣かせてごめん。…これからはちゃんと話し合おう。嫌いなとこがあっても、それでも好きでいられるから恋人だと思う。だから、全部言って。俺にどうしてほしいのか。葵は何をしたいのか」
「…」
「俺も言葉にするから。ちゃんと、気持ちが伝わるように言葉にしていくから。葵も言葉にして俺に伝えて」
「……ぎゅって抱きしめて」
「うん」
「それから、キスして」
小さく告げる葵の声に慶太は小さく笑った。
「わかった」
「それから、部活がある日も電話して。1分でもいいから」
「いいよ」
「時間があったらデートして。でも、無理しないで。休みたいときは休んでほしい」
「わかったよ」
「それから…」
「葵、わかったよ。…わかったからさ、今はちょっと黙って」
慶太は葵をぎゅっと抱きしめた。葵の頬に手を当て、顔を持ち上げる。見つめあって、小さく笑った。
「いっぱい、泣かせてごめん」
「うん」
「好きだからな」
慶太の言葉に葵は頷く。それを見て、慶太は幸せそうに笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近づけた。2人の距離がゼロになる。
恥ずかしくても、照れくさくても、言葉にしなければ伝わらない。だって、私たちはまだそんなにお互いのことを知らないから。だから、言葉にして、話し合って、互いに知って、いつか、言葉がなくても分かり合える関係になれたらいいね。でも、その時も、やっぱり、君の口から愛の言葉が聞きたいな。
おまけ
「…当て馬ご苦労」
2人の背中を見送った沙智が雄大に言った。
「殴られるかと思った」
「それはないでしょう。部活出られなくなるもん」
「…たぶん、そんなこと考えられる余裕はなかったと思うけど」
「そっか。ま、必死だったしね」
「つーか、今度こそちゃんと彼氏持ちじゃない人紹介しろよな。…マジで葵ちゃんのこと気に入ってたのに、こんな役割り振るとはお前、鬼だな。…お前の彼氏、勇者だろ」
「ごめん、ごめん。ちゃんと、別の子紹介するよ。雄大の好きなタイプだし、それに向こうも雄大の写真見て、ぜひ紹介してって言ってたから」
「…ならいいけど。でも、葵ちゃんかわいかったな」
「諦めなって。あの2人はお似合いなんだから。ただ、2人ともちょっと臆病だっただけで」
「確かに、そんな感じだよな」
「へたれもほどほどにってことだね」
「それ、俺にも言ってるだろ?」
「ばれた?」
「…俺は優しい子を彼女にしたい」
「別れよう」
そう言った慶太の顔を葵はただじっと見つめた。冗談ではないことは目を見ればすぐにわかる。どこか苛立つような口調に苦しくなって下を向く。
いやだ、と思った。いやだ、いやだ。けれど言葉に出せば、堪えている涙まで一緒に出てきてしまいそうで、ただ俯いたまま聞いていた。別れることよりも、これ以上嫌われるのがいやだった。葵は以前、慶太が言っていた言葉を思い出す。
「泣かれるのって面倒」
これ以上嫌われたくはなかった。「いやだ」と告げたところで、「別れよう」という言葉が覆されないのならなおさらだ。せめて、これ以上嫌われたくはない。
「最後まで何にも言わないんだな」
呆れた様な声に、びくりと肩が上がる。それでも葵は黙っていた。
「さよなら」
去っていく慶太の背中を葵はただ見送った。角を曲がり見えなくなる。
何か冷たいものが頬に触れた。雨だった。頬に当たる回数が次第に増えていく。今度は暖かい何かが頬に触れた。涙だ。
もういいのだと、葵は思った。もう、泣いてもいいのだ。そう思ったら次から次への涙が出てきた。雨の中、声を出して泣いた。
「ねぇ、葵たち…別れたの?」
沙智の言葉に葵は小さく頷いた。別れ話をしてから一週間が経っている。気づく人がいても無理はない。
「…なんで?だって、お似合いだったじゃない」
目を丸くする沙智に葵は微苦笑を浮かべる。
「嫌われちゃったみたい」
「…」
「別れよう…だって」
自嘲気味に笑った。そんな葵に沙智の表情が歪む。
「そっか」
小さく頷き、沙智は葵の頭に手を伸ばした。髪を撫でるその手が優しい。何も言わずにいてくれる優しさが嬉しくて泣きそうになる。
「…何がいけなかったのかな?」
頑張ったつもりだった。わがままは言わなかった。慶太はサッカー部のエースで、休みはほとんど部活でつぶれた。デートにだって数えるほどしか行っていない。それでも不満は言わなかった。会いたいと困らせることもしなかった。
「何がいけなかったのかな」
もう一度言葉が出た。考えても無駄なことはわかっているのに。
葵は俯いていた顔をふと、上げる。その先に見えた背中に胸が鳴った。
すぐに見つけてしまう。
どうして同じ学校なのだろうか。隣のクラスでは簡単に目に入ってしまう。そして自分ばかりが苦しいのだ。
「昨日のテレビ見た?」
友だちと話す声は一週間前と何も変わらない。きっと彼の中ではもう終わったことなのだ。そう思うと悲しくて、けれど姿が見られたことが嬉しかった。
嬉しく思ったことがなによりも悲しい。だって、もう、慶太は彼氏ではないのだから。あの雨の日、頷いた瞬間から。
「葵、…大丈夫?」
心配そうな表情を浮かべる沙智に葵は小さく頷いただけだった。
「…葵、今日は私と一緒に帰らない?家においでよ」
「え?」
「何があったか、今どう思ってるか話しちゃえば少しはすっきりするんじゃない?」
「…」
「…やっぱり、まだ話せない?」
葵は小さく首を振る。沙智の優しさが痛いほどわかった。
「沙智、聞いてくれる?」
「もちろん。じゃあ、決まりね。ほら、もう少しで授業始まるから席に戻ろう?」
沙智の言葉に促され自席についた。それと同時にガラガラと音を立て、教師が入ってくる。
こんなに苦しいのに、世界は当たり前のように過ぎていく。それがなんだか悔しかった。きっと、こんなにつらいのも今だけなのだろう。そう思うと安心した。けれど、喜んでいいことなのかわからなかった。
昇降口をくぐれば、冷たい風が頬を撫でた。秋から冬に変わる季節。ふと、サッカー部の練習風景を思い出し、半袖半ズボンでは寒いだろうなと思った。
「風が冷たいね」
「もうすぐ冬だもんね」
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
沙智の言葉に頷く。
「…?」
ふと、視線が自分に向けられているような気がして顔を動かす。2人の女子生徒と目が合った。相手は気まずそうに、すぐに逸らす。
「ほら、やっぱ別れたんだよ。いつもあの子練習見てたもん」
「やっぱりそうかな」
「そうだって」
「じゃあ、私、告っちゃおうかな」
「あの子でも付き合えたんだから大丈夫だよ!」
聞こえないように小声で話しているのはわかった。けれど、そう言う話ほど耳に入ってきてしまうものである。
葵はもう一度彼女たちを見た。綺麗だなと思う。茶色く染まった長い髪、スカートからのぞく足は細い。以前、慶太が好きだと言った女優に似ている気がした。もしかしたら、それを知っていて近づけたのかもしれない。
自分の短い髪とは大違いだ。綺麗やかわいいと言われる類ではないことはわかっていた。だからこそ、わがままを言わなかった。いつも購買のパンで済ませる慶太のために、お弁当を作ってきた。自分にできる「理想の彼女」でいたつもりだった。
「…葵?どうかした?」
「なんでもないよ。早く、行こうよ。聞いてほしいこといっぱいあるから」
精一杯笑った。きっと泣いてしまうだろう。けれど、泣くのは沙智の前だけにしたかった。泣いていたという噂が慶太の耳に決して入らないように。
「無理して笑わなくてもいいのに」
「…」
葵は心配そうに言う沙智の言葉を聞こえないふりをして足を速めた。
家に入るとすぐに沙智の部屋に通された。
「今、飲み物持ってくるね」
「ありがとう」
葵の言葉に頷き、沙智は部屋を出る。
ふと、顔を上げた。視線の先に写真立てがあった。写っているのは笑顔の沙智と沙智の彼氏だった。腕に手を回し、笑い合う2人の姿は、自分たちにはなかったもの。
キスをした。それ以上もした。けれど、思い出せば、2人で遊んだ回数を数えるのには、両手の指でも足りてしまう。半年も付き合っていたというのに。慶太はサッカー部の練習があった。部活がない日も自主練をしていた。だから仕方がないのかもしれない。けれど、それでも自分たちは本当に付き合っていたと言えるのだろうか。
「ごめん、お待たせ」
俯く顔を沙智の声で必死に上げる。
「ありがとう。…いい香り」
「うん。ミントティー。リラックスできるかなって」
沙智の言葉に葵は一瞬言葉を飲み込んだ。
「…葵?」
「……私、そんなに思いつめてるように見える?」
どこか苦笑して尋ねる葵に、沙智は少し考え、頷いた。
「ちょっとだけだけど」
「…」
「なんだろう。見ていて、私が苦しくなるよ」
「…ごめんね」
「謝ることじゃないでしょう?…ねぇ、何があったの?」
「……別れようって言われたの。……ただ、それだけ」
「…」
「精一杯頑張ったの。…部活でなかなか会えなくても文句言わなかったし、頑張って朝早く起きてお弁当作ったの。サッカーのルール憶えて、試合の応援に行って、泣くのが嫌いだって言ったから、最後まで泣かなかった」
「葵…」
「何がいけなかったのかな?」
「…」
「他に好きな人でもできたのかな?」
「葵…」
「…どうしよう、沙智。…苦しいよ」
言葉にしたら止まらなかった。涙があふれ出る。
沙智は思わず葵を抱きしめた。すがるように声を出し、涙を流す葵の背中をさする。「大丈夫だよ」そう声をかけることしかできなかった。
「葵、頑張ったね」
「…でも、ダメだった。重かったの…かな?」
「ねぇ、葵」
沙智の言葉に葵は顔を上げる。涙で濡れる頬を手の甲で拭った。
「…他の人にも目を向けて見れば?」
「え?」
「慶太君だけじゃなんだよ。もっと好きな人ができるかもしれないじゃない」
「……」
「中学校の頃の友だちに誰か紹介してって言われてるの。…いいやつだよ。面白くて、優しい。一度会ってみない?」
「…え?」
「そんな重く考えなくても、遊ぶだけ。…気晴らしにはなるかもよ?」
「……そう…だね。私、無理やりにでもそうやって別の人を見ないと、たぶん、ずっと慶太君ばかりを見ちゃうと思う」
「葵…」
「今日もね、すぐに見つけちゃったの。慶太君の背中。みんな同じ制服を着てるのに、どうしても目が追っちゃうの。…もう、彼女じゃないのに」
「…」
「私ね、中学校の頃、みんな友だちだったの。周りが恋をし始めても、バカなことを言って話している方がずっと楽しかった。でも、高校に入って慶太君を見つけたの。顔より雰囲気に惹かれたんだと思う。同い年なのに、纏う雰囲気が大人っぽくて、けれどだんだんと見ていくうちに普通の高校生男子だなってわかったの。それでも、一人だけ別に見えた」
「…うん」
「友だちと大声で笑うところも、真剣に部活してるところも、惹かれた雰囲気と違っても、どうしても視線で追っちゃうの。隣のクラスで接点がなかったのに、勇気を振り絞ってLINE聞いたんだよね」
「そうだったね。私も付き合ったもんね」
慶太の連絡先を聞くとき、沙智についてきてもらった。見えないところでずっと沙智の手を握っていた。連絡先を教えてもらえた時は、慶太がいなくなった後、2人で跳ねて喜んだ。
「初めてLINE送るときも沙智に手伝ってもらったよね」
「葵、何度も何度も書き直してたよね。最後の方は紙に書きだしたもんね」
「そうだったね。…必死だったな。付き合う前も、付き合ってからも、ずっと私だけが好きだったんだと思う。…嫌われないように、いっぱい我慢した」
「葵…」
「変でしょう?付き合っていたのに、ずっと片思いだったの。…でも、つらい以上に隣にいられることが嬉しかった。…バカみたいだよね」
自嘲の笑みを浮かべる葵に沙智は首を横に振った。
「そんなことないよ。葵が頑張ってたことは私がよく知ってるもん。それに、慶太君だって葵のこと好きだったよ。私には、そう見えた」
その言葉に葵は泣きそうになって俯いた。
「好きだって言ってほしかったな」
「…うん」
「もっと会いたかった。部活を休めなんて言わないから、部活が終わった後、ちょっとだけでも会いたかった。せめて、電話で話したかった」
「…そうだね」
「こんなことなら、もっとわがまま言えばよかった。どうせ、振られるなら、もっと、もっと言えばよかった」
「…うん」
「……一度で、よかった。嘘でも、『好きだ』って聞きたかったよ」
泣き出した葵の肩に沙智は手を置く。声を出し、泣き始める葵の頭をポンポンとあやすように叩いた。
太陽の陽射しで葵は目を覚ました。瞼が重い。鏡の前に行けば、目が赤かった。昨日、泣きすぎたなと思う。
胸は苦しかった。けれど、それでも素直に言葉にしたからか昨日よりどこかすっきりしている自分に葵は驚く。人間ってすごいなと他人事のように思った。
「…学校、行きたくないな」
学校に行けば、嫌でも慶太の姿を見つけてしまう。どうしても癖で慶太を捜してしまう。そして、そんな自分を実感するたび苦しくなる。
葵は小さくため息をついた。そんなとき、着信音が鳴る。
「…沙智?」
LINEを開けば、昨日言っていた沙智の友だちに今日の放課後会うことになったと書かれてある。
「…『善は、急げ』か」
沙智の言葉に小さく笑う。けれど、慶太以外の人を好きになれるのかわからなかった。だって、まだ、こんなにも好きなのだ。
葵は自分の胸に手を当てた。苦しいと思う。慶太を想うだけでこんなに胸が苦しくなる。涙が出そうになり葵は自分の頬を軽く叩いた。
「忘れなきゃ。…忘れなきゃ」
呪文のように2回呟いた。
「葵、今日、大丈夫?」
学校に着くと挨拶の代わりに沙智はそう葵に尋ねた。そんな沙智に葵は笑みを浮かべる。
「大丈夫。でも、ずいぶん、急だったね」
「善は急げ、だってば」
「そうだね」
「あ、そうだ。ちなみに、今日2人で会ってね」
「…え?一緒に来てくれないの?」
「大丈夫、雄大って言うんだけど、めっちゃ優しいやつだから。それに、葵はまだ付き合うとか考えてないってちゃんと言ってあるよ。だから、今日は友だちとして遊んできなよ」
「でも、初対面の人と2人きりって」
「2人にはこのくらいの荒療治くらいで十分なの」
「…2人って雄大さんも…訳あり?」
「…まあ、そんなとこかな。とりあえず、雄大が正門まで迎えに来てくれることになったから。そこまでは一緒にいるけど、そこからは2人だからね」
「…わかったよ」
少しだけ頬を膨らまし、葵が頷く。そんな様子に沙智は小さく微笑んだ。
「少しは昨日のですっきりした?」
「…うん。聞いてもらえてよかった。やっぱり、話したかったみたい」
「いつでも言ってね」
沙智の言葉に葵は大きく頷く。
「あ、一応事前情報だけど、雄大はへたれだけど、結構イケメンだよ。楽しみにしてて」
「本当に色々ありがとう」
「どういたしまして」
そう笑って沙智は自分の席に戻った。葵も自分の席に座る。
強引だなと葵は小さく笑った。だけど、そうでないと自分は慶太を忘れられない。それをわかってくれている沙智に葵は感謝した。
ふと、顔を上げる。また見つけてしまった。同じ黒い学ラン。背丈が飛びぬけて大きいわけではない。それでも、離れたところから背中だけ見て、わかってしまう。見つけて、嬉しくなってしまう。
葵は目を閉じ、心の中で言い聞かせる。新しい恋に目を向けるのだ。終わった背中を見続けてもつらいだけ。
「忘れなきゃ、…忘れるの」
小さく声を出し、もう一度自分に言い聞かせた。
帰りのHRのあと、寄るところがあるという沙智を残し、一人で正門に向かった。外に出ると太陽の陽射しは暖かいのに、吹き付ける風は冷い。「寒い」と手を合わせて呟く。
「葵、ごめん。遅くなって」
駆け足で正門に向かってくる沙智に葵は小さく首を振る。
「いいよ。でも、どこに行ってたの?」
「ちょっと伝言をしにね」
「伝言?」
「うん。あ、…雄大来たよ」
葵は沙智が指を指した先を見る。手を振ってこちらに向かってくるのは背の高い端正な顔立ちをした人だった。
「…え?あの人?」
「うん。あれ」
「…紹介なんてなくてもすぐに彼女できそうなのに」
「それがね、だめなの。へたれだってばれちゃってるから」
「別にへたれでも優しければいいと思うのに」
「そう言ってくれる葵だから紹介したいの。雄大!」
「沙智、久しぶり」
雄大はそう笑って軽く手を上げた。近くで見る顔はさらに整っており、葵は思わず見とれてしまう。
「久しぶり~、元気だった?…葵、これが雄大」
「お前、これって。…ま、いいけど。こんにちは」
笑うと砕けた表情になり、かわいいとさえ思える。そんな雄大に通り過ぎる女子生徒の視線が集まるのがわかった。穏やかに笑う物腰も優しい。
「こ、こんにちは。ちょ、ちょっと沙智、いい?」
そう言って葵は沙智と雄大に背を向ける。
「何?雄大じゃ、やだ?」
「本当に紹介なんているの?彼女なんてすぐにできるでしょ?…紹介するの私でいいの?」
「だから、いいんだって。私も葵と雄大がカレカノになったら嬉しいし」
「…でも、こんな格好いい人だなんて」
「葵ちゃんもかわいいよ」
「え?」
突然入ってきた声に思わず振り向く。声が聞こえていたらしく笑みを浮かべている雄大の顔が視界に入ってきた。
「沙智から葵ちゃんの話を聞いて、優しい人だなって思ってたんだ。だから、俺の事少しでも気に入ってくれたら嬉しい」
まっすぐな言葉に思わず頬が赤く染まった。
「え?あ…えっと…」
何か言わなくてはと思うが言葉が出ない。その様子に雄大はくすりと笑う。
「ほんと、かわいいね」
雄大は葵の赤くなっている頬に思わず手を伸ばした。
「…あんた、誰?」
けれどその手は葵に触れることなく叩き落される。
「……慶太君…?」
葵は目を丸くした。自分と雄大の間に割入った背中はいつも見つけてしまう背中だったから。
慶太が振り向き、葵を見た。どこか怒っているような視線に思わずびくりと肩が上がる。
「ねぇ、葵ちゃん、怖がってるけど」
「…あんたに関係ない」
「いや、関係ある。これから口説こうとしてる女の子だよ?」
慶太の纏う尖った空気に雄大はにこやかにそう返した。その様子にイラついたように慶太は舌打ちをする。
「何が葵のことで、面白いものを見たければ正門に来いだよ」
慶太はそう言い、沙智を見る。睨まれた沙智は気にする様子なく笑った。
「面白いでしょう?自分が振った女がイケメンに口説かれてるなんて」
「ふざけんな」
「別にふざけてないよ?雄大が彼女欲しいのも本当で、葵の話をしたら気に入ったのも本当。別に関係ないでしょう?慶太君とは違う男の人と恋したって。慶太君と葵は別れたんだし」
「…」
「別れようって言ったの慶太君なんでしょう?そう言って泣かせたくせに、彼氏面しないでよ!」
今度は沙智が慶太に怒鳴るように言った。
「…泣いた?」
「沙智!それは言わないで」
そう叫んだ葵の手を慶太は掴む。
「泣いたって何?」
「…」
「あの時、何も言わなかったくせに!」
怒鳴る声に、葵はまた肩を上げた。その様子に慶太は「ごめん」と小さく謝る。けれど、手は掴んだままだった。
先ほどからのやり取りのせいで、周りの生徒たちがこちらをちらちらを見ている。雄大の容姿のため、視線を集めていたからなおさらだった。
慶太は舌打ちし、葵の手を掴んだまま歩き始める。葵は手を振り払おうとするが、慶太の手は外れない。
助けを求めるように沙智と雄大を見る。けれど2人はただ笑って見守るだけだった。そのまま引きずられるようにその場から去っていく。
「慶太君、手を離して」
「…」
「…ねぇ、痛いってば」
手を引いたが強い力でびくともしなかった。そのまま狭い路地に入る。ようやく手が離された。掴まれたところが痛い。
「…誰、あいつ」
まっすぐ見つめる目が怖かった。だから葵は思わず視線を逸らす。
「…慶太君、部活はいいの?」
「あいつは誰か聞いてるんだけど」
「…」
「泣いたって何?」
「…」
「…何か言えよ!」
怒鳴る声に葵は泣きそうになる。けれど、まっすぐ慶太の目を見つめた。
「あの人は、沙智の友だちで、今日、紹介された人です。あの日、私は、振られたのが悲しくて泣きました。…これで、満足?」
「…あいつと付き合うの?」
「わかんないけど、…格好良くて優しい人だから、付き合うかもしれない。……でも、そんなこと慶太君が聞かないで」
苦しくなる。葵は胸を押さえた。出てくる涙を必死で堪える。
「私を振った慶太君が、…私のこれからのことに口出さないでよ!」
「…」
「なんで、あそこにいたの?なんで、こんなところに連れてきたの?なんで、責めるみたいに言うの?…別れようって言ったのは、慶太君でしょう?」
「だって葵は…何も言わなかったから」
「別れようって言われて…それを引き留められるほど、…私は、慶太君に好かれてるなんて思えなかったから。…だから、これ以上、…嫌われないように、必死で……泣かないように…してるのに……」
「……別れたくなかった?」
慶太のその問いに、葵は睨むように前を見た。堪えていた涙が頬を伝う。
「私は、ちゃんと言ったよ。好きだって、何度も。……別れたくないに決まってるじゃない。こんなに好きなのに」
「葵…」
「……好きかどうか言ってくれなかったのは、慶太君じゃない」
「…」
「今になって…こんな、…嫉妬みたいな…こんなこと……しないでよ」
涙が頬を伝う。伸ばした慶太の手を払うように拒否した。
葵の反応に傷ついたように慶太は俯く。そして小さな声で言った。
「…葵は何も言わなかったから」
「え?」
「会いたいも遊びに行こうも。LINEとか電話しほしいとも言わなかったから。…だから、無理して傍にいるんだと思った。…無理してほしくなかったんだ。わがまま言ってほしかった」
慶太の言葉に葵は思わず手を振りあげた。手のひらが慶太の頬に当たり、いい音が鳴る。
「慶太君が言ったんじゃない!面倒な女は嫌いだって。泣かれるのも好きじゃないって。…だから、慶太君がいなくなるまで泣かなかったのに。わがままだって我慢したのに。…何、それ」
力の抜けた手で慶太の胸板を2,3度叩く。「何、それ」ともう一度呟いた。
「頑張ったのに。いっぱい我慢したのに。…もう、いいよ」
葵は慶太に背を向けようとした。けれど、慶太は葵の腕を掴み、自分の胸に引き寄せる。
「やだ!」
離れようと抵抗する葵を痛いほどの力で抱きしめた。
「ごめん」
謝る声が聞こえる。けれど、葵は首を横に振った。
「ごめん」
「やだってば」
「……好きだ」
慶太の言葉に葵は動くのをやめた。目を丸くして、慶太の顔を見る。
「好きだ」
もう一度、言った。
「…今、言うの?今更、言うの?」
「虫のいい話だってわかってる。でも、好きなんだ」
「…」
「葵に無理してほしくなかったんだ。それに、ちゃんと言ってほしかった。言いたいこと言えない関係なら、付き合っても意味がないって思ってた」
「…私だって、言ったよ?……慶太君が私の事、ちゃんと好きだってわかったら言ったよ?いっぱいわがまま伝えたよ」
「…」
「…でも、慶太君は何も言わなかった。だから、ずっと、ずっと、片思いだと思ってた。わがまま言ったらすぐに離れていくって思ったから、何も言えなかった」
「ごめん。キスしたり、抱いたり、そう言うことで伝わってると思ってた。だから、言葉で言わなくてもいいと思ってた」
頭を下げる慶太に葵は首を横に振る。
「わかんないよ。私、そんなに大人じゃないもん。言葉じゃないとわかんない。…わかんないよ」
慶太の腕が葵の背中に回る。
「好きだ」
「…」
「葵が好きだ」
「…」
「いっぱい傷つけてごめん。いっぱい泣かせてごめん。…これからはちゃんと話し合おう。嫌いなとこがあっても、それでも好きでいられるから恋人だと思う。だから、全部言って。俺にどうしてほしいのか。葵は何をしたいのか」
「…」
「俺も言葉にするから。ちゃんと、気持ちが伝わるように言葉にしていくから。葵も言葉にして俺に伝えて」
「……ぎゅって抱きしめて」
「うん」
「それから、キスして」
小さく告げる葵の声に慶太は小さく笑った。
「わかった」
「それから、部活がある日も電話して。1分でもいいから」
「いいよ」
「時間があったらデートして。でも、無理しないで。休みたいときは休んでほしい」
「わかったよ」
「それから…」
「葵、わかったよ。…わかったからさ、今はちょっと黙って」
慶太は葵をぎゅっと抱きしめた。葵の頬に手を当て、顔を持ち上げる。見つめあって、小さく笑った。
「いっぱい、泣かせてごめん」
「うん」
「好きだからな」
慶太の言葉に葵は頷く。それを見て、慶太は幸せそうに笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近づけた。2人の距離がゼロになる。
恥ずかしくても、照れくさくても、言葉にしなければ伝わらない。だって、私たちはまだそんなにお互いのことを知らないから。だから、言葉にして、話し合って、互いに知って、いつか、言葉がなくても分かり合える関係になれたらいいね。でも、その時も、やっぱり、君の口から愛の言葉が聞きたいな。
おまけ
「…当て馬ご苦労」
2人の背中を見送った沙智が雄大に言った。
「殴られるかと思った」
「それはないでしょう。部活出られなくなるもん」
「…たぶん、そんなこと考えられる余裕はなかったと思うけど」
「そっか。ま、必死だったしね」
「つーか、今度こそちゃんと彼氏持ちじゃない人紹介しろよな。…マジで葵ちゃんのこと気に入ってたのに、こんな役割り振るとはお前、鬼だな。…お前の彼氏、勇者だろ」
「ごめん、ごめん。ちゃんと、別の子紹介するよ。雄大の好きなタイプだし、それに向こうも雄大の写真見て、ぜひ紹介してって言ってたから」
「…ならいいけど。でも、葵ちゃんかわいかったな」
「諦めなって。あの2人はお似合いなんだから。ただ、2人ともちょっと臆病だっただけで」
「確かに、そんな感じだよな」
「へたれもほどほどにってことだね」
「それ、俺にも言ってるだろ?」
「ばれた?」
「…俺は優しい子を彼女にしたい」
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