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好きになったのは、最低な人でした。
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友だちと弁当を広げながら友香はふと窓の外を見た。
彼がいる。しかも、1人で。
いつだって女の子たちに囲まれている彼が1人でいることはほとんどない。
今しかないと友香は思った。
弁当をそのままに、急いで教室を出る。
「友香?」
友だちの声も今は聞こえない。
「橋元くん!」
名前を呼び、彼を引きとめた。
振り返り首を傾げる。栗色の少し長い髪が揺れた。
大きい瞳も小さな顔も、気にしている少し小さい背も、全部好きだ。
「私と付き合って下さい」
何の前触れもなく、そう告げた。
「いいよ」
一歩二歩と友香に近寄る。頭をひと撫でした。微笑む彼の顔が近くにある。
その答えが来ることは知っていた。けれど、友香も同じように微笑んだ。
彼は有名だ。
『橋元譲は、誰の告白も拒まない』
数々の女がその噂に便乗し、その噂が真実だと証明した。
それでも友香は泣きそうになった。「いいよ」と言われて。だってずっと見ていた。この高校に入って2年間ずっと。
彼の容姿は人目を引く。いつだって人に囲まれていた。その隙から見える彼をいつも見つめていた。
目の前に来た譲に視線を合わす。
友香の身長は女子にしては高く、同じか友香の方が少し高いくらいだった。すぐ近くに綺麗な瞳がある。
「あ、あの、私、隣のクラスの山口友香っていいます」
「ぷっ。…面白いね。告白した後に自己紹介?じゃあ、俺も。2年4組橋元譲。よろしく」
差し伸べられた手を友香はぎゅっと握った。そのぬくもりと今の笑顔があれば大丈夫だと、何の確証もなしにそう思った。
「何?お前、バカなの?」
友だち2人に囲まれ、友香は背を丸くした。
1人は幼馴染の金田友也。もう1人は高校で知り合い、部活も一緒の田中裕美。急に飛びだした理由を聞かれ、答えた瞬間に今の言葉を浴びせられた。
「ひどいな。友也よりは頭いいけど」
残りの弁当を口に運びながら答える。あのあと、午後はさぼるという譲と別れ、教室に急いだのだ。「一緒にさぼろう」と言われたが、心の準備ができていなかったため、断った。
「俺、誘い断られたの初めてかもしれない。マジで面白いね」と笑う譲に、苦笑を浮かべ、普通は断らないものなのか、と心の中でメモをした。
「そう言う問題じゃねぇ。…なんであいつなんだよ」
友也はため息をつく。
この学校で譲を知らない人などいない。いつだって美女に囲まれ、彼女と名乗る人は何人もいる。面倒事が嫌いで、浮気について文句を言った時点で即終了だが。
「彼女」たちは、ある一定の距離を保ちながらも、自分が一番だと競っている。それはもはやこの学校の一種の名物だ。
「そうだよ!あんな浮気男と付き合うなんて。…彼女だって今、3人もいるんだよ!」
「私も彼女になったから、4人かな」
「だから、おかしいでしょうが!!」
「そうだぞ。彼女が複数いる場合大抵隠すもんだ。それを堂々と言ってるってことは、全員セフレって言ってるのと同じだぞ」
「…幼馴染の口からそういう単語聞きたくないんですけど」
「実際そうでしょうが!」
「…裕美落ち着いて」
「だって、友香も知ってるでしょ?…見てきたよね?どれだけ最低なのか」
声を大きくする裕美をなだめながら友香は周りを見た。
あと5分もすれば本鈴が鳴るという時刻であるため、クラスメイト全員が教室の中にいる。そしてほぼ全員が聞き耳を立てていた。
このクラスにも譲の彼女だった人たちが3人いる。友香は目を合わせないようにしながらも彼女たちを見た。当たり前だがどこか複雑そうな顔をしている。
1年のころ、何も知らずに告白し、浮気を指摘したために振られた人。1年の終わりに告白し付き合ったが、いつまでも自分を見てくれない彼を自分から振った人。最近まで付き合っていたが、新しい彼氏ができたため、自然消滅した人。
友香はその3人と特別親しいというわけではないが、会話はするし、時にみんなで遊びにも行く。譲への愚痴を聞いたことさえあった。
付き合っているにも関わらず、自分を見てくれない。ただ、身体の付き合いだけ。そんな話を噂だけでなく、直接彼女たちからも聞いたのだ。
だからこそ、譲に彼女が3人しかいない理由がわかる。
誰しも、愛し、愛されたい。愛されないとわかっていて、「いつか」を夢見ることができるほど強い人間はそうはいない。
「彼女」たちは、意地とプライドと淡い期待だけで、譲の「彼女」を名乗っているのだと友香は思っている。
「なんであいつなのよ」
自分のことではないのに、裕美は苦しそうに尋ねた。その裕美の表情を見て、友香は申し訳なく思う。
友香が譲と会ったのは、2年前だった。中学生だった友香は、友也や他の友達と一緒に文化祭に来ていた。現在、友香たちが通っている高校の文化祭である。本格的と有名な文化祭には、多くの人が来ており、「祭」という言葉が似合う賑わいだった。
その中で、友香は友達とはぐれてしまった。
「友也のケータイにかけてみたんだけどさ、気づいてもらえなくて。ま、友也をチョイスした私も悪いんだけどね」
「何だと!」
「あんたは、いちいち口をはさむな!先に進まないから。…友香、続けて」
「…なんかさ、高校生って、中学生からしたらちょっと怖いでしょう?『入っていって?』ってただの声掛けなのにさ、怖くなっちゃって。…一人でいたくなくて、必死で探してたの」
友香はその時の光景を今でも思い出せる。
周りを見渡し、前を見ていなかった友香は人にぶつかった。
それが、譲だった。
「ごめんなさい」
「いや、別に…つーか、あんたこそ大丈夫?」
「え?」
「なんか、泣きそうな顔してるけど?痛かった?」
「いや、そうじゃなくて…」
「ん?」
そう覗き込んできた顔を、友香は綺麗だと思った。男の人を綺麗だと思うのは初めてだった。
「友達とはぐれちゃって。…電話しても気づいてもらえなくて」
「…迷子になって、泣きそうになった、と」
「そ、そんなんじゃ…なくもないけど…」
「ぶっ。あんた、面白いね。…ちょっと、待ってて」
そういうと譲は、少し離れたところにいた友人のもとに行き、声をかけるとすぐに友香のもとに戻ってきた。
「ほら、行くぞ」
「…え?」
「一緒に探してやる。その友達の特徴教えろよ」
「なんで…」
「一人で寂しくて、泣きそうなんだろう?暇だし。…ほら」
そう言って差し伸べられた手を、友香はじっと見つめた。しかし、強引に手を掴まれる。
「一日だけのデートってことで」
そう笑った譲の顔は、優しくて、色んな表情ができる人なんだと思った。
一日だけのデートは案外早く終わりを告げた。
「あれだ」
友香は少し離れたところにいる男女の集団を指さした。
「よかったな」
結んでいた手が離される。
「ありがとうございました」
「ああ。バイバイ」
そう言った譲は、すぐに人ごみにまぎれて背中は見えなくなった。
その時の譲は、制服を身に着けてはいなかった。だから、その時の彼が、何歳なのか、どこの誰なのかわからなかった。
唯一わかったのは、この高校の文化祭に来ていたという事実だけ。
友香がこの高校を受験したのは、賭けだった。望みが限りなく低い賭け。けれど、それでも、もう一度会いたかった。
そしてその賭けに勝ったと知ったのは、高校の入学式の時。新入生代表として壇上に上がった譲を見た時だった。
「でも、あいつが最低なやつだってことは、すぐにわかったでしょう?」
裕美の言葉に頷く。
入学式当日に、先輩と腕を組んで帰る姿を見つけ、その翌日には別の女子とキスをしている姿を見てしまった。
それでも、あの日の笑顔が忘れられない。
「…終わらせたいの」
小さな声で言った。友也と裕美が首を傾げる。
「ちゃんと終わらせたいの」
もう一度はっきりと言った。
「…どういうことだ?」
「見てるだけじゃ、諦めきれないの。…どんなに最低だってわかっても」
「…」
「でも、告白をしたって、振ってはくれないでしょう?…だから、ちゃんと終わらせたいの。…そうじゃなきゃ、私は次に進めない」
「友香…」
「大丈夫。すぐに振られるから」
その表情はどこか引きつっていた。友也と裕美は歪めた表情のまま、友香を見る。
始業を知らせるチャイムが鳴った。
何か言いたそうな2人に気づかない振りをして席に座る。
ガラガラと音を立て、教師が教室の扉を開けた。「起立」と号令がかかる。
「礼」の言葉とともに、友香は頭を深く下げた。そうしなければいけない気がした。
「友香」
決して大きくはないのに、その声は響くように通った。
帰る支度をしていた友香は手を止め、顔を上げる。
笑顔の譲が、教室に入ってきた。
「一緒に帰ろう」
「…え?」
「月曜日は友香の日になった」
譲は得意げに小さな紙を広げてみせる。4本の線と女の名前。赤い丸が付けられた「友香」と、たどった先の「月」の文字。
「…じゃあ、帰ろうか」
ノートと教科書を強引に鞄に詰め込み、譲の背中を押す。譲を睨みつける友也と裕美が声を発する前に教室を出た。
「はい」
歩きながら伸ばされる手。友香は訳がわからず、じっとその手を見つめた。
「え?」
「ほら、早く」
途端に友香の手が暖かいぬくもりに包まれる。見覚えのある光景に思わず泣きそうになった。
学校を出るまでは、色んな視線を感じていた。けれど、街に出てしまえば、溶け込んでしまう。
左手が譲に触れていて、耳が譲の声を拾っている。顔を上げれば譲の横顔が見られて、視線を感じた譲が友香を見る。照れくさくて笑えば、譲も笑ってくれた。2年間ずっと夢に見ていた光景。
「2回目だな」
少しだけ口角を上げた。
「え?」
「友香と手を繋ぐのは2回目だな。あの時、友香は迷子になって泣きそうになってた」
「…」
「あれ?憶えてない?」
譲の言葉に、友香は勢いよく首を振った。
「憶えてるよ!…でも、橋元君も憶えてるなんて思わなくて」
「俺のテストの順位知ってる?」
「学年一位」
「俺ね、頭いいの。大抵のことは忘れない」
そう笑う譲の顔は、あの時の笑顔だった。
憶えていないと思っていた。憶えているはずなどないと。数十分の出来事だった。友香にとっては初めて恋に落ちた経験でも、譲にとっては、何ともない出来事だったはずだ。それでも憶えていてくれた。それがたまらなく嬉しかった。
「ありがとう」
告げようとした友香の声は、着信の音でかき消される。
「どうした?」
ためらわず出る譲の横顔を友香は見つめた。手に力が入りそうになるのを必死でこらえる。
隣にいる友香の耳は、かすかに相手の声を拾った。内容まではわからなかったが、相手の声は高い。
譲は少し眉をひそめたが、すぐに表情を戻した。
「今日は、急だったし、その映画は俺も見たいから、行くけど、奈々子は金曜だって言っただろ?来週から月曜は友香の日だからな。ルールは守れよ」
譲が電話を切る。
「ルール」という言葉がとても現実味を帯びていた。
譲にとっては「遊び」なのだと友香は理解する。ただ、楽しければいい。この「お付き合い」はそういうものなのだ。
「友香。ごめん。今日は友香の日なんだけどさ、映画見に行くことにしちゃった。だから、今日は、この先の分かれ道までね」
「ごめん」という言葉は耳に入ったが、譲の言葉に「謝罪」は含まれていなかった。
一気に自分の立場を理解する。身体の熱が冷めていくのに、繋いでいる手だけが熱かった。
「うん。わかった」
笑った。できる限りの笑顔で笑った。
「そういえばさ、友香って5組だよな?」
「え、あ、うん」
「いや、なんか俺、友香のこと知らないから知りたいなって」
その一言で、赤くなる自分はどれだけ単純なのだろう。
「好きな色は?」
「あ、えっと…。青、かな?」
「誕生日は?」
「今週の土曜日」
「え?もうすぐじゃん」
「うん」
「じゃあ、その日は一緒に遊ぼうか?」
「え?」
「もう予定入ってる?」
「ううん。…でも、月曜じゃないよ?」
「誕生日だよ?友香を優先するって。だって、俺、友香の彼氏だし。あ、そう言えば俺、まだ友香のアドレス知らないや。友香、ケータイ出して」
「うん」
「友香、先、受信な。っと、…じゃあ、今度、友香送信して。…これで、よしっ」
嬉しいのに、苦しい。その笑顔をもっと見たい、笑いかけないでほしい。相反する気持ちが同時に押し寄せる。
「…ありがとう」
自分の電話帳に『橋元譲』の名前が入るなど思っていなかった。ただの文字に感動してしまう。
「ああ。…っと、ここで今日はここまでだ」
「…うん」
「あ、そうだ。友香ってさ、処女だよな」
「…」
突然の言葉に、友香は反応するのも忘れた。そんな友香に譲は苦笑いを浮かべる。
「あ~あ、いいよ。大体わかるから」
「…」
「俺さ、処女って面倒くさいから嫌なんだよね。だからさ、どっかで処女捨ててきてよ」
譲は少し首を傾げた。
それはあまりにひどい内容で、その割にあまりに可愛いお願いの仕方だった。
ひどい発言をしている自覚がないのか、譲は笑う。その顔が、あの笑顔と一緒で、友香は苦しくなった。
最低だと思った。それでも、嫌いになれない自分が一番最低だった。
「…わかった。でもさ、…一応女の子にとって結構大事なことなんだよね。だからさ…ちょっとだけ待ってくれる?」
「…ま、他もいるし、昔のよしみで待ってやるよ」
「ありがとう」
「じゃあ、また、明日な。友香」
唇に軽く触れた。友香にとって初めてのキス。
去っていく譲は、少し歩いて一度友香を振り返った。にこりと笑って、手を振る。
友香はそれに手を振り返した。
メールを知らせる着信音が鳴った。
「やっぱ、あいつ最低だと思う。一度、痛い目見た方がいいよ。友也が痛い目見せてやるとか言ってるけど、友也じゃ、返り討ちがオチだよね(笑)…私は、やっぱり反対だよ」
裕美からのメールに友香は少し笑う。
「裕美、私もそう思うよ」
小さな声で呟いた。
自分のことのように、心配してくれる友達がいる。それが嬉しかった。それと同時に申し訳なかった。
最低だと友香も思う。処女は面倒くさいから捨ててこいと笑顔でいう男が最低でなくて何なのか。でも最低だと思っても、友香は譲を嫌いにはなれていない。
だから、少しだけ許してほしいと思った。
隣にいられるのが嬉しかった。繋いだ手が暖かかった。ずっと夢に見ていた笑顔を向けられるのが幸せだった。
この高校に入るために、友香は猛勉強した。高校に受かったところで譲がいるという確証はなかった。けれど、信じて励んだ。そして友香は賭けに勝ったのだ。
ご褒美に、少しだけ、譲の隣にいたい。
恋に落ちたのも、デートをしたのも、キスをしたのも、譲が初めてだった。それ以上の初めては譲にあげない。だから、友也と裕美を心配させることはわかっていても、あと少し「彼女」でいさせてほしい。
静かな風が、友香のショートカットの髪を揺らした。春と夏が混ざったような風。はっきりしない自分の心みたいだと友香は嘲笑を浮かべた。
眠さを堪え、上履きを取り出していた友香は思わず手を止めた。
「おはよう、友香」
笑いかける譲の声が耳に入ったからだ。
「…お、おはよう」
「なんでびっくりしてんの?」
そう言いながら、譲はテキパキと上履きに履き替える。一拍遅れて、友香も動きを再開する。
「え…いや、…」
火曜日は自分の日ではない。だから、声をかけてはいけないのかと思っていた。それでも譲は笑顔で友香に話しかけてくれた。
「譲」
彼を呼ぶ少し高めの声。譲と同時に、友香もその声の先に視線を向ける。
数人の女子が靴箱から出てきた2人を見ていた。睨むように友香を見る数人の中に、一人だけ無表情の人がいる。「彼女」だろう、と友香は思った。
焦げ茶色の髪を長く伸ばし、凛と立っている。背は高くはなく、男子高校生にしては背の低い譲と並んでもお似合いであった。2人が並べば、絵にかいたような美男美女のカップルである。
「譲、早く教室行こうよ」
睨むように友香を見ていた内の一人が、甘えたような声を出す。譲は友香に軽く手を上げ、彼女たちのもとに行った。
友香は、ずっと「彼女」を見ていた。
面倒くさいことを嫌う譲だが、友香を睨むくらいしてもいいはずだ。なのに「彼女」は周りと同じように睨むことはしなかった。それが睨まれることよりずっと苦しかった。
譲が「彼女」に近寄る。
その瞬間、友香の胸は絞めつけられた。譲が「彼女」と並んでいるからではない。「彼女」が幸せそうに笑うその顔がはっきり見えたからだ。
先ほどまでの無表情からは考えられないくらいの満面の笑み。そして、自然なその笑みから、先ほどの無表情こそ作っているのだとわかった。
譲の「彼女」とは、そういうことなのだと教えられた気がした。どんなに好きでも、報われなくて。けれど隣にいられるのは幸せなのだ。
視線の先にいる「彼女」も譲を本気で好きだからこそ、終わり方がわからないのだろうと友香は思う。
「彼女」たちに何かを伝え、譲は友香のもとに来た。諦めたように先に行く後ろ姿が譲の顔で見えなくなる。
「友香。一緒に教室まで行こう」
「え…あ…えっと…」
「ああ。さっきの?綾子とその友達。火曜日とそれから土曜日は綾子の日なんだ。あ、ちなみに俺らの一つ上」
「…いいの?」
「ん?…土曜のこと?それならちゃんと話しておいたから大丈夫」
そう言う譲に首を振る。
「火曜は綾子さんの日なんでしょう?こっちに来ていいの?」
友香の言葉に少しだけ間をあけ、譲は笑った。
「綾子に気を使ってるんだ。やっぱ、友香は面白いな。他の彼女なら絶対喜ぶのに」
「…」
「いいの、いいの。俺が、友香と一緒に行きたかったから」
譲の顔が近づいてくる。頬に柔らかい感触。友香の顔が赤くなる。「可愛い」と譲は、友香の頭を撫でた。
「友香、好きだよ」
あの笑い方。友香は痛くなる胸を無意識で押さえていた。
初めて言われた「好き」だという言葉。それがこんなに苦しいものだとは思わなかった。
その言葉に重みはないとわかっているのに、譲の口から出る言葉には意味があった。嬉しくて泣きそうになるのに、悲しくてやっぱり泣きそうになる。
求めてはいけないのに、傍にいることを許される。愛してくれはしないのに、愛の言葉を囁いてくれる。最低なのに、優しい。譲はそういう人なのだ。
「友香?」
「え?あ、あのさ…そう言えば、学校でいるときは、『彼女』以外の女の子も一緒にいるよね?それって月曜日もそうなるのかな?」
「さぁ、どうだろう?そうなるとは思うけど?あ、でも大丈夫。学校以外では彼女と2人きりだし、俺、基本女の子大好きだけど、彼女以外には触れないから」
「…」
「だから、安心しろよ」
にこりという効果音が似合う可愛い表情。
「ところでさ、土曜はどこ行きたい?」
「……遊園地、行きたいな」
彼氏と遊園地に行く。それは友香の小さな夢だった。
「いいよ。俺、絶叫系好き。…じゃあさ、駅前に10時集合な」
「うん。…ありがとう」
ゲームは、ルールがあって、それを守るから楽しくできるのだ。きっと、これはゲームで彼なりのルールがある。非常識なそのルールは彼の中では常識なのだろう。それは、楽しいからと、虫の羽を平気で引きちぎる、純粋で残酷な子どものようだった。
それでも、笑いかけられるたび、好きだという想いは募っていく。
「ねぇ、ちょっといい?」
夕日が差し込む教室で、一人残っていた友香に声をかけられた。朝、譲を囲んでいた先輩の内の2人がそこに立っていた。
綾子という名の「彼女」はいない。それは知っていた。教室の窓から、「彼女」と譲が手を繋いで歩いている姿が見えたから。
睨むような表情と険悪な雰囲気を醸し出す2人の姿に、ここに友也と裕美がいなくてよかったと思った。
「なんですか?」
立ち上がり、彼女たちを見る。
「ねぇ、あなたが譲の彼女になったって本当?」
一人が聞いた。黒いストレートの髪がよく似合う彼女は雰囲気が綾子という「彼女」に似ている。
「ええ。月曜日担当だそうですよ」
「だそうって、何、その言い方。…どうしてあんたなんかが、譲の彼女になるの?」
怒鳴るような声を出したのはメガネをかけたショートカットの先輩。栗色の髪は、譲と同じ色だった。
どこか連携の取れたやり取りに、こういうことが多くあるのだと思い知らされる。
「…」
「他の彼女、見たことがあるでしょう?少なくても綾子は見たよね?」
「…はい」
「全員、本当に綺麗なの。譲の隣に並んでいて思わず見とれてしまうくらい。…それだから許せるのに。どうして、普通のあなたが、譲の隣にいるの?」
黒髪の彼女が言った。
許すって何だろう。友香は、睨むように前に立つ2人を見つめた。
譲の隣にいることに、譲以外の誰の了承がほしいのか。少なくともその権利は彼女たちにはないはずだ。
「先輩たちに許されなくても別にいいです。…そんなに言うなら先輩たちも告白したらどうですか?こんな普通の私でも彼女にしてくれたから、先輩たちなら喜んで彼女にしてくれますよ」
言い終わる前か、後か。頬に痛みが走った。突然の出来事に目が丸くなる。
「…わかったようなこと言わないで」
放たれた声は震えていた。黒髪の先輩が手を押さえている。
好きだと言えば、彼女になれる。けれど、たった一人の存在にはなれない。だから、「好き」だと伝えられない。その気持ちは痛いほどわかった。
「…そっちこそ、わかったようなこと言わないでください!」
思わず叫んでいた。頬の痛みを一瞬忘れる。
その気持ちを抱いているなら、自分のつらさもわかるはずだ。
他人に何か言われる筋合いなどない。
「なんだよ、お前!」
ショートカットの先輩が怒鳴った。
これが漫画だったら、譲が助けに来てくれるのに。友香は睨む先輩を前に場違いなことを考えていた。
「……そうだね」
今にも友香に掴みかかろうとしていた彼女の腕を掴みながら黒髪の先輩が静かに言った。
「何もしてない私たちに、何か言う権利はないのかもね。…結局、どっちにしてもつらさは一緒か」
「…」
「最低な人に惚れた自分が悪いってことかな?」
自嘲的に笑う。綾子に似た雰囲気の彼女の言葉はやけに友香の胸に響く。
「付き合っていてもつらくて、ただ好きでいるのもつらいなんてね。…嫌いにもさせてくれない。…本当に最低な人」
遠くを見つめる表情を見て、友香は思い出した。以前、短期間ではあったが、譲の「彼女」だった一人だ。
「…」
「つらいわよ」
「…成実」
「好きだって言いたくて。好きだって言ってもらいたくて。でも、好きだという譲の言葉が憎らしいの」
「…」
「付き合っていても、別れてもつらいのは一緒。譲がたった一人を選んでくれるまで、終わらない」
「ちゃんと、終わらせるつもりです。……今度の土曜日が過ぎたら」
「そう」
「…ちゃんと振られて、ちゃんと忘れるつもりです。無理やりでも終わらせるつもりです」
彼女たちに言っているのか自分に言い聞かせているのかわからなかった。成実がもう一人の手を引き、去っていく。その背を友香は呆然と見つめていた。
目頭が熱くなる。上を向くことで何とか堪えた。
泣くのは、最後だけだと決めている。
「よぉ」
「…エスパーなわけ?」
小さく呟いた友香の声を拾ったのか、友也は笑いながら頷いた。
「昔からなんとなくわかるんだよ。お前が傷ついた時ってのは」
家に帰りたくなくて、ぶらぶらと街を歩いていたために、家に着いた頃には、外は暗くなっていた。家の前にある街灯の下で、友也は軽く手を上げる。
友香は、涙を堪えたまま、友也の胸に頭を預けた。片手が背中に回り、片手が頭を撫でる。友也の手は優しい。
いつだってそうだった。友達とけんかした時、テストでひどい点を取った時。泣きたいときには、いつも友也が傍にいてくれた。
「お前、小さくなった?」
「友也が大きくなったんでしょう。昔は同じくらいだったのにね」
「俺らも大人になったってことか」
「…大人になれれば、傷ついたりしないのかな?」
「バカだな。大人でも、好きなやつの一番じゃなきゃ、つらいに決まってるだろ。…一緒だよ」
「…」
「お前も最低なやつに惚れたな?」
「うん。…でも、土曜日に終わらせる。最後に、恋人らしいことして、それで終わらせるから」
「…わかった。俺も、裕美も、お前が幸せならそれでいいよ」
「友也っていい男なんだね」
「お前、今頃気づいたのかよ」
「あ~あ、友也を好きになっとけばよかったな」
「残念でした。俺には、夏奈っていう可愛い彼女がいるんです」
「友也のくせに、他校の彼女って生意気だよね」
「それ、裕美も言ってた。お前ら、俺への扱いひどくね?」
「だって、友也だし」
「なんだそれ。…友香」
「ん?」
「泣かなくていいのか?」
頭を撫でていた手を止め、友也が尋ねた。
「いつもだったら、今頃、胸のあたりびしょびしょなんだけど」
「びしょびしょは言い過ぎでしょ?」
「…」
「全部終わるまで、泣かないって決めたの」
抱きしめる腕に力が入る。「苦しい」と文句を言う友香。それでも、友也は抱きしめていた。
「全部終わったら、あいつのこと一発殴らせろよ。泣き虫のお前が泣かないんだ。最後まで俺も我慢してやるから」
「友也じゃ、返り討ちがオチじゃない?」
「それでもいいよ。一発殴る」
言い切るその声に、友香は笑った。
泣く場所がある。それが嬉しかった。
隣のクラスの靴箱は当たり前のように隣にある。靴をしまっていた友香の視界に、眠たそうにあくびをした譲が見えた。
「お、おはよう」
顔を上げ、そう笑いかける。譲は、ちらりと視線だけ友香に向け、すぐに靴に視線を戻した。
「…ああ」
「…」
笑顔のない譲を見たのは初めてかもしれない。虫の居所が悪かったのか、それとも何か気に障ることをしたのか。友香は、自分の体温が下がっていくのを感じた。嫌な汗が出てくる。
「えっと…」
「今日は月曜じゃない」
「…そう…だね」
「それとも、もう、捨ててきた?」
「…」
なんだかひどく怖かった。友香は必死に首を横に振る。
「へぇ、違うんだ。抱き合ってたからてっきりそうなのかと思った」
「…!」
「昨日、帰りに見えたんだ。友香と友香のクラスのやつが抱き合ってるところ。あの辺に家があんの?彼女家まで送ったら、たまたま目撃した」
「…友也は幼馴染で、別に、そういうんじゃないよ?」
「何、言い訳してんの?俺が言ったことだし」
「…」
「でも、幼馴染って、お手軽なところにするんだな」
鼻で笑う。
「…やめて」
「は?」
「その言い方、友也までバカにしてるみたい。友也には、ちゃんと彼女がいるし、私の大切な幼馴染なの。そういう言い方しないで。友也は関係ない」
「…今日は、泣きそうな顔しないんだな」
「え?」
「何?そんなに大事?その友也ってやつ。…なんか、ルール違反な気がするんだけど」
ルールを知らないから、譲が何に対して不機嫌になっているのか、友香には理解できなかった。ゲームがうまく進まなくて、駄々をこねる子どもみたいだ。
「…」
謝るのが正解なのか。けれど、謝ることは友也を悪く言うことを許すことになる気がした。
「俺、もう行くわ。彼女待ってるし」
「ま、待って」
友香は思わず、譲の腕を掴んだ。
「何?」
「…」
低い声が冷たい。友香の肩を丸めた。譲のため息が聞こえる。
面倒くさいと思われたのかもしれない。汗が冷えていくのがわかる。
終わってしまうのだろうか。
ふいに譲の手が伸びる。友香は俯き、目を瞑った。
頭に軽く手が触れられる。軽く頭を叩く優しい手つきに、全身の力が抜けそうになった。
「俺の時ばっかり、泣きそうな顔するんだな」
その声に顔を上げる。苦笑いを浮かべる譲の表情。
「…え?」
「何でもない。俺、先に行くから」
「…うん」
掴んでいた手を離す。譲は振り返らず、2,3回手を振った。
靴箱から出れば、譲と「彼女」が並んで歩く姿。しかしそれはすぐ取り巻きの姿に隠れるように見えなくなった。
「…ふぅ~」
大きく息を吐く。顔を上げ、時計台を見た。
針は9時半を指している。さすがに早く来過ぎたようだ。
人々が急ぎ足で駅に入っていく様子を横目で見た。
本当に譲は来てくれるのか、嫌な想像が頭の中をぐるぐる回る。木曜日、金曜日と譲に会えなかった。遠くにいる後ろ姿は見たが、声をかけることはできなかった。電話帳に譲の名前があるのに、電話をすることも、メールを送ることもできない。
顔を上げた。時計の針は、ほとんど進んでいない。
このまま来ないまま振られてしまうのではないか。そこまで考えて、首を横に振る。
今日だけは楽しむと決めた。譲と話すとき、いつも気を使っていた。譲に合わせて言葉を選ぶ。けれど、今日だけは、自分らしく振舞おうと思った。いい思い出だったと言えるようにしようと決めたのだ。
「大丈夫、大丈夫」
胸の前で手を合わせ、呪文のように繰り返す。
「友香」
自分を呼ぶ声に顔を上げた。少し離れたところで手を振る譲。
初めて見た私服。友香は小さな感動を覚えた。
シャツの上に、明るめの茶色のジャケットを羽織り、頭には、黒の中折れ帽子。
周りの女性たちの視線を集めているのがわかる。
「おはよう。待った?」
「え?あ、…ううん。今来たところ」
「そっか。でも、早いな」
譲が時計台を見る。長針は9を指している。
「橋元くんこそ、早いね」
「俺、彼女を待たせない派なの。紳士だからね」
譲の言葉に、友香は微苦笑を浮かべた。
「でも、私は待たせたよ?」
「…友香が早すぎなんだろ!俺に会うのがそんなに楽しみだった?」
「…」
「真っ赤。友香ってすぐ顔に出るからわかりやすいな。新鮮」
「…どうせ、男慣れしてませんよ」
「いいじゃん。俺で慣れてけば。…ってか、次の時は俺が先にいるからな。覚悟しておけよ」
「……うん」
譲の口から当たり前のように「次」という言葉が出るのが嬉しかった。けれど、「次」は存在しない。
「友香?」
「え?」
「どうした?」
「ううん。なんでもない。早くいこうよ」
駅からは遊園地まで行くバスが出ている。15分程度バスに揺られれば、窓から観覧車が見えた。
入場券を買うために列に並ぶ。
「やっぱ、人多いな」
「そんなことないんじゃない?土曜日なのにこのくらいっていい方だよ」
「ふ~ん、そんなもん?」
「そうだよ。橋元くんは、あんまり遊園地来ないの?」
「めちゃくちゃ久しぶり。友香はよく来る?」
「結構来るよ」
「誰と?」
「友達と」
「…それってあいつもいる?」
譲の言葉に友香は首を傾げた。
「あいつ?」
「…友也だっけ?」
「ああ。うん、一緒によく来るよ」
「…ふ~ん」
「橋元くん?」
「…ま、いいや。ところで、友香、お弁当は?」
からかうように笑みを浮かべた。譲を纏う雰囲気が変わったことに友香はほっと息を吐く。
「え~、ないよ」
「遊園地にデートだろ?そこは、ベタにいっとけよ」
「え~」
「え~って言うなよ」
「え~」
「なんか、友香この前と少し雰囲気違う?」
「…そうかな?」
「俺、こっちの方が好き」
「そっか。…ありがとう」
「何、ありがとうって」
「ううん。なんでもない」
譲の言葉に、友香は小さく首を振った。
「友香って絶叫系大丈夫?」
入場券を手に入れ、遊園地の中に入る。パンフレットを広げながら楽しそう譲が友香に聞いた。
「うん。好き」
「よし!じゃあ、まずはそれからな!…はい」
当たり前のように差し出された手。友香は初めて躊躇わずに掴んだ。
「行くぞ」
そう言った途端に、友香の手を譲は引っ張る。大股で歩く譲に友香は小さく笑い小走りでついていく。
「はしゃいでるね」
目当てのアトラクションの列の前に並ぶ。周りを見れば、カップルの姿が多かった。
「こういう所に来るのは久しぶりだからな。それに友香と一緒だし」
「も~、また、そんなこと言って」
「友香と一緒にいると楽しいよ」
譲はいつもの笑みを浮かべた。「私も楽しいよ」と友香も笑みを返す。
「あれ?今日は赤くならないんだ?」
「毎回赤くなってられないもん」
「ふ~ん。…じゃあ、これは?」
頬に触れる感触。友香は、自由な左手で頬を押さえた。
「よし!赤くなった」
小さく拳を握る。
「卑怯じゃない?」
「え~、卑怯じゃないって。やっぱり、友香は面白いな」
「面白いって褒め言葉?」
「褒め言葉、褒め言葉。嬉しくないの?」
「微妙かな?」
「え~」
「だって、微妙だもん」
「…でも、友香の耳まで赤くなったからいいや」
「ごめん。意味がわかんないんですけど」
そう言って友香は笑った。譲も同じように笑う。
ただ繋いでいるだけだった手は、いつの間にか「恋人つなぎ」になっていた。
緊張で手に汗をかいてしまいそうだったけれど、どうしても放したくはなかった。
繋いでいる手に自然に力がこもる。譲もそれに合わせて力を入れた。それが嬉しかった。
ただ見ているだけではできなかったことがたくさんある。それを知ってしまった。
今日が終わらなければいいのに。友香は何度も思うけれども、楽しい時間ほどあっという間に過ぎていくものである。
空を見上げると、オレンジ色に染まっていた。
周りを見渡すと、お土産を手に出口に向かって歩く人の姿が見える。
「もう、そろそろ帰らないとだな」
「…そうだね」
「じゃあ、行こうか」
「…待って。…最後に観覧車、乗っていかない?」
「観覧車?」
「うん」
「…」
初めての渋るような反応に、友香は不安そうになる。
「えっと…」
「いや、…俺、ちょっと高いところ苦手でさ」
「…そっか。…じゃあ、帰ろうか」
「いや、観覧車乗ろう」
「え?でも、高いところ苦手なんでしょう?」
「大丈夫。最後はやっぱ、ベタに行かないとな。よし、行くぞ」
心配そうな表情を浮かべる友香をよそに、譲はどんどん歩みを進め、観覧車を待つ人の列に並んだ。
思ったよりも列に並んでいる人数は多くない。あまり待つことなく、青色のゴンドラが降りてきた。係員が2人を誘導する。
「橋元くん。大丈夫?」
「ああ。下見なければ大丈夫。それに、手握ったままだし」
「…」
「本当に、大丈夫だから。そんな心配そうな顔すんなよ」
「…うん。今日は本当にありがとうね」
「俺も、楽しかった」
夕日が沈みかけていた。人々の姿が小さくなり、徐々にわからなくなる。
「そうだ。友香」
「ん?」
「言い忘れてた。…誕生日、おめでとう!」
「ありがとう」
「これ、俺から」
そう言うと、譲は鞄の中から小さな包みを取り出す。
「え?」
「プレゼント」
「開けてもいい?」
「うん」
譲が頷くのを確認し、友香は包装を丁寧に剥がす。
中には青色のシンプルなシャーペンが入っていた。
「いいものが思いつかなかったから、実用的なものにしようと思ってシャーペンにしてみた。ちなみに使いやすそうだから俺も同じの買ったからお揃いな」
「…」
「…あれ?もしかして、俺、外した?」
顔を覗き込む譲に、友香は必死で首を横に振る。プレゼントなどもらえないと思っていた。
「嬉しいよ、ありがとう」
友香の言葉に、譲は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、無理やりにでも掴んでいたいと思った。一緒にいられればそれでいいじゃないかと。けれど、本当に好きだからこそ、つらいのだとも思う。
お揃いのシャーペンを見て、何度も今日のことを思い出すのだろう。そして、後悔するのだ。今日、手を離したことを。けれど、それをわかっていても終わらせないといけない。
幸せになりたいと友香は思った。つかの間の「幸せ」という幻想じゃなくて、本当に愛し愛される、そんな当たり前の幸せが欲しかった。だから、夢を見るのは、今日で終わり。そう決めたのだ。
友香は泣きそうになるのを必死で堪える。
「あ、ここ、頂上じゃないか?」
譲の言葉に友香は顔を上げた。
「本当だ。…大丈夫?」
「大丈夫だって。何回目だよ?友香は心配性だな」
「ごめんね」
「いいよ。そういう所が可愛いし」
「…また、そういうこと言う」
「友香」
声色が変わった。譲の手が友香の頬に触れる。
友香は静かに目を閉じた。
「好きだよ」
優しく触れた。その唇がすぐに離れていく。友香は名残惜しそうにそれを見送った。
「こんなところでそんな目しちゃだめだって」
「え?」
「俺が欲しいっていう目」
譲の言葉に友香は耳まで赤くなる。その様子に譲がくすりと笑った。
「まだ、地上まで時間があるみたいだけど、どうする?」
「…もう一回」
「いいよ。おいで」
友香は、譲の首に腕を絡める。初めて自分からキスをした。
軽く触れ、すぐに離れようとする。しかし、譲がそれを追いかけた。
「だめ。まだ、足りない」
先ほどとは違う深いキス。何度も角度を変えながら譲の唇が友香のそれに触れた。
譲の動きに合わせ、友香も必死でついていく。
けれど慣れていない友香には息を吸うタイミングがわからず、ギブアップとばかりに譲の背中を叩いた。
最後に軽く触れると譲は離れていく。銀の糸が2人を繋いだ。
友香は譲の肩に頭を預けた。肩で息をする。
譲は小さく笑い、友香の頭を撫でると、ぎゅっと抱きしめた。
友香は譲の体温を感じながら、このまま時間が止まればいいと切に思った。
ラッシュの時間を過ぎているのか、駅にいる人はまばらだった。
7時を過ぎた時間であったが、空はすっかり暗くなっている。
「今日は、いっぱいわがままを聞いてくれてありがとう」
「いいよ。友香の誕生日だし」
「ねぇ、…あと1つだけ、わがままを聞いてくれる?」
「いいよ。何?」
「ちゃんと振ってほしいの」
友香は目を逸らさずに、そう言った。
「え?」
「私、嫌なの。他の人と付き合っていてほしくない」
「じゃあ、友香が振れば?」
譲の言葉に友香は静かに首を振る。
「…できないから、わがままを聞いてほしいの」
「…」
「誕生日プレゼントだと思って、ちゃんと振って」
「いいよ。わかった。じゃあ、別れよう」
そう言うと譲は友香に背を向けた。驚くほどあっさりとした別れ。
友香は家で何度もシュミレーションをしたときは、泣かずにいることはできなかった。
けれど、本番では声も震えることはなかった。
小さく息を吐く。もう気を張らなくてもいいのだと思うと一筋の涙が頬を伝った。けれど、それだけだった。
「帰ろう」
頬の涙をふき取り、そう呟く。帰る道はいつもより、なんだか少し暗い気がした。
いつもどおり6時15分に目覚まし時計がうるさく鳴り響く。手を伸ばし止めながら、友香は、自分の誕生日が、土曜日でよかったと思った。
気持ちの整理が完全についたわけではないが、それでも、間に日曜日をはさんだことは大きい。息を大きく吐き、頬を両手で叩く。
「よし!」
勢いをつけてベッドから降りた。
「友香。おはよう」
家を出ると、玄関の前に友也が立っていた。
「…どうしたの?」
友也とは同じ学校だが特に毎日一緒に通うというわけではない。たまたま同じ時間に家を出ることはあっても、待ち合わせをすることはほとんどないのだ。
「これ」
そう言いながら、友也は小さなクマの人形がついたキーホルダーを友香に差し出した。
「ん?」
差し出されたキーホルダーを受け取りながら友香は首を傾げる。
「誕生日おめでとう。2日遅れたけど」
「は?」
「なんだよ、『は?』って」
「え、だって、いつもそんなことしないし、プレゼントなんてもらったことないでしょう?」
「いいんだよ。…お前、頑張ったんだろ?」
「…だから、エスパーですか?」
「エスパーかもな。ちなみに、それ昨日、ゲーセンで取った。しかも一発」
「なんでそういうこと言っちゃうかな…」
友香は小さくため息をつく。
「すごくないか?一発。しかも、友香が好きそうなやつ。マジ、俺エスパーだろ?」
「なんか、エスパーの意味違うし。…ま、いいか。ありがとう、友也」
「ああ」
友香の笑顔に友也も笑う。友香は通学用の鞄に今もらったクマのキーホルダーを付けた。
「いいね。可愛い」
「だろ?んじゃ、久しぶりに、仲良く登校でもしますか」
「そうしましょうか」
友香は、友也の隣に並んだ。他愛もない話をしながら、学校へ向かう。
「おはよう。友香、それから友也も」
教室に入るとすぐにかけられた声に笑みを浮かべる。
「おはよう、裕美」
「おう」
「一緒に登校?」
「うん」
「相変わらず仲いいね」
「でしょう?これ、もらっちゃったし」
そう言って友香は鞄のキーホルダーを見せる。
「誕生日プレゼント?」
「まあ、そんなとこだ」
「じゃあ、私からも。2日遅れたけど、誕生日おめでとう」
「ありがとう!」
「前に友香が欲しいって言ってた歌手のCD」
「わ~、嬉しい!ありがとう」
「俺の時より反応よくないか?」
「ゲーセンで取ったキーホルダーと前から欲しかったCDの反応比べられても」
「ま、そうか」
「でも、友也のキーホルダーも嬉しいよ」
「なら、いい」
「友香。自分でプレゼントしといてなんだけど、今度貸してね」
「もちろん!裕美、本当にありがとう」
友香は裕美にもらったCDを大事そうに鞄にしまった。
「…そうだ。裕美、友也」
「何?」
「何だ?」
「私ね、ちゃんと振ってもらってきたよ」
友也はわかっていたが、それでも自分の口で伝えたかった。
「そっか」
返したのは裕美。
「うん。今度こそ、幸せな恋をするから」
言い切る友香に裕美は頷き、友香の頭を撫でた。
「誰とするの?」
突然の声に、3人はドアの方に目を向ける。まだ人がまばらな教室の中に入ってきたのは、譲だった。
友香の身体が固まるのがわかる。裕美と友也は睨むように譲を見た。
「何か用かよ」
「…なあ、5組の一限って何?」
「は?」
「だから、一限は何の授業か聞いてるんだけど」
「……体育だけど?」
「じゃあ、友香、体調不良な」
「は?」
「朝礼も体調不良で保健室だから。よろしく」
そう言って友香の腕を掴もうとする譲を遮るように裕美は一歩前に出た。
「…ねぇ、何言ってるの?これ以上、友香を傷つけないで」
「裕美の言うとおりだ。友香はもうお前なんて見てない。これ以上友香に近づくなよ」
友也も一歩前に出る。
「…あんた、友也ってやつ?」
「そうだけど?」
「友香の大切な幼馴染」
「だからそうだって言ってんだろう!だから、なんだよ」
「俺さ、あんたのこと、嫌い」
「…」
突然の言葉に、友也は返す言葉をなくした。
「友香の前からいなくなればいいのにとか思うよ」
「は?それは俺のセリフだっつーの!」
怒鳴る友也の前に、裕美はすっと手を出す。
「なんだよ、裕美」
「友也、ちょっと、黙ってて」
「なんでだよ!」
「いいから。…ねぇ、もう泣かせないって約束できる?」
「…泣かせないとは約束できない。けど、泣き止むまで一緒にいるし、泣いた後、必ず笑顔にしてみせる。それなら言える」
「…」
裕美は一歩斜め後ろに下がる。譲は手を伸ばし、友香の手を引いた。
友香は困惑の表情を浮かべたまま、譲を見、その後、裕美に視線を移す。
裕美は微苦笑を浮かべ、手を振った。
譲は手を引いたまま、教室を出ていく。友香は転びそうになりながら、引きずられるように後をついていった。
「おい!裕美、何考えてんだよ!」
2人のいなくなった教室で友也の怒鳴り声が響く。
「…やっぱさ、好きな人と幸せになってほしいじゃん」
「は?」
「いいの。友也は、黙ってみてれば。…私たちは、黙ってみてるしかないんだから」
「…?」
友也は理解できないという表情を浮かべる。それに裕美は笑った。
手を引かれてきたのは、屋上だった。
風が吹き、髪が揺れる。下を見れば、登校中の学生の姿を見ることができた。
「何か用だった?…橋元くん、高いところ苦手でしょう?屋上なんか来て大丈夫なの?」
声が震えた。けれど、精一杯の普通の顔をして聞く。
「ああ。この前も言っただろう?下を見なければ大丈夫なんだよ」
「そう言えば、そう言ってたね。…ところで、用事って何かな?」
「聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「俺のこと好き?」
「…何が聞きたいのかわからないんだけど」
少しの沈黙をつくり、友香は眉をひそめた。先ほどからわけがわからないことばかりだ。
「だから、俺のことが好きかどうか聞いてんの」
「…」
「知ってた?友香、俺のこと、好きだって言ったことないんだぜ?」
「…」
いつかは離すことになる。それがわかっていて掴んだ手だった。だから、言えなかった。心の中では何回も、何十回も言っていたけれど、口に出して「好き」と伝えることはできなかった。伝えてしまえば、手を離せなくなると思ったから。
「ねぇ?俺のこと、好き?」
「…もう、いいでしょう?私たち、別れたじゃん。彼女のところに戻りなよ」
「俺さ、苦手なんだよね。その顔」
「え?」
「友香の泣きそうな顔」
「…」
「俺、いろんな女の子の泣き顔見てきたけど、でも、見たくないって思ったのは、友香が初めてだ」
「…」
「今も、初めて会った時も」
まっすぐ見つめられる瞳に、友香の心臓は勝手に速度を上げる。錯覚しそうになる自分を精一杯戒めた。
「ねぇ、もう、付き合ってないんだから、優しくしてくれなくていいんだよ?だからさ、お願いだから…これ以上、惑わせないで」
懇願に似た声。目を合わせたくなくて地面を見つめる。
ふいに腕を引かれた。驚いている間もなく、譲の腕の中に捕えられる。
離れようと両手で胸を押すが、腕の拘束は強くなるだけだった。
「俺、自分が楽しければいいと思ってた。『好き』だって言えば、みんな喜んでくれて、なんだか自分に力があるような気がして気分がよかった」
「…」
「付き合うのも、『付き合って』って言われたからだし、恋人が何人もいても悪いことだとは思ってなかった。別に、彼女に俺以外の恋人を作るな、なんて言うつもりもなかったし、彼女を楽しませていればそれでいいと思ってた。それが嫌なら、俺と付き合わなければいいわけだし」
「…」
「みんな、誰でもいいんだと思ってたんだ。楽しければ、一緒にいる人間は誰でも大差ないと思ってた」
「…」
「相手が俺以外の誰といても何とも思わなかったし、むしろその方が楽でよかった。干渉されたり、心配されたりするのは面倒で、ただ楽しくて、気持ち良ければそれでいいって思ってたんだ」
最低だと思った。何人彼女がいたかわからないが、友香が知るかぎりでも両手では足らないほど付き合ってきた人がいる。その中には、譲のように「楽しければいい」と思っていた人もいたのかもしれない。けれど、そんな人ばかりではないはずだ。
「誰でもいい」わけがない。譲を好きだからこそ、譲の恋人になりたかったのだし、譲の隣で笑いたかったのだ。
譲が話している間に、腕の拘束力はなくなっていた。今なら、抜け出すことも容易だった。
けれど、友香はそうしなかった。譲の声が真剣だったから。
「でも、そうじゃないんだな」
「…」
「楽しいことはもっと楽しいし、嬉しいことは、もっと嬉しい。心配だって嬉しかった」
「…」
「俺、面倒事嫌いだから、普通なら迷子なんて助けないし。…泣きそうな顔見て、笑わせたいなんて思わない」
友香はそっと譲の胸を押し、距離を取る。顔を上げると、そこには優しく見つめる譲の顔があった。
「あいつと一緒にいると腹が立ったし、あいつのことを大切に思ってることにもむかついた」
「…」
「悪いと思ってなかったのは、本気で人を好きになったことがなかったからだ。でもさ、俺、泣かしたくないんだよ。だからさ、そのためなら、他の彼女と別れるし、もう、他の女に手を出したりしない」
「…」
「だからさ、言えよ」
「…」
「友香。…俺のこと、好きだろう?」
「……好きだよ。橋元くんが好き」
泣きたいわけではないのに、涙が止まらなかった。
譲はそっと髪を撫で、友香を抱きしめる。譲の肩に顔を埋め、声を出さずに友香は泣いた。
「友香。俺さ、誕生日プレゼントにシャーペンあげたよな?だからさ、友香のわがまま聞くっていうプレゼント、取り消しでいいよな?」
譲の言葉に、友香は泣きながら頷く。
「友香。好きだよ」
耳元で囁かれる愛の言葉。
それに友香は泣き顔のまま、笑って告げる。
「私も、好き」
「友香。初めては俺がもらうからな」
「面倒くさいのは嫌いじゃないの?」
「俺が欲しいの。友香が好きだから」
「…うん」
「ありがとう」
譲の顔は友香には見えなかった。けれど、どこかその声は震えているような気がした。
「私も。…橋元くんがいい」
「知ってる」
「そうだね」
「友香」
「何?」
「本当に、好き。たぶん、俺の初恋」
譲の言葉に友香は小さく笑う。「笑うな」と抗議の声が聞こえるが、それでも嬉しいのだから仕方がない。
「私も橋元くんが初恋だよ」
「…よかった」
「ねぇ」
「ん?」
「好きだよ」
その言葉に譲は、いつもより優しい顔で、笑う。その笑顔に、友香も幸せそうに笑った。
彼がいる。しかも、1人で。
いつだって女の子たちに囲まれている彼が1人でいることはほとんどない。
今しかないと友香は思った。
弁当をそのままに、急いで教室を出る。
「友香?」
友だちの声も今は聞こえない。
「橋元くん!」
名前を呼び、彼を引きとめた。
振り返り首を傾げる。栗色の少し長い髪が揺れた。
大きい瞳も小さな顔も、気にしている少し小さい背も、全部好きだ。
「私と付き合って下さい」
何の前触れもなく、そう告げた。
「いいよ」
一歩二歩と友香に近寄る。頭をひと撫でした。微笑む彼の顔が近くにある。
その答えが来ることは知っていた。けれど、友香も同じように微笑んだ。
彼は有名だ。
『橋元譲は、誰の告白も拒まない』
数々の女がその噂に便乗し、その噂が真実だと証明した。
それでも友香は泣きそうになった。「いいよ」と言われて。だってずっと見ていた。この高校に入って2年間ずっと。
彼の容姿は人目を引く。いつだって人に囲まれていた。その隙から見える彼をいつも見つめていた。
目の前に来た譲に視線を合わす。
友香の身長は女子にしては高く、同じか友香の方が少し高いくらいだった。すぐ近くに綺麗な瞳がある。
「あ、あの、私、隣のクラスの山口友香っていいます」
「ぷっ。…面白いね。告白した後に自己紹介?じゃあ、俺も。2年4組橋元譲。よろしく」
差し伸べられた手を友香はぎゅっと握った。そのぬくもりと今の笑顔があれば大丈夫だと、何の確証もなしにそう思った。
「何?お前、バカなの?」
友だち2人に囲まれ、友香は背を丸くした。
1人は幼馴染の金田友也。もう1人は高校で知り合い、部活も一緒の田中裕美。急に飛びだした理由を聞かれ、答えた瞬間に今の言葉を浴びせられた。
「ひどいな。友也よりは頭いいけど」
残りの弁当を口に運びながら答える。あのあと、午後はさぼるという譲と別れ、教室に急いだのだ。「一緒にさぼろう」と言われたが、心の準備ができていなかったため、断った。
「俺、誘い断られたの初めてかもしれない。マジで面白いね」と笑う譲に、苦笑を浮かべ、普通は断らないものなのか、と心の中でメモをした。
「そう言う問題じゃねぇ。…なんであいつなんだよ」
友也はため息をつく。
この学校で譲を知らない人などいない。いつだって美女に囲まれ、彼女と名乗る人は何人もいる。面倒事が嫌いで、浮気について文句を言った時点で即終了だが。
「彼女」たちは、ある一定の距離を保ちながらも、自分が一番だと競っている。それはもはやこの学校の一種の名物だ。
「そうだよ!あんな浮気男と付き合うなんて。…彼女だって今、3人もいるんだよ!」
「私も彼女になったから、4人かな」
「だから、おかしいでしょうが!!」
「そうだぞ。彼女が複数いる場合大抵隠すもんだ。それを堂々と言ってるってことは、全員セフレって言ってるのと同じだぞ」
「…幼馴染の口からそういう単語聞きたくないんですけど」
「実際そうでしょうが!」
「…裕美落ち着いて」
「だって、友香も知ってるでしょ?…見てきたよね?どれだけ最低なのか」
声を大きくする裕美をなだめながら友香は周りを見た。
あと5分もすれば本鈴が鳴るという時刻であるため、クラスメイト全員が教室の中にいる。そしてほぼ全員が聞き耳を立てていた。
このクラスにも譲の彼女だった人たちが3人いる。友香は目を合わせないようにしながらも彼女たちを見た。当たり前だがどこか複雑そうな顔をしている。
1年のころ、何も知らずに告白し、浮気を指摘したために振られた人。1年の終わりに告白し付き合ったが、いつまでも自分を見てくれない彼を自分から振った人。最近まで付き合っていたが、新しい彼氏ができたため、自然消滅した人。
友香はその3人と特別親しいというわけではないが、会話はするし、時にみんなで遊びにも行く。譲への愚痴を聞いたことさえあった。
付き合っているにも関わらず、自分を見てくれない。ただ、身体の付き合いだけ。そんな話を噂だけでなく、直接彼女たちからも聞いたのだ。
だからこそ、譲に彼女が3人しかいない理由がわかる。
誰しも、愛し、愛されたい。愛されないとわかっていて、「いつか」を夢見ることができるほど強い人間はそうはいない。
「彼女」たちは、意地とプライドと淡い期待だけで、譲の「彼女」を名乗っているのだと友香は思っている。
「なんであいつなのよ」
自分のことではないのに、裕美は苦しそうに尋ねた。その裕美の表情を見て、友香は申し訳なく思う。
友香が譲と会ったのは、2年前だった。中学生だった友香は、友也や他の友達と一緒に文化祭に来ていた。現在、友香たちが通っている高校の文化祭である。本格的と有名な文化祭には、多くの人が来ており、「祭」という言葉が似合う賑わいだった。
その中で、友香は友達とはぐれてしまった。
「友也のケータイにかけてみたんだけどさ、気づいてもらえなくて。ま、友也をチョイスした私も悪いんだけどね」
「何だと!」
「あんたは、いちいち口をはさむな!先に進まないから。…友香、続けて」
「…なんかさ、高校生って、中学生からしたらちょっと怖いでしょう?『入っていって?』ってただの声掛けなのにさ、怖くなっちゃって。…一人でいたくなくて、必死で探してたの」
友香はその時の光景を今でも思い出せる。
周りを見渡し、前を見ていなかった友香は人にぶつかった。
それが、譲だった。
「ごめんなさい」
「いや、別に…つーか、あんたこそ大丈夫?」
「え?」
「なんか、泣きそうな顔してるけど?痛かった?」
「いや、そうじゃなくて…」
「ん?」
そう覗き込んできた顔を、友香は綺麗だと思った。男の人を綺麗だと思うのは初めてだった。
「友達とはぐれちゃって。…電話しても気づいてもらえなくて」
「…迷子になって、泣きそうになった、と」
「そ、そんなんじゃ…なくもないけど…」
「ぶっ。あんた、面白いね。…ちょっと、待ってて」
そういうと譲は、少し離れたところにいた友人のもとに行き、声をかけるとすぐに友香のもとに戻ってきた。
「ほら、行くぞ」
「…え?」
「一緒に探してやる。その友達の特徴教えろよ」
「なんで…」
「一人で寂しくて、泣きそうなんだろう?暇だし。…ほら」
そう言って差し伸べられた手を、友香はじっと見つめた。しかし、強引に手を掴まれる。
「一日だけのデートってことで」
そう笑った譲の顔は、優しくて、色んな表情ができる人なんだと思った。
一日だけのデートは案外早く終わりを告げた。
「あれだ」
友香は少し離れたところにいる男女の集団を指さした。
「よかったな」
結んでいた手が離される。
「ありがとうございました」
「ああ。バイバイ」
そう言った譲は、すぐに人ごみにまぎれて背中は見えなくなった。
その時の譲は、制服を身に着けてはいなかった。だから、その時の彼が、何歳なのか、どこの誰なのかわからなかった。
唯一わかったのは、この高校の文化祭に来ていたという事実だけ。
友香がこの高校を受験したのは、賭けだった。望みが限りなく低い賭け。けれど、それでも、もう一度会いたかった。
そしてその賭けに勝ったと知ったのは、高校の入学式の時。新入生代表として壇上に上がった譲を見た時だった。
「でも、あいつが最低なやつだってことは、すぐにわかったでしょう?」
裕美の言葉に頷く。
入学式当日に、先輩と腕を組んで帰る姿を見つけ、その翌日には別の女子とキスをしている姿を見てしまった。
それでも、あの日の笑顔が忘れられない。
「…終わらせたいの」
小さな声で言った。友也と裕美が首を傾げる。
「ちゃんと終わらせたいの」
もう一度はっきりと言った。
「…どういうことだ?」
「見てるだけじゃ、諦めきれないの。…どんなに最低だってわかっても」
「…」
「でも、告白をしたって、振ってはくれないでしょう?…だから、ちゃんと終わらせたいの。…そうじゃなきゃ、私は次に進めない」
「友香…」
「大丈夫。すぐに振られるから」
その表情はどこか引きつっていた。友也と裕美は歪めた表情のまま、友香を見る。
始業を知らせるチャイムが鳴った。
何か言いたそうな2人に気づかない振りをして席に座る。
ガラガラと音を立て、教師が教室の扉を開けた。「起立」と号令がかかる。
「礼」の言葉とともに、友香は頭を深く下げた。そうしなければいけない気がした。
「友香」
決して大きくはないのに、その声は響くように通った。
帰る支度をしていた友香は手を止め、顔を上げる。
笑顔の譲が、教室に入ってきた。
「一緒に帰ろう」
「…え?」
「月曜日は友香の日になった」
譲は得意げに小さな紙を広げてみせる。4本の線と女の名前。赤い丸が付けられた「友香」と、たどった先の「月」の文字。
「…じゃあ、帰ろうか」
ノートと教科書を強引に鞄に詰め込み、譲の背中を押す。譲を睨みつける友也と裕美が声を発する前に教室を出た。
「はい」
歩きながら伸ばされる手。友香は訳がわからず、じっとその手を見つめた。
「え?」
「ほら、早く」
途端に友香の手が暖かいぬくもりに包まれる。見覚えのある光景に思わず泣きそうになった。
学校を出るまでは、色んな視線を感じていた。けれど、街に出てしまえば、溶け込んでしまう。
左手が譲に触れていて、耳が譲の声を拾っている。顔を上げれば譲の横顔が見られて、視線を感じた譲が友香を見る。照れくさくて笑えば、譲も笑ってくれた。2年間ずっと夢に見ていた光景。
「2回目だな」
少しだけ口角を上げた。
「え?」
「友香と手を繋ぐのは2回目だな。あの時、友香は迷子になって泣きそうになってた」
「…」
「あれ?憶えてない?」
譲の言葉に、友香は勢いよく首を振った。
「憶えてるよ!…でも、橋元君も憶えてるなんて思わなくて」
「俺のテストの順位知ってる?」
「学年一位」
「俺ね、頭いいの。大抵のことは忘れない」
そう笑う譲の顔は、あの時の笑顔だった。
憶えていないと思っていた。憶えているはずなどないと。数十分の出来事だった。友香にとっては初めて恋に落ちた経験でも、譲にとっては、何ともない出来事だったはずだ。それでも憶えていてくれた。それがたまらなく嬉しかった。
「ありがとう」
告げようとした友香の声は、着信の音でかき消される。
「どうした?」
ためらわず出る譲の横顔を友香は見つめた。手に力が入りそうになるのを必死でこらえる。
隣にいる友香の耳は、かすかに相手の声を拾った。内容まではわからなかったが、相手の声は高い。
譲は少し眉をひそめたが、すぐに表情を戻した。
「今日は、急だったし、その映画は俺も見たいから、行くけど、奈々子は金曜だって言っただろ?来週から月曜は友香の日だからな。ルールは守れよ」
譲が電話を切る。
「ルール」という言葉がとても現実味を帯びていた。
譲にとっては「遊び」なのだと友香は理解する。ただ、楽しければいい。この「お付き合い」はそういうものなのだ。
「友香。ごめん。今日は友香の日なんだけどさ、映画見に行くことにしちゃった。だから、今日は、この先の分かれ道までね」
「ごめん」という言葉は耳に入ったが、譲の言葉に「謝罪」は含まれていなかった。
一気に自分の立場を理解する。身体の熱が冷めていくのに、繋いでいる手だけが熱かった。
「うん。わかった」
笑った。できる限りの笑顔で笑った。
「そういえばさ、友香って5組だよな?」
「え、あ、うん」
「いや、なんか俺、友香のこと知らないから知りたいなって」
その一言で、赤くなる自分はどれだけ単純なのだろう。
「好きな色は?」
「あ、えっと…。青、かな?」
「誕生日は?」
「今週の土曜日」
「え?もうすぐじゃん」
「うん」
「じゃあ、その日は一緒に遊ぼうか?」
「え?」
「もう予定入ってる?」
「ううん。…でも、月曜じゃないよ?」
「誕生日だよ?友香を優先するって。だって、俺、友香の彼氏だし。あ、そう言えば俺、まだ友香のアドレス知らないや。友香、ケータイ出して」
「うん」
「友香、先、受信な。っと、…じゃあ、今度、友香送信して。…これで、よしっ」
嬉しいのに、苦しい。その笑顔をもっと見たい、笑いかけないでほしい。相反する気持ちが同時に押し寄せる。
「…ありがとう」
自分の電話帳に『橋元譲』の名前が入るなど思っていなかった。ただの文字に感動してしまう。
「ああ。…っと、ここで今日はここまでだ」
「…うん」
「あ、そうだ。友香ってさ、処女だよな」
「…」
突然の言葉に、友香は反応するのも忘れた。そんな友香に譲は苦笑いを浮かべる。
「あ~あ、いいよ。大体わかるから」
「…」
「俺さ、処女って面倒くさいから嫌なんだよね。だからさ、どっかで処女捨ててきてよ」
譲は少し首を傾げた。
それはあまりにひどい内容で、その割にあまりに可愛いお願いの仕方だった。
ひどい発言をしている自覚がないのか、譲は笑う。その顔が、あの笑顔と一緒で、友香は苦しくなった。
最低だと思った。それでも、嫌いになれない自分が一番最低だった。
「…わかった。でもさ、…一応女の子にとって結構大事なことなんだよね。だからさ…ちょっとだけ待ってくれる?」
「…ま、他もいるし、昔のよしみで待ってやるよ」
「ありがとう」
「じゃあ、また、明日な。友香」
唇に軽く触れた。友香にとって初めてのキス。
去っていく譲は、少し歩いて一度友香を振り返った。にこりと笑って、手を振る。
友香はそれに手を振り返した。
メールを知らせる着信音が鳴った。
「やっぱ、あいつ最低だと思う。一度、痛い目見た方がいいよ。友也が痛い目見せてやるとか言ってるけど、友也じゃ、返り討ちがオチだよね(笑)…私は、やっぱり反対だよ」
裕美からのメールに友香は少し笑う。
「裕美、私もそう思うよ」
小さな声で呟いた。
自分のことのように、心配してくれる友達がいる。それが嬉しかった。それと同時に申し訳なかった。
最低だと友香も思う。処女は面倒くさいから捨ててこいと笑顔でいう男が最低でなくて何なのか。でも最低だと思っても、友香は譲を嫌いにはなれていない。
だから、少しだけ許してほしいと思った。
隣にいられるのが嬉しかった。繋いだ手が暖かかった。ずっと夢に見ていた笑顔を向けられるのが幸せだった。
この高校に入るために、友香は猛勉強した。高校に受かったところで譲がいるという確証はなかった。けれど、信じて励んだ。そして友香は賭けに勝ったのだ。
ご褒美に、少しだけ、譲の隣にいたい。
恋に落ちたのも、デートをしたのも、キスをしたのも、譲が初めてだった。それ以上の初めては譲にあげない。だから、友也と裕美を心配させることはわかっていても、あと少し「彼女」でいさせてほしい。
静かな風が、友香のショートカットの髪を揺らした。春と夏が混ざったような風。はっきりしない自分の心みたいだと友香は嘲笑を浮かべた。
眠さを堪え、上履きを取り出していた友香は思わず手を止めた。
「おはよう、友香」
笑いかける譲の声が耳に入ったからだ。
「…お、おはよう」
「なんでびっくりしてんの?」
そう言いながら、譲はテキパキと上履きに履き替える。一拍遅れて、友香も動きを再開する。
「え…いや、…」
火曜日は自分の日ではない。だから、声をかけてはいけないのかと思っていた。それでも譲は笑顔で友香に話しかけてくれた。
「譲」
彼を呼ぶ少し高めの声。譲と同時に、友香もその声の先に視線を向ける。
数人の女子が靴箱から出てきた2人を見ていた。睨むように友香を見る数人の中に、一人だけ無表情の人がいる。「彼女」だろう、と友香は思った。
焦げ茶色の髪を長く伸ばし、凛と立っている。背は高くはなく、男子高校生にしては背の低い譲と並んでもお似合いであった。2人が並べば、絵にかいたような美男美女のカップルである。
「譲、早く教室行こうよ」
睨むように友香を見ていた内の一人が、甘えたような声を出す。譲は友香に軽く手を上げ、彼女たちのもとに行った。
友香は、ずっと「彼女」を見ていた。
面倒くさいことを嫌う譲だが、友香を睨むくらいしてもいいはずだ。なのに「彼女」は周りと同じように睨むことはしなかった。それが睨まれることよりずっと苦しかった。
譲が「彼女」に近寄る。
その瞬間、友香の胸は絞めつけられた。譲が「彼女」と並んでいるからではない。「彼女」が幸せそうに笑うその顔がはっきり見えたからだ。
先ほどまでの無表情からは考えられないくらいの満面の笑み。そして、自然なその笑みから、先ほどの無表情こそ作っているのだとわかった。
譲の「彼女」とは、そういうことなのだと教えられた気がした。どんなに好きでも、報われなくて。けれど隣にいられるのは幸せなのだ。
視線の先にいる「彼女」も譲を本気で好きだからこそ、終わり方がわからないのだろうと友香は思う。
「彼女」たちに何かを伝え、譲は友香のもとに来た。諦めたように先に行く後ろ姿が譲の顔で見えなくなる。
「友香。一緒に教室まで行こう」
「え…あ…えっと…」
「ああ。さっきの?綾子とその友達。火曜日とそれから土曜日は綾子の日なんだ。あ、ちなみに俺らの一つ上」
「…いいの?」
「ん?…土曜のこと?それならちゃんと話しておいたから大丈夫」
そう言う譲に首を振る。
「火曜は綾子さんの日なんでしょう?こっちに来ていいの?」
友香の言葉に少しだけ間をあけ、譲は笑った。
「綾子に気を使ってるんだ。やっぱ、友香は面白いな。他の彼女なら絶対喜ぶのに」
「…」
「いいの、いいの。俺が、友香と一緒に行きたかったから」
譲の顔が近づいてくる。頬に柔らかい感触。友香の顔が赤くなる。「可愛い」と譲は、友香の頭を撫でた。
「友香、好きだよ」
あの笑い方。友香は痛くなる胸を無意識で押さえていた。
初めて言われた「好き」だという言葉。それがこんなに苦しいものだとは思わなかった。
その言葉に重みはないとわかっているのに、譲の口から出る言葉には意味があった。嬉しくて泣きそうになるのに、悲しくてやっぱり泣きそうになる。
求めてはいけないのに、傍にいることを許される。愛してくれはしないのに、愛の言葉を囁いてくれる。最低なのに、優しい。譲はそういう人なのだ。
「友香?」
「え?あ、あのさ…そう言えば、学校でいるときは、『彼女』以外の女の子も一緒にいるよね?それって月曜日もそうなるのかな?」
「さぁ、どうだろう?そうなるとは思うけど?あ、でも大丈夫。学校以外では彼女と2人きりだし、俺、基本女の子大好きだけど、彼女以外には触れないから」
「…」
「だから、安心しろよ」
にこりという効果音が似合う可愛い表情。
「ところでさ、土曜はどこ行きたい?」
「……遊園地、行きたいな」
彼氏と遊園地に行く。それは友香の小さな夢だった。
「いいよ。俺、絶叫系好き。…じゃあさ、駅前に10時集合な」
「うん。…ありがとう」
ゲームは、ルールがあって、それを守るから楽しくできるのだ。きっと、これはゲームで彼なりのルールがある。非常識なそのルールは彼の中では常識なのだろう。それは、楽しいからと、虫の羽を平気で引きちぎる、純粋で残酷な子どものようだった。
それでも、笑いかけられるたび、好きだという想いは募っていく。
「ねぇ、ちょっといい?」
夕日が差し込む教室で、一人残っていた友香に声をかけられた。朝、譲を囲んでいた先輩の内の2人がそこに立っていた。
綾子という名の「彼女」はいない。それは知っていた。教室の窓から、「彼女」と譲が手を繋いで歩いている姿が見えたから。
睨むような表情と険悪な雰囲気を醸し出す2人の姿に、ここに友也と裕美がいなくてよかったと思った。
「なんですか?」
立ち上がり、彼女たちを見る。
「ねぇ、あなたが譲の彼女になったって本当?」
一人が聞いた。黒いストレートの髪がよく似合う彼女は雰囲気が綾子という「彼女」に似ている。
「ええ。月曜日担当だそうですよ」
「だそうって、何、その言い方。…どうしてあんたなんかが、譲の彼女になるの?」
怒鳴るような声を出したのはメガネをかけたショートカットの先輩。栗色の髪は、譲と同じ色だった。
どこか連携の取れたやり取りに、こういうことが多くあるのだと思い知らされる。
「…」
「他の彼女、見たことがあるでしょう?少なくても綾子は見たよね?」
「…はい」
「全員、本当に綺麗なの。譲の隣に並んでいて思わず見とれてしまうくらい。…それだから許せるのに。どうして、普通のあなたが、譲の隣にいるの?」
黒髪の彼女が言った。
許すって何だろう。友香は、睨むように前に立つ2人を見つめた。
譲の隣にいることに、譲以外の誰の了承がほしいのか。少なくともその権利は彼女たちにはないはずだ。
「先輩たちに許されなくても別にいいです。…そんなに言うなら先輩たちも告白したらどうですか?こんな普通の私でも彼女にしてくれたから、先輩たちなら喜んで彼女にしてくれますよ」
言い終わる前か、後か。頬に痛みが走った。突然の出来事に目が丸くなる。
「…わかったようなこと言わないで」
放たれた声は震えていた。黒髪の先輩が手を押さえている。
好きだと言えば、彼女になれる。けれど、たった一人の存在にはなれない。だから、「好き」だと伝えられない。その気持ちは痛いほどわかった。
「…そっちこそ、わかったようなこと言わないでください!」
思わず叫んでいた。頬の痛みを一瞬忘れる。
その気持ちを抱いているなら、自分のつらさもわかるはずだ。
他人に何か言われる筋合いなどない。
「なんだよ、お前!」
ショートカットの先輩が怒鳴った。
これが漫画だったら、譲が助けに来てくれるのに。友香は睨む先輩を前に場違いなことを考えていた。
「……そうだね」
今にも友香に掴みかかろうとしていた彼女の腕を掴みながら黒髪の先輩が静かに言った。
「何もしてない私たちに、何か言う権利はないのかもね。…結局、どっちにしてもつらさは一緒か」
「…」
「最低な人に惚れた自分が悪いってことかな?」
自嘲的に笑う。綾子に似た雰囲気の彼女の言葉はやけに友香の胸に響く。
「付き合っていてもつらくて、ただ好きでいるのもつらいなんてね。…嫌いにもさせてくれない。…本当に最低な人」
遠くを見つめる表情を見て、友香は思い出した。以前、短期間ではあったが、譲の「彼女」だった一人だ。
「…」
「つらいわよ」
「…成実」
「好きだって言いたくて。好きだって言ってもらいたくて。でも、好きだという譲の言葉が憎らしいの」
「…」
「付き合っていても、別れてもつらいのは一緒。譲がたった一人を選んでくれるまで、終わらない」
「ちゃんと、終わらせるつもりです。……今度の土曜日が過ぎたら」
「そう」
「…ちゃんと振られて、ちゃんと忘れるつもりです。無理やりでも終わらせるつもりです」
彼女たちに言っているのか自分に言い聞かせているのかわからなかった。成実がもう一人の手を引き、去っていく。その背を友香は呆然と見つめていた。
目頭が熱くなる。上を向くことで何とか堪えた。
泣くのは、最後だけだと決めている。
「よぉ」
「…エスパーなわけ?」
小さく呟いた友香の声を拾ったのか、友也は笑いながら頷いた。
「昔からなんとなくわかるんだよ。お前が傷ついた時ってのは」
家に帰りたくなくて、ぶらぶらと街を歩いていたために、家に着いた頃には、外は暗くなっていた。家の前にある街灯の下で、友也は軽く手を上げる。
友香は、涙を堪えたまま、友也の胸に頭を預けた。片手が背中に回り、片手が頭を撫でる。友也の手は優しい。
いつだってそうだった。友達とけんかした時、テストでひどい点を取った時。泣きたいときには、いつも友也が傍にいてくれた。
「お前、小さくなった?」
「友也が大きくなったんでしょう。昔は同じくらいだったのにね」
「俺らも大人になったってことか」
「…大人になれれば、傷ついたりしないのかな?」
「バカだな。大人でも、好きなやつの一番じゃなきゃ、つらいに決まってるだろ。…一緒だよ」
「…」
「お前も最低なやつに惚れたな?」
「うん。…でも、土曜日に終わらせる。最後に、恋人らしいことして、それで終わらせるから」
「…わかった。俺も、裕美も、お前が幸せならそれでいいよ」
「友也っていい男なんだね」
「お前、今頃気づいたのかよ」
「あ~あ、友也を好きになっとけばよかったな」
「残念でした。俺には、夏奈っていう可愛い彼女がいるんです」
「友也のくせに、他校の彼女って生意気だよね」
「それ、裕美も言ってた。お前ら、俺への扱いひどくね?」
「だって、友也だし」
「なんだそれ。…友香」
「ん?」
「泣かなくていいのか?」
頭を撫でていた手を止め、友也が尋ねた。
「いつもだったら、今頃、胸のあたりびしょびしょなんだけど」
「びしょびしょは言い過ぎでしょ?」
「…」
「全部終わるまで、泣かないって決めたの」
抱きしめる腕に力が入る。「苦しい」と文句を言う友香。それでも、友也は抱きしめていた。
「全部終わったら、あいつのこと一発殴らせろよ。泣き虫のお前が泣かないんだ。最後まで俺も我慢してやるから」
「友也じゃ、返り討ちがオチじゃない?」
「それでもいいよ。一発殴る」
言い切るその声に、友香は笑った。
泣く場所がある。それが嬉しかった。
隣のクラスの靴箱は当たり前のように隣にある。靴をしまっていた友香の視界に、眠たそうにあくびをした譲が見えた。
「お、おはよう」
顔を上げ、そう笑いかける。譲は、ちらりと視線だけ友香に向け、すぐに靴に視線を戻した。
「…ああ」
「…」
笑顔のない譲を見たのは初めてかもしれない。虫の居所が悪かったのか、それとも何か気に障ることをしたのか。友香は、自分の体温が下がっていくのを感じた。嫌な汗が出てくる。
「えっと…」
「今日は月曜じゃない」
「…そう…だね」
「それとも、もう、捨ててきた?」
「…」
なんだかひどく怖かった。友香は必死に首を横に振る。
「へぇ、違うんだ。抱き合ってたからてっきりそうなのかと思った」
「…!」
「昨日、帰りに見えたんだ。友香と友香のクラスのやつが抱き合ってるところ。あの辺に家があんの?彼女家まで送ったら、たまたま目撃した」
「…友也は幼馴染で、別に、そういうんじゃないよ?」
「何、言い訳してんの?俺が言ったことだし」
「…」
「でも、幼馴染って、お手軽なところにするんだな」
鼻で笑う。
「…やめて」
「は?」
「その言い方、友也までバカにしてるみたい。友也には、ちゃんと彼女がいるし、私の大切な幼馴染なの。そういう言い方しないで。友也は関係ない」
「…今日は、泣きそうな顔しないんだな」
「え?」
「何?そんなに大事?その友也ってやつ。…なんか、ルール違反な気がするんだけど」
ルールを知らないから、譲が何に対して不機嫌になっているのか、友香には理解できなかった。ゲームがうまく進まなくて、駄々をこねる子どもみたいだ。
「…」
謝るのが正解なのか。けれど、謝ることは友也を悪く言うことを許すことになる気がした。
「俺、もう行くわ。彼女待ってるし」
「ま、待って」
友香は思わず、譲の腕を掴んだ。
「何?」
「…」
低い声が冷たい。友香の肩を丸めた。譲のため息が聞こえる。
面倒くさいと思われたのかもしれない。汗が冷えていくのがわかる。
終わってしまうのだろうか。
ふいに譲の手が伸びる。友香は俯き、目を瞑った。
頭に軽く手が触れられる。軽く頭を叩く優しい手つきに、全身の力が抜けそうになった。
「俺の時ばっかり、泣きそうな顔するんだな」
その声に顔を上げる。苦笑いを浮かべる譲の表情。
「…え?」
「何でもない。俺、先に行くから」
「…うん」
掴んでいた手を離す。譲は振り返らず、2,3回手を振った。
靴箱から出れば、譲と「彼女」が並んで歩く姿。しかしそれはすぐ取り巻きの姿に隠れるように見えなくなった。
「…ふぅ~」
大きく息を吐く。顔を上げ、時計台を見た。
針は9時半を指している。さすがに早く来過ぎたようだ。
人々が急ぎ足で駅に入っていく様子を横目で見た。
本当に譲は来てくれるのか、嫌な想像が頭の中をぐるぐる回る。木曜日、金曜日と譲に会えなかった。遠くにいる後ろ姿は見たが、声をかけることはできなかった。電話帳に譲の名前があるのに、電話をすることも、メールを送ることもできない。
顔を上げた。時計の針は、ほとんど進んでいない。
このまま来ないまま振られてしまうのではないか。そこまで考えて、首を横に振る。
今日だけは楽しむと決めた。譲と話すとき、いつも気を使っていた。譲に合わせて言葉を選ぶ。けれど、今日だけは、自分らしく振舞おうと思った。いい思い出だったと言えるようにしようと決めたのだ。
「大丈夫、大丈夫」
胸の前で手を合わせ、呪文のように繰り返す。
「友香」
自分を呼ぶ声に顔を上げた。少し離れたところで手を振る譲。
初めて見た私服。友香は小さな感動を覚えた。
シャツの上に、明るめの茶色のジャケットを羽織り、頭には、黒の中折れ帽子。
周りの女性たちの視線を集めているのがわかる。
「おはよう。待った?」
「え?あ、…ううん。今来たところ」
「そっか。でも、早いな」
譲が時計台を見る。長針は9を指している。
「橋元くんこそ、早いね」
「俺、彼女を待たせない派なの。紳士だからね」
譲の言葉に、友香は微苦笑を浮かべた。
「でも、私は待たせたよ?」
「…友香が早すぎなんだろ!俺に会うのがそんなに楽しみだった?」
「…」
「真っ赤。友香ってすぐ顔に出るからわかりやすいな。新鮮」
「…どうせ、男慣れしてませんよ」
「いいじゃん。俺で慣れてけば。…ってか、次の時は俺が先にいるからな。覚悟しておけよ」
「……うん」
譲の口から当たり前のように「次」という言葉が出るのが嬉しかった。けれど、「次」は存在しない。
「友香?」
「え?」
「どうした?」
「ううん。なんでもない。早くいこうよ」
駅からは遊園地まで行くバスが出ている。15分程度バスに揺られれば、窓から観覧車が見えた。
入場券を買うために列に並ぶ。
「やっぱ、人多いな」
「そんなことないんじゃない?土曜日なのにこのくらいっていい方だよ」
「ふ~ん、そんなもん?」
「そうだよ。橋元くんは、あんまり遊園地来ないの?」
「めちゃくちゃ久しぶり。友香はよく来る?」
「結構来るよ」
「誰と?」
「友達と」
「…それってあいつもいる?」
譲の言葉に友香は首を傾げた。
「あいつ?」
「…友也だっけ?」
「ああ。うん、一緒によく来るよ」
「…ふ~ん」
「橋元くん?」
「…ま、いいや。ところで、友香、お弁当は?」
からかうように笑みを浮かべた。譲を纏う雰囲気が変わったことに友香はほっと息を吐く。
「え~、ないよ」
「遊園地にデートだろ?そこは、ベタにいっとけよ」
「え~」
「え~って言うなよ」
「え~」
「なんか、友香この前と少し雰囲気違う?」
「…そうかな?」
「俺、こっちの方が好き」
「そっか。…ありがとう」
「何、ありがとうって」
「ううん。なんでもない」
譲の言葉に、友香は小さく首を振った。
「友香って絶叫系大丈夫?」
入場券を手に入れ、遊園地の中に入る。パンフレットを広げながら楽しそう譲が友香に聞いた。
「うん。好き」
「よし!じゃあ、まずはそれからな!…はい」
当たり前のように差し出された手。友香は初めて躊躇わずに掴んだ。
「行くぞ」
そう言った途端に、友香の手を譲は引っ張る。大股で歩く譲に友香は小さく笑い小走りでついていく。
「はしゃいでるね」
目当てのアトラクションの列の前に並ぶ。周りを見れば、カップルの姿が多かった。
「こういう所に来るのは久しぶりだからな。それに友香と一緒だし」
「も~、また、そんなこと言って」
「友香と一緒にいると楽しいよ」
譲はいつもの笑みを浮かべた。「私も楽しいよ」と友香も笑みを返す。
「あれ?今日は赤くならないんだ?」
「毎回赤くなってられないもん」
「ふ~ん。…じゃあ、これは?」
頬に触れる感触。友香は、自由な左手で頬を押さえた。
「よし!赤くなった」
小さく拳を握る。
「卑怯じゃない?」
「え~、卑怯じゃないって。やっぱり、友香は面白いな」
「面白いって褒め言葉?」
「褒め言葉、褒め言葉。嬉しくないの?」
「微妙かな?」
「え~」
「だって、微妙だもん」
「…でも、友香の耳まで赤くなったからいいや」
「ごめん。意味がわかんないんですけど」
そう言って友香は笑った。譲も同じように笑う。
ただ繋いでいるだけだった手は、いつの間にか「恋人つなぎ」になっていた。
緊張で手に汗をかいてしまいそうだったけれど、どうしても放したくはなかった。
繋いでいる手に自然に力がこもる。譲もそれに合わせて力を入れた。それが嬉しかった。
ただ見ているだけではできなかったことがたくさんある。それを知ってしまった。
今日が終わらなければいいのに。友香は何度も思うけれども、楽しい時間ほどあっという間に過ぎていくものである。
空を見上げると、オレンジ色に染まっていた。
周りを見渡すと、お土産を手に出口に向かって歩く人の姿が見える。
「もう、そろそろ帰らないとだな」
「…そうだね」
「じゃあ、行こうか」
「…待って。…最後に観覧車、乗っていかない?」
「観覧車?」
「うん」
「…」
初めての渋るような反応に、友香は不安そうになる。
「えっと…」
「いや、…俺、ちょっと高いところ苦手でさ」
「…そっか。…じゃあ、帰ろうか」
「いや、観覧車乗ろう」
「え?でも、高いところ苦手なんでしょう?」
「大丈夫。最後はやっぱ、ベタに行かないとな。よし、行くぞ」
心配そうな表情を浮かべる友香をよそに、譲はどんどん歩みを進め、観覧車を待つ人の列に並んだ。
思ったよりも列に並んでいる人数は多くない。あまり待つことなく、青色のゴンドラが降りてきた。係員が2人を誘導する。
「橋元くん。大丈夫?」
「ああ。下見なければ大丈夫。それに、手握ったままだし」
「…」
「本当に、大丈夫だから。そんな心配そうな顔すんなよ」
「…うん。今日は本当にありがとうね」
「俺も、楽しかった」
夕日が沈みかけていた。人々の姿が小さくなり、徐々にわからなくなる。
「そうだ。友香」
「ん?」
「言い忘れてた。…誕生日、おめでとう!」
「ありがとう」
「これ、俺から」
そう言うと、譲は鞄の中から小さな包みを取り出す。
「え?」
「プレゼント」
「開けてもいい?」
「うん」
譲が頷くのを確認し、友香は包装を丁寧に剥がす。
中には青色のシンプルなシャーペンが入っていた。
「いいものが思いつかなかったから、実用的なものにしようと思ってシャーペンにしてみた。ちなみに使いやすそうだから俺も同じの買ったからお揃いな」
「…」
「…あれ?もしかして、俺、外した?」
顔を覗き込む譲に、友香は必死で首を横に振る。プレゼントなどもらえないと思っていた。
「嬉しいよ、ありがとう」
友香の言葉に、譲は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、無理やりにでも掴んでいたいと思った。一緒にいられればそれでいいじゃないかと。けれど、本当に好きだからこそ、つらいのだとも思う。
お揃いのシャーペンを見て、何度も今日のことを思い出すのだろう。そして、後悔するのだ。今日、手を離したことを。けれど、それをわかっていても終わらせないといけない。
幸せになりたいと友香は思った。つかの間の「幸せ」という幻想じゃなくて、本当に愛し愛される、そんな当たり前の幸せが欲しかった。だから、夢を見るのは、今日で終わり。そう決めたのだ。
友香は泣きそうになるのを必死で堪える。
「あ、ここ、頂上じゃないか?」
譲の言葉に友香は顔を上げた。
「本当だ。…大丈夫?」
「大丈夫だって。何回目だよ?友香は心配性だな」
「ごめんね」
「いいよ。そういう所が可愛いし」
「…また、そういうこと言う」
「友香」
声色が変わった。譲の手が友香の頬に触れる。
友香は静かに目を閉じた。
「好きだよ」
優しく触れた。その唇がすぐに離れていく。友香は名残惜しそうにそれを見送った。
「こんなところでそんな目しちゃだめだって」
「え?」
「俺が欲しいっていう目」
譲の言葉に友香は耳まで赤くなる。その様子に譲がくすりと笑った。
「まだ、地上まで時間があるみたいだけど、どうする?」
「…もう一回」
「いいよ。おいで」
友香は、譲の首に腕を絡める。初めて自分からキスをした。
軽く触れ、すぐに離れようとする。しかし、譲がそれを追いかけた。
「だめ。まだ、足りない」
先ほどとは違う深いキス。何度も角度を変えながら譲の唇が友香のそれに触れた。
譲の動きに合わせ、友香も必死でついていく。
けれど慣れていない友香には息を吸うタイミングがわからず、ギブアップとばかりに譲の背中を叩いた。
最後に軽く触れると譲は離れていく。銀の糸が2人を繋いだ。
友香は譲の肩に頭を預けた。肩で息をする。
譲は小さく笑い、友香の頭を撫でると、ぎゅっと抱きしめた。
友香は譲の体温を感じながら、このまま時間が止まればいいと切に思った。
ラッシュの時間を過ぎているのか、駅にいる人はまばらだった。
7時を過ぎた時間であったが、空はすっかり暗くなっている。
「今日は、いっぱいわがままを聞いてくれてありがとう」
「いいよ。友香の誕生日だし」
「ねぇ、…あと1つだけ、わがままを聞いてくれる?」
「いいよ。何?」
「ちゃんと振ってほしいの」
友香は目を逸らさずに、そう言った。
「え?」
「私、嫌なの。他の人と付き合っていてほしくない」
「じゃあ、友香が振れば?」
譲の言葉に友香は静かに首を振る。
「…できないから、わがままを聞いてほしいの」
「…」
「誕生日プレゼントだと思って、ちゃんと振って」
「いいよ。わかった。じゃあ、別れよう」
そう言うと譲は友香に背を向けた。驚くほどあっさりとした別れ。
友香は家で何度もシュミレーションをしたときは、泣かずにいることはできなかった。
けれど、本番では声も震えることはなかった。
小さく息を吐く。もう気を張らなくてもいいのだと思うと一筋の涙が頬を伝った。けれど、それだけだった。
「帰ろう」
頬の涙をふき取り、そう呟く。帰る道はいつもより、なんだか少し暗い気がした。
いつもどおり6時15分に目覚まし時計がうるさく鳴り響く。手を伸ばし止めながら、友香は、自分の誕生日が、土曜日でよかったと思った。
気持ちの整理が完全についたわけではないが、それでも、間に日曜日をはさんだことは大きい。息を大きく吐き、頬を両手で叩く。
「よし!」
勢いをつけてベッドから降りた。
「友香。おはよう」
家を出ると、玄関の前に友也が立っていた。
「…どうしたの?」
友也とは同じ学校だが特に毎日一緒に通うというわけではない。たまたま同じ時間に家を出ることはあっても、待ち合わせをすることはほとんどないのだ。
「これ」
そう言いながら、友也は小さなクマの人形がついたキーホルダーを友香に差し出した。
「ん?」
差し出されたキーホルダーを受け取りながら友香は首を傾げる。
「誕生日おめでとう。2日遅れたけど」
「は?」
「なんだよ、『は?』って」
「え、だって、いつもそんなことしないし、プレゼントなんてもらったことないでしょう?」
「いいんだよ。…お前、頑張ったんだろ?」
「…だから、エスパーですか?」
「エスパーかもな。ちなみに、それ昨日、ゲーセンで取った。しかも一発」
「なんでそういうこと言っちゃうかな…」
友香は小さくため息をつく。
「すごくないか?一発。しかも、友香が好きそうなやつ。マジ、俺エスパーだろ?」
「なんか、エスパーの意味違うし。…ま、いいか。ありがとう、友也」
「ああ」
友香の笑顔に友也も笑う。友香は通学用の鞄に今もらったクマのキーホルダーを付けた。
「いいね。可愛い」
「だろ?んじゃ、久しぶりに、仲良く登校でもしますか」
「そうしましょうか」
友香は、友也の隣に並んだ。他愛もない話をしながら、学校へ向かう。
「おはよう。友香、それから友也も」
教室に入るとすぐにかけられた声に笑みを浮かべる。
「おはよう、裕美」
「おう」
「一緒に登校?」
「うん」
「相変わらず仲いいね」
「でしょう?これ、もらっちゃったし」
そう言って友香は鞄のキーホルダーを見せる。
「誕生日プレゼント?」
「まあ、そんなとこだ」
「じゃあ、私からも。2日遅れたけど、誕生日おめでとう」
「ありがとう!」
「前に友香が欲しいって言ってた歌手のCD」
「わ~、嬉しい!ありがとう」
「俺の時より反応よくないか?」
「ゲーセンで取ったキーホルダーと前から欲しかったCDの反応比べられても」
「ま、そうか」
「でも、友也のキーホルダーも嬉しいよ」
「なら、いい」
「友香。自分でプレゼントしといてなんだけど、今度貸してね」
「もちろん!裕美、本当にありがとう」
友香は裕美にもらったCDを大事そうに鞄にしまった。
「…そうだ。裕美、友也」
「何?」
「何だ?」
「私ね、ちゃんと振ってもらってきたよ」
友也はわかっていたが、それでも自分の口で伝えたかった。
「そっか」
返したのは裕美。
「うん。今度こそ、幸せな恋をするから」
言い切る友香に裕美は頷き、友香の頭を撫でた。
「誰とするの?」
突然の声に、3人はドアの方に目を向ける。まだ人がまばらな教室の中に入ってきたのは、譲だった。
友香の身体が固まるのがわかる。裕美と友也は睨むように譲を見た。
「何か用かよ」
「…なあ、5組の一限って何?」
「は?」
「だから、一限は何の授業か聞いてるんだけど」
「……体育だけど?」
「じゃあ、友香、体調不良な」
「は?」
「朝礼も体調不良で保健室だから。よろしく」
そう言って友香の腕を掴もうとする譲を遮るように裕美は一歩前に出た。
「…ねぇ、何言ってるの?これ以上、友香を傷つけないで」
「裕美の言うとおりだ。友香はもうお前なんて見てない。これ以上友香に近づくなよ」
友也も一歩前に出る。
「…あんた、友也ってやつ?」
「そうだけど?」
「友香の大切な幼馴染」
「だからそうだって言ってんだろう!だから、なんだよ」
「俺さ、あんたのこと、嫌い」
「…」
突然の言葉に、友也は返す言葉をなくした。
「友香の前からいなくなればいいのにとか思うよ」
「は?それは俺のセリフだっつーの!」
怒鳴る友也の前に、裕美はすっと手を出す。
「なんだよ、裕美」
「友也、ちょっと、黙ってて」
「なんでだよ!」
「いいから。…ねぇ、もう泣かせないって約束できる?」
「…泣かせないとは約束できない。けど、泣き止むまで一緒にいるし、泣いた後、必ず笑顔にしてみせる。それなら言える」
「…」
裕美は一歩斜め後ろに下がる。譲は手を伸ばし、友香の手を引いた。
友香は困惑の表情を浮かべたまま、譲を見、その後、裕美に視線を移す。
裕美は微苦笑を浮かべ、手を振った。
譲は手を引いたまま、教室を出ていく。友香は転びそうになりながら、引きずられるように後をついていった。
「おい!裕美、何考えてんだよ!」
2人のいなくなった教室で友也の怒鳴り声が響く。
「…やっぱさ、好きな人と幸せになってほしいじゃん」
「は?」
「いいの。友也は、黙ってみてれば。…私たちは、黙ってみてるしかないんだから」
「…?」
友也は理解できないという表情を浮かべる。それに裕美は笑った。
手を引かれてきたのは、屋上だった。
風が吹き、髪が揺れる。下を見れば、登校中の学生の姿を見ることができた。
「何か用だった?…橋元くん、高いところ苦手でしょう?屋上なんか来て大丈夫なの?」
声が震えた。けれど、精一杯の普通の顔をして聞く。
「ああ。この前も言っただろう?下を見なければ大丈夫なんだよ」
「そう言えば、そう言ってたね。…ところで、用事って何かな?」
「聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「俺のこと好き?」
「…何が聞きたいのかわからないんだけど」
少しの沈黙をつくり、友香は眉をひそめた。先ほどからわけがわからないことばかりだ。
「だから、俺のことが好きかどうか聞いてんの」
「…」
「知ってた?友香、俺のこと、好きだって言ったことないんだぜ?」
「…」
いつかは離すことになる。それがわかっていて掴んだ手だった。だから、言えなかった。心の中では何回も、何十回も言っていたけれど、口に出して「好き」と伝えることはできなかった。伝えてしまえば、手を離せなくなると思ったから。
「ねぇ?俺のこと、好き?」
「…もう、いいでしょう?私たち、別れたじゃん。彼女のところに戻りなよ」
「俺さ、苦手なんだよね。その顔」
「え?」
「友香の泣きそうな顔」
「…」
「俺、いろんな女の子の泣き顔見てきたけど、でも、見たくないって思ったのは、友香が初めてだ」
「…」
「今も、初めて会った時も」
まっすぐ見つめられる瞳に、友香の心臓は勝手に速度を上げる。錯覚しそうになる自分を精一杯戒めた。
「ねぇ、もう、付き合ってないんだから、優しくしてくれなくていいんだよ?だからさ、お願いだから…これ以上、惑わせないで」
懇願に似た声。目を合わせたくなくて地面を見つめる。
ふいに腕を引かれた。驚いている間もなく、譲の腕の中に捕えられる。
離れようと両手で胸を押すが、腕の拘束は強くなるだけだった。
「俺、自分が楽しければいいと思ってた。『好き』だって言えば、みんな喜んでくれて、なんだか自分に力があるような気がして気分がよかった」
「…」
「付き合うのも、『付き合って』って言われたからだし、恋人が何人もいても悪いことだとは思ってなかった。別に、彼女に俺以外の恋人を作るな、なんて言うつもりもなかったし、彼女を楽しませていればそれでいいと思ってた。それが嫌なら、俺と付き合わなければいいわけだし」
「…」
「みんな、誰でもいいんだと思ってたんだ。楽しければ、一緒にいる人間は誰でも大差ないと思ってた」
「…」
「相手が俺以外の誰といても何とも思わなかったし、むしろその方が楽でよかった。干渉されたり、心配されたりするのは面倒で、ただ楽しくて、気持ち良ければそれでいいって思ってたんだ」
最低だと思った。何人彼女がいたかわからないが、友香が知るかぎりでも両手では足らないほど付き合ってきた人がいる。その中には、譲のように「楽しければいい」と思っていた人もいたのかもしれない。けれど、そんな人ばかりではないはずだ。
「誰でもいい」わけがない。譲を好きだからこそ、譲の恋人になりたかったのだし、譲の隣で笑いたかったのだ。
譲が話している間に、腕の拘束力はなくなっていた。今なら、抜け出すことも容易だった。
けれど、友香はそうしなかった。譲の声が真剣だったから。
「でも、そうじゃないんだな」
「…」
「楽しいことはもっと楽しいし、嬉しいことは、もっと嬉しい。心配だって嬉しかった」
「…」
「俺、面倒事嫌いだから、普通なら迷子なんて助けないし。…泣きそうな顔見て、笑わせたいなんて思わない」
友香はそっと譲の胸を押し、距離を取る。顔を上げると、そこには優しく見つめる譲の顔があった。
「あいつと一緒にいると腹が立ったし、あいつのことを大切に思ってることにもむかついた」
「…」
「悪いと思ってなかったのは、本気で人を好きになったことがなかったからだ。でもさ、俺、泣かしたくないんだよ。だからさ、そのためなら、他の彼女と別れるし、もう、他の女に手を出したりしない」
「…」
「だからさ、言えよ」
「…」
「友香。…俺のこと、好きだろう?」
「……好きだよ。橋元くんが好き」
泣きたいわけではないのに、涙が止まらなかった。
譲はそっと髪を撫で、友香を抱きしめる。譲の肩に顔を埋め、声を出さずに友香は泣いた。
「友香。俺さ、誕生日プレゼントにシャーペンあげたよな?だからさ、友香のわがまま聞くっていうプレゼント、取り消しでいいよな?」
譲の言葉に、友香は泣きながら頷く。
「友香。好きだよ」
耳元で囁かれる愛の言葉。
それに友香は泣き顔のまま、笑って告げる。
「私も、好き」
「友香。初めては俺がもらうからな」
「面倒くさいのは嫌いじゃないの?」
「俺が欲しいの。友香が好きだから」
「…うん」
「ありがとう」
譲の顔は友香には見えなかった。けれど、どこかその声は震えているような気がした。
「私も。…橋元くんがいい」
「知ってる」
「そうだね」
「友香」
「何?」
「本当に、好き。たぶん、俺の初恋」
譲の言葉に友香は小さく笑う。「笑うな」と抗議の声が聞こえるが、それでも嬉しいのだから仕方がない。
「私も橋元くんが初恋だよ」
「…よかった」
「ねぇ」
「ん?」
「好きだよ」
その言葉に譲は、いつもより優しい顔で、笑う。その笑顔に、友香も幸せそうに笑った。
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わ~!!ありがとうございます。薦めてくださっているなんて、嬉しすぎます!
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