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太陽の光が部屋の中に差し込む。その明るさで、セシリアは目を覚ました。ベッドから身体を起こし、ゆっくりと伸びをする。置時計を見れば、針は6の文字を指していた。早すぎたな、と苦笑が漏れる。いつもはリディに起こされるまで起きないのに、現金なものだ。
「どんな服がいいのかな」
セシリアはベッドから足を降ろし、服を探し始めた。
ハプス家ほどの家ならば、着替えは使用人が手伝って行う。けれど、ハプス家では、全員が1人でなんでもできるように育てられていた。セシリアの祖父の代で、執事頭が急死し、ハプス家の機能が一時的に停止した時期があった。それ以降、使用人に頼らず生活できる人間として育てることが一家方針となったのである。掃除、洗濯、料理に裁縫。セシリアはどれも人並みにこなす。マナーの練習と同じように幼い頃から身体に覚えさせてきた。長年積み重ねてきた成果。「お嬢様」でそれができる人は多くない。だからこそ、セシリアにとって「普通に生きていける」ことが自慢だった。
セシリアはクローゼットから服を出し、ソファに並べる。オレンジのドレス、青いドレスに、緑のドレス。けれどどれがいいのかわからず、首を傾げた。
「セシリア様」
ノックの音とともに名前を呼ばれた。
「どうぞ」
許可の声を聞き、入ってきたのはリディだ。ドレスの前に立っているセシリアを見て、少しだけ目を丸くした。
「起きていらっしゃったんですね」
「ええ。目が覚めたの」
「学校がある日もそのくらい張り切っていただけると助かるのですが」
ため息とともに漏れたその声に、セシリアは苦笑いを浮かべる。
「頑張るわ。…たぶん」
煮え切らない返事にリディはもう一度ため息をついた。
「もう!頑張るってば」
「それならいいのですが…」
「ね、ねぇ。それよりどれがいいと思う?」
「…服をお選びになっているのですか?」
「ええ。汚れてもいい服だと言われたから、探してたの。でも、どれも汚れてもいいかなって」
「奥様に怒られますよ」
「そう?」
「ええ。セシリア様の事を思って買ってくださった服ですからね」
「そうね。…でも、そうするとやっぱり選ぶのは難しいわ」
「そう思うのでしたら、他の理由で選んではどうですか?」
「他の理由?他に必要なことがある?」
「……どうでしょう?」
「ま、いいわ。じゃあ、この一番古いものにしようかな」
そう言うと、セシリアはオレンジ色のドレスを手に持った。ネグリジェを脱ぎ捨て、ドレスを身に着ける。リディはそっと近づき、着替えを手伝った。
「リディ、ありがとう。それじゃあ、朝食を食べたら出かけましょう」
セシリアの言葉にリディは眉を小さく動かす。
「セシリア様、もうクロード様のところに行かれるつもりなのですか?」
「え?だめ?」
首を傾げるセシリアにリディは呆れの表情を浮かべる。
「こんなに早い時間に行っても迷惑です」
きっぱりと言い切るリディの言葉にセシリアは時計を見た。まだ、先ほどから30分しか経っていない。朝日は昇ったばかりで、陽の光は弱かった。
「…それもそうね」
「それに、夏休みの課題が出されているのではありませんか?」
「…」
「本日の課題をこなし、お昼を食べてからクロード様のところに向かいましょう」
「え?それじゃあ、遅いわよ」
リディの言葉にセシリアは首を横に振る。せっかく早く起きられたのにと頬を膨らました。
「半日もお手伝いできます。決して遅くはありません」
「…」
「それに、たとえば、朝食を食べてすぐに行ったとします。そしたら昼食はどうするのですか?クロード様のところでいただくわけにはいきませんし、キッチンを借りるわけにもいきません」
「でも……」
「薬の調合をお願いしているのです。これ以上、迷惑はかけられません」
「で、でも、…いつ行くと伝えていないから、あんまり遅いと来ないと思われてしまうわ。お昼は、……パンを持っていけばいいじゃない。リディ、また、大量に買ったんでしょう?」
思わぬ言葉にリディはすぐに言い返せなかった。ここぞとばかりに、セシリアは言葉を続ける。
「私たちだけで食べるのには量が多すぎるし」
「…」
「それに、お世話になる代わりに、クロード様に少し分けてあげたらいいんじゃないかしら?」
必死さの見えるセシリアにリディは根負けしたとばかりに息を吐いた。まっすぐセシリアを見て一度頷く。
「……わかりました。本日は、セシリア様の課題が終わったらすぐに出かけることにしましょう。昼食をどちらで食べるかは、セシリア様の課題がいつ終わるかで決めます。そして、明日からは、午後の時間に伺うときちんと伝えましょう」
「え?午後から?」
「ええ。私たちは雑用しかできないのですからそれで十分なはずです」
「でも…」
「でも、じゃないです。早く行って何ができるというのですか?」
「リディ、なんか意地悪じゃない?」
「いいえ」
「……わかったわ。それでいい」
セシリアの言葉に、リディは頷いた。それを見たセシリアは小さく鼻歌を歌う。楽しそうに笑みを浮かべるセシリアをリディは見つめた。
「…?リディ、どうかした?なんか怖い顔してるけど」
セシリアの声にはっとし、リディはすぐに首を横に振る。
「いいえ。なんでもありません」
「そう?」
「はい」
「ならいいわ。早くご飯を食べに行きましょう。言っておくけど、課題なんてすぐに終わらせるからね」
そう言ってドアの前に立つセシリアにリディは頷いて見せ、ドアを押した。
部屋から一歩出る。先ほどまで笑っていた幼い顔はどこにもなかった。美しいほど整っている笑みをセシリアは浮かべる。
優雅に笑うその顔はハプス家の娘の顔だった。
「行きましょう、リディ」
「はい」
リディは頭を下げる。
逃げることなどできないのに、逃げ場があると教えるのは残酷なことなのだろうか。リディはセシリアの一歩後ろを歩きながら、そんなことを考えていた。
セシリアは馬車から降りると、空を見た。太陽はまだ真上には来ていない。静かな風がセシリアの美しい髪を揺らす。飛ばないようにそっと帽子を押さえた。
扉の前でセシリアは顔だけリディの方に向けた。
「一応ノックしておく?」
「一応も何も、礼儀です」
「どうせわかってるのよ?私たちが来てること。地獄耳だから」
「誰が地獄耳だ。聴力が優れてるだけだ」
ノックをする前に開いた扉にセシリアは片頬を持ち上げた。
「さすが地獄耳」
「違うって言ってんだろ」
「いいじゃない、なんでも。小さな声が聞こえるってことには変わりないんだし。……それより早く中に入れてくれない?」
こちらを見て、微動だにしないクロードにセシリアは言い、少しだけ開かれた扉に手をかけた。しかし、それ以上は開かない。セシリアはクロードの顔を見上げた。
「…中に入れてよ」
不機嫌そうなセシリアの声。けれどクロードは力を緩めない。セシリアがもう一度口を開こうとした時、セシリアより前にクロードの口が動いた。
「帰れ」
冷たい声だった。声のトーンは先ほどより低い。突然の言葉にセシリアは一瞬言葉を失った。
「…」
「聞こえなかったか?帰れよ」
「…え?何言っているの?手伝いに来たのよ。中に入れて」
「…」
「ねぇ、何意地悪してるの?中に入れてよ」
「そんな格好で部屋に入るな」
「え?」
「そんなひらひらした服で、大切な薬を落としたらどうするつもりだ。遊びのつもりなら帰れ」
それだけ言うと、クロードはセシリアに背を向け、中に入って行った。バタンと扉が閉められた音がする。
その音を聞きながらセシリアは、一度自分の服を見た。刺繍が施されたスカートは横に広がっている。今は慣れたため何とも思わないが、初めてドレスを身に着けた時は歩きにくかったなと思い出した。
一歩後ろにいたリディは何も言わない。ただ、セシリアの言葉を待っていた。
「リディ、髪留めかリボンを持っているかしら?」
「はい」
すぐに出されたリボンをセシリアは手に取る。
「ずいぶん用意がいいのね。……こうなることがわかっていた?」
「いいえ。ただ、髪はまとめた方がいいのではないかと思い、持ってきました」
セシリアはリディの言葉に、ブロンドの髪を触った。背中の半分ほどまである髪は、少し頭を動かせば、大きく広がる。仕事をするには不向きだった。
セシリアは他の「お嬢様」とは違うという自信があった。けれど、リディの短い髪を見て、自分も周りと変わらない「お嬢様」であったなと少しだけ悔しくなる。
「……そうね。そんなことすら気づかなかったわ。遊びと言われても仕方がないわね」
セシリアは一度目を閉じた。何のために、早く起きたのだろう。心の中で呟く。自分にはできると思っていた自分が恥ずかしい。手伝うことすら拒否されているではないか。考えが甘かった。その甘さよりも、言われるまで気づかなかった自分が一番悔しかった。
セシリアは、心の中で3拍数える。ゆっくりと目を開けた。鍵のかけられていない扉を静かに引いた。
部屋の中に入ったセシリアをクロードは一瞥した。しかし、すぐに手元に視線を戻す。
「ごめんなさい」
セシリアは頭を下げた。クロードがセシリアを見る。言葉はなかった。けれど、セシリアは続けた。
「考えが甘かったです。本当にすみませんでした」
もう一度頭を下げた。そして、リディから受け取ったリボンでスカートの裾を縛り上げた。突然の行動にクロードはかすかに驚きの表情を浮かべる。
「明日からメイド服を持ってくるわ。今日は、これで許して」
スカートの裾を左側で強引にまとめた。太股半分以下の白い綺麗な肌が露出する。けれど恥ずかしそうなそぶりを見せず、セシリアは両頬を上げた。
絹でできた豪華な服は、きっとリボンを外せばしわくちゃになってしまうだろう。それでも、セシリアはお構いなしと笑う。
「あ、そうだ。リディ、リボンをもう一つ頂戴」
「かしこまりました」
リディは青色のリボンをセシリアに渡した。セシリアは、受け取ると髪を大雑把にまとめる。高いところでまとめられた髪は、櫛を使わないため、ところどころほつれていた。
服も髪も不格好だった。「お嬢様」が聞いてあきれる。それでも、セシリアは綺麗に笑った。
「これなら合格?」
「…ああ。さすがだな、お嬢様」
クロードの言葉に、セシリアは片頬を持ち上げた。
「もちろんよ」
自信満々なその言葉にクロードは笑みを漏らす。つられてセシリアも笑った。
「さて、それで、私は何を手伝えばいいのかしら?」
「じゃあ、その薬草を細かく切ってくれ。それからあんたは、そっちにある赤い木の実をすりつぶしてくれ」
「あんたじゃなくて、リディよ」
「そりゃ、悪かったな」
悪びれず言うクロードにリディは微苦笑を浮かべる。
「私は何と呼ばれても結構です」
「だめよ。リディは私の大切な人ですもの。大切に扱って。それに、今日はリディがおいしいパンを持ってきてくれたの。あんまりひどい態度だと分けてあげないわよ。リディの想い人が作ったパンなんだから。本当においしいのよ」
「へぇ、想い人がね」
クロードはからかうようにリディを見た。
「セ、セシリア様。何をおっしゃるんですか!」
突然の言葉に、リディは耳まで赤くする。けれど、セシリアは小さく首を傾げた。
「え?だめだった?だって、想い人がいるなんて、素敵なこと隠すことないでしょう?」
「想い人のことは、その想い人とあとは信頼できる人にのみ話せばいいのです。触れ回る必要はないことです」
頭を抱えたリディがため息交じりで言う。
「そういうものなのね。…でも、それなら問題ないじゃない」
「え?」
疑問符を浮かべるリディにセシリアは笑い、自分とクロードを指さした。
「信頼できる人」
セシリアの笑顔にリディは苦笑を浮かべた。セシリアはともかく、会って間もないクロードも信頼できるのだろうか。けれど、外では見せない笑顔を惜しげもなく見せているセシリアを見て、そうなのかもしれないと思った。こんな風に、セシリアがセシリアらしくいられる相手は自分を置いて他にいなかった。出会って間もない。けれども、セシリアはクロードを信頼した。主が信頼している相手を自分が信頼しないわけがない。リディは「そうですね」と小さく呟く。その言葉に頷くと、セシリアは言われたとおり薬草を刻み始めた。遅れまいとリディも仕事に取り掛かる。
クロードはリディに小声で聞いた。
「いいのか?あんたのところのお嬢様。俺なんか簡単に信頼して。いつか騙されるぜ?」
「そんなわけないですよ。クロード様だから信頼しているのです」
「会って2日だ。どこに信頼できる要素がある」
「さあ?」
「さあって、あんた…」
首を傾げるリディをクロードは心配そうに見つめた。そんなクロードにリディは笑みを浮かべて見せる。
「いいんです。クロード様はセシリア様が信頼したお方。それだけで私が信じる理由になります」
「ま、あんたがいいって言うなら別にいいけど」
頭をかきながら納得できないという表情で、納得の言葉を告げた。その反応にくすりとリディは笑う。
「ほら、そこの2人!何おしゃべりしてるの!ちゃんと手を動かしなさいよ」
小声で話しているクロードとリディにセシリアが怒鳴るように言った。その様子にクロードは小さく笑みを浮かべる。
「かしこまりましたよ、お嬢様」
「…早く仕事してよね」
「わかったよ。…って、ちょっと待て。その今手に持っているものは何だ?」
「え?クロード様から頼まれた薬草だけど?これ切ればいいんでしょう?」
「素人のくせに勝手にやろうとするな!俺がやれって言ったのだけやれよ」
「だってこれを切ればいいんじゃないの?」
「違うって。似てるけど、違う薬草。ほら、見て見ろ。葉っぱのギザギザの形が違うだろ?」
「……言われてみれば」
「だろ?薬草によって方法が違うんだ。まだ、見分けがつかないんだから言われたことだけをやってろよ」
「だって、これを指さしてたじゃない!そう言うならわかるように分けといてよ」
「こんなにわかりやすいのに、見分けがつかないのが悪いだろ?」
「何よ、私では見分けがつかないってクロード様が言ったんでしょう!」
顔を突き合わせ、声を張り合う2人にリディはそっとため息をついた。自分を出せる場所、といっても、そこまで出す必要はないのに。
まだまだ続きそうな言葉の応酬。口戦が始まる前にと、リディはわざとらしく咳払いする。
「クロード様、火にかけてある鍋が沸騰しそうですがよろしいのですか?」
「え?あ!まずい!!」
クロードはリディの言葉に急いで火を消した。リディは視線をクロードからセシリアに向ける。
「セシリア様。私たちはお願いしている身です。クロード様にご迷惑が掛からないよう気を付けてください」
決して大きな声ではないのに、よく響く声で注意をされ、セシリアとクロードは「ごめんなさい」と声をそろえた。
「どんな服がいいのかな」
セシリアはベッドから足を降ろし、服を探し始めた。
ハプス家ほどの家ならば、着替えは使用人が手伝って行う。けれど、ハプス家では、全員が1人でなんでもできるように育てられていた。セシリアの祖父の代で、執事頭が急死し、ハプス家の機能が一時的に停止した時期があった。それ以降、使用人に頼らず生活できる人間として育てることが一家方針となったのである。掃除、洗濯、料理に裁縫。セシリアはどれも人並みにこなす。マナーの練習と同じように幼い頃から身体に覚えさせてきた。長年積み重ねてきた成果。「お嬢様」でそれができる人は多くない。だからこそ、セシリアにとって「普通に生きていける」ことが自慢だった。
セシリアはクローゼットから服を出し、ソファに並べる。オレンジのドレス、青いドレスに、緑のドレス。けれどどれがいいのかわからず、首を傾げた。
「セシリア様」
ノックの音とともに名前を呼ばれた。
「どうぞ」
許可の声を聞き、入ってきたのはリディだ。ドレスの前に立っているセシリアを見て、少しだけ目を丸くした。
「起きていらっしゃったんですね」
「ええ。目が覚めたの」
「学校がある日もそのくらい張り切っていただけると助かるのですが」
ため息とともに漏れたその声に、セシリアは苦笑いを浮かべる。
「頑張るわ。…たぶん」
煮え切らない返事にリディはもう一度ため息をついた。
「もう!頑張るってば」
「それならいいのですが…」
「ね、ねぇ。それよりどれがいいと思う?」
「…服をお選びになっているのですか?」
「ええ。汚れてもいい服だと言われたから、探してたの。でも、どれも汚れてもいいかなって」
「奥様に怒られますよ」
「そう?」
「ええ。セシリア様の事を思って買ってくださった服ですからね」
「そうね。…でも、そうするとやっぱり選ぶのは難しいわ」
「そう思うのでしたら、他の理由で選んではどうですか?」
「他の理由?他に必要なことがある?」
「……どうでしょう?」
「ま、いいわ。じゃあ、この一番古いものにしようかな」
そう言うと、セシリアはオレンジ色のドレスを手に持った。ネグリジェを脱ぎ捨て、ドレスを身に着ける。リディはそっと近づき、着替えを手伝った。
「リディ、ありがとう。それじゃあ、朝食を食べたら出かけましょう」
セシリアの言葉にリディは眉を小さく動かす。
「セシリア様、もうクロード様のところに行かれるつもりなのですか?」
「え?だめ?」
首を傾げるセシリアにリディは呆れの表情を浮かべる。
「こんなに早い時間に行っても迷惑です」
きっぱりと言い切るリディの言葉にセシリアは時計を見た。まだ、先ほどから30分しか経っていない。朝日は昇ったばかりで、陽の光は弱かった。
「…それもそうね」
「それに、夏休みの課題が出されているのではありませんか?」
「…」
「本日の課題をこなし、お昼を食べてからクロード様のところに向かいましょう」
「え?それじゃあ、遅いわよ」
リディの言葉にセシリアは首を横に振る。せっかく早く起きられたのにと頬を膨らました。
「半日もお手伝いできます。決して遅くはありません」
「…」
「それに、たとえば、朝食を食べてすぐに行ったとします。そしたら昼食はどうするのですか?クロード様のところでいただくわけにはいきませんし、キッチンを借りるわけにもいきません」
「でも……」
「薬の調合をお願いしているのです。これ以上、迷惑はかけられません」
「で、でも、…いつ行くと伝えていないから、あんまり遅いと来ないと思われてしまうわ。お昼は、……パンを持っていけばいいじゃない。リディ、また、大量に買ったんでしょう?」
思わぬ言葉にリディはすぐに言い返せなかった。ここぞとばかりに、セシリアは言葉を続ける。
「私たちだけで食べるのには量が多すぎるし」
「…」
「それに、お世話になる代わりに、クロード様に少し分けてあげたらいいんじゃないかしら?」
必死さの見えるセシリアにリディは根負けしたとばかりに息を吐いた。まっすぐセシリアを見て一度頷く。
「……わかりました。本日は、セシリア様の課題が終わったらすぐに出かけることにしましょう。昼食をどちらで食べるかは、セシリア様の課題がいつ終わるかで決めます。そして、明日からは、午後の時間に伺うときちんと伝えましょう」
「え?午後から?」
「ええ。私たちは雑用しかできないのですからそれで十分なはずです」
「でも…」
「でも、じゃないです。早く行って何ができるというのですか?」
「リディ、なんか意地悪じゃない?」
「いいえ」
「……わかったわ。それでいい」
セシリアの言葉に、リディは頷いた。それを見たセシリアは小さく鼻歌を歌う。楽しそうに笑みを浮かべるセシリアをリディは見つめた。
「…?リディ、どうかした?なんか怖い顔してるけど」
セシリアの声にはっとし、リディはすぐに首を横に振る。
「いいえ。なんでもありません」
「そう?」
「はい」
「ならいいわ。早くご飯を食べに行きましょう。言っておくけど、課題なんてすぐに終わらせるからね」
そう言ってドアの前に立つセシリアにリディは頷いて見せ、ドアを押した。
部屋から一歩出る。先ほどまで笑っていた幼い顔はどこにもなかった。美しいほど整っている笑みをセシリアは浮かべる。
優雅に笑うその顔はハプス家の娘の顔だった。
「行きましょう、リディ」
「はい」
リディは頭を下げる。
逃げることなどできないのに、逃げ場があると教えるのは残酷なことなのだろうか。リディはセシリアの一歩後ろを歩きながら、そんなことを考えていた。
セシリアは馬車から降りると、空を見た。太陽はまだ真上には来ていない。静かな風がセシリアの美しい髪を揺らす。飛ばないようにそっと帽子を押さえた。
扉の前でセシリアは顔だけリディの方に向けた。
「一応ノックしておく?」
「一応も何も、礼儀です」
「どうせわかってるのよ?私たちが来てること。地獄耳だから」
「誰が地獄耳だ。聴力が優れてるだけだ」
ノックをする前に開いた扉にセシリアは片頬を持ち上げた。
「さすが地獄耳」
「違うって言ってんだろ」
「いいじゃない、なんでも。小さな声が聞こえるってことには変わりないんだし。……それより早く中に入れてくれない?」
こちらを見て、微動だにしないクロードにセシリアは言い、少しだけ開かれた扉に手をかけた。しかし、それ以上は開かない。セシリアはクロードの顔を見上げた。
「…中に入れてよ」
不機嫌そうなセシリアの声。けれどクロードは力を緩めない。セシリアがもう一度口を開こうとした時、セシリアより前にクロードの口が動いた。
「帰れ」
冷たい声だった。声のトーンは先ほどより低い。突然の言葉にセシリアは一瞬言葉を失った。
「…」
「聞こえなかったか?帰れよ」
「…え?何言っているの?手伝いに来たのよ。中に入れて」
「…」
「ねぇ、何意地悪してるの?中に入れてよ」
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「え?」
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「リディ、髪留めかリボンを持っているかしら?」
「はい」
すぐに出されたリボンをセシリアは手に取る。
「ずいぶん用意がいいのね。……こうなることがわかっていた?」
「いいえ。ただ、髪はまとめた方がいいのではないかと思い、持ってきました」
セシリアはリディの言葉に、ブロンドの髪を触った。背中の半分ほどまである髪は、少し頭を動かせば、大きく広がる。仕事をするには不向きだった。
セシリアは他の「お嬢様」とは違うという自信があった。けれど、リディの短い髪を見て、自分も周りと変わらない「お嬢様」であったなと少しだけ悔しくなる。
「……そうね。そんなことすら気づかなかったわ。遊びと言われても仕方がないわね」
セシリアは一度目を閉じた。何のために、早く起きたのだろう。心の中で呟く。自分にはできると思っていた自分が恥ずかしい。手伝うことすら拒否されているではないか。考えが甘かった。その甘さよりも、言われるまで気づかなかった自分が一番悔しかった。
セシリアは、心の中で3拍数える。ゆっくりと目を開けた。鍵のかけられていない扉を静かに引いた。
部屋の中に入ったセシリアをクロードは一瞥した。しかし、すぐに手元に視線を戻す。
「ごめんなさい」
セシリアは頭を下げた。クロードがセシリアを見る。言葉はなかった。けれど、セシリアは続けた。
「考えが甘かったです。本当にすみませんでした」
もう一度頭を下げた。そして、リディから受け取ったリボンでスカートの裾を縛り上げた。突然の行動にクロードはかすかに驚きの表情を浮かべる。
「明日からメイド服を持ってくるわ。今日は、これで許して」
スカートの裾を左側で強引にまとめた。太股半分以下の白い綺麗な肌が露出する。けれど恥ずかしそうなそぶりを見せず、セシリアは両頬を上げた。
絹でできた豪華な服は、きっとリボンを外せばしわくちゃになってしまうだろう。それでも、セシリアはお構いなしと笑う。
「あ、そうだ。リディ、リボンをもう一つ頂戴」
「かしこまりました」
リディは青色のリボンをセシリアに渡した。セシリアは、受け取ると髪を大雑把にまとめる。高いところでまとめられた髪は、櫛を使わないため、ところどころほつれていた。
服も髪も不格好だった。「お嬢様」が聞いてあきれる。それでも、セシリアは綺麗に笑った。
「これなら合格?」
「…ああ。さすがだな、お嬢様」
クロードの言葉に、セシリアは片頬を持ち上げた。
「もちろんよ」
自信満々なその言葉にクロードは笑みを漏らす。つられてセシリアも笑った。
「さて、それで、私は何を手伝えばいいのかしら?」
「じゃあ、その薬草を細かく切ってくれ。それからあんたは、そっちにある赤い木の実をすりつぶしてくれ」
「あんたじゃなくて、リディよ」
「そりゃ、悪かったな」
悪びれず言うクロードにリディは微苦笑を浮かべる。
「私は何と呼ばれても結構です」
「だめよ。リディは私の大切な人ですもの。大切に扱って。それに、今日はリディがおいしいパンを持ってきてくれたの。あんまりひどい態度だと分けてあげないわよ。リディの想い人が作ったパンなんだから。本当においしいのよ」
「へぇ、想い人がね」
クロードはからかうようにリディを見た。
「セ、セシリア様。何をおっしゃるんですか!」
突然の言葉に、リディは耳まで赤くする。けれど、セシリアは小さく首を傾げた。
「え?だめだった?だって、想い人がいるなんて、素敵なこと隠すことないでしょう?」
「想い人のことは、その想い人とあとは信頼できる人にのみ話せばいいのです。触れ回る必要はないことです」
頭を抱えたリディがため息交じりで言う。
「そういうものなのね。…でも、それなら問題ないじゃない」
「え?」
疑問符を浮かべるリディにセシリアは笑い、自分とクロードを指さした。
「信頼できる人」
セシリアの笑顔にリディは苦笑を浮かべた。セシリアはともかく、会って間もないクロードも信頼できるのだろうか。けれど、外では見せない笑顔を惜しげもなく見せているセシリアを見て、そうなのかもしれないと思った。こんな風に、セシリアがセシリアらしくいられる相手は自分を置いて他にいなかった。出会って間もない。けれども、セシリアはクロードを信頼した。主が信頼している相手を自分が信頼しないわけがない。リディは「そうですね」と小さく呟く。その言葉に頷くと、セシリアは言われたとおり薬草を刻み始めた。遅れまいとリディも仕事に取り掛かる。
クロードはリディに小声で聞いた。
「いいのか?あんたのところのお嬢様。俺なんか簡単に信頼して。いつか騙されるぜ?」
「そんなわけないですよ。クロード様だから信頼しているのです」
「会って2日だ。どこに信頼できる要素がある」
「さあ?」
「さあって、あんた…」
首を傾げるリディをクロードは心配そうに見つめた。そんなクロードにリディは笑みを浮かべて見せる。
「いいんです。クロード様はセシリア様が信頼したお方。それだけで私が信じる理由になります」
「ま、あんたがいいって言うなら別にいいけど」
頭をかきながら納得できないという表情で、納得の言葉を告げた。その反応にくすりとリディは笑う。
「ほら、そこの2人!何おしゃべりしてるの!ちゃんと手を動かしなさいよ」
小声で話しているクロードとリディにセシリアが怒鳴るように言った。その様子にクロードは小さく笑みを浮かべる。
「かしこまりましたよ、お嬢様」
「…早く仕事してよね」
「わかったよ。…って、ちょっと待て。その今手に持っているものは何だ?」
「え?クロード様から頼まれた薬草だけど?これ切ればいいんでしょう?」
「素人のくせに勝手にやろうとするな!俺がやれって言ったのだけやれよ」
「だってこれを切ればいいんじゃないの?」
「違うって。似てるけど、違う薬草。ほら、見て見ろ。葉っぱのギザギザの形が違うだろ?」
「……言われてみれば」
「だろ?薬草によって方法が違うんだ。まだ、見分けがつかないんだから言われたことだけをやってろよ」
「だって、これを指さしてたじゃない!そう言うならわかるように分けといてよ」
「こんなにわかりやすいのに、見分けがつかないのが悪いだろ?」
「何よ、私では見分けがつかないってクロード様が言ったんでしょう!」
顔を突き合わせ、声を張り合う2人にリディはそっとため息をついた。自分を出せる場所、といっても、そこまで出す必要はないのに。
まだまだ続きそうな言葉の応酬。口戦が始まる前にと、リディはわざとらしく咳払いする。
「クロード様、火にかけてある鍋が沸騰しそうですがよろしいのですか?」
「え?あ!まずい!!」
クロードはリディの言葉に急いで火を消した。リディは視線をクロードからセシリアに向ける。
「セシリア様。私たちはお願いしている身です。クロード様にご迷惑が掛からないよう気を付けてください」
決して大きな声ではないのに、よく響く声で注意をされ、セシリアとクロードは「ごめんなさい」と声をそろえた。
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