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そして事は動き出す

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 カイトの訓練が始まってちょうど一週間。
 今日も今日とてカイトはデュールに絞られ、その光景をお茶会メンバーが見守る。それがこの家の日課になりつつあった。
 今朝はヘイスとリーティアの二人。クディカは私用で外出中である。

「ずっと気になっていたのですが」

 訓練の様子をじっと見つめていたヘイスは、ふと思い出したようにリーティアに向き直った。

「カイトさまはハーフェイ将軍に素手で勝ちましたよね? それなのにデュール殿にまったく歯が立たないのはどうしてですか?」

 紅茶に口をつけていたリーティアは、カップを置いてほうっと吐息を漏らす。それからゆっくりと瞼を開いた。

「誰にも言ってはいけませんよ?」

 彼女は片目を閉じて人差し指を唇につける。翡翠のまつ毛に縁取られた緋色の瞳に、ヘイスはどきりとしながら頷いた。

「イカサマをしたのです」

 囁くような小声。

「イカサマ……ですか?」

 小鳥のように首を傾げたヘイスに、リーティアはくすりと笑う。

「決闘の直前、私がカイトさんの肩に触れたのを憶えていますか? 実はあの時、身体強化をかけていました」

 二人の視線が、剣を振るカイトへ移る。

 自身に向けられた視線に気付かないまま、カイトは立ち合いに臨んでいた。剣の扱いに慣れるにつれ、日毎動きは洗練されていく。訓練中のデュールとの会話にも徐々に余裕が生まれつつあった。

「身体強化について少しは学んだか?」

 攻撃と共にデュールが問いかけ、

「ばっちり、教えてもらいましたよっ」

 防御を併せてカイトが答える。
 リーティアの講義で、魔法については一通り学んだ。
 彼女が特に重要視したのは、兵士の身体能力を底上げする補助魔法である。後衛術士によって身体強化を得た兵士は、通常の数倍から数十倍の戦闘力を発揮できる。

「建国王カイン一世は、身体強化の術をもって大陸の人間国家統一を果たした。当時としては画期的な魔法だったんだ。治癒魔法もそうだが、人の体に特定の効果をもたらすには極めて複雑なルーンを刻む必要があるからな」

 人間が作り出した魔法体系。その極意はルーン文字による発動の理論化にある。
 古代において魔法とは神秘の力とされていた。灰の乙女よりもたらされる神の恩恵であると信じられていたのだ。だが、その認識はルーン文字の発明によって覆された。魔法は数ある技能の一つとして広まり、多くに学ばれ習得されるようになり、今の世においては学問の一つと数えられている。

「複雑なルーンを刻める後衛術士は、ものすごい貴重なんですよね」

「そうだな。魔族とやり合えるのも彼らがいればこそだ」

 魔族は種として非常に優秀だ。強靭な肉体。莫大な魔力。尋常ならざる生命力。
 生物としての性能が、人間とはまるで違う。それは淘汰の結果だろう。力を信奉する彼らは弱者の生存を許さない。
 故に人間が魔族に立ち向かうには、後衛術士による身体強化が不可欠なのだ。

「君なら特にそのありがたみがわかるんじゃないか?」

 身体強化の効果について、カイトは身をもって知っている。戦いのいろはも知らない素人が、百戦錬磨の武人相手に快勝する。そんな大番狂わせを起こした張本人なのだから。
 デュールは段々と剣戟の速度を上げていく。怒涛の連撃にカイトは舌を巻き、次第に口数は少なくなっていった。

 離れた場所からその様子を見守るヘイス。彼女もまた身体強化の重要性は深く理解している。
 彼女は想像する。もし身体強化をかけられた自分が、強化の施されていないハーフェイと戦ったとして、カイトのように勝利できるだろうか。考えるまでもなく、勝ち目などない。少しばかり身体能力を底上げしようとも、戦闘技術の差は如何ともしがたいからだ。

「カイトさんは特別なのです」

 こころもち弾んだ声を受けて、ヘイスはリーティアに視線を戻す。

「この世界の住人とはまったく違う異質な存在。魔法に対する極度なまでの敏感さは、最大の弱点でありながら最上の資質にもなりうる」

 魔法の影響を受けやすいカイトの体質は、もちろん身体強化にも当てはまる。ハーフェイと戦った時のカイトの膂力、耐久力、感覚の鋭さは人知を遥かに超越していた。

「でも、魔法なんて使っておられましたっけ?」

 ヘイスは謁見の間での記憶を掘り起こす。
 魔法を使う際は、魔力の波動やルーン文字の発光が現れるはずだ。あの場にいた全員を欺くことは不可能に思えた。

「使っていないように見せていたのです。現に今、あなたに身体強化をかけていますよ」

「ええっ?」

 ヘイスは自分の体を見る。どこも変わったところはない。強化された感覚もない。
 それもそのはず。リーティアが身体強化に用いた魔力は粒子一つ分にも満たない。肉眼で発光を捉えられないほどごく僅かな量である。この程度の量であれば、身体強化の効果など皆無に等しい。かけられた本人でさえ気づけない。

「使った魔力はほんの少しだけ。仮に誰かが気付いて指摘したとしても、証明しようのないくらい微量でした」

「すごいですね……」

 ヘイスの驚愕は二つあった。
 一つはリーティアに対して。魔法の扱いにおいて最も大切なのが魔力のコントロールである。魔法を習う者が最初に躓き、魔法を極めんとする者が最後に到達する境地。彼女の緻密な魔力操作は、まさに神業と言える。
 もう一つはカイトに対して。微細な魔力がもたらした驚異的な身体強化は、一重に彼の特殊な体質故だろう。もしリーティアが全力でカイトを強化したら、いったいどれほどの強さを発揮するのか。その果てしなさを思えば、魔王を倒すなど容易いのではないか。

「それだけ強くなれるなら、訓練なんて必要ないんじゃ」

「いいえ。それは違いますよヘイス」

 ふと抱いた感想は、リーティアによってすっぱりと否定される。

「カイトさんは今、戦うための心と体を養っているのです。慢心は、英雄を凡夫に堕とす。彼が勇者を名乗るのであればまず自身に打ち勝つこと。五体に巣食う一切の油断を排さなければなりません。まことの自負を身につけるために」

 ヘイスは得心する。カイトがいくら強くなろうと、魔法による飽和攻撃でも受ければひとたまりもない。最上の資質は、最強の理由たり得ないのだ。
 ともすれば、カイトが訓練に励む意義を否定してしまうところだった。紅茶に映る自分を見つめて、ヘイスは自らの浅慮を恥じる。

「いま戻った」

 クディカの引き締まった声。
 ガゼボに歩み入った彼女の表情を見て、リーティアから笑みが消えた。

「おかえりなさい。何かありましたか」

「ああ。悪い知らせだ」

 椅子に腰を下ろし、クディカは神妙な面持ちで腕を組む。

「魔王軍がデルニエールに進軍を開始した。早ければ一両日中に戦が始まるだろう」

「そうですか。ついに」

 王国にとってデルニエールは最後の砦にも等しい。来たるべくして来た、絶対に負けられぬ戦いだ。

「すでにハーフェイの軍が出陣した。カイトにも参内命令が下っている。正式に騎士爵に叙勲された後、私の下に配属される」

 ヘイスが用意した紅茶を、クディカは一気に飲み干した。

「陛下はこの戦いでカイトの名を世に知らしめ、反転攻勢の契機にされるおつもりだ」

「カイトさんに武勲を立てよと?」

「うむ」

 物憂げな吐息を漏らすリーティア。

「致し方ありませんわね。私達でしかとお守りしなければ」

 たった一週間の訓練で戦場に送らなければならないのは、実に心苦しく不安である。それはクディカとリーティア共通する想いだ。同時に、彼に大きな期待を寄せているのも事実。カイトの力は、戦況を一変させる起爆剤になり得る。

「カイトさま……」

 ヘイスは不安げな瞳で想い人を見つめる。
 未だ拙い剣技で戦場に駆り出される彼の無事を、祈ることしかできない歯がゆさを覚えながら。
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