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幕間 三
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レイヴンが勇名を馳せた時分。ロードルシアはまだ興ったばかりの小国であった。
彼の因縁深き地であるダプアは今でこそ帝国の領地であるが、かつては林立した都市国家の一つであり、市民の生活を支えるために多くの奴隷を抱えているのが特徴だった。
剣闘文化の繁栄は、この膨大な数の奴隷が基盤となっている。
奴隷と言っても人間である。中には主人に反発する者や、ろくに労働を行わない怠惰な者も多かった。当時のダプア市民はこういった奴隷の扱いに困っており、その解決策として発案されたのが剣闘であった。従順でない奴隷は殺し合いの見世物にされる。有意義な処分の手段であり、奴隷への牽制ないし警告である。
この方策は奴隷の従属に一役買った。反抗的な奴隷は減り、勤勉さは増した。だが、一度生まれた剣闘という文化、その需要は加速度的に増加してしまった。市民は新たな娯楽の誕生を祝福し、その発達に情熱と思索を巡らせて、奴隷への圧力のみで終わること良しとしなかったのだ。剣闘の規模は次第に拡大し、増長し、残虐性を増していった。
ダプア史上における剣闘最盛期。エリーゼが生を受けたのは、そんな時代だった。
彼女は生来病弱で、読書を好み、勉学を嗜み、窓越しに臨む狭い景色の変遷を眺めるのが日課という、いわゆる箱入り娘であった。
彼女の父は名のある地主であり、商魂に溢れていた。農地拡大に伴って大量に仕入れた奴隷を、家族に対して自慢気に披露するような男だった。
エリーゼは父を愛してはいたが、彼の傍若無人な振る舞いはどうしても好きになれずにいた。彼女は優しい少女であり、酷使される奴隷を目にしては心を痛めていたのだ。当時としては、珍しい価値観の持ち主であった。
ある時、エリーゼは一人の少年と運命の出会いを果たす。同世代の少年奴隷。父は彼をレイヴンと呼んでいた。
彼は異国の出身のようで、言葉に不自由をしていた。同じ奴隷からも疎まれ、蔑まれていた。父が不良品を掴まされたなどと口にしていたことが、エリーゼの心に印象強く残っている。
彼と出会ってからというもの、エリーゼの頭はいつもレイヴンのことで一杯だった。読書や勉学にも身が入らず、両親もそれを心配していた。人目を忍んで彼に温かい食事を運んだり傷の手当てをしたりと、エリーゼは何かしら理由をつけては、レイヴンと関わりを持つようになった。言葉の不自由な彼に文字を教えることもあった。エリーゼが最初に教えたのは自分の名前。レイヴンはそれを誤読し、以後ずっと間違えたまま呼び続けた。
彼から向けられるたどたどしい感謝の言葉に、エリーゼの胸は熱くなるばかりであった。
しかし、レイヴンは度々脱走を図った。無理もない。碌な扱いを受けない奴隷の中でも特に冷遇されていたのだ。エリーゼが気をかけていたことが父の耳に入ると、彼の剣闘送りは即座に実行された。
この時、レイヴンは十三歳であった。農作業で鍛えられているとはいえ、剣の使い方など露ほども知らぬと思われており、最盛期に凌ぎを削る剣闘士達の贄となることは想像に難くなかった。
エリーゼは泣いた。父に怒りをぶつけた。頬を張られた時、彼女は生家との決別を誓った。だが、十歳そこそこの少女にできることなど取るに足りぬ些事。レイヴンの最初にして最後となるであろう試合を見届けることが、彼女に表せる唯一の誠意であった。
だが。あらゆる観衆の予想を覆して彼は勝利した。文句のつけようもない圧勝。その試合が伝説の始まりであったことは、今日では広く認知されるところである。
当時の市民達は、新たな剣闘の星の出現に沸き立った。
彼らの期待に応えるかのように、レイヴンは快進撃を続けた。見上げるほどの巨漢を打ち倒し、無数の魔物を殲滅し、当時最強と謳われていた無敗の剣闘士を死闘の末に撃破した。
剣闘の世界に足を踏み入れたレイヴンを陰で支えたのは、エリーゼただ一人。食事の用意も、装備の手入れも、話相手も、全て進んで買って出た。栄光の裏に隠された彼の傷や苦しみを、エリーゼだけが知っていた。それが彼女の誇りだった。レイヴンに尽くすことが、彼女の生きる意味だった。
エリーゼは恋をしていた。だが、市民と奴隷が結ばれることは決して許されない。市民は市民同士、奴隷は奴隷同士。そんなダプアの習わしが彼女を苦しめた。
エリーゼの父は最初こそ罵詈雑言を口にしていたが、レイヴンの勝利が続くと手のひらを返して彼を褒めそやした。娘の関与も黙認した。
いつしかレイヴンは名実ともに最高の剣闘士となった。そうなれば、各地の名士や有力者が彼を放っておくわけがない。レイヴンを巡って政治的な争いが勃発すると、エリーゼの父は敗北して失脚した。
争いの渦中にあったレイヴンは、断固として権力者の横暴に屈さなかった。故に幾度となく謀殺の危機に遭い、苦難に足を取られながらも、その全てを乗り越えた。その裏に、エリーゼの自己を惜しまぬ献身があったことは言うまでもない。
ダプアから逃れたレイヴンは、その足で遠方に去った。エリーゼは彼がこの世を去る最後の瞬間まで、その隣にあり続けたという。
ダプアに戻ったエリーゼは、彼の剣闘士としての生き様を記さんと筆を執った。遥か後世、悠久の彼方まで、レイヴンの名を語り継ぐために。
彼の因縁深き地であるダプアは今でこそ帝国の領地であるが、かつては林立した都市国家の一つであり、市民の生活を支えるために多くの奴隷を抱えているのが特徴だった。
剣闘文化の繁栄は、この膨大な数の奴隷が基盤となっている。
奴隷と言っても人間である。中には主人に反発する者や、ろくに労働を行わない怠惰な者も多かった。当時のダプア市民はこういった奴隷の扱いに困っており、その解決策として発案されたのが剣闘であった。従順でない奴隷は殺し合いの見世物にされる。有意義な処分の手段であり、奴隷への牽制ないし警告である。
この方策は奴隷の従属に一役買った。反抗的な奴隷は減り、勤勉さは増した。だが、一度生まれた剣闘という文化、その需要は加速度的に増加してしまった。市民は新たな娯楽の誕生を祝福し、その発達に情熱と思索を巡らせて、奴隷への圧力のみで終わること良しとしなかったのだ。剣闘の規模は次第に拡大し、増長し、残虐性を増していった。
ダプア史上における剣闘最盛期。エリーゼが生を受けたのは、そんな時代だった。
彼女は生来病弱で、読書を好み、勉学を嗜み、窓越しに臨む狭い景色の変遷を眺めるのが日課という、いわゆる箱入り娘であった。
彼女の父は名のある地主であり、商魂に溢れていた。農地拡大に伴って大量に仕入れた奴隷を、家族に対して自慢気に披露するような男だった。
エリーゼは父を愛してはいたが、彼の傍若無人な振る舞いはどうしても好きになれずにいた。彼女は優しい少女であり、酷使される奴隷を目にしては心を痛めていたのだ。当時としては、珍しい価値観の持ち主であった。
ある時、エリーゼは一人の少年と運命の出会いを果たす。同世代の少年奴隷。父は彼をレイヴンと呼んでいた。
彼は異国の出身のようで、言葉に不自由をしていた。同じ奴隷からも疎まれ、蔑まれていた。父が不良品を掴まされたなどと口にしていたことが、エリーゼの心に印象強く残っている。
彼と出会ってからというもの、エリーゼの頭はいつもレイヴンのことで一杯だった。読書や勉学にも身が入らず、両親もそれを心配していた。人目を忍んで彼に温かい食事を運んだり傷の手当てをしたりと、エリーゼは何かしら理由をつけては、レイヴンと関わりを持つようになった。言葉の不自由な彼に文字を教えることもあった。エリーゼが最初に教えたのは自分の名前。レイヴンはそれを誤読し、以後ずっと間違えたまま呼び続けた。
彼から向けられるたどたどしい感謝の言葉に、エリーゼの胸は熱くなるばかりであった。
しかし、レイヴンは度々脱走を図った。無理もない。碌な扱いを受けない奴隷の中でも特に冷遇されていたのだ。エリーゼが気をかけていたことが父の耳に入ると、彼の剣闘送りは即座に実行された。
この時、レイヴンは十三歳であった。農作業で鍛えられているとはいえ、剣の使い方など露ほども知らぬと思われており、最盛期に凌ぎを削る剣闘士達の贄となることは想像に難くなかった。
エリーゼは泣いた。父に怒りをぶつけた。頬を張られた時、彼女は生家との決別を誓った。だが、十歳そこそこの少女にできることなど取るに足りぬ些事。レイヴンの最初にして最後となるであろう試合を見届けることが、彼女に表せる唯一の誠意であった。
だが。あらゆる観衆の予想を覆して彼は勝利した。文句のつけようもない圧勝。その試合が伝説の始まりであったことは、今日では広く認知されるところである。
当時の市民達は、新たな剣闘の星の出現に沸き立った。
彼らの期待に応えるかのように、レイヴンは快進撃を続けた。見上げるほどの巨漢を打ち倒し、無数の魔物を殲滅し、当時最強と謳われていた無敗の剣闘士を死闘の末に撃破した。
剣闘の世界に足を踏み入れたレイヴンを陰で支えたのは、エリーゼただ一人。食事の用意も、装備の手入れも、話相手も、全て進んで買って出た。栄光の裏に隠された彼の傷や苦しみを、エリーゼだけが知っていた。それが彼女の誇りだった。レイヴンに尽くすことが、彼女の生きる意味だった。
エリーゼは恋をしていた。だが、市民と奴隷が結ばれることは決して許されない。市民は市民同士、奴隷は奴隷同士。そんなダプアの習わしが彼女を苦しめた。
エリーゼの父は最初こそ罵詈雑言を口にしていたが、レイヴンの勝利が続くと手のひらを返して彼を褒めそやした。娘の関与も黙認した。
いつしかレイヴンは名実ともに最高の剣闘士となった。そうなれば、各地の名士や有力者が彼を放っておくわけがない。レイヴンを巡って政治的な争いが勃発すると、エリーゼの父は敗北して失脚した。
争いの渦中にあったレイヴンは、断固として権力者の横暴に屈さなかった。故に幾度となく謀殺の危機に遭い、苦難に足を取られながらも、その全てを乗り越えた。その裏に、エリーゼの自己を惜しまぬ献身があったことは言うまでもない。
ダプアから逃れたレイヴンは、その足で遠方に去った。エリーゼは彼がこの世を去る最後の瞬間まで、その隣にあり続けたという。
ダプアに戻ったエリーゼは、彼の剣闘士としての生き様を記さんと筆を執った。遥か後世、悠久の彼方まで、レイヴンの名を語り継ぐために。
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