2 / 48
1話「冷雨とたんぽぽ」
しおりを挟む1話「冷雨とたんぽぽ」
春がもう少しでやって来るという冬の終わり。皆が暖かくなる日を待ちわびて、少しずつ明るい色の服を着たり、花見の予定を立てたりするこの時期。
この日は夕方から、冷たい雨が降っていた。
仕事が終わり、早く彼がいる家へ帰り、温かいご飯を作って2人でゆっくりしたいな。
そんな事を花霞は思い、急ぎ足で自宅へと歩いていた。
けれど、待っていたのは酷い現実だった。
玄関のドアを開けた瞬間、彼が珍しく出迎えてくれた。嬉しく思ったの束の間、彼の海外旅行用の大きなスーツケースを差し出された。
「俺と別れてくれ。」
「え…………。」
「そして、今すぐにこの家から出ていってくれないか。」
「な、何を言ってるの………?」
3年前に付き合い始め、すぐに同棲した恋人である玲は、めんどくさそうに茶色の髪をクシャクシャとかきながらこちらをジロリと睨んだ。
「もうおまえとは付き合えないって言ってんの。俺、新しい彼女出来たから。」
「そんな、私何も聞いてないよ。それにすぐに出ていけだなんて。どこに住めば………。」
「あー、おまえ実家もないもんな。まぁ、友達のとこ行けばいいんじゃね?」
「………玲………。」
確かに彼とはケンカも多くなり、玲の帰りが遅くなることも多々あった。
けれど、まだやっていけると思っていた。作った料理は食べてくれるし、話しを掛ければ返事をしてくれる。
でも………玲とはデートをほとんどしなくなっていた。恋人らしい事は、ただ体を重ねるだけ。
そんな関係がおかしいと気づいていたはずなのに、花霞は気づかぬフリをしていた。
もう、彼との恋は終わっていたのだ。
今の玲は冷静ではないはずだ。ここで話し合うことは出来ないはずだ。
そう思った花霞は小さく息を吐き、涙を手で拭いて彼から大きなスーツケースを受け取った。
「………わかったわ。もう、おしまいにしましょう。また、今度話しをしましょう。」
「おまえとはもう話す事はない。………あ、その持っている鍵も貰うぞ。」
「あっ………。」
もう別れたら他人とでも言うかのように、玲は花霞が持っていた鍵を奪い取った。
「玲、じゃあ………せめて、忘れ物がないか確認しておきたいんだけど。」
「俺がそのスーツケースにおまえの荷物入れといてやったから、そのまま出ていけるだろ。」
「それでもっっ!貴重品とかは自分で見たい。通帳とか、貯金箱とか……それに玲と話が………。」
「あぁ………おまえのお金なら全部使った。」
「…………え………。」
「新しい彼女がさ、ベットは新しくしたいとか、車買いたいとか言っててさ。」
「………なんで、そんな事を……。」
あまりの事に、花霞は呆然としたまま、言葉を吐き出した。口元だけが動いていたが、体はふらふらして力が入らなくなってきていた。
「当たり前だろ。おまえと付き合った時に使ったお金を返してもらったんだよ。通帳の番号は何となくわかってたし、旅行に行こうって2人で貯めてたのも、別に使ってもいいだろ。」
「よくないよ………私のお金だよ?あの通帳は私の全財産なんだよ?」
「んだよっ!うっせーな。金ないなら働けばいいだろっ!」
「玲、お願い………どうしてそんな事しちゃったの!?玲っっ………!」
「うるせーなっ!さっさと出ていけっ。もう、おまえに名前も呼ばれたくなんだよっ!」
玲は細身の体だったけれど、やはり大人の男だ。両手で力いっぱい体を押されてしまえば、花霞の体は倒れてしまう。彼に押された体は、開いていたドアを出て外の廊下へ出てしまった。
「じゃーな。もう会うこともないだろうけど。」
花霞の体を蹴り、ドアが閉まるようになると、ニヤリと笑いながら玲はそう言い乱暴にバタンッとドアを閉めた。
そのマンションの廊下は外に面しており雨がパラパラと体に降ってきた。
「…………いたっ…………。」
ノロノロの体を起こそうとすると、押し飛ばされた時に体をぶつけ、腰や足、そして手首にに痛みが走った。
それでも、こんな所で倒れているわけにもいかずに、花霞は立ち上がり、ゆっくりと玲が居る部屋のドアを見つめた。
広くもない、少し古く安いアパートの3階の1室。
それでも安月給の2人でやりくりしながら暮らしてきた。贅沢は時々しか出来なかったけれど、それでも初めて出来た彼氏と過ごす日々はとても幸せだった。
そのはずだったのに………。
目の前の家は、一瞬にして自分の帰る場所ではなくなってしまった。
カンカンッとヒールを鳴らして階段を降りる。その足取りはとても重い。
もしかしたら、彼が追いかけて来てくれるかもしれない。
そんな甘い考えが、心の中にあるのかもしれない。
「あ………傘も家の中だ。」
アパートの入り口から空を見上げると、先程よりもどんよりとした雲で覆われた夜空が見えた。街頭の灯りに照らされて光ながら沢山の雨粒が落ちてくる。
傘を取りに戻ろうかと一瞬考えたが、すぐに止めた。
もう彼の怒った表情や、冷たい言葉を聞きたくはなかった。
幸せだった思い出が消えて、最後の恐怖を感じた事だけを覚えてしまうのがイヤだった。
屈託のない彼の幼い笑顔を忘れたくなかった。
仕方がなく、濡れてしまうのも構わずに歩き始める。すると、すぐに全身が冷たい雨粒にうたれる。髪はシャワーを浴びたようになり、顔も酷くなっているのが見なくてもわかる。
先程よりも雨足が強くなっているのか、服に雨水が吸い込んで重くなっていく。
ガラガラとスーツケースを引いて歩く。
傘もささずに歩く花霞を、すれ違う人達は怪訝な表情で歩いていた。花霞は俯いたまま、どこに向かえばいいのかもわからずにさ迷ってた。職場の花屋も閉店している時間。ホテルに泊まる事も考えたが、手持ちのお金が自分の全財産だと思うと、そんな贅沢は出来なかった。
ガラガラガラガラ。
スーツケースを持つ手がかじかんできた。濡れた顔も凍ってしまうのではないかと思うほど冷えてきた。夜も深くなり、気温も下がったのだろう。
フッと横道を見ると公園があった。
そこにはトンネルの遊具もあり、あそこで雨宿りが出来そうだ、と思った。そこでスマホで友達に連絡をしよう。迷惑がかかるかもしれないけれど、しっかり謝って訳を話そう。
そう思って公園内に入ろうとした瞬間。
段差があるのに気づかずに、花霞は躓いて転んでしまった。普段なら気にしない段差だったが、体がかじかみ上手く足が上がらなかったのだろう。
花霞が着ていたスカートやコートは泥だらけになった。
手を見ると、手に泥がついていたが、それも少しずつ雨によって流されていく。
真っ黒な視界の中で、明るいものが目に入った。それは、早咲きのタンポポだった。黄色の花を必死に咲かせて、自分はここだよ、と堂々と訴えているようだった。
花霞は、それを見ても何とも思わなかった。
花が大好きなはずなのに、「タンポポがあるな。」としか思えなかった。
それなのに、ポタリポタリと自分の手に温かいものが落ちてきた。
それが、自分の涙だと気づくのに、花霞はしばらくかかった。
泥がまだ付いいる手で雨水に混じった涙を拭き、タンポポに手を伸ばした。ぶちッとその花を採ると青臭い匂いが広がった。
無意識のまま手のひらに乗せたタンポポがを、花霞は握りつぶそうとした。
けれど、次に感じたのは先程の涙より温かいものだった。
花霞の右手にはタンポポとは別に、人の手が乗っていた。タンポポと一緒に花霞の手を包み込むように大きくて温かい手だ。花霞が横を向くと、ビニール傘をさして花霞と同じようにしゃがみ込んでいる男が居た。
長めの黒髪に、茶色の瞳。少し焼けている肌。小さい顔はとても整っており、どこかのファッション雑誌から出てきたような容姿だった。
その男は花霞と目が合うとニッコリと微笑んだ。それは、子どもをあやすような、満面で優しい笑みだった。
「綺麗な花ですね。」
この日から少し経ったとき、どうして彼はそんな事を言ったのだろう、と思ってしまうだろう。雨に打たれ、泥だらけになっている女を目の前にして言う言葉ではなかったはずだ。
けれど、その時の花霞はそんな風には思わなかった。
ただただ救われたような気持ちになって、目から沢山の涙が溢れ出たのだった。
0
お気に入りに追加
1,006
あなたにおすすめの小説
夫に離縁が切り出せません
えんどう
恋愛
初めて会った時から無口で無愛想な上に、夫婦となってからもまともな会話は無く身体を重ねてもそれは変わらない。挙げ句の果てに外に女までいるらしい。
妊娠した日にお腹の子供が産まれたら離縁して好きなことをしようと思っていたのだが──。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
騎士爵とおてんば令嬢【完結済】
弓立歩
恋愛
腕は立つけれど、貴族の礼が苦手で実力を隠す騎士と貴族だけど剣が好きな少女が婚約することに。
あれはそんな意味じゃなかったのに…。突然の婚約から名前も知らない騎士の家で生活することになった少女と急に婚約者が出来た騎士の生活を描きます。
女官になるはずだった妃
夜空 筒
恋愛
女官になる。
そう聞いていたはずなのに。
あれよあれよという間に、着飾られた私は自国の皇帝の妃の一人になっていた。
しかし、皇帝のお迎えもなく
「忙しいから、もう後宮に入っていいよ」
そんなノリの言葉を彼の側近から賜って後宮入りした私。
秘書省監のならびに本の虫である父を持つ、そんな私も無類の読書好き。
朝議が始まる早朝に、私は父が働く文徳楼に通っている。
そこで好きな著者の本を借りては、殿舎に籠る毎日。
皇帝のお渡りもないし、既に皇后に一番近い妃もいる。
縁付くには程遠い私が、ある日を境に平穏だった日常を壊される羽目になる。
誰とも褥を共にしない皇帝と、女官になるつもりで入ってきた本の虫妃の話。
更新はまばらですが、完結させたいとは思っています。
多分…
【完結】身を引いたつもりが逆効果でした
風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。
一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。
平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません!
というか、婚約者にされそうです!
運命の歯車が壊れるとき
和泉鷹央
恋愛
戦争に行くから、君とは結婚できない。
恋人にそう告げられた時、子爵令嬢ジゼルは運命の歯車が傾いで壊れていく音を、耳にした。
他の投稿サイトでも掲載しております。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。
早稲 アカ
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。
宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。
彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。
加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。
果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる