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3話「宝石の瞳」
しおりを挟む3話「宝石の瞳」
「そういえば、あの人の名前も知らない………。私、何やってるんだろう」
花は、名前も知らない男の家の湯舟につかりながら、一人呟く。
お風呂場独特の声の響きはどこの家も同じなんだな、と当たり前な事を考えながら体を温める。自分で思っていた以上に体は冷え切っていたようで、しばらくの間首まで湯舟につかってもなかな体がカタカタと震えていた。肌が痺れる感覚さえある。あの男が外で待っていると思うと申し訳ないとは思いつつも、体がお湯を求めており、なかなか湯船から出れない。
少し遅くなってしまう事は諦めて、花はふーっと大きく息を吐いた。あの人が突然川にテディベアを落とさなければ、こんな事にはならなかったのだ。少し外で待ってもらっていいか、と思うようにして、しばらく名前も知らない男の家のお風呂時間を堪能するのとにしたのだった。
「お、お待たせしました」
「あ、おかえりー。体あったまったかな?」
「おかげさまで」
「洋服はやっぱり大きかったよね。君の洋服乾かさないとね」
外で待たされていた事を全く気にした様子も見せずに、花が玄関から顔を出すと微笑みながら立ち上がった。
男は玄関に、テディベアを抱きしめながらボーっと座っていたようだ。成人男性がぬいぐるみを抱いて玄関に座り込んでいるなど通りがかった人は驚いただろうな、と花は思った。いや、もしかしたら近所では彼は有名なのではないか。橋の上からくまのぬいぐるみを落とすぐらいなのだから。そこまで自分勝手に考えながらも妙に納得してしまう。
店内に入った男はどこからハンガーを持ってきてくれ、窓際に洋服をかけてくれる。けれど、そこからぽたぽたと水が落ちていく。これでは乾くまでに何時間かかるのだろうか。花は、心配になりつつもそれを考えないようにした。
男が貸してくれたのは、ロング丈の黒のTシャツに、ダボッとしたジャージ素材のズボンだった。男も細見と言えど、花には彼の洋服は大きかった。首元も大きくあいているせいで、肩から洋服が落ちそうになる。そのたびに、服を元に位置に戻し、またずるずると落ちる、の繰り返しだった。
「はい、どうぞ。お風呂上がりだから、アイスティーにしてみたんだけど、大丈夫かな?」
「……ありがとう、ございます」
花はそれを断らずに貰い、口に入れる。すると、アッサムティーの香りが鼻奥まで届き、口の中には甘味を感じる。ほんのりとした甘さがある。きっと砂糖が入っているのだろうが、甘すぎず紅茶の味を邪魔しない分量であり、とてもおいしかった。喉が渇いていたこともあるが、あまりのおいしさに花はゴクゴクとあっという間に飲み干してしまった。その様子を見て、男は「お口にあったみたいでよかった」と、花のコップにまたおかわりを注いでくれた。
「今日は本当にありがとう。君みたいな大切なものだったから本当に助かったよ。本当にお礼をさせてほしい」
「それは、大丈夫です」
「じゃあ、俺が勝手に作ろうかな」
「………」
「でも、その前に君の話を聞かせて欲しい。君は、この『花浜匙』に用事があった。そうだよね?用件を聞かせてくれないかな、お客様。いや、恩人様」
白いシャツに細身のズボンというラフな格好の男は、花の正面のソファに座っている。足の上に手を組んで微笑む。きっと、これが接客スタイルなのだろうな、と思いながらもその話の流れに花は感謝した。
そう、花はこの店に用事があった。
もちろん、テディベアの製作をお願いしたかったわけではない。きっとオーダーメイドで作り上げるテディベアなのだ。高価に違いない。そんな可愛くて綺麗なものなど欲しいと思えない。
花は、丁度テーブルの上に置いてあった自分の紙袋を自分の膝の上に乗せてる。
そして、背筋を伸ばして、顎を少しだけ引き、視線をまっすぐ男の瞳に向ける。そして、男に見せたこともない笑顔で微笑みかける。
「私は乙瀬花と申します。そのテディベアを落としてしまったのはあなたのせいとはいえ、お風呂まで貸していただきまして、ありがとうございます。感謝しております」
「………棘があるなー。でも、まぁ、本当の事だからね。こちらこそ、テディベアを助けてくれてありがとうございます」
「あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「あぁ………そうだったね。………俺は、神谷凛だよ」
「私がこのお店に用事があるのでは、というのは正解です。実は、神谷さんにお聞きしたい事があるのです」
そう言って、花は紙袋からあるものを取り出した。そして、それを凛に見えるように正面を向けておいた。
花が取り出したものは、焦げ茶色のテディベアだった。手には花浜匙のテディベアの証である、クマとスプーンと花のマークが刺繍されていた。店先に飾られているテディベアと顔や形はそっくりだった。が、1か所だけで違うところがあった。
「これは、すごいね……」
そのテディベアの瞳は、キラキラと眩しいほどに輝いていたのだ。
右目は赤色、左目は緑色。他のテディベアとはそれは全く違うものだった。それを見て、凛は感嘆の呟きをもらした。見たこともない綺麗なものが目の前に表れると声も出なくなるらしい。
「赤い瞳はガーネット、緑色はエメラルドだそうです」
「……宝石の瞳」
凛はそのテディベアをとても珍しそうにまじまじと見ている。やはり、宝石の瞳のぬいぐるみなどなかなかないのだろう。テディベアの顔を近づけて見入っている凛に花は言葉を続ける。
「このテディベアには四十九日の奇の魂が入っています」
「え……」
「神谷さん、このテディベアは何のために作られたのか、調べていただけないでしょうか?」
驚いた様子で、花と宝石の瞳をもつテディベアを交互に見ている凛に、真剣な表情で見据える。
「お代はこの瞳の宝石でもかまいません。よろしくお願い致します」
花は深々と頭を下げたため、目の前の彼がどんな表情をしていたのかわかるはずもなかった。
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