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9話「再挑戦」

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      9話「再挑戦」



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「競泳をしたいって。今更戻ってどうするつもりだ」


 七星とデートをした次の日。
 部活開始時間早々から、競泳部顧問の元に訪れていたのはもちろん夕影だ。まだ、了解を得ていないというのに、ジャージ姿に、競泳の準備物を一式バックに入れて顧問の教員に願い出たのだ。もちろん、今日から練習に参加するつもりだった。

「憧れの人に競泳をした方が良いって言われたので」
「おまえは人に言われて行動するのか」
「あの人の言葉は俺には大切なものなので」
「夕影、おまえな………。俺たちが何度も誘っても首を縦に振らなかったのに、その憧れの人の言葉では動くのか」
「当然です」
「おまえという奴は……」

 呆れ顔を浮かべた顧問は大きくため息をついた。
 競泳の顧問やスタッフ、大学側や水泳部の部長や部員にも「水泳部に入らないのか」と何度も誘われていた。それを夕影はことごとく断っていたのだ。
それが、急に「水泳部に入部させてください」と頭を下げてきたのだから驚くのも当たり前だ。
 顧問は、一度息を吐いた後に入部の承諾を下した。

「入部はもちろん許可する。だが、練習していない期間があったんだ。高校生の頃と同じように泳げるはずはない。タイムが悪かった場合は試合には出さないぞ。大会でいい成績を残している経歴があっても、現在の実力が優先されるのは理解しているな」
「わかっています」
「だいぶ、自信があるんだな」
「すぐに追いつきます。大事な約束があるんで」
「約束?」
「絶対、人魚姫と一緒に泳ぐんです」
「………本当におまえという奴はよくわからん」


 再度ため息をついた監督だったが、今日からの練習の参加を認めてくれ、晴れて水泳部に入部が決まったのだった。






雲梯うてな夕影って、高校の時にそこそこに有名だったやつだよな」
「ある意味ではな」
「でも本番では弱いっていうチキンだろ」
「練習で早くても意味ないじゃん」
「だからスタッフ希望にうつったはずじゃなかったのかよ」


 夕影が水泳部に姿を表すと、影ではそんな話しが盛り上がっていた。
 競泳の強豪校に在籍して、そこそこのタイムを残してた夕影は、競泳の世界では有名だった。
 けれど、一度辞めてしまえば新人と同じだ。夕影は軽い練習からスタートしようとしていた。

「君の今の実力を見せて欲しいから、タイムを測ってもいいかな?」
「わかりました」

 ストレッチを終えて入水しようとしていた夕影を引き止めたのは部長とマネージャーだった。

「改めまして、部長の愛染だ。マネージャーは日和だ」
「日和です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 愛染は大学4年でかなりガタイの良い男だった。専門はバッタらしい。眺めの髪をゴムで止めており、ひと泳ぎした後なのか髪から水が落ちていた。隣に立っていたのは小柄な女性だ。愛染と並んでいるせいで、かなり幼く見える。茶色の内巻きのボブという髪型、メイクはしっかりしている。化粧気がない部員とは雰囲気が全く違う。

「競泳から離れていたって言ってたけど、身体はしっかりしてるね。何かトレーニングしてたのかな?」
「プールには毎日通ってました。バイトもスイミングスクールでやってるので多少は泳いでます」
「多少、ね。じゃあ、対戦相手がいないと本当のタイムもわからないだろうから、俺と泳ぐか。専門はフリーだったな」
「はい。お願いします」


 そういうと2人は、ジャージを脱いでスタート台に上がる。


「では、タイム測ります。take your marks…GO!!」


 日和の合図に、愛染と夕影はスタート台を蹴って勢いよく水面へと飛び込んでいく。それと同時に、練習中の部員たちは全員が動きを止めて2人の泳ぎに視線を送る。まるで試合のように、多数の視線が2人に注がれる
 スタートはほぼ同時。だが、15メートルほど進むと愛染が微かにリードしていた。

「あいつ部長といい勝負してるぞ」
「タイムは、早いな」
「本当に一定期間水泳部やってなかったのかよ。早すぎるだろう」


 そんな言葉が飛び交っているとも知らず、夕影は必死に泳いでいた。『体力が落ちてるな。息が切れる』と内心では体力のなさを感じていた。少しだが、愛染にリードされているだけで、夕影は焦っていた。相手は本来力を入れて練習しているバッタではない種目だ。それで負けてしまうのは夕影は悔しいのだ。
 けれど、その差を縮めることはできずに100mの泳ぎは終了してしまう。

「ハーハー………、やっぱりだめか」


 肩で大きく息を吐き、タイムを見る。現役の頃からタイムは当たり前のように遅くなっている。

「お疲れ様です。さすが、夕影くん早いですね!フリーでは部内で大会出場も狙えるレベルですよ!」
「ありがとうございます」


 夕影は気落ちしているが、他の部員たちはざわついている。マネージャーの日和はタオルを差し出しながら笑顔で褒めてくれる。が、自分では全く納得出来ないタイムと泳ぎだった。
 入部したばかりの部員が好タイムを叩き出したのだ。そうなれば、試合に出るメンバーだって変わってくる。スポーツは弱肉強食の世界なのだから。夕影と同じ種目の選手達の視線は厳しくなる。

「監督が何度も勧誘していた奴だって言ってた意味がわかったよ。練習をしてなくて、このタイムなのはすごい。これから頑張っていこう」
「よろしくお願いします」
「メンタルが弱くなきゃ、縛ってでも部活に入れていた。……その強化も忘れるなよ」

 いつの間にかプールサイドにいた監督の言葉が夕影の胸がを刺す。本当の事であるが、やはり面と向かって言われると苦しいものだ。

 プールの中で部長に肩を叩かれ、夕影は小さく頭を下げた。
 夕影の大学競泳部入部は、大きな波紋を呼んだのだった。





 部活の休憩中、久々に会う友達が夕影に声を掛けた。
 幼い頃からの親友である、藤枝幸太郎ふじえだこうたろうだった。幼少期からの友達で、スイミングスクールに通い始めた夕影を追いかけるように幸太郎も競泳を始めたのだ。2人は競うように練習を重ねて良いライバルになった。種目は違うが、お互いに大会でも上位に食い込むようになり、藤枝は将来プロになることを目標に大学でも水泳を始めていたのだ。

「夕影!どうしたんだよ、急に競泳に戻ってくるなんて」
「幸太郎。人魚姫に会ったから泳ぐことにした」
「人魚姫って、あの東洋の人形姫!?どこで会ったんだ?てか、それで競泳って意味わかんないんだけど」
「話すと長くなる。部活の練習が終わったら詳しく話す」
「相変わらず真面目だな。でも、まぁ、俺はおまえが競泳に戻ってきてくれたのは嬉しいよ」
「………体が重かった。これじゃあ大会では勝てないな」
「愛染部長といい勝負しておいてそれか。まあ、現役続けてれば種目が違う愛染部長には勝てただろうな」
「……」


 夕影が思っていたことを見事に言い当てられてしまい、夕影はムッとしてしまう。
 だが、幸太郎が言ったように大学に入っても部活でしっかりとトレーニングを重ねて入ればタイムは落ちなかっただろうし、むしろ好タイムを出せるようになっていたかもしれないのだ。自分が辞めると決めたのが悪いのだ。夕影は大きく息を吐いた。


「でもまあ、ずっと憧れてた人形姫のための競泳続けるってのもいいんじゃないか。でも、サポートスタッフにもなるんだろ?そのためにその学科に入ったんだから」
「学業はしっかりとする。部活はその合間をぬって参加することにする」
「おまえならそう言うと思った。それにバイトだろう?キツイな」
「七星さんよりはキツくない」
「え?」
「練習再開する。後でな」
「あ、ああ」


 幸太郎と別れて水の中に入り、一度頭まで潜り息を吐いて水面に顔を出す。冷たい水が全身を包む感触。当たり前すぎる感覚。
 けれど、彼女はそれをもう何年も経験していなかった。
 水泳が大好きと笑顔で語っていた七星を、テレビの画面で見ていた夕影はその屈託のない笑顔を思い出す度に胸が苦しくなる。彼女は何も悪いことはしていないのに、一瞬で水泳が出来ない体になってしまった。
 生きがいにしていたことを奪われた人生。それはどれほどに苦しいものだろうか。そして、そんな辛い状況の時に支えてくれる両親がいない。その頃に彼女と出会っていたら俺が側にいたのにと思うが、それは過去の話。無理な事だ。それにその頃は幼い子どもだった。傍にいたからといって、何の役にも立つはずがなかったはずだ。

 けれど今は多少ならば彼女の力になれるはずだ。
七星が笑顔になってくれるなら、何でもしてあげたいと思うのだ。
 夕影は壁を両足裏で強く蹴って、泳ぎ始める。種目は彼女と同じフリー。クロールだ。それ以外、泳ぐつもりなどなかった。イキイキとそして伸び伸びと泳ぐ七星に憧れていたのだから。

 水の中で、先日の七星の涙を思い出す。
 彼女はあの時謝っていたが、夕影の方が謝りたかった。
 怪我をして泳ぎたいのに泳げなくなった彼女の前で「メンタルやプレッシャーに弱く試合に向いてないから競泳を辞めました」と言えば、いい気分はしないのはわかっていたはずだ。だけれど、彼女に嘘は言いたくなかった。そして、もちろん本当のことを伝えて言い訳になるような事も言いたくもなかった。

 それに競泳だって本当は続けたい気持ちもあった。
 けれど、本番になるとどうしてもプレッシャーに落ち潰されそうになるのだ。過去に起こった悪い出来事が脳裏に浮かび、気がつくと全身が重くなる。重圧を感じて水に飛び込むといつもスタートが遅れ、動きも鈍くなる。息を切らしてプールのから上がると、チームメイトの苦い表情が夕影を迎える。それを思い出すだけで、ほら。今も体に重石をつけたように動きが遅くなる。

「夕影っ!タイム落ちてるぞ!」

 すかさず、部長の声が聞こえる。
 今思い出すのは、七星の笑顔だけでいい。練習に集中しないと。

 競泳を辞めた夕影。泳ぐことが出来る夕影。
 どちらを見せても、七星を苦しめるだけ。

 それがわかっているけれど、夕影は彼女の傍に居たいのだ。
 彼女の笑顔のためにも、そして自分のためにも。






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