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4話「人魚姫の秘事」

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      4話「人魚姫の秘事」



「シロイルカ、好きって話しをしているのを昔、インタビューで答えていたので。今でも好きかなって少し心配してたんですけど。変わらず好きだったみたいでよかったです」
「インタビューって、中学か高校の時の?……そんな昔の事を覚えててくれたの?」
「俺の憧れだったんで」
「……あの失礼だけですが、おとしは?」
「もう少しで20歳です。春からは大学2年生です」
「……学生さん」


  七星は今、28歳になった。
  年下だと思ってはいたが、まさか8歳も年下で学生だとは思ってもいなかった。落ち着いた雰囲気があったためだろうか。大人びて見えるようだ。


「俺が水泳を始めたきっかけを作ってくれたのが七星さんなんですよ」
「……そう、なんだ」


  憧れてくれるのは嬉しいことかもしれなが、それは過去の自分だ。
  今は、全く違う人物になってしまっている。競泳から離れて、何の夢もなく日々を過ごす店員の一人なのだ。
  輝いていたあの頃の七星はもいないのだから。


「だから、七星さんに会えて嬉しいんです。これから会いにきてもいいですか?」
「だ、ダメです……」
「……え」


  これからの質問に、七星は思わず拒否する言葉を出してしまった。
  きっぱりと否定されると思っていなかったのだろう。夕影は切れ長の瞳を大きく開いて、驚いていた。

「私、もう競泳はしていないんです。あなたが憧れているのは、昔の七星なんですよね。その七星はもういません。だから、あなたに何も教えられないし、何も出来ないんです」


  そう。
  もう、あなたの憧れていた七星は死んでしまったのだ。もう、蘇ることは出来ない。壊れてしまったものは、元どおりには戻らないのだから。


「………七星さんは、七星さんですよね。俺は、昔の七星さんも今の七星さんとも話がしたいと思ってるんです」


  当然のようにそう言う夕影の言葉に、七星はとても驚き体が固まっていた。
  今この人は何と言った?
  昔、「東洋の人魚姫」と呼ばれてもてはやされ、競泳で全国制覇したという実績を持つ若く実力がある七星だけじゃなく、今の七星と話したいと言ったのだろうか。聞き間違いじゃないかと思ってしまう。


「今の、私?」


  信じられない言葉に、七星は震えそうになる声を何とか抑えて彼に質問するが、それにも「そうですよ」と落ち着いた声で肯定する返事が返ってくる。
 競泳も出来なくなった、何の取り柄もない、ただ毎日レジ打ちや商品整理をして過ごす日々。動物の事を詳しくなるわけでもなく、淡々と日々を生きる自分に何の価値があるのだろうか。
  こんな私と話していて楽しいと思ってくれる人など、いるのだろうか。そう思い続けていたのに。

  昨日、自分をどん底まで突き落とす言葉を吐いた彼が、今度は今度は泣きそうなほど嬉しい事を言ってくれるのだ。
 やはり、彼は少し変わっている。昔、輝いた人間を今でも覚えていて、ただのレジ打ちスタッフになった自分に憧れの眼差しを送り続けてくれるのだから。

「休みの日によくやってる事は何ですか?」
「水族館巡りと、日本史の歴史聖地巡礼とか」
「趣味は?」
「シロイルカに触る事と、時代劇の本を読むこと」
「俺も水族館好きです。ちなみに、趣味は水泳だけだから、探してる途中なんです。だから歴史気になります」
「………変わってるって言わないの?」
「みんな変わっている事のひとつやふたつ、持ってるじゃないですかね。それに歴史が趣味って全く変じゃないと思います」


 泣きそうなりそうになっていた七星だったが、それを聞いて思わずクスリと笑みをこぼしてしまった。
  自分より年下の青年が妙に大人びた事を言うのが面白かったのだ。


「あ、………笑顔。昔と変わってないんですね。可愛い」
「………えっ!?か、かわいいって、何を言って……」
「本当のことなんで」


  単調でゆったりとした口調の夕影だが、最後の言葉は少しだけ慌てたように早口になっていた。
  突然言われ慣れない言葉を口にさえ、七星は照れてしまっていたが、どうやら彼も同じようで耳が少し赤くなっていた。
 お互いに恥ずかしさを覚えながらも、笑ってしまう。
  この瞬間、2人の距離は先ほどよりも近くなったように、七星は感じられたのだった。




  それからというもの、夕影は時間を見つけては水族館に顔を出してくれた。
  大学の授業やバイトがあるらしく、毎日ではなかったが2、3日に1度は会いにきてくれていた。
  仕事が終わって、スタッフ用のドアを開ける瞬間が毎日の楽しみになっていた。いない時は悲しくなるけれど、代わりに夕影からのメッセージが夜には届くのだ。
  仕事が終わったら家に返って、普段通りに過ごして、寝て起きて仕事。そんな単調な生活ではなく、彼と話をするのが楽しくて仕方がなくなっていた。
  お互いに行ったことがある水族館の話しや、七星が好きな日本史の話を、夕影はとても楽しそうに聞いてくれ、質問もしてくれる。そして、帰り道にある図書館に行き七星のおすすめの小説を夕影が借りてかえり、読み終わると感想を言い合う。水泳の話も始めは抵抗はあったけれど、元々は好きなものだ。懐かしさもあり、少しだけならば苦にならずに話すことが出来ていた。けれど、夕影は七星の微妙な雰囲気の差を察知して、すぐに話題を変えてくれていた。とても優しい男の子だなっと、一緒にいればいるほど感じられるようになってきた。


  そんな日々が2週間ほど続いた、いつもの水族館からの帰り道だった。


「来週の休みの日。俺に1日くれませんか?ここに一緒に行きたくて」
「……これって」

  夕影が七星に差し出したのは2枚の紙。
  七色の海を2匹のイルカが泳いでいる絵が描かれている、チケット。大型水族館のチケットだ。

「これって、プロジェクションマッピングとイルカのショーが一緒になったって有名の水族館の…」
「そうです。シロイルカもいますよ」
「わぁ。…………行ってみたかったんだけど、人気でイルカショーが抽選で当たらないっていうから諦めてたの」
「何回か挑戦して当選したんです。七星さん、俺と一緒に行ってくれませんか?」


  このチケットを取るのが大変なのは七星にもよくわかっていた。
  それに、冷静さを装っているが、先程からチケットを差し出す手が小さく震えているのにも七星は気づいていた。
  目の前の夕影という男性は、自分のためを考えて優しく、楽しいことをさせてあげようと、毎回接してくれているのが当然伝わってくる。
  それに応えたい。何より、七星自身が彼の近くに居てみたいと、心の変化を感じ始めていた。
  初めの出会いは最悪だったかもしれない。けれど、それはもういい思い出にさえなっている。それぐらいに、七星は彼が気になり始めていた。
  今まで競泳で優勝する事、競泳を忘れる事だけ必死になってきた七星は、恋などしたことがない。
  これが、誰かを好きになろうとする瞬間なのだろうか、と心の高鳴りに耳を傾ける日々を過ごしていた。それを恋かはわからない。けれど、知りたいのだ。恋なのかを。夕影という男性を。


「ありがとうございます。楽しみ、です」


  自分の気持ちの葛藤で、彼には酷い言葉を掛けたり、逃げてしまったりしていた。
  それなのに、彼はこんなにも優しくしてくれている。それに甘え過ぎてしまっているように思えて、申し訳なく思った。けれど、震える手から、更に震える手で七星が受け取ると、夕影は頬まで赤くして、小さな声で「やった。嬉しい」と笑ってくれたのだ。
  自分と遊びに行くことでこんなに喜んでもらえるならば、この水族館デートはお互いに楽しい時間になるのではないか。そう思えてならなかった。

  それと同時に、七星には別の気持ちもあふれてきた。
  夕影と一緒ならば怖くないのではないか、と。
  けれど、それを話すのも怖くて、別の感情を夕影に伝えられることもなく、その話しは進んで行ってしまう。


  その日の七星と夕影は、その水族館の情報を見て、夜遅くまで近くのカフェで予定を立て、その日だけではない、それまでの日々も楽しみを広げて過ごしたのだった。

  本当は伝えなければ事も言えないまま。



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