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3話「暗い海の人魚姫」
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その日の夜。七星は、なかなか寝付けなかった。
心がざわついていた。
久しぶりに思い出した、水の記憶。冷たく、不思議な感覚を目覚めさせ、思わず身震いしてしまう。七星は慌てて腕で体を抱きしめようとしたが、今は手が塞がっている事を思い出した。
そう、夕影という男性がくれたシロイルカのぬいぐるみが、七星の腕をの中にいるのだ。しっとりとして、もちもちした肌触りのシロイルカ。これで濡れていれば、本物によく似ているなと思った。
シロイルカを見ると思い出す事がある。それは毎年会いに行っていた水族館と家族旅行の記憶。
けれど、記憶と夢だけでしか会えない存在。会えれば嬉しいが、もう会えないのだとわかってしまい、幻想の終わりに泣いてしまう。そんな切ない記憶と夢。水に落としたわたあめのように、フワフワとした夢はあっという間に消えてしまうのだ。
大好きだったシロイルカも今ではもう死んでしまい、七星の両親ももう生きてはいない。
大好きな両親と、七星の大切な泳ぐための足を一気に失ったのだ。
あれは高校3年生の夏の終わりだった。
中学から高校まで6年連続。小学生の頃も合わせれば9年連続で日本一を取り続けていた七星は、大学進学と共にプロへの道も考え始めていた。七星の専門はフリー。日本一早い女性として一気に有名になっていた。そして、色白で小顔、容姿も整っており、スタイルもバツグンということもあり、七星は「東洋の人魚姫」という異名を持ってたのだ。
大好きな水泳で記録を残し、家族や友達とも良好。進路の心配もない。まさに順風満帆な人生。
なはずだった。
その日が訪れるまでは。
高校生活最後の大会も優勝で終え、今回こそ世界大会で記録を残せるように、と両親が毎年恒例の旅行を準備してくれていた。毎日辛い練習や食事制限などもしているが、この時だけは何をしてもいい、七星にとって特別な数日。その年も楽しみにして、日々の練習をこなしてきていた。
父親が運転する自家用車が目的地に着く直前、大きな衝撃が七星たち家族を襲った。
気づいた時には病院のベットであり、意識を取り戻した後からが地獄の日々だった。
どうやら飲酒運転で操作ミスをした車が正面衝突してきたのだ。
そして、両親はその場で即死だった。高校3年生で両親を失ったのだ。相当なダメージを精神的に負った。だが、七星を襲ったのはそれだけではなかった。
「………もう競泳が出来ない、……ですか?」
「リハビリをすれば歩いたり、泳いだりすることも可能ですが。競泳のように激しい動きには今の足早では耐えられないでしょう」
「そ、そんな………」
七星の足早は、車体に挟まれており、救助するのに難航したほどだったという。骨と筋をやられており、歩けるようになるにも時間がかかると言われてしまった。
次々に襲いかかる真っ暗闇の言葉と現実に、七星は何度も倒れた。
親戚たちも心配して面倒をみてくれたが、それも始めだけでリハビリを終えて退院する頃にはもう誰も見舞いにもこなくなっていた。
大好きだった両親がいない。泣いても騒いでも、抱きしめてくれたり慰めてくれる人もいない。
悲しい時、水に入れば落ち着いたが、その時はそれさえも怖かった。
事故に遭う前のように自由に泳げないという現実を知るのが怖すぎて、七星はお風呂にも入れなくなってしまっていた。
「競泳、もうやってないんですか?」
たったその一言で、その悪夢が甦ってきたのだ。
ずっと見ないようにしてきた「水泳」というものを、突然突きつけられたのだ。
それを思い出して、シロイルカのぬいぐるみを抱きしめる腕の力が強くなる。
忘れることで、やっとの事で生きられていたというのに。
夜は長い。
寝ていればあっという間だというのに不思議だ。
昼間は働いていたり、本を読んだり何かに夢中になっていれば、忘れられるから好きだ。
明日も仕事だというのに、もう寝れない。
そう思った七星は、夕影という男を恨んでしまいそうになる。
「もう、水なんて怖いだけよ……」
そんな言葉を独り、部屋で零すと、瞼をギュッと閉じた。
もう寝れるはずなどないというのに。
「七星さん、こんにちは」
「………こんにちは?」
「大丈夫ですか?目の下にくまが出来てますよ」
「……はあ」
おかしい。
寝不足の原因を作った張本人が目の前にいて、寝不足の原因を聞いてくる。そんなおかしなことがあるだろうか。
いや。実際に起こってしまっているから七星が困惑しているのだ。
七星は、助けを求めるように周りを見渡すが、他のスタッフはレジや接客対応中で誰とも視線が交わらない。商品整理をしていた七星に声を掛けてきたのは、思い出したくない過去を無理矢理ほじくり返してきた夕影という青年だった。
「今日は何時に仕事終わりますか?もしよかったら、食事いきませんか?」
「えっと、その……」
「おいしいイタリアンがあるんです。ピザ窯があるお店でチーズたっぷりのピザがあるんですけど、それがおいしいんです。チーズ食べれますか?」
七星が断れずにいると、夕影は単調なトーンのまま、グイグイと食事に誘っていた。落ち着いた低い声と、ゆったいとした口調で、積極的に誘われているようには感じられなかったが、どう考えても食事に誘われていた。
昨日の今日でどうしてこんな話しになったのだろうか。理解する暇もなく話が進んでいる。
「あの、……夕影さん?」
「あ、名前、覚えてくれたんですね」
「そうだけど。……えっと、急にお食事に誘われるのは少し困ります。昨日、初めてお会いしたばかりですし。それに今は仕事中ですから」
「そう、ですよね」
思い切って断りの言葉を伝えると、先ほどまでキラキラと輝いていた彼の瞳は暗くなり、ガックリと肩を落としてシュンとしてしまった。目に見えてショックを受けているのだ。ここまで素直な反応を見せられると、どうしてだろうか、七星が悪い事をしたように思えてしまう。
「……ごめんなさい」
「では、仕事終わるまで待ってますので、少しお話しさせてください」
「……え」
「昨日の場所で待ってます」
「ちょっと、待って。って、……また行っちゃった」
夕影さんは昨日と同じように、七星の話しを聞かずに足早に立ち去ってしまったのだ。
悩みの元凶とも言える夕影と2日連続で話す事になり、食事にも誘われてしまった。思いもよらぬ展開だ。
けれど、すっかり七星の家の住人になったシロイルカのぬいぐるみのお礼を伝えてなかったことに、はたと気づいた。どんなに酷い過去を思い出させる事を聞いてきたからと言って、夕影には罪はないのだ。それなのに、プレゼントだけちゃっかり貰ってしまっているのは、申し訳ない思いがあるのだ。
「シロイルカのお礼を言って、後はお断りしよう」
七星はそう心に決めて、仕事終わりのシミュレーションを永遠と頭の中で繰り返したのだった。
その日は、遅終わりの日。
夕影が声を掛けてきた時間から2時間は経過していた。その間、彼はどこで待っているのだろうか。イルカショーや大型水槽の前で時間を潰しているのだろうか。夕影が無理矢理誘ってきたとは言えど、待たせてしまうのも申し訳ない気がして、七星は足早に帰りの支度をして、スタッフルームを出た。
夕影は、約束通り昨日と同じ場所に立っていた。手元には何か本があり、集中して読んでいるのがわかった。ブックカバーをしているので何の本を読んでいるのかはわからない。遠くから見ると、背が高い夕影は、すらりとした足と腕に目がいってしまう。今日は細身のズボンを履いているため、彼の筋肉質な足を見て、やはり鍛えられているなと思ってしまう。
それにひきかえ、自分の足はどうだろうか。
七星は真下に視線を落とす。見えてくるのは、昔とは全く違う細い脚。走ることも出来ないひ弱な脚だ。見るたびに切なくなり、もうため息も出ない。何度も重い息を吐きすぎたせいで、ため息さえもしたくなくなってしまった。
「……七星さん」
一人立ち尽くしていた七星に、低くて優しい口調で名前を呼ばれる。
ハッと顔を上げると、いつの間にか目の前まで移動してきたのであろう夕影が居た。
「お疲れ様です。これ……」
「あ、ありがとう」
彼が差し出してきたのは、缶のホットココアだった。受け取るとほんのり温かい。
そろそろ七星がやってくると思い、近くの自販機で買ってくれたのだろう。
どうして、彼はこんなにも優しくしてくれるのだろうか。温かい感触が缶から伝わり、体が暖かくなる。
けれど、今から彼の誘いを断ろうとしている。
「大丈夫ですか?疲れてますよね」
「だ、大丈夫です。あの、その待っててくれてありがとう。それと、シロイルカのぬいぐるみもありがとうございました。大好きな動物だったから、嬉しかった、です」
緊張からオドオドした口調になってしまった。
仕事以外であまり話をする機会もないし、目の前には異性でしかもイケメンと呼ばれる青年。そして、自分が出来ない事をしている羨ましいと思える事をしている人だ。緊張しないわけがない。
目を見て話す事も出来ず、目も泳いでいただろう。
最後だけ視線を合わせるよう努力すると、そこには夕影の心からの笑みだとわかる、柔らかな笑顔があった。
「良かったです」
こんなにも優しくて、キラキラした笑顔で、もう夢もなくなった自分に優しくしてくれる夕影。
自分には勿体無さすぎる存在だ。
もう明るい道から外れてしまっているのだから。
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