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6話「契約キス」

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   6話「契約キス」



 あの日以来も、変わらずに家庭教師は続いた。
 仕事が休みの日以外は、料亭で色に会い、ギリシャ語を教えて、ご飯を一緒に食べる。そして、自宅まで送ってもらうのだ。
 約2時間だけの毎日の仕事。
 だけれど、休みの日に会えない事が悲しくなるぐらいに、翠はその時間を心待ちにしていた。

 色はそれ以外に必ずする事があった。
ギリシャ語を教える時間になると、必ず翠に触れてくるようになっていたのだ。髪や、顔、手、首筋。いつもドキドキさせられるが、それ以上に進むことはなく、それだけで終わる。
 これが普通だったら翠は逃げて、そして「止めてください!」と、きっぱりと断っているだろう。
 だが、色だとそれが出来ないのだ。

 翠の中に、それを期待してしまっている自分がいた。
 翠は気持ちに気づきつつも、わからないフリを続けていた。

 色の気持ちが全くわからないから。


 そんな事を思い続けながら、そして、夜になるのを心待ちにしながら毎日を過ごしていった。





 「おまえの目は、本当にエメラルドみたいだな。とても、綺麗だ。」
 「冷泉様、あの……。」
 「なんだ?」

 今日はいつも以上に距離が近く、色の綺麗な顔が目の前まできていた。
 髪と同じぐらい艶がある、黒々とした長いまつ毛。そして、きめ細かい肌に、切れ長で黒い宝石のような瞳。口元はニヒルに微笑んでいる。
 毎日見ている、そしてドキドキさせられる相手が、間近にいるのだ。キスが出来るぐらいの距離に。


 「冷泉様の目の色、好きです。」
 「俺は日本人特有の黒だ。」


 日本人ならほとんどがこの色だろ、と苦笑しながら色は言ったが、翠は色の黒が好きだった。
 漆黒という言葉がピッタリなほどの黒光りするほどの綺麗な真っ黒な瞳を。


 「はい、真っ黒です。黒は、どんな色でも混ざり合って黒にしてくれるんですよ。喧嘩をしないで、受け止めてしまう。」
 「お前も黒になるのか?」
 「黒は好きです。」
 「そうかよ。でも…。」
 「おまえが白だったら、俺は俺じゃなくなる。」
 

 そう言うと、グッと色が近づいたのがわかった。
次にされることがわかって、思わず目を瞑ると、柔らかい感触を感じた。色は金色の前髪を丁寧によけ、額にキスを落としたのだ。


 『俺はエメラルド色が好きだよ。』
 「冷泉様?」 
 

 そう言うと、仲居さんの声がドアから聞こえてきた。「入れ。」という色の声と共に、心地よく感じていた色の熱がなくなってしまう。

 ギリシャ語で言われた言葉の意味が、頭に入ってきたのは、仲居さんが夕食を運んでくれている間だった。


 色の言葉は、翠の瞳が好きだと言う事なのか。それとも、黒に染める事を拒否されたのか。

 それを理解できるほど、翠はまだ彼を知らなかった。





 いつものように、夕食を食べた。デザートに5月が旬だといつメロンのシャーベットをいただいていた時だった。

 色が、茶封筒を翠の目の前のテーブルに置いた。


 「今月分の月謝だ。また、来月も頼む。」

 もう5月の最終日だという事に今更ながら気づく。月半ばからのスタートだったからだとしても、翠にとってこの約半月は、あっという間の出来事に感じられていた。
 色は、自分の分のシャーベットも翠の前に置いた。翠が甘い物や果物が好きだと話すと、それからデザートをくれるようになっていた。いつもなら、「ありがとうございます!」と喜んで受け取っていたが、今日は何も言えなく俯いたまま黙りこんでしまう。


 お金を目の前にして、翠は自分と色の関係が仕事であり、お金だけの関係に見えてしまった。この仕事が終わってしまったら、もう色との関係はなくなるのだ。少し前と同じように、彼と会えない日常化始まる。

 それを考えると寂しくて切なくなってしまう。だけれど、それはどうしようもなくて。今の色には何も出来ない。考えられなかった。


 「やっぱりお金はいりません。」
 「……おまえ、何言ってんだ?始めに約束しただろ?」
 「それでも、受け取れません。」
 

 しっかりと色の顔を向いて、決意を彼に伝えようと目を見つめる。色も決して翠から目線を逸らさない。色も決めたことを覆すつもりはないようだ。

 「なんで決めたことを変えるんだ。仕事だと決めたんじゃないのかよ。」
 「夕食をいただくだけで十分な内容だと思ったんです。」
 「おまえな、言ってることが無茶苦茶だぞ。」
 「………お金だけは、受け取れません。」

 色が言っている事は当たり前の事だ。
 決めたことを止めようとしている翠に全て否があるのは、自分でもわかっている。
 けれども、お金の関係で繋がるのが嫌だった。

 「金を受け取れないなら、何だったらいいんだ。」
 「それは…….。いりません。」
 「それでは俺が困るんだよ。」
 「私は構いません。」
 「俺が嫌だって言ってんだろ!」

 言い合いになって、初めて彼が怒りの声を上げた。驚き、恐怖心を感じそうになったが、全て自分の責任だと、翠は堪えて色を見つめ続けた。

 だが、色も頑固な翠の態度に、少しずつ苛立ちを感じ始めているようだった。いつもよりも、目は鋭く口には笑みが消えている。
 黙ったまま動かない翠を見て、チッと舌打ちをしてから、色はゆっくりと翠に近づいた。


 「じゃあ、身体で支払うか?」


 耳元で色が企んだ悪い声で、そう囁いた。いつもより低音で意地悪で、そして、色気のある声だった。この声を聞いて、身体を震わせない女性はいないのではないかと思わせるほどの、魅惑の声だ。

 
 
 その言葉を聞いて、翠は戸惑ってしまう。
 まさかの提案に、何も答えられなかった。彼が断るのを期待して言っているのは理解していた。
 だが、彼からの提案は、翠の心を乱すのには十分だった。
 お金の関係ではなく彼は他でもない身体を求めるような発言をしたのだ。
 顔には出さないようにしたが、翠は悲しさで頭は真っ白になっていた。

 「それが嫌だったら………。」
 「わかりました。」
 「…おまえ、何言って……。」

 翠は身体を硬直させ、そして、少し涙目になりながら、彼の提案を受け入れたのだった。
 色は、驚きながらも何故か彼が悲しんでる顔にも見えた。翠の気のせいだったのかもしれない。その表情は、一瞬で怒りだけの顔になっていたので、もう見ることが出来なかった。

 「お金を受け取らないというのは、私の我が儘です。だから、冷泉様のお話を受け入れます。」
 「おまえは、それでいいのか。」
 「……はい。」

 小さく頷き返事をした後、翠は視線を下に向け、俯いてしまう。これ以上、色を見ていたから、感情が溢れ出て、色に気持ちがバレてしまうのが怖かった。

 「…………くそっ!」

 と、色が苛立つ声が聞こえたと思った瞬間、強い力で腰を引き寄せられ、色の胸の中にきつく抱き締められる。顎に手を添えられ、顔と顔が触れてしまう直前で止まった。目の震えも、吐息も、香りも、全てを感じてしまう距離だ。

 「身体だと貰いすぎだから、キスにしといてやる。ただのキスで終るとは思うなよ。金の分は、気持ちよくさせてやる。」

 そう言うと、色は翠を喰らうようにキスをする。
けれども、それは乱暴では決してなく、労るような優しいものに翠は感じられた。
 だが、すぐにその熱い快楽の波の飲み込まれいくように、色の口づけに翻弄されていく。

 気持ちいい、悲しい、嬉しい、切ない、、、いろいろな感情と感覚が混ざり合って、翠は涙を溢してしまっていた。

 それに気づいたら色は、指でそれを掬いながら、「泣くな。」と、熱を帯びた声でそう言い、悲しさを忘れさせられるようにキスを、翠に与え続けた。



 ふたりの初めてキスが終わる頃には、シャーベットは完全に溶けてしまっていた。


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