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三章「新たな香りと終わりの予感」
十九、
しおりを挟む十九、
昨晩、早く寝たからなのか、お経が効いたのか、はたまた矢鏡が作った朝食のおかげなのか。
紅月は顔色も大分良くになり、この日は弁当屋へ出勤していった。今日は何が何でも行かなければいけない、と言っていたので忙しい日なのだろう。
紅月は矢鏡が作って置いた不格好なおにぎりを持って出かけて行った。また、いつもの時間に迎えに行かなければな、と思いながら見送った。が、矢鏡もその後すぐに部屋を後にした。
人通りが多い道を、ぶつかる事を気にせずにゆっくりと歩く。人間とぶつかる事はないし、人間は何故だか本能的に矢鏡に道を譲ってくれるのだ。混雑している所ではさすがにそれはないが、実体のない矢鏡の体は透けるているので、すり抜けてしまうのだ。だが、矢鏡を認識すれば触れられる。そんな便利なのか、そうではないのかわからない微妙な体だった。
歩きながら、矢鏡は懐にしまってあるものを、そっと取り出す。
古びれた布に包まれたものは、割れた鏡であった。割れたところは鋭利な刀のようなっている。けれど、この世界の鏡のように本物と同じような世界を映る者ではない。その鏡はぼんやりと写すだけであるし、ひび割れて何をうつしているのかもわからない。そんな役立たずに思える鏡も、矢鏡にとっては大切なものだった。
人間だった矢鏡が、両親に捨てられた時に渡された荷物の中に紛れていたのが、母親の手鏡であった。大きめの鏡であり、母親は毎日それを拭いてから身なりを整えており、大切に使っているのを幼い矢鏡はいつも見ていた。母親の宝物なのだろう。そう思っていた。そんな鏡が荷物に入っていたのだから、矢鏡は驚いた。大切なものを、化け物扱いした子どもに渡すはずもない。きっと、紛れ込んでしまったのだろう。そう思って返しに行こうとも考えたが、母親は戻って来た矢鏡を見たら嫌な気持ちになるはずだ。そう思い、黙ってそれを受け取る事にした。それ以来、矢鏡はその鏡が宝物となった。母親は気持ちが病んでしまう前は、矢鏡のことを深く愛してくれていたし、大切にしてくれていた。もちろん、父親もそうだ。だからこそ、少しでも優しい思い出に浸りたい時にそれを見つめていた。
けれど、その鏡は割れてしまった。
そう、あの巨大な白蛇と戦った時、矢鏡は蛇に体当たりされて、ふっとばされたのだ。その際、懐にしまっていた鏡は割れた。けれど、その鏡が矢鏡を救ってくれたのだ。
あの日。
河女を助けるために、矢鏡は巨大な白い蛇に向かって矢を放った。
だが、距離があったため威力は落ち、少し軌道がずれて真っ赤な瞳にはあたらずも鱗に当たった。だが、固い鱗なのか、矢は刺さらずにあっけなく川瀬に落ちてしまった。だが、矢を当てられたと気付いた白蛇は、崖の上から矢鏡の方へと目を向けたのだ。そして、ぎろりと怪しげな赤い瞳が光ったと思うと、口を大きく開けて、威嚇の音を鳴らすと、巨体にもかかわらず、ものすごいスピードで矢鏡の方へと迫って来たのだ。
「くっそ!」
矢鏡は焦りながらも、何度も矢を射って攻撃を繰り返す。けれど、焦りと恐怖から、いつもの精度が高い攻撃は繰り出せずに全てが硬い鱗に阻まれてしまう。そうしているうちに呆気なく手持ちの矢はなくなる。矢鏡が舌打ちをしたと同時に、蛇の体当たりを正面からまともにくらってしまった。あまりの衝撃の大きさと早さに、矢鏡は声を上げる暇もなく、森の木に体を打ち付けられ、そのままドサリと地面に投げ出された。
「ぅぅ、何て力だ……。本物の、化け物だ」
自分なんて銀髪というだけの人間なだけだ。何の力もなく、見た目だけ違う、非力な存在だ。化け物なら、化け物らしく、強い力や早く走れる足や、空を飛べる翼でもあった方がよかった。銀髪など、何の役にも立たないではないか。
打ち付けられた背中や胸は呼吸をする度に悲鳴を上げたくなるほど痛んだ。足もどこか痛めたのか立ち上がるだけで激痛が走る。だが、どうにか腕だけは上がる。矢鏡は顔にかかるきらきらと光る銀髪をかきあげた。
あぁ、でも、あいつはこの役に立たない銀色の髪を綺麗だと褒めてくれた。1人の人間を笑顔に出来た。それだけで、役に立ったと言えるのではないか。
その女の命を助けるために、自分はあの化け物を倒そうとしたのだ。ここで、自分の非力を恨んでもただ死ぬだけ。近くに落ちていた自分の弓と、跳ね返って来た矢を拾い上げて、矢鏡はゆっくりと立ち上がった。
その時、地面に光るものが落ちているのに気づいた。自分の銀色の髪と同じように光る、母親の鏡だ。割れて粉々になってしまっている。そんな割れた鏡を見て、フッと昔の事を思い出した。
母親は鏡の事を「カカメ」と呼んでいた。どういう意味なのか、と聞くと母親は優しく「カカは昔の言葉で蛇という言葉なの。だから、カカメは『蛇の目』という言葉。蛇神様をお祭りする時に鏡も一緒にお供えするの。カカメは、蛇神様の目のようなものだから。大切にしなければいけないのよ」
そんな風に母が話していたのを思い出したのだ。
鏡は蛇神信仰が盛んだったあの周辺の地域にとって、とても大切なものだったのだろう。蛇神の力が入っているとお守りのように大切にしていたはずだ。
ならば、鏡に力があるはず。
そう思ってからの矢鏡の動きは早かった。
矢の先端にあった鋭利な石をほどき、その代わりに母親の割れた鏡の破片を自分の銀色の髪を切り落として括り付けた。
先程から、妙に寒気がして苦しくなってきた。足も限界が近づいて、今にも倒れそうなほどだった。そして、目の前には矢鏡の気配に気づいた白蛇が木々を倒しながらこちらへ向かってきている。
これが最後の機会。
逃したら、自分も死に、あの女も食われてしまう。
何としても、これを赤い目に打ち込まなければいけない。
弓をひき、片眼を瞑る。頭も怪我をしているのか血がたれてきて視界が赤くなる。それにも何とか堪え、必死に機会を待つ。威力が高まるのか白蛇が近づいた時だ。恐怖に堪えながら、絶好の機会を待つ。狙うは紅い瞳。
これを最高させれば、彼女の笑みを守れる。
また女は幸せに生きられる。あの村じゃなくてもいい、自由に生きて行けばいいのだ。
俺が幸せにしてやるんだ。
その一心で、矢鏡は銀色の矢を打ち込んだのだ。
矢鏡の考えは当たっていたのか、白蛇の目に刺さった鏡の矢を受けた瞬間。
巨体を震わせ、ばたばたともがきながら、白蛇は悲鳴を上げながらその場に倒れ込んだのだ。
鏡がついた矢で化け物蛇を退治した男。
そのためその男が祀られた神社を「矢鏡神社」と名をつけた。
矢鏡の名前。
それをその村で知る者はいなかったのだ。
そう、誰も矢鏡の名前を知ろうとはしなかった。
「余計な事まで思い出してしまったな」
ため息をつきながら、鏡を見つめた後、着物の中にしまい込んだ。割れたとはいえ、あの白蛇を倒せたのだから大切にしなければいけない。死んで神となった後も何故か矢鏡の手元にあったのだ。大切にしたからだろうが、今またあの蛇と対峙する事になるかもしれないのだから、また役に立つかもしれない。
そして、今、向かっている場所も紅月を助けるために訪れる事を決めたのだ。
が、その時に頭の中に声が響いて来た。「神様が紅月ちゃんを助けますように」という、肇の声だ。昨日、矢鏡の神社を参拝すると言っていたばかりなのに、もう矢鏡神社を訪れたのだろう。約束通り参拝したらしい。それと同時に神力が体に巡ってくるのを感じる。1人分の参拝では微量だが、ある事にこしたことはない。それに肇の願いは、矢鏡の願いでもある。
「叶えるさ。必ず、紅月を……」
矢鏡は一人言葉を落とす。が、周辺の人々はまったく気づいた様子もなく歩いている。その人の波に混ざり、矢鏡はある場所へと足を進めた。
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