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三章「新たな香りと終わりの予感」

十八、

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   十八、





 「矢鏡様!戻ったのですね」
 
 肇との会話が一方的に終わってしまった後、矢鏡は無心のままで紅月が待つ部屋へと戻って来た。
 あの男が話した事を精査する必要があったが、頭が混乱してしまっているため1度冷静になろうと思った。それよりも何よりも、紅月の顔が見たかった。笑顔で「おかえりなさい」と言って欲しかった。

 だが、矢鏡を迎えた彼女の顔は真っ青で、笑顔とは言えないほど不安と苦しみが混ざった痛々しいものだった。

 「紅月。顔色が悪い。寝ていてよかったのだぞ」
 「矢鏡様が帰ってくるのが遅い気がして、心配になってしまって」
 「悪かった。俺は大丈夫だから、心配するな」
 「………」


 矢鏡は抵抗する気力もない紅月を抱き上げて、ベットに寝かせる。彼女は申し訳なさそうにしながらも、体を横にした。瞼もゆっくりと閉じていく。そのまま寝るのかと思ったが、彼女はゆっくりと片手を伸ばし。そして、そっと矢鏡の頬に手のひらを当てた。大切なものを包むように、ふんわりと温かい手が添えられる。


 「紅月?」
 「矢鏡様、何かありましたか?肇くんと喧嘩しましたか?」
 「そんな事はない。……駅まで送って来ただけのことだろ」
 「参拝者が増えのをあんなに喜んでくれたのに、帰ってきてからは元気ないように見えて」
 「おまえの元気がないからだ。だから、早く寝ろ」
 「ごめんなさい」


 心配された事を「ありがとう」ではなく「ごめんなさい」という。いや、彼女の謝罪の言葉は何を意味しているのだろうか。紅月に問いかける前に、紅月の差し出した手はゆっくりとベットに落ち、そのまま寝入ってしまった。

 矢鏡は彼女を起こさないように、ゆっくりと布団を体にかけた後にベットの横に座り寝顔を見つめる。

 紅月を助けたい理由。
 それはもちろん、自分の存在を保つため。
 けれど気が遠くなるほど長い時間、神として過ごしてきた。消滅する事など怖いとも思わないぐらいに。もしろ、矢鏡という存在を終わりにしたいと思った事もあった。

 どうやって生きてきた?

 そんな疑問から記憶を掘り起こそうとすると、また不思議な感覚に襲われる。
 脳内の記憶の映像に靄がかかり、一番初めの人間の頃の記憶まで戻されてしまうのだ。

 その理由については全くわからない。
 けれど、それでもわかる。どうして、紅月を助けようと思うのか。
 それは惹かれているものがあるからだろう。幼い頃から一人で神社がある山に登り、一人で本を読んだり狛犬を拭いたりしてくれていた。矢鏡神社が遊び場だったのだろう。そんな頃から矢鏡は勝手に紅月を見てきたのだ。
 彼女の矢鏡神社を大切にしてくれる所も、日々を賢明に生きている所を見てきた。そんな彼女の生活の一部に矢鏡神社があるのが嬉しかったのだ。そして、気づけば彼女と同じ人間になれればよかったのに、と思うようになっていたのだ。そう、矢鏡は紅月に少しずつ惹かれ始めていた。
 そんな時に、紅月の体に呪いついているのに気づいたのだ。それは少しずつ大きくなっている。それが大きくなるにつれて紅月に死の気が大きくなっていく。
 紅月が矢鏡を見えるようになっているのは、紅月の死期が近づいている証拠。死者と同じ立場になりつつあるから見えるようになる。そういう事だ。

 昔から死んだ者などは見えるような体質だっただろうが、それがより鮮明になっているはずだ。紅月はそれに気づいていないだろう。肇からは全く死の気配は感じられない。あの男は死んだ者を見る才能が産まれながらになる体質のようだ。紅月と肇の力は違う。

 惹かれている女性を助けたい。傍にいたい。
 そう思えるのは神という存在になっても同じだ。
 それに矢鏡は、神になってもただ死なないだけで、何ら人間と変わりはないように思っている。人への愛しさも孤独も不安も、そして人間との関わりの楽しさも感じられるのだから。


 「早く助けてやるからな」


 俺の手は氷のように冷たい。
 それを彼女は「気持ちいいです」と喜んでくれているが、今は紅月に触れてしまうと起こしてしまうかもしれない。これが人間ならば、ぬくもりを感じさせることが出来ると言うのに。何度そんな事を思った事か。そんな事を考えても無意味だというのに。
 言葉にも力がある。言霊という言葉もあるほどだ。
 誓いと癒しを彼女に向けて伝えた後、矢鏡はしばらくの間、紅月が少しでも楽になるように、呪いを抑えるために小声でお経を唱え、寝ずに彼女の看病をする事にしたのだった。


 






 
 「…………矢鏡様、これは」
 「卵焼きだ」
 「こちらはおかゆ?」
 「………それぐらいは出来た」
 「こっちはサラダですね」
 「野菜を切っただけだがな」


 目の前には黒と茶色が目立つ卵だったものと、だまになっているおかゆ、レタスと分厚いきゅうり、不揃いのトマトのサラダ。それらが紅月の前に置かれていた。
 まだ疲れた顔をしている紅月だったが、並べられた朝食らしきものを驚きながら見つめている。正直にも美味しそうには見えないはずだが、紅月の瞳はキラキラしている。

 「すまない。作れると思ったんだが、この時代の道具には慣れてなくてな。紅月に見よう見まねでやってみたんだが、上手くいかなかった」
 「そんな事ないです。すごく、すごく嬉しいです」
 「………そうか?」
 「はい。いただきます、矢鏡様」

 紅月は嬉しそうに箸を持って口に卵焼きらしきもの取り、口に運ぶ。焦げた味しかしないはずだが「おいしいです」と次々に食べていく。美味しいと言われると、嬉しいものなのだ、とこの時に初めて知った。もっと、紅月にも伝えればよかった、と今更ながら思っている。


 「卵焼きの甘いのは何を入れればいい?」
 「えっと、砂糖を入れればいいんですが。矢鏡様は甘い卵焼きがお好きでしたか?」
 「おまえのつくる卵焼きはうまいからな」
 「あ、ありがとうございます」


 頬を赤く染めて、喜ぶ紅月を見ると、こちらも笑みがこぼれてしまう。
 こんなにも幸せそうに笑ってくれるならば、沢山褒めて行こう。そう矢鏡は決めたのだった。

 
 こんな穏やかな日々が続くように、と。




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