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二章「雨の日の記憶」
十三、
しおりを挟む十三、
それから、矢鏡は朝起きる度にすぐに空を見上げる事が多くなってきた。
ここ数日、雨は降らないものの曇りの日が多く、太陽の光りはほとんどみられていなかった。それでも作物は育つし、人々が不安になることもない。そのため、矢鏡は山を下りて村に行ってもいつもと変わらない活気ある村が迎えてくれていた。
あの女はあれから3日後にやってきた。
前回動揺、罠に足を引っかけたようで、悔しそうに目を吊り上げて「複雑すぎる!」と、怒りながら矢鏡の家にやってきたのだ。前回で反省したのだろうか、汚れてもいいような濃い青色で染められた装飾もほとんどない、星空のような着物を着ており、袖もたすき掛けをして邪魔にならないようにしており、山登りに向けて準備万全のようだ。
川までは下り坂になっており、女は「ここ降りるの?」と何度も尻込みしていたが矢鏡は「あとは崖しかないぞ」というと、渋々、雛鳥のようにちょこちょことした足取りで降り始めた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。怖い!だから、手、貸して」
「手?」
「こういう時は、手を握って引っ張ってくれるのが男の人でしょ」
「そういうもんなのか」
「そういうもんです!山男さんは、これだから」
「山男……」
確か山男というのは山に住む妖怪の事だったな、と思い出す。
人間を襲うという話もあるが、比較的に友好的な伝承が多く、食べ物などを渡すと大きな体を生かして力仕事などを手伝ってくれるというものだったはずだ。自分が山男ならば、この女に何も貰っていないな、と思いつつも彼女に向かって手を伸ばした。
「ありがとう、山男さん」
「じゃあ、お前は何なんだ?」
「んー、河女ってとこ?」
「それだと、妖怪が妖怪に取り憑かれることになるな」
「そんな事が出来るのか、試しにやってみたの」
「はいはい。いいから、早く降りるぞ。日が暮れる」
子どもの頃、銀髪がバレる前に友人と話した妖怪の話。それが役に立つとは思わなかった。
河女は河にある橋にいる妖怪で、橋を歩いている男に声を掛けて取り憑いてしまうという妖怪だ。取り憑かれると、異様なまでに食欲が増してしまう。沢山の飯を食べても足りなくなると、自分の排泄物まで食べてしまうと言う。そして、夜になると河女の元へと向かい、その後気がふれてしまう、といわれるものだ。
まさか、女が妖怪であるとは思ってもいないが、女と会ってから別に食欲も増すわけでもないし、橋を渡った記憶もないので嘘だろう。女でも妖怪話なども好きなんだな、と思ったぐらいだ。
その後、名前も知らない同士「山男」「河女」と呼び合いながら、何とかいつも水を汲んでいる川に到着した。女の足は遅かったのでいつもの倍以上の時間はかかってしまった。
「この辺りに白無垢があった」
「え!?それを見たの?それに、なんで白無垢だけ……」
「あぁ、水汲みの後にあの少女の遺体はなかったし、怪我をしてどこかに逃げたような後はなかった」
「やっぱり蛇神様が連れて行ったのかな……。その着物は」
「血などついていたからな、そのままにしておいた」
「そう……」
女はは悲しげに矢鏡が指さした辺りに視線を落とした。そして、着物が汚れるのも気にせずに、大きい石がゴロゴロした川瀬に膝をついて座り込む。そして、手を合わせた後に大きな目がゆっくりと瞼で隠れる。しばらくの間、女は亡き妹に祈りを捧げていた。その間、川のせせらぎや鳥のさえずりだけが聞こえてくる。
日に焼けていない彼女の首は真っ白で、女はこんなにも肌が白いものなのだな、と見入ってしまっていた。返事がなく不思議に思ったのか、女がこちらを振り返り首を傾げて、ようやく矢鏡ははっとした。
何を考えているのだろう。この女は妹の死を悲しみ、そして自分も死ぬかもしれないという恐怖に怯えているはずなのに、自分は何を考えているのだろうか。
自らの思考を恥じながら、矢鏡は「どこにいったんだろうな」と、曖昧な返事を返すので精一杯だった。
それから川の周りの捜索してみたが蛇神には出会えなかった。
上流に近い場所に大きな洞穴があった。森に隠されるように、大きな木々に囲まれており、山で暮らしていた矢鏡も存在自体知らなかった場所だ。2人は洞穴に入ってみるつもりだったが、少し足を進めただけで、鳥肌が立つほどの異様な冷たさと鉄と青臭い匂いが混ざった異臭、そして、ごーーっという嵐のような低い唸り声のような音。それらが、矢鏡と女を迎えた。それらを感じ取った瞬間、女の足はピタリと止まった。
「ちょっ、ちょっと待って。やっぱりここはよくないと思う」
「ここまで来たのに止めるのか?」
「ここの気はあんまりよくない。私、少しだけおばあさまの血を引いてて、見えない者がみえたり感じたりするんだけど。ここはダメだってその力が言ってる」
「じゃあ、俺だけいくからお前は待ってろ」
「だめ!一緒に帰るの」
「お、おいっ!」
柔らかくて小さな手ががっちりと矢鏡の手を包む。女はぐいぐいと引っ張って洞穴から出ようとしている。
何か自分では感じられないものを、彼女は感じてしまったのだろうか。勘というやつかもしれない。自分にも何となく行きたくない場所や、嫌な雰囲気というのは感じたことがある。そういうときは、無理に行かない方が身のためだと矢鏡も理解していたので、彼女の勘に頼る事にした。
「山男でも、ここは危険よ。絶対っ!」
「……なら、やめておいた方がいいかもな。来るとしてももう少し装備しておかなけいと」
「……私はもう来たくない」
そう言って、フイッと川の方へと視線を向けた彼女の体は繋いだ手から震えているのがわかった。
川の探索からの帰り道。
分厚い雲から、ついに大粒の滴が落ち始めた。矢鏡の家につく頃には土砂降りになり、2人は体も着物も川に落ちたかのように濡れてしまった。
「手拭いしかないが、これ使え」
「う、うん。ありがとう……」
矢鏡の家に入るのを何故か躊躇している女は、玄関付近でたったまま、矢鏡から手拭いを受け取った。髪から滴り落ちる雨水が、頬や着物、そして床を濡らしていく。女は布で水分を取ろうとするが、薄手の布のため、すぐに吸わなくなる。
「これも使え」
「でも、山男さんのが」
「いいから。俺は家に居るだけだから、囲炉裏にでも当たってれば乾く。おまえは、帰らなければいけないだろう」
「はい。そろそろ夕暮れなので。どうせ濡れるから、気にしないで」
「俺より年下なのに気を遣うな」
そう言った無理やり彼女の手に自分の手ぬぐいを置き、矢鏡は濡れた髪を頭巾越しに拭こうとする。
やはり、頭が1番濡れてしまっている。服も脱いでしまいたいが、この女の前で脱げば怒られるのだろうな、と我慢することにした。
すると、矢鏡をじっと見ていた女が、突然最悪な質問をしてきた。
「どうして、いつも頭巾を被ってるの?」
「……別にいいだろ。そんな事」
「じゃあ、どうしてこんな山奥に1人で暮らしているの?」
「一人が好きなんだ。ほら、雨足が弱まって来た。そろそろ帰れ」
長話などしては、今まで隠していた事がばれてしまう可能性が増えるだけだ。それに彼女は雨に濡れた頭巾を被り続けている矢鏡に不信感を持ち始めているようだ。早くこの場から去ってもらい、しばらくは接触は控えよう。そう思った瞬間、矢鏡は「しばらく」という言葉が自然に出た事に驚きを隠せなかった。
「しばらく」ということは、また彼女と会うだろうと思っているという事だ。何故、そんな感情が芽生えてきたのか、自分でも不思議で仕方がなかった。
人と関われは面倒な事に巻き込まれるだけであるし、自分の銀髪を見れば、矢鏡の事を不気味がりすぐにこの村や山から追い出されるはずだ。やっと落ち着いて過ごせる場所が出来たのだから、銀の髪の事を他の人間にばれるわけにはいかないのだ。
それなのに、この女とはこれからも会うつもりでいる。そんな自分の感情の変化に驚き、警戒した。
この女は銀髪を見たらどう反応するのだろうか。
見えないものが見えるようならば、こんな髪でも受け入れられる。そんな風に自然に思ってしまっていたのだろうか。
ありえない。
少しでも、危険があるならば、この女には秘密にしておかなければいけないのだ。
自分の安全に平和に日常を過ごすためには。
そこまで結論が出ればやる事は1つだ。
この女をさっさと家から追い出すだけ。そして、もう来ないようにと念を押して伝えなけらばいけない。もしそれでも来るようなのであれば、脅してでも女とは縁を切る必要がある。「早く帰れ」と伝えるはずが、先に口を開けたのは、女の方だった。
「もしかして、山男さんって、神様なの?」
「は?」
思わぬ言葉に、矢鏡は気の抜けたような声が口から洩れてしまった。
あまりに、唐突で予想だにしていない問いかけだった。この女は何を言っているのだろうか。
「だ、だって!こんな山奥に1人で住んでいて、こうやって助けてくれて。妹の事も知ってる。蛇神様なんじゃないの?」
「おまえ、何を考えているんだ。こんな神様がいてたまるか。俺はただ一人で生きていきたいだけの、人間だ。おまえの予想は外れだ。残念だったな」
「山男さんが神様なら、私の事殺さないかなって。優しいから妹ももしかしてどこから生かされているかもって……。私も殺さないで、村から逃げられる?」
「だから違うって言ってるだろ?それにおまえは帰る場所があるんだ、どうして村から逃げる必要が」
「妹を殺したんだよ。村の人も、両親も。そして、私の事だって。そんな所になんか帰りたくない」
「……………」
言葉を紡いだ彼女の目にどんどん涙が溜まり、微かに体を震わせたまた怯えたまま、か細い声でそう気持ちを打ち明けた。
当たり前の感情だろう。村のためと言われて命を捨てる事を強要された実の妹。彼女は最後にどんな言葉を交わしたのだろうか。きっと家族の前では泣くことされも許されなかったはずだ。村を助けるために命を捨てる事が正しいと思っている連中なのだからきっと「名誉の死」などと言っているのだろう。
それに、次の人身御供は自分だと言われているのだ。白無垢の女が崖から落ちる際に、皆を呪うような言葉を放ったのと、目の前の女は同じ気持ちなのだろう。
そんな気持ちを矢鏡は、想像さえしていなかった。
助けてくれるはずの家族が敵となり、村のため他の人々のために自分は死ぬ。それが正義とされているのだから。そんな気持ちになるのは予想できたはずなのに、早く帰れと言ってしまっていた。
けれど、銀髪の自分の元に隠れて過ごしていて、幸せになれるのだろうか。
いや、それは絶対にありえない事だ。矢鏡が、今までの人生でそれは無理だと証明しているのだから。
彼女は自分から村に帰ろうとはしないだろう。家族と村に怯え切っている。
だが、矢鏡と共にいれば、もしかすると死より辛い扱いを受けるかもしれない。いや、「呪われた者」として、無様に処分される恐れだってある。
ならば、方法は2つしかない。
人身御供となり、死ぬか。矢鏡のように逃げて孤独に暮らすか、だ。
「俺のところでは暮らせないし、俺はおまえを助けるつもりなんて、さらさらないぞ」
「山男さん、少しだけでもいいから」
「ダメだ。お前は俺と一緒にいても今以上に不幸になるだけだ」
「そんな事ない!」
「これを見ても同じ事が言えるか」
「え」
べっとりと濡れた薄汚れている頭巾を頭から外す。
その瞬間は手が震えてしまいそうだったが、ここで不安になっている所を感づかれてはいけない。指に力を入れる事で、何とかその細かい震えを止める。
濡れた銀色の髪が額や首にくっつく。髪を長くしていると頭巾に入らないので小まめに着るようにしているが、水か過ぎると、前髪など隠れないので、全体的に男にしては長い髪だった。人前で見せるのはいつぶりだろうか。そう考えると家族以外は、子どものころの川遊びの時だっただろうか。それ以外見せたことがないのだ。緊張するにきまっている。
目の前の彼女は驚きのあまり目を見開いている。
それはそうだ。銀色の髪を持つ人間など見た事がないだろう。
妖怪だと思うか。呪われた人間だと思うだろうか。きっと、化け物だと表情を歪め、矢鏡を罵り、逃げ出すはずだ。そして、もうこの場所にはこないだろう。あぁ、他の村人には話すなと脅しておかなければいけない。ばらされては、矢鏡の居場所がなくなる。でも、もし村人が押し寄せてきたとしたら、また違い土地に住めばいいだけなのだ。
今はこの女を遠ざける事が最優先なのだから。
「やっぱり神様だったのね」
「な」
「こんな綺麗な鈴のような色、見た事がないわ。銀色、いいえ、星のように輝いているから、星の色かしら。神様はこんな姿をしていらっしゃったのね」
「お、おまえ、こんな人間をみて、まだ神様だというのか?!おかしいだろう。化け物でしかない」
「化け物?こんなに綺麗な色なのに?神様でも化け物でも何でもいいわ。私、今すっごい感動しているの。こんなに綺麗な絹のように綺麗な髪初めてみたんですもの。隠すなんてもったいないわ。すっごい素敵よ」
興奮した様子で、ずいずいと矢鏡に近づいてくる女を、矢鏡はそれこそ化け物でも見るかのように驚きながら、ゆっくりと後退していく。けれど、すぐに壁に背がついてしまう。
女は矢鏡を見上げながら、うっとりとした瞳のまま「綺麗ね。もっと見せて」と、髪に手を伸ばした。
「さ、さわるなっ!!」
「あ」
呪われた者だと言われ続けていた。化け物だと両親にも言われ忌み嫌われてきた。
そんな銀色の髪に女が触ろうとしたのだ。
矢鏡は思わず、その白く細い手を払ってしまった。その瞬間、驚きと悲しみの視線が矢鏡に注がれた。
「」
「ご、ごめんなさい。私、あまりに綺麗だったから、つい。急に触られたら嫌に決まってるわ」
「あ、あぁ」
「私、帰るね」
そう言うと、先程の興奮状態から一転にて、少し頬を染め恥ずかしそうにしながら矢鏡から離れた。
「山男さん、笠、借りてもいい?」
「あぁ」
「じゃあ、この笠と手ぬぐい、また今度来た時に返すね。私がいる時には、その髪、隠さなくて大丈夫だよ」
扉に手をかけ、ゆっくりと矢鏡の方を振り向くと、恥ずかしそうにしながらも笑顔で矢鏡にそう言うと、小雨が降る中、女は家から駆け足で去っていった。雨音のせいで、彼女の足音はすぐに聞こえなくなり、その場にはサーっという屋根に雨が落ちる音だけが響いた。
「綺麗だなんて、初めて言われた、な」
その独り言が零れ落ちたのは、女が去ってからしばらく経ってからだった。
思考が停止してしまうほどに、彼女が矢鏡に残した言葉は衝撃的であった。それもそうだ。蔑まれる言葉しか言われてこなかったのに、神様だと見間違え綺麗だと褒められたのだ。
嬉しさより先に戸惑いが大きくなっていく。
けれど、時間がたって冷静になり、自分の髪がしっかり乾き始めた頃。
矢鏡は自分の髪に触れ、視線を上にして前髪を見つめる。今までは自分でも呪っていた銀色の髪。黒に染まればいいなっと思っていた忌まわしき髪。けれど、女に褒められた途端、少しは綺麗かもしれない、と思ってしまう。
自分自身でも単純な思考をしているな、と思いながらも銀色の髪に触れる度に口元が緩んで笑みが零れた。
そういえば、あの女。
河女と呼んでいたが、名前は何というのだろうか。お互いに教えていなかったな、と今更ながら気づく。
彼女は「また今度」と言っていた。
今度会った時に、聞いてみようかな、と矢鏡は思った。
雨が降ったからだろうか。
この日はもう沈丁花の香りが薫ってくることはなかった。
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