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一章「沈丁花の遭逢」
六、
しおりを挟む六、
次の日は朝日が昇ったのかわからないぐらいに、どんよりとした重い雲が空を覆っていた。
そして昼頃になると、しとしと雨が降り出した。
こうなると弁当屋も少し暇になるだろうか、と思いつつ窓についた水玉模様の水滴から視線を逸らした。
「矢鏡様……」
数時間前の真夜中。
紅月の心臓についていた呪いを払うために、耳なし芳一作戦として裸になった紅月の体に、矢鏡が念仏を書き上げた。そして、紅月の体に異変が起こった。が、矢鏡にキスをされた後に彼自身が倒れてしまったのだ。それから、矢鏡は目を覚ましていない。
ベットで眠る矢鏡は鼓動もなく体温も冷たい。静かに近づき彼の頬にそっと触れてみる。その感触は昔曾祖母がなくなった時に触れた深い冷たさと同じように感じた。氷でも花でもない。死の体温。
このまま矢鏡は目を覚まさなかったらどうしよう。そんな不安が紅月に押し寄せてくる。
矢鏡は、紅月の呪いを払ってくれた。
それを紅月に伝えた後に彼は倒れ込んでしまったのだ。誰が考えても、矢鏡が倒れた理由は、呪いを払ったからだろう。
この日、紅月は彼が心配で、初めて仕事を休んだ。それに、全身に書かれた墨文字をお風呂で落としたが、完璧に落ちたような気がしなく、所々に黒いものが残っていたのだ。そんな事もあり、「体調が優れない」という嘘の理由を告げて休んだ。弁当屋の店主はとても心配して「大丈夫か?明日も一応休んだほうがいいな」とまで言い、休みを長くしてくれたのだ。
嘘をついてしまったので、申し訳なさで一杯だったが、矢鏡が目覚めるまでは傍にいたかったので、ありがたく休ませてもらうことにしたのだった。
けれど、紅月の祈りも届かずにその日は結局、夕方になっても目が覚める事はなかった。
夕食の準備をしなければいけない。けれど、食べてくれる人がいないのであれば、作らないでインスタントで済ませてしまおうか。
矢鏡と夫婦になったのは数日前だというのに、もう彼と一緒に過ごすことが当たり前になっている事に紅月はこの時に気づいた。
寂しい、苦しい、心配だ。
「早く、早く……目を覚ましてください」
矢鏡は、彼が目覚めることを信じて夕飯を作ろうと決めたが、矢鏡と離れがたく彼の手を握ったまま、ウトウトとしてしまい、ベットに上半身をのせたまま静かに寝てしまった。
昨夜は、彼が心配でほとんど寝れなかったのだ。寝不足と心労のためだろう。座ったままであったが、ぐっすり寝入ってしまったのだった。
●●●
『なんで……?』
『僕は悪いことをしていないのに』
『苦しめたのは、おまえじゃないか』
体のいたる所から、刺されるような痛みと共に、そんな呪詛のようなドロドロとした深い泥のような重い声が響いてくる。
痛みと苦しみの声に耐えながら、矢鏡はその正体を探った。
答えなどすぐに出る。
先ほど、紅月の呪いを体で受けたからだ。その呪いが体の中で悲しみながら悶えているために、矢鏡は眠りから覚める事が出来ないのだ。
矢鏡より呪いの方が、力が圧倒的に上なのだから。
呪いに包まれている。
そんな感覚が矢鏡にはあった。どす黒くて、触れると静電気のようにピリッとする。そして、ずっと浸かっていると毒に侵されていくようだった。冷たい沼にずぶずぶと攫われていく。
それと同時に、先程からの声。
呪いとして生贄にされた蛇のものだろうか。
悲痛な叫びは、矢鏡の耳から脳内へと入り牙を立てようとしているのだろう。先ほどから割れるように頭が痛い。
首を斬られたのだから、蛇の頭などないはずなのに、頭をカジカジとかまれているような気分だ。毒でも持っている蛇だったのか。
矢鏡はピクリとも動かない体を無理を動かそうとせずに、ただたただ痛みに耐えながら冷静に考えていた。
そう、自分は神なのだ。力がない神だとしても、所詮は蛇の呪い。負けるはずがない。
そんな事を考えていると、少しずとどす黒い空気が薄くなり、頭痛も軽くなってくる。悲しみと痛みから呪いの言葉をかけ続けていた蛇の声もどんどんと小さくなっていく。
呪いが浄化されつつあるのだ。神である聖なる力、矢鏡の力によって。
それを体で感じながら、矢鏡は小さく息を吐いた。
まずは1つ終わった、と安堵した。が、それも一瞬の事だ。そう、目の前にあった紅月の呪いを払っただけなのだ。
そもそも蛇を使った呪い。しかも、1匹の普通の蛇だけの呪いで、人の命が奪われるような力があるのか。答えは否だ。ずっと昔からついていた呪いのようなので、少しずつ生命力を削っていったと思うと、1人の人間を殺せたかもしれない。だが、神である矢鏡が気づかずに今までずっと呪いがあったというのは考えられない。
「そうなると、まだ根本的な問題は解決出来ていない、のか?」
やっとの事で動くようになった唇で、矢鏡はそう呟いた。
紅月の命を削る呪いは、まだ払えていないのではないか。
そんな結論に至った矢鏡は、体内で浄化させた蛇の呪いを、小さな息と共に吐きだした。矢鏡の青白い手の平にミミズほど小さくなった青みの強い蛇がうねうねと波打つように動いていた。青大将だ。青いうろこから北の国で生まれ育ったものなのかもしれない。
呪いのせいで頭はなくなっていたはずだが、それを矢鏡は復活させて元の形へと戻した。
「今度生まれ変わってこの世に生をうけた時は、呪いなど無縁の場所で生きられるよう私も祈ろう」
矢鏡が目を瞑り、青い蛇の成仏を願おうとした。その瞬間に、蛇の声が頭の中に響いた。
『祟リ神メッ!早ク消滅シテ村カラ去レッ!』
「ッ!!」
呪いの言葉にハッと目を開けた時には、手のひらのいたはずの青大将は光りつつまれて、消えていた。きっとあの世へと渡ったのだろう。
最後の最後まで矢鏡への呪詛の言葉を吐きながら。
「俺……への呪詛?その呪いの蛇が、何故、紅月についている?」
彼女の名前を言葉にした途端に、沈丁花の香りが辺りに強く漂ってくる。
今は眠りの世界。きっと矢鏡の事を彼女が呼んでいるのだろう。導かれるように、薫りがする方へと手を伸ばすと、薄暗かった世界に天使の梯子が下りてくる。
夢から目覚めの時がやってきたのだ。
考えるのは後にしよう。きっと、紅月は心配しているはずだ。
矢鏡は、目を閉じて沈丁花の香りに誘わるままゆっくりと歩きだした。
〇〇〇
「紅月?おい、おはよう……って夜か。今、昼寝をしたら夜寝れなくなるぞ」
耳元で1日聞くことが出来なかった声が聞こえた。まだ、夢の中にいるのかとも思った。けれど、どうも近くから聞こえてくるし、沈花の香り、深くなっているような気がする。
紅月が目を開けようと、瞼を震えさせると、小さくて冷たい、氷りのような感触を額に感じた。すぐにそれの正体がわかった紅月は、ハッとして急いで目を開けた。
すると、鼻と鼻が触れあいそうなほど近くに矢鏡の整った顔があり、まつげが動く度に音が聞こえそうだった。彼の琥珀のような瞳には、目を丸くして驚いた寝起き丸出しの自分の姿が映っていた。
「矢鏡様っ!目覚めたのですねっ!」
「……今が夢の中にいるようだがな」
「え……」
「いや。……心配かけたな」
寝てしまっていた紅月を見下ろすように、ベットから体を起こした矢鏡は、繋いでいた手を見つめながら優しく語りかけてくる。紅月は、恥ずかしさから咄嗟に手を離してしまうと、矢鏡は少しだけ寂しそうにしたように感じた。彼を悲しませてしまった。そう思った紅月、咄嗟に話を変えてしまった。
「矢鏡様、もう体は大丈夫なんですか?どうして、急に倒れちゃったんですか?やっぱり呪いのせいですよね」
「紅月。落ち着いて。俺はもう平気だから、ゆっくり説明する。それよりも、まずはおまえだ。紅月は大丈夫か?」
「は、はい。私は大丈夫です……」
紅月の気持ちを気づいていたのか、気づいていなかったのかはわからないが、矢鏡の口調はとても穏やかだった。そして、紅月の体を先に案じてくれ、「それは、よかった」と言ってくれる。
矢鏡はやはり、自分よりも他の人の安全を優先する人なんだな、と思った。神様なのだ。
「紅月についていた蛇の呪いは払った。無事に成仏させたから」
「矢鏡様が、私の呪いを取り込んだから、倒れてしまったのですよね?だから、その口づけをしたのですよね?」
「あぁ、あの時は悪かった。だが、方法は耳なし芳一作戦のようにあれしかったんだ。紅月の体から出てきた呪いを払える力は私にはないからな。私の体内に閉じ込めて浄化させる。それしか方法はなかった」
「体の中に呪いを入れるなんて……そんな無茶を……」
「紅月の体の中にあったものだぞ?」
「それは、そうなんですど」
「もう、呪いは払い去った。首も元に戻してやったから。大丈夫だろう。おまえには、影響はないはずだ」
「ありがとうございます」
お礼の言葉を言いながらも、紅月はすぐに「でも」と言葉を続ける。
先程から紅月の事ばかり案じているが、矢鏡の話を聞いていないのだから。
「矢鏡様は本当に大丈夫だったのですか?ほぼ1日寝込んでいたのだから」
「先程からおまえは俺の心配ばかりだが、口づけをした事は許してくれるんだな?」
「えッ」
忘れていたわけでも、些細なことだったわけでもないけれど、紅月の頭の中からキスの事が抜け落ちてしまっていた。それよりも気にしなければいけないことが沢山あったからだ。
紅月の呪いを払うためとはいえ、矢鏡にキスをされたのだ。それを、目の前の本人から言われてしまうと、その時の場面を思い返してしまう。
冷たい唇と、目を細目ながら見た彼の綺麗な瞳の色。そして、苦しさの中に感じた甘さを。
それに先程紅月を起こした時だって、もしかして額に唇を落とした可能性があるのだ。
彼が目覚めてホッとした瞬間に頭から抜け落ちてしまったようだ。
「夫婦になったのだ。口づけはいつでもしていいという事か?」
「そ、それは………そんな事はありませんっ!」
「何だ、そうなのか」
口調は残念そうにしていたけれど、矢鏡の表情はとても楽しそうだ。からかわれたのだとわかり、紅月は悔しくなる。
年上すぎる余裕なのか、神様だからお見通しなのかわからない。けれど、面白がりすぎではないか、と少しだけ顔をふくれさせた。
そんな頬袋にどんぐりを入れたリスのような頬に、矢鏡が触れる。そして、目を細めて「やはり、夢ではないな」と、急にまた真剣な表情に変わっていた。
彼の表情は、本当にコロコロ変わる。変わりすぎて、矢鏡の感情が上手く読めない。
「触れれば温かいし、おまえと会話出来ているのだ。夢ではないな」
「………私も夢なら覚めたくないです」
「紅月……?」
「矢鏡様が目の前にいるのですから。目が覚めてこれが夢だったなんて、悪夢すぎます」
「…………覚めないさ、夢なんかじゃない」
どの言葉が嘘なのか。
矢鏡にはわからないはずで、自分がどんなに酷いことをしているのかを知らない彼は、とても優しい。
わからないから、優しい?
それは違う。矢鏡はそんな人ではない。そんな事はこの数日で嫌というほどわかってしまった。
頬に触れていた彼の手を、紅月は包むように手を乗せる。頬と手のひらから温めて、彼に少しでも温かくなって欲しいと、紅月は願った。
嘘つきの代償は、自分の体温を差し出す。それもいいな、なんて思い心の中でひとり悲しげに笑ったのも、彼はきっと知ることはない。
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