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異本 蠣崎新三郎の恋 その三十八
しおりを挟む「松前に……とおっしゃっていただけた。」
「……厭。」
(あのような女の恥の際で、口にしたことを!)
さ栄は呆れたが、ただ、それだけに一番言いたいことが口をついたのも、たしかだった。
「えっ? おっしゃってくださいましたな?」
「……ええ、左様の約定でございましたでしょう?」
「わたしは、忘れたこともございませぬ。姫さまは、お忘れかと思うていた。」
「憎いことを。」
さ栄は、並んで横たわった男の胸に手を当て、つねる振りをした。
(松前に帰ってくれる。この浪岡を離れてくれる。)
さ栄には、それがうれしい。逆に、自分にこだわるあまり浪岡にいつづけると言いだしかねない―今がそれに近い―新三郎が、自分を妻に迎えるのと、松前に帰っていずれ家督を継ぐのとをほぼ重ねて考えてくれるようになったのに、安堵していた。
やがて雪深い冬になれば、城外での戦いはさすがに止むだろう。その間は、安心ではあった。しかし、春になり、
(もしも大きな戦になれば、新三郎などの身こそ危うい。)
さ栄のなかで、不安が増してきている。
(浪岡御所は、いずれ、焼け落ちる。)
しばしば、その夢を見るようになっていた。
浪岡御所が落城する夢である。夜の闇にあかあかと火柱が立ち、内館の誇った大屋根が轟音とともに崩れ落ちる。兵たちが入り乱れ、場内には破壊と殺戮の風が吹き荒れていた。悲鳴と怒号、刀槍の打ち合う金属音、矢の飛び交う空気の音、駆けまわる無数の足音が、業火に建物が崩れる一瞬だけ、かき消される。そしてまた、地獄絵でしかない阿鼻叫喚が……。
ただの夢ではないか、とは、目覚めても笑えなかった。何度も同じ夢を見て、びっしりと寝汗をかいて目ざめるたびに、さ栄は確信を深めざるを得ない。自分自身や浪岡宗家の一族や新三郎たちがあの場にいたかどうかは、わからない。それが明日のことなのか、数年先のことなのかも、判然としない。
だが、それは起きるのだ。
(浪岡北畠の命運は、とうに尽きておる……。)
「川原御所の乱」の謀叛の真相を知っているのは、当の西舘―もう「大御所」になろうとしていたが―の他は自分くらいだろうとさ栄は思っていたが、たとえそれが世に暴露されなくても、あの兄の支配する浪岡御所・浪岡宗家とその連枝には、もう未来はないと見切らざるを得なかった。
(悪徳は栄えぬ、とはいわぬ。この乱世に、謀叛人が一国一城の主と成り上がり、存外にうまく国を治めることもないではなかろうよ。じゃが、西舘さま―ふん、ご名代、大御所さまか!―兄上はいかぬ。あのご器量では、津軽三郡は保てぬ。ご自分の持って生まれた才質を生かしてくれる御所さまを、まったく愚かな錯誤の果てに、殺してしまわれた。あれは、それなりの勇将としては奥州に名を馳せ得たかもしれぬ、ご自分の命運も断ったのよ。)
さ栄は新三郎の脇の傷跡を、無意識に探った。新三郎は、驚いたらしいが、おかげさまで、治っております、ご案じ下さいますな、といった。さ栄は頷いて見せるが、別のことを考えている。
(挙句は、見よ、新三郎のこの恐ろしい傷じゃ! 浪岡御所は西舘さまの手に落ちたとたんに、疑心暗鬼を生ずる場所になり果てた。もう、何人が死に、何人が傷つき、そして何人が離反していった? 浪岡御所は、滅びの坂を滑り始めた。……斯様な場所に、このひとを長くとどまらせてはならぬ!)
さ栄は、新三郎の傷跡に口づけた。
「姫さま、くすぐっとうございますが?」
さ栄は夢中で口づけている。
(もう二度と、このような傷、つけさせぬ!)
「姫さま?」
ようやく顔をあげ、さ栄は笑った。
「なにをいわれます? さんざくすぐったい思いを、ひとにさせておいて?」
「くすぐったい、か!」
新三郎は笑い、さ栄の頭を抱き締めた。小さな悲鳴をあげて、さ栄も笑う。
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